泡雪の溶解
知らせ通り、鶴ちゃんの弟とその友人がやって来たのは、二月も半ばを過ぎた昼頃だった。
「お久しぶりです、叔父さん。……すみません、無理やり押し掛けてしまって。ええと、電話に出てくださったのは雪子さんですか? 愛成です。会うのはもう何年振りになるのか……覚えていらっしゃるでしょうか」
礼儀正しく成長し、鶴ちゃんの背も追い越しそうになった愛成を見て、なんだか無性に感慨深くなる。
「うん、覚えているよ。愛成くん。鶴ちゃんも時々貴方のことをお話してくれるから、どれほど成長したか気になっていたんだよ」
そう言ってにこりと笑うと、少し照れたような顔で礼とともに微笑まれた。笑った顔は少し鶴ちゃんに似ている気がする。ぼんやり思って鶴ちゃんに顔を向けると、彼は目元を緩めて「どうした」と言った。「ううん、なんでもないよ」そう言って笑みを返す。
暫く和やかな雰囲気に浸っていると、愛成の隣にいた少年が大きく手を上げて声を上げた。
「はいはーい! 僕は東堂輝睦って言います。雪子さんの噂を聞いて居ても立ってもいられずに来ました。よろしくお願いしまーす!」
突然響いた申し出に、ぱちりと目を瞬かせる。鶴ちゃんや愛成とも異なるタイプの人間だ。
「あ、えっと。よろしく、お願いします……」
少し怖じ気づきながら、私はたどたどしく返答した。
小さな部屋の中に四人も入るのはぎりぎりだった。あと一人入っていれば、もしくは客人たちが大人であったなら、きっともっと狭かっただろう。書類の積まれていた鶴ちゃんの机を片付けて、大人数で囲む。愛成の知人であるとは言え、見知らぬ人がいると少し落ち着かない気がする。それに、知らない内に愛成も随分と大人に近づいて、まるで別人みたいだ。この家で安心出来るのは皮肉にも、最も大人になるのが早い鶴ちゃんだけなのだと思うこと。それに気づいて小さく自嘲した。
なんとなく、東堂の首に下がっていた銀色の物体に目を向ける。いつだったか鶴ちゃんが見せてくれたもの。これは、カメラとかいうものだろうか。視線に気づいたのか、東堂はにっこりとこちらに笑みを向けて言った。
「あーこれは、デジカメですね。と言っても、僕のは他と違って、ちょっと特殊なやつなんですけど」
「特殊……?」
カメラに特殊も何もあるのかな。疑問に思って尋ねると、東堂は勿体ぶらずに教えてくれる。
「このカメラは、魂を映すんですよ」
魂を映すカメラなんて聞いたことがない。近くで見たい。思わず身を乗り出したが、食いついたのは私だけではなかったらしい。顔を寄せた瞬間に鶴ちゃんの頭とぶつかってしまった。……痛い。小さく呻いて涙目で鶴ちゃんを睨むと、正面にいた東堂が笑い声を上げる。
「聞いていた通り本当に仲が良いなあ。羨ましいです」
「別に、僕たちはそんな、仲良くなんかないですよ」
少し戸惑った様子で大人げなく鶴ちゃんが指摘した。
「ただの幼馴染……。友達です」
「友達、ですか」
鶴ちゃんの反応に、東堂は感情の読めない声でそう返す。目元は笑っているのに、口元は一切笑みを見せていなかった。少し怖い、と頭の端で思う。浮かんだ恐怖を掻き消すかのように、愛成が大声で言った。
「いやお前また持ってきたのかよ。その妙なデジカメ」
「僕を侮るなよ愛成クン。持ってきたのはデジカメだけじゃない。一眼レフもだ」
「お前の大荷物はそれだったのかよ!」
