雪解け
目が覚めると既に彼女は腕の中にいなかった。まさか何も言わずに帰ったのか。低い体温を思い出しながら身体を起こすと、どこからかふわりと甘い香りが漂っていることに気づいた。なんだか懐かしい、この匂いは。ふらふらと匂いの元を辿ってゆくと、そこにはエプロンを締めた彼女が流し台の前に立っていた。足音に気づいたのか、ゆっくりと振り返って彼女は言う。
「ああ、おはよう。鶴ちゃん」
笑みを滲ませたその言葉に瞬きをして、返事をした。
「……おはよう、雪子」
電気は点けられているものの、窓の外はまだ薄暗い。おそようと言う時間でもなかったか。ぼんやりとした頭でそう考える。夜明けは近かった。靄がかる思考を振り払い、ふつふつと音を溢す鍋を見て呟いた。
「おかゆ、か」
「うん。そう、おかゆ」
最初がおかゆなら、最後もおかゆがいいでしょう? そんなわけの分からない屁理屈を言って、彼女はこちらに背を向ける。
「もうすぐ盛り付けるから、そんなところに突っ立っていないで、早く支度して来なよ」
大丈夫だと彼女は言った。貴方のいない間にいなくなったりしないからと。安心させるような声でそう言って後ろ向きのままひらひらと手が振られる。こちらを一切振り向かず、表情を見せてくれないのが妙に惜しい。小さく心残りを抱えながらも、僕は台所から足を退いた。
朝食を終えて外に出ると、辺り一面は雪景色に染まっていた。どうやら昨日降っていた雨は途中から雪に変わっていたらしい。ふわふわと軽い綿のような雪は、少し触っただけで溶解する。きっと日中には全て溶けきっているだろう。そんな美しくも儚い予感がした。
「わあー! 凄いねぇ、鶴ちゃん!」
前を行く彼女はわざと明るい声でそう口にして、さくさくと柔らかな雪に足跡を残し、こちらを振り向く。
「私が帰るのに、ぴったりだね」
そう言って目を細めた。空には朝焼けが広がりつつある。うすら赤くと顔を覗かせた太陽は裸の木々に熱を与え、とさりと枝に被さった雪を地面に落とした。どこからか甲高い鳥の鳴き声がする。暖かな春がこちらにやって来ていた。
「ここでいいよ」
家から少し離れた雪原に着いて、彼女は言う。迎えの姿はなかった。僕に核を預けた女性は既に世界の一部となっているし、保護者代わりをしていた青年は、数年前から彼女を一人で帰宅させていたから来るはずもない。「彼女は直に一人立ち出来るようになる。もう僕の助けなど必要はない。それに君も大人になるだろう?」
結局最後まで大人の条件は分からなかったけれども。ここが僕たちの別れの場所なのに、違いはなかった。
「そんなに早く行かなくてもいいんじゃないか」
そう言って彼女の細腕に手を伸ばすと、彼女は触れるのを避けるようにするりと躱して言葉を述べた。
「もう、行かなくちゃ」
口角を上げて、彼女は笑みを形作る。無理をしている様子はなかった。美しい微笑を浮かべて、彼女は一歩後ずさる。その笑みが、本当にどうしようもなく綺麗で、心から笑っているのだと分かったから。引き止めることは出来ないと理解して、無性に喉が詰まった。
「さよなら」
それだけを口にして、彼女は後ろを向く。そのまま雪を踏みしめると、僕の言葉を待つことなく歩き始めた。きっと彼女はもう二度と振り返ることはないだろう。そうして再び僕の前に現れることはない。そんな予感のさせる後ろ姿だった。
(嫌だ。行かないでほしい)
はくりと開いた口から息が漏れる。言葉は声にならずに白い靄だけが広がった。
(そばに、いてほしい)
離れてゆく彼女に駆け寄る。さくさくと雪の鳴る音がうるさかった。足音に気づいて彼女が立ち止まったが、表情を見る余裕などはない。感情の赴くまま、僕は彼女の左腕を掴んだ。――掴んでしまった。
「あーあ、やっちゃった」
どろり。掴んだところが奇妙にへこむ。色素の薄い彼女の腕が、裂けた場所からぽたぽたと液体を溢した。
「……は?」
場にそぐわない素っ頓狂な声が口から出る。彼女が溢しているものは、汗ではない。そんな普遍のものではなかった。見ているものの意味が理解出来ない。いや、理解したくなどなかったのだ。鶴ちゃんは酷いな。滴る言葉に釣られて視線を上げる。視界の先にある彼女は眉を下げて、歪んだ笑みを向けて。続けて言った。
