傍にいること
「鶴ちゃん!」
ぱたんと扉を開け放つ。部屋の中にいた青年を視界に収めて、全速力で駆け寄った。勢いのまま抱き締めようとすると、青年はするりと避けて言う。
「お帰り、雪子!」
触れるのは禁止って言っただろう。何故だか悲しみに満ちた顔で、そう咎められた。青年の名は鶴屋俊成。私の、冬期限定の同居人だ。
もしもし、と私が来て早々忙しなく扉の前で誰かと電話をしている彼を、部屋の端から顔を出して見つめる。いつもぼんやりしている鶴ちゃんは、こう見えて意外と忙しい。雪の精霊の研究をしている彼は、私が来ない間は世界中を飛び回っているらしいのだ。いつだったか、彼の甥だという人間がそう言っていたことを思い出す。どれだけ退屈でも、鶴屋さんの邪魔をしちゃあいけないよ。そう言っていたのはカメラマンの人だっけ。誰だか名前は忘れたけれど、とても親切な人間だったことだけは覚えている。
ぼんやり考えていると、通話を終えた彼がこちらにやって来てにっこり笑った。
「聞いてびっくりするなよ、雪子。なんと明日、お前のために頼んだオーダーメイドの衣服と靴が届くんだ!」
「ええーっ! すごーい!」
あっ、驚いてしまった。慌てて口を塞ぐと、彼は気にする様子もなく上機嫌な顔で鼻歌を歌う。
「楽しみだなあ。白いワンピースに赤い靴! そうだ、雪子の髪には黄色と黒のリボンも似合うかなあ……」
そう言って、彼はうっとりとした顔をした。鶴ちゃんが嬉しいと私も嬉しい。にこにこしながら、ふと思う。これはもしや、気づかれずに触れるんじゃ……?
「隙ありっ!」
手を伸ばして抱きつこうとしたすんでのところで、勢いよく飛びすさられる。彼は、危なかった……と顔を顰めて目を瞑り、それから私を指差して叱った。
「だからいつも言っているだろう。触ったら、駄目!」
深夜。どこからか呻き声が聞こえて目を覚ました。
「うう、ううう……」
「鶴ちゃん?」
ひんやり保冷剤と氷嚢とで一杯になったベッドから、おもむろに身体を起こす。隣のベッドからは、とめどなく唸り声が響き続いていた。フローリングの床に足を乗せて、彼のベッドに歩み寄る。
「鶴ちゃん、鶴ちゃん。大丈夫?」
まただ。思わずへの字口になりながらも触れない程度に近寄って、彼の顔を覗き込んだ。その表情は苦悶に満ちている。
「ゆき、こ……」
「雪子? 雪子はここにいるよ。鶴ちゃん。ねえ、鶴ちゃん。私はここにいるから。……そばにいるから!」
聞こえているとは思えないものの、発された言葉に声を返さずにはいられなかった。彼は時々こうして夢うつつに私の名前を呼ぶ。きっと悪夢を見ているのだろう。夢の内容は覚えていないのか、尋ねてもいつも笑ってはぐらかされるが、きっと彼は覚えているはずだ。だっていつも、こんなに苦しそうな表情をしているのだから。
呼び掛けられて安心したのか、彼の表情がふっと和らぐ。それを見て、覚えずほうと息を吐いた。彼が嫌がるから手も握ることは出来ないけれど、声を掛けて楽になるならば、いつだって名前を呼んであげたい。そう思っている。鶴ちゃんはいつも優しい。溶けてしまうから、なんて言って触れてくれないことだけが不満だけれど、別にそんなことはどうでも良かった。
私は彼のことが好きだ。大好きだ。本当に、溶かしてほしいと思うくらいに――。
「……あれ?」
小さく首を傾げた。私は今、なんと思っただろう。浮かんだ言葉をもう一度、今度は声に出して言う。
「溶かして、ほしい……?」
口にした瞬間、世界が輝いて見えたような気がした。
「ねえ、鶴ちゃん」
私は布団に伏せった老人に呼び掛ける。けれども、老人は身動き一つせず、目を閉じて黙り込んでいた。
鶴ちゃんが倒れて、一週間が経った。その日、もう長くはないのだと、私たちの教育者であり彼の友人でもあった青年は、目を伏せてそう言った。医師でもない者がそう判断出来るほどに、彼は弱り切っていたのだ。