一段と騒がしくなった室内。不穏な雰囲気がすっかりなくなったことに気づき、小さく息を吐く。先程の嫌な感じはなんだったのだろう。少し知りたい気もしたけれど、振られた話題に答える内にじわじわと溶けていく。多分忘れてしまった方がいいのだろう。私は流れに逆らうことなく先程の違和感を手放すことにした。
「はい、チーズ!」
ぱしゃりとシャッター音が鳴って、目の前に真っ白な光が散った。点滅する視界が収まってから、少し離れた場所に立った東堂に手を振ると、大きく腕で丸が形作られる。どうやら撮影は成功のようだ。東堂の後ろにいた鶴ちゃんに手招きされたので、小走りで駆け寄った。
実際に映った魂の形が見たいとせがんだ私に、東堂は交換条件を突きつけた。私に課されたのは、笑みを見せた写真を撮られることだった。ジイイ、と硬い色刷りの音とともに、カメラの下部から色鮮やかな写真が出る。
「大丈夫です。バッチリ撮れましたよ。雪子さんは美しいし、写りも抜群ですよねー。本当、写真集でも出したいと思うくらい」
そう茶化しながら、東堂は摘まんだ写真をひらひらと風に乗せて翻した。へらへら笑みを溢す東堂の頭に、愛成が拳骨を落とす。
「何を言ってるんだよ、お前は」
「痛ってー! 愛成、ちょっとは手加減してくれよ」
「嫌だ」
再び始まった口喧嘩を横目に、それで、と鶴ちゃんが手元にある自らを被写体とした像を弄びながら言った。
「これが魂の映った写真か」
鶴ちゃんの腕に縋って写真に目を通す。ぼんやり薄もやに覆われた人型と、心臓の位置にぷかりと浮いた塊。周りの凹凸に影を落とし、きらきらと光を跳ね返すその塊は、うっすらと葵色を帯びていた。うっとりして、思わず声が漏れる。
「綺麗……」
「人間の魂も、歯車の形なんだな」
雪子と同じだ。なんだか喜色の滲んだ声で、そう囁かれた。人前で何をやっているんだ。恥ずかしさに思わず顔を染めていると、東堂が閃きを宿した表情で言う。
「えっ、雪の精霊も同じなんですか!?」
ずいと急に詰め寄られた鶴ちゃんは、反射で少し仰け反った。汗がほたりと溢れる。
「ああ、まあ、そうだが……」
「見せてくださいよ!」
鶴ちゃんは弱り切った顔でこちらに承諾を求めた。
「……雪子。いいだろうか」
「雪子さん。こいつの頼みなんか断って良いんですよ」
友人の暴走を止めきれずに傍観するしかなくなった愛成が、溜息を吐いてそう助言する。あの人の核を見せるか否か。逡巡したのは一瞬だった。
「ありがとう鶴ちゃん。私は大丈夫。見せてもいいよ」
うっすらと光を透かした薄浅葱色の塊。薄汚れたおもちゃ箱の中から歯車の形に固まったそれを手に取って、こちらを見つめる東堂と愛成に向けて差し出す。
「これが、私たち雪の精霊の核。貴方たちの持つ、心臓に代わるものだよ」
遠慮せずに触ってごらん。そう言うと、東堂は恐る恐る手を伸ばし、けれども瞬時にその手を引っ込めた。
「え、でも触ったら溶けるんじゃ……」
「そうですよ。こんな素手で触ってもいいんですか?」
「大丈夫。触れても溶解しないように、特殊なコーティングが掛けられているから」
躊躇いがちに問われた言葉を笑い飛ばす。大丈夫、この歯車はそんなヤワなものじゃないからさ。急に溶けたりなんかしないし、寧ろ。言ってしまえば、絶対に溶けることはないんだよ。だって貴方は子供だし。それに。
(命を吹き込んで塗り固められた核は、同じ生き物である私たちにしか壊せないのだから)
にこりと表情を形作った。偽物の笑みに気づかずに、中学生たちは先程と変わる様子もなく、雪の歯車を見てはしゃいでいる。ただ一人、鶴ちゃんだけが。無言のまま、訝しげな目をしてこちらに視線を向けていた。