「貴方に触れないで、このまま別れて。そうして思い出を抱えて、ずっと生きていこうと思っていたのに」
本当に酷い人だ。吐き出された言葉には、憐れみと悲しみが混じっている。罵倒にはほど遠いものだった。
どうすればいいのか。思考を停止させている内にも、彼女はとろとろと姿を溶かしていく。
「どうして、こんな……」
自分が触れると溶解が加速してしまう。為す術もなく手を離し、おろおろと視線を彷徨わせていると、彼女がなんでもないような声で言った。
「貴方は大人になってしまったから」
「大人ってなんだよ!」
無我夢中で叫ぶ。大人、大人って、何なんだ。触れられないことも、止められないことも相まって、感情が強く表に出た。彼女は「定義は色々とあるけれど」と困ったように笑って言う。
「お誕生日、おめでとう。鶴ちゃん」
「こんな時に、言わないでくれよ……」
今日は三月一日。本当なら毎年前日には帰ってしまう彼女が、初めて祝ってくれた誕生日だ。喜びの情よりも激しい情動が勝る。どうしようもなく僕は顔を歪めた。
「馬鹿じゃないのか……」
溶かしてほしいと彼女は言った。全てを包み込むような表情で、貴方の熱で私を溶かしてと。
「……っ、ぅ」
嗚咽が溢れる。涙は出なかった。嬉しさと悲しさと苦しさと。様々な感情で心がぐちゃぐちゃだ。二人で一緒に溶けてしまいたい。いつからか抱いていた思いが半分叶う。それなのに、ひくりと喉が震えて、嫌だという想いだけが泉に落ちる水滴のように広がっていった。
いつまでも立ち尽くしている僕に業を煮やしたのか、小さく息を吐いて、彼女がこちらに歩いてくる。そうして躊躇いもなく右腕を伸ばして、僕の背中にその手を回した。回されない左腕は、掴んだ場所から溶けきって水に変わっている。それに気づいて「ごめん」と顔を伏せて謝った。
「どうして謝るの」
可笑しそうな声が耳に届く。大丈夫だよ、と彼女は言った。私の欠片は貴方とともにある。だから、私の存在が世界に溶けてなくなったって、心配することなんか一つもないんだよ。傍にいるから。その言葉を聞いて、僕は自らの腕を彼女の背中に回した。ぎゅううと強く抱き締める。衣服や肌が彼女に触れてじわりと濡れた。
「好きだよ、鶴ちゃん。私が段々欠けていって、いつか何かを忘れてしまっても。ずっと貴方を好きでいる」
じわじわと触れたところから僕の身体を湿らせて彼女は言う。そうして頬に小さく口づけを落とすと、一瞬で彼女は水へと姿を変えた。ぱしゃりと天高く舞い上がったそれは小さな水粒となり、重力とともに僕の元に降りかかる。思考を回す暇もなく僕はそれを全身で受け止めた。彼女のせいで、びしょ濡れだ。泣きたいような笑いたいような複雑な気分で地面に広がる染みを見つめた。
それから間もなく、とさ、と小さく音を鳴らして何かが雪原に跡を作る。そこには彼女の着物と同じ花緑青色の、端のところどころ欠けた歯車が落ちていた。彼女の核。指を伸ばした途端にそれは小さくはじける。後には何も残らなかった。彼女がいた痕跡は、彼女の一部は、僕に注がれた水しかない。それも日の光とともに消えてしまうだろう。彼女を表すために存在するのは、ここにはない、東堂の映した残像。それだけだった。
――僕も好きだ。
液体を被って荒れた肌を見せる地面に向けて呟く。
「アイしている」
紡いだ言葉はひどく乾いていた。とさりと雪原に膝を付く。違う、と言葉を否定した。僕が向けていた感情は恋とか愛とか。そんな純粋な情動じゃない。乾いているのは思いだけではなかった。涙の代わりに頬に散った水滴が顎を伝う。きっと僕は彼女のために泣くことが出来ないのだろう。そのように出来ているのだ。
彼女だった水で濡れそぼった衣服が恨めしい。何故、彼女は僕に証を付けてくれなかったのだ。どうしてここに、彼女はいない?
「大人になんてならずに、彼女をここに繋ぎ止めておけば良かった」
出来るはずのない提案。しようのない暗く淀んだ感情に気づき、思わず両手で顔を覆った。
(――僕はずっと彼女が欲しかったのだ)