「お水、持ってくるね」
きっとまた一口も飲んでくれないのだろうな、そう思いながら立ち上がりかけると、彼の手袋に包まれた指先がワンピースの裾を掴む。行かないでくれ。その口は音を発さなかったが、無意識の動きはそう述べていた。
「分かったよ」
渋々頷く。彼の意思に従い、私は再び腰を下ろした。
(長くは、ない)
青年の言葉を頭の内で反芻する。厚着も、手袋も。昔から変わりがない。全て私に触れないための、彼の配慮だ。分かっている。分かっているのに。
「溶かしてくれたらいいのに」
どれだけ言い募ろうが、実行されなかったことで。これからも叶わない想いだった。そっと顔を背けて、そっと溜息を吐く。
私は青年と同じ教育者になって、自らが望むまで世界に溶かされない者となった。身体の時が止まって、伸びも老いもしなくなってから長い時が経つ。私の身体が大人になっても、鶴ちゃんは全く触れようとしなかった。それどころか部屋にいるのに厚着をして、手袋まで付けるようになってしまった。そんなに厳重にしなくてもいいのに。私も青年も、周りの雪の精霊もそう言ってみたが、彼は一切やめようとしなかった。戒めだ。そんなことを言っていたような気がする。
「……溶かしてよ」
鶴ちゃんになら溶かされたっていい。絶対に叶うはずのない願いを抱いたのは、いつだっただろう?
「少し、眠るね」
当てもないことを考えるのはいい加減やめにしよう。そう思いながら、私は眠気に任せて目を閉じた。
それからどれほど時間が経っただろうか。眠りから覚めて鶴ちゃんの方を見やって……何故だか小さく違和感を抱く。
「鶴ちゃん?」
ふと立ち上がろうとして、あっと小さく声を上げる。私の衣服を掴んでいたはずの彼の腕が、力なく垂れていたのだ。その腕には小さな斑点がある。
「鶴、ちゃん……?」
もしかして。まさか。嫌な予感がして彼の顔を覗き込めば、……見るまでもなかった。見るんじゃなかった。ぽたぽたと次から次に涙が溢れて止まらない。そんな、嫌だ。鶴ちゃん。嫌だよ。
――彼は、既に息をしていなかった。
悲しみがとめどなく思考の海に流れていく。もう彼は声を掛けてくれない。動くこともない。数時間もしない間に、彼は肌の色を濃く染めてしまうだろう。完全な遺体となった彼は、そうして数日後には荼毘に付される。彼はここから完全にいなくなるのだ。彼の魂も、世界に溶けてなくなってしまう。言葉も何も交わせないまま、彼の姿は消え失せる。
「あれ?」
ぼんやりと思考の端に掛かった言葉をたぐり寄せる。彼が何も言えないのならば、と気づいてしまう。
「鶴ちゃんの口酸っぱく言っていた言葉もこちらに届きはしないし、嫌がって私の手を避けることもない。それならもう」
鶴ちゃんの言いつけなんて無効じゃないか。
気づいた言葉に、私はにっこりと口角を上げた。
衝動のまま、私は彼の衣服を剥ぐ。ねえ鶴ちゃん。応えが返されないことを知りながら、彼に呼び掛けた。
「本当はね、知っていたんだよ」
ねえ。鶴ちゃんの死骸を眺めて言った。
「私は『雪子』の代わりだったんでしょう?」
いつだったか、見てしまったのだ。引き出しの中に隠された、私によく似た少女の写真を。彼の甥や友人、私に保護者じみた言葉をくれる青年に、研究仲間。机の上に並べられた写真立てには一度も飾られることのなかった、誰かの残像。
青年を問い詰めたらすぐに白状された。あの子は君の前にいた雪の精霊だ。彼にとっての唯一だったと。
ふざけるなと思った。彼は、私に彼女を重ねて見ていたのだ。私によくしてくれていたのは、私が彼女に似ていたから。何度も何度も好きだと言われた。だけど、知ってしまった。好きだと言われたのは、彼の目に映っていたのは。私じゃなく、彼女のことだったんだって!
