雪の子供たち
「久しぶり。いやはや数年ぶりと言ったところか。随分と顔色が悪そうだが、君は元気にしていたのだろうか」
ノックもせずに扉を開け放した青年は、そう言ってずかずか勝手に部屋の内に入り込むと、不躾に僕の顔を覗き込んだ。人とは異なる美しさを持ったその顔は、数年前と……いいや、出会った頃と何も変わらない相貌を見せている。そこには成長も衰えも一切なかった。
「あの子が溶けて、落ち込んでいるのか」
「…………」
視線を逸らし、問われた言葉に無言で返す。僕が雪子を溶かして、二日が経っていた。
「こうなる予感はしていた」
勝手に尋ねてきた者とは言え、一応は客人だ。小さなちゃぶ台にことりと茶を置くと、青年は礼を言って、それをこくこくと一息に飲み干す。豪快な飲みっぷりに呆気にとられていると、彼は口を拭って続けた。
「君があの子に名前を付けたと聞いて、僕は本当に驚いたのだ。名前を付けたら存在が世界に確定される。こんな子供に、一つの雪の精霊が捕らわれるのかと」
彼はそう言って、ほう、と小さく息を吐く。……知らなかった。自分が、そんなとんでもないことをしていたなんて。思わず目を伏せた。僕が彼女に、そんな。
「引き離すことならすぐに出来た。だがあの子が――」
青年はそこで一つ区切りを入れた。暫し広がった沈黙に疑問を抱いて顔を上げると、彼は困った顔で口を曲げる。それから柔和な笑みを浮かべて続きを言った。
「君とあの子が本当に仲睦まじい様子であったから、少し罪悪感が湧いてしまってね。だから大人になるまでは君たちの逢瀬を見守ろうと思っていた」
「……大人って、何なのですか」
語り終えてぼんやり窓に視線を移した青年に、そう問い掛ける。彼女や貴方の言う大人とは何なのか。
「色々と定義はあるね」
彼は、あの日の彼女と同じことを述べた。そう言ってはぐらかしながら、続けて言葉が返される。
「僕たち雪の精霊は、大人になれないんだよ」
そう言って、彼は口角を上げた。
「でも貴方は十分、大人に見えます」
「僕の時は二十歳で止まっている。大人と言ってもそれ以上の年齢が外見に出ることはない。それだけだ」
青年の顔に悲しみはなく、ただ諦めの情だけが滲んでいる。自分の境遇を理解して一体どれほどの月日を過ごしたのだろうか。ぼんやりとそう思った。
来なさい、と。青年の言葉に誘われるがまま、僕は彼女が溶けた雪原の奥深くに足を踏み入れる。そこには雪の溶けてすっかり野ざらしになった地面が見えていた。
「……何を」
こんな荒れ果てた場所に連れてこられた意味が分からない。苦情を口にしようとすると、彼は顔を顰めて人差し指を自らの唇の前にかざした。静かにしてくれ。無言の威圧に口を閉じる。
青年に連れられて暫く木々の裏で身を潜めていると、キャラキャラと小さな囁き声が聞こえ始めた。硬質な音は次第に大きくなってくる。音に耳を澄ませていると、ふと頬にふわりとした感触があった。そっと拭えば指先に水滴が付く。気づけば、空からふわふわと次から次へと粉雪が舞い、地面に染みを作り始めていた。いつの間に。ぱちぱち瞬きをしていると、軽く肩を叩かれる。
「鶴屋くん。もういいよ。心ゆくまま覗き見給え」
言われて木々から顔を出し、思わず息を呑んだ。
「これは……!」
そこには、出会った頃の彼女と同じ、小さな雪の精霊たちが姿を現している。人型のもの、尖ったもの、姿のほぼ見えないもの。様々に形を取った彼らは、歯車のぶつかり合うような金属音を鳴らしながら、ちらちら舞う雪に合わせて優雅に踊っていた。
「僕たちはここで生まれて、ここに帰る。そうして世界の一部となるんだよ」
そういえば、と思い出したような声で尋ねられる。
「君、僕たちのことを調べてくれていたんだろう?」
「そうですが」
「それ、本当に職業にする気はないか」
良かったら、研究者になってほしい。懇願とも言えないさらりとした口調で、そう彼は言った。雪の精霊を調べる者は世界中にいようと、本当に深く探求するものはごく僅からしい。他の生物に色々掻き回されるのは面倒でね。疲弊した様子は、憐れみを誘うものだった。
「話していなかったが、僕は彼らを教育する立場なんだよ。君に歯車を託した同僚もそうだった。だから、成長した人間に触られなければ、大人になっても時を止めることで生きていられた」
僕がこうしてここにいるのも、そういうわけだ。そう彼は言いのけた。つまりは、僕はこの手で目の前にいる青年を溶かせるのか。そう思ったのに気がついたのか、青年は接触禁止を忠告する。でもそうか。触らなければ彼らは急に溶けたりなんてしないのか。そうか。