夕方になるとすぐに別れの時間がやって来る。彼らは家に泊まらず、近隣での調査をしてから帰るつもりなのだと言った。この家に来ることは家族に伝えていないらしい。よく分からないけれど、複雑な事情があるんだろうなと思う。
「これから雪が強くなりそうだけど、大丈夫?」
「大丈夫ですよ、雪子さん。俺たちは頑丈ですから」
そう言って愛成は笑い飛ばす。でもまあ、何かあったら連絡しますから。告げられた言葉に、ほうと息を吐いた。扉の外では、ごう、と風の音とともに吹雪いているのが見える。天候は荒れそうだった。
「やっぱり一晩でも泊まっていけばいいのに」
「それはありがたいですけど、遠慮しますよ」
愛成は困ったように目を細める。私の後ろに立っていた鶴ちゃんに目を向けると、彼は仏頂面で口を歪めていた。何か言いたげに開かれた口は、言葉を発することなく閉じられる。言いたいことがあれば言えばいいのに。
「またいつか。機会があれば、泊まらせてください」
「約束だよ」
差し出された指に自らの指を絡めて指切りをした。
「……鶴屋さん」
「なんだろうか」
愛成の横で腕を組んで様子を窺っていた東堂は「少し話したいことが」と。それだけ言うと、二人して吹き荒れる雪の中、外へと出て行ってしまった。
部屋の中に暫し沈黙が満ちる。室内には愛成と私だけが残された。ふと思い返せば私の隣にはいつも鶴ちゃんがいて、こんな風に身内とは言っても彼の甥と二人きりになることはなかったような気がする。それがほんの少しだけ、今になって。不思議だなと感じさせた。
「……あの、雪子さん」
「どうしたの?」
俯いてぽつりと呟かれた言葉に、声を返す。躊躇うような響きが漏れた後、愛成はがばりと音がするかと思うほど勢いよく顔を上げて、震える声で口にした。
「俺は、貴女の。雪子さんのことが――」
その顔は逡巡と恥じらい、それから少しの罪悪感に染まっている。……罪悪感? どうして。考えを遮断するように、バタンと大きな音と一緒に扉が開いた。扉の先には冷気で頬を赤く染めた鶴ちゃんの姿が見える。
「鶴ちゃん」
反射的に名を呼ぶと、鶴ちゃんは弱った顔で小さく首を傾げた。その首には東堂が所有していたはずのカメラが掛かっている。どうしてだろう。ぼんやり思考を宙に飛ばしていると、すいと指の動きで愛成の方を向くように示された。しまった、すっかり忘れていた。
「ごめん、ちょっと気が逸れちゃって。お話の続き、良かったらもう一度お願い出来るかな。愛成くん、私のことがなんだって?」
慌てて振り向き、放置していた話の続きを促す。見上げると、いつの間にか愛成は両手で顔を覆っていた。そうしてゆっくりとその手が離されると、なんだか泣きそうな顔で小さく言葉が溢された。
「……いえ、すみません。なんでもありません」
言いかけていた言葉を押し込めて、愛成は東堂の待つ扉の方へと歩いていく。そうしてぱたりと小さな音とともに扉は固く閉められた。静寂が満ち、私以外誰もいなくなった部屋の中で、ごう、と外から来る吹雪の音だけが聞こえてくる。理由も聞けないまま閉ざされた扉を、私は鶴ちゃんの声が掛かるまでずっと見つめていた。
二人が帰って、再び変わらない日々が戻ってきた。鶴ちゃんの話によれば、彼らは無事に帰宅したらしい。あの日はあれから猛吹雪になってしまった。警報も出るくらいの荒れようだったのでひどく心配していたのだけれど、それを聞いてほっと一安心だ。
気づけば、明日には冬の終わりが迫っていた。
「鶴ちゃん」
夕食を終えて皿洗いを始めた彼に呼び掛ける。静まった室内に、ぱらぱらと皿に跳ね返る水音が響いていた。
「どうした?」
振り返ることなく尋ねられる。不意に水の音が大きくなった。彼が蛇口を捻った様子はない。ばらばらと鳴り止まない音は外からのものだった。蛇口から溢れる音に重なって、スコールのような雨音が部屋を満たす。
「あのね」
振り向けばいい。いや、振り向かないで。一切こちらを振り向かないまま、私の言葉に了承してほしい。内にある相反した感情を抑えて口にした。
「……箱にある歯車を見てもいい?」
出した言葉は思いの外か細くなって、激しさを増す雨音に掻き消されそうになる。けれども彼はその言葉を聞き逃さずに、やはり振り向かないまま声を返した。
「愛成たちが来た時に、そのまま放り出していただろ。勝手に見ればいいよ」
「分かった」
応答を返して、乱雑にものの置かれた机からおもちゃ箱を見つけ出す。十年以上もの年季が入ったそれは、消しようのない細かな傷で覆われていた。ぱくりと蓋を開けて雪の歯車を取り出し、手の平に乗せる。十数年の間形を崩さなかったそれは、今もなお薄浅葱色の光を纏って輝き続けていた。幼い頃に私を育てたあの人の、忘れ形見のようなもの。鶴ちゃんが交わした約束を示す、とても大事な――。大切な、ものだ。目を閉じて黙祷を捧げ、小さく礼を言葉に乗せる。そしてゆっくりと手の内にそれを包み込んで閉じ、一息に握りしめた。
――パキン。硬く鋭い音が部屋に鳴り響く。パキン、キン、キンパキン。ざりざりと指の腹で撫でる。硬質な結晶はそれだけで次第に細かく崩壊を始めた。パキパキパキ――パキ、ン。部屋で行われている異常に気づいたのか、鶴ちゃんが驚愕した顔で駆け寄ってくる。閉められないままの蛇口が、ざあざあと耳障りな音を垂らしていた。
「雪子。お前は、何をしているんだ」
「何って。壊しているんだよ」
見れば分かるでしょう? 軽やかな口調に、彼は唇を歪ませる。顰めた顔で手の中にある残骸が指差された。
「それは、お前の形見で――」
「鶴ちゃん」
一言名前を呼ぶと、彼は開いた口をそのまま閉じる。これはそんな、高尚な形見なんかじゃないんだよ。手の内で水に変わり始めたそれを見せて、私は言った。
「こんなもの、私にはもう必要ないんだよ」
あの人が死んだ今でも形を崩さずにいたこの歯車は、過去の遺物。あってはならないもの。あの人がそれを望んだと言え、いつまでもこれを持ち続けているのは死者への冒涜だ。所有者を失った核は、この世に存在してはならない。例えそれが、約束の証明であったとしても。
「あの人はもういない。だからこれも壊さなくちゃ」
「でも、それは……」
ねえ。彼の言葉を強引に遮って、声を掛ける。
「お風呂行ってきなよ」
蛇口を閉めてさ。水を流しっぱなしの台所に目を向けて、笑みを作る。明日は早いでしょう。このことはもうお仕舞い。約束なんてもういいから。忘れたらいいよ。そう言って、口籠もっていた彼を部屋から追い出した。
彼がいない間に、私にはすることがあった。おもむろに彼のベッドに飛び乗って、柔らかい布団に仰向けになる。本当ならごろごろと寝転がりたいところだが、気持ちを抑えて――自らの胸の内に手を入れる。
「っ、くぅ……」
とぷり。水音とともに腕を身体に沈ませた。じわじわと広がる苦痛に耐えながら、目当てのものを見つけ出して端を掴み、力を込める。――パキン。先程と同じ音を奏でながらも粉砕することなく、