癇癪でものを壊したのは一度や二度ではない。その度に彼を悲しませてしまったけれど、彼に何かを言う資格はないと思った。それほど怒りで前が見えなくなっていた。……けれども、落ち着いてみて分かった。彼が、私と彼女を重ねてしまうことに罪悪感を抱えていたこと。そして――。
「貴方が私に触れなかったのは、『雪子』を溶かしてしまったからなんだね」
単に大人になった人間に触れられた雪の精霊が溶けてしまうからとか。そういう理由ではなかったのだ。青年から彼の隠された思いを聞いて、是非もなく納得した。それは頑なに触れないはずだ。悲しみに満ちた顔で、伸ばされた手を避けて、何度も駄目だとそう言って。……もっとも、彼の理性が及ばず触れられていたら、既に私はこの世界に溶けてしまっていたのだけど。
ごめんね、と小さく謝罪の言葉を述べる。あんなにやめろと言ってくれていたのにと、眉根を寄せる。
私は今から、貴方に絶対に許されないことをしようとしている。
「ずっと、貴方に溶かしてほしかったんだよ」
私が大人になって身体の時が止まっても、変わらず贈り続けてくれた、白いワンピースを床に落とす。白く青ざめた素肌が空気に晒された。
「貴方に、私を見てほしかったの」
そう言って、彼のベッドに手をつく。何にも言わないね。空っぽの骸に顔を歪ませた。貴方はもうずっと、何にも言ってくれないね。そっと彼の頬に手を近づける。
こうして近寄っても、顔を寄せても、何にも言わない鶴ちゃんが悪いんだよ。物言わない彼に責任を押しつけて、私は彼の背中に手を回した。
ああ、そうか。鼻がツンと痛くなる。冷たくなっても私とは温度の異なる存在に、ぽたぽたと抑えきれなかった涙が落ちた。
「そっか、人間って。鶴ちゃんって。こんなに温かかったんだねえ」
やっぱり貴方が生きている間に触れば良かったなあ。きっともっと、貴方は熱くて。本当に、貴方の制止を振り切って、躊躇わずに。その身体に触れて、貴方の目の前で溶けてしまえたならば、どれだけ良かっただろう。そんなことを考えながら、彼の胸元に擦り寄った。
ぽたりと滴の落ちる音だけが静まりかえった室内に響きをもたらす。彼が既に息絶えているからか、ゆるゆると私の身体は変化していった。水になっていく感覚は意外と心地が良い。最期になって妙な発見だな。変なところがツボに入って、くすりと笑った。
「あのね、全然言葉に出してこなかったけれどね。私は貴方に拾われたあの日からずっと、好きだったんだよ」
きっといつか彼女も言ったであろう言葉を思う。
「……ねえ」
おかしいな。もう感情も何も溶けちゃったんだと思ったんだけどね。なんだか涙が溢れて止まらないんだよ。ぽたぽたと鶴ちゃんの顔や首筋に溢れた雫は、水たまりのように彼の胸元に満ちていた。嬉しいのかな。悲しいのかな。分からないよ。鶴ちゃん、ねえ。応えてよ。
とたとたと誰かの走り寄る音が聞こえてくる。彼に触る前に連絡をした青年がやって来たのだろうか。もう溶けてしまう私にはどうでもいいことなのだけれど。
(鶴ちゃんの魂は、まだあるのかな)
もしあったなら、私の核と一緒になれたらいいのに。
きっと彼女は失敗したのだ。彼の前で溶けて、水となって。核は彼の外で壊れてしまった。私の歯車も、きっと私の思考も何もかもが消え失せた後に、ぱちんとはじけて壊れるだろう。ぼんやりとどこかでそう思う。
けれどももし、何か、彼女にも現れなかった奇跡でも起こるなら。貴方と本当に溶け合うことは、出来ないのだろうか。液体から気体に変わる私はどこに行くのだろう。分からない。分からないけど。ねえ、鶴ちゃん。溶けた思考で呼び掛ける。あのね、私はずっと。
(傍にいるから……)