「……触らなければ」
呟きに彼は小首を傾げた。不思議そうな顔でこちらを見る。仮定の話だ。だけども思わずにいられない。
「もしあの日、僕が触らなければ。彼女は今でもここに生きていましたか」
その問いに、彼は難しそうな顔で返した。
「いや。君には申し訳ないが、それは考えにくいな」
彼の見解によると、彼女は僕が触ろうが触るまいが直にこの地を去っていた可能性が高いらしい。雪の精霊は世界に溶けるまで大人になったばかりの姿で居続ける。それを気にしていた彼女はきっと僕の成長を、衰えを。――死んでいく姿を。見てはいられなかっただろうと、そんな考察をつらつらと述べた。彼女の挙動を思い返せば、納得は出来るような気がする。
「雪の精霊は人間ほど強くはないからね」
そう言って、彼は困ったような笑みを浮かべた。
去り際に、ああ、そうだと瞬きをして彼は言う。
「もし僕の提案を受け入れて研究者になってくれるのならば、君はもう大人だが……あの子に似た雪の精霊を引き取って育ててもらっても構わない」
僕は容認するよ。穏やかな笑みで出された言葉に、僕は扉を指差して返答した。
「冗談はやめて、すぐに帰ってください」
――それから八年の月日が流れた。
「今年も、いなかった……」
とぼとぼと、薄く雪を被っただけの荒れ果てた道を歩きながら、溜息を吐いてそう一人ごちる。結局のところ僕は青年の頼みに答えて研究職に就いていた。今のところ、この世界で公的に雪の精霊を調査する人物は僕だけだ。疲弊することも多くあるが、好きなものを職業に出来たのは幸運だと思っている。僕の傷心に応えてか、木々の端から小さな雪の精霊たちが困ったような顔でこちらを覗いていた。溶けてしまうから、僕に触れてくれるなよ。そう思いつつ、帰路を歩む。
雪子に似た子を、引き取ればいい。最初は反発していた青年の言葉に縋るようになったのは、そう遅くはなかった。それを頼りにしなければ、彼女を溶かした罪悪感と喪失感に生きていけなくなりそうだったのだ。思い立ってからというものの、冬の終わりになってからこの地での探索は習慣になった。今も首に提げているが……八年前に東堂からもらったカメラは今や探索に不可欠なものとなっている。写真に撮らずとも、画面を見るだけで核の色や形を判別することが出来る優れもの。あの日東堂がカメラを押しつけた理由は、まさか……と不気味に思うこともあるが、まあそれはいいだろう。
思い直しつつ歩みを進めて、今も悪夢を見る場所へと差し掛かる。僕が、彼女を溶かした場所。反射的に目を閉じて駆け抜けようとした瞬間、僕の目が小さな人影を捉えた。それを瞳に映して、思わず息を呑む。嚥下の音が、ひどくうるさく聞こえた。考える間もなく、人影の元へと自然に足が動く。
「……君、は」
呟く声に気づいたのか、人影が振り返った。
正直、出会っても引き取ろうなんて考えてはいなかったのだ。青年の言葉に縋っているのは事実だったが、触れられないで生活なんて出来るはずがない。精々出会って、人心地着いて、はいお仕舞い。ずっと、そう思っていた。そう思い続けていたのだ。でも。
「ゆき……」
目の前にいる少女を見て、その考えはどこかに飛んでいった。触りたい、抱き締めたい。湧いてくる情動を必死に押しとどめながら、少女を見つめる。カメラになんて映さなくても分かった。この子はきっと、この世界の中で最も彼女に似ている。直感がそう告げていた。
「ゆき?」
少女はこくりと首を傾げる。そうして続けて言った。
「あなたは、だれ?」
正直なところ、落胆しなかったと言えば嘘になる。幾ら彼女に似ていようが、この子は彼女とは違う。彼女と同じ存在なんて生まれるはずがない。感情に押し流されそうになりながらも、理性では当たり前のことだと分かっていた。それでも。震える手を握りしめ、その言葉を口に出す。
「雪子」
身を屈め、少女に視線を合わせてそう言うと、少女は不思議そうな顔で反芻した。
「ゆき、こ?」
「そう、雪子」
出来る限り怖がらせないように、僕に親しみを持ってもらえるように――。僕はもう一度、声にして言う。
「君の名前は、雪子だ」
彼女と同じ名前なんて間違っている。ただ外見が似ているだけの少女を彼女に重ねて連れ帰ろうとするとは、なんて愚かな行為だ。青年以外の者はきっとそう言って僕を貶すだろう。そんなことは百も承知だ。知らない奴の罵倒などどうでもいい。好きにしてくれ。僕はただ、この子が欲しい、一緒にいたい。それだけなのだから。
愛しい彼女とともにいられるなら、地獄にだって落ちてもいい。そう思いながら、僕は彼女に名前を付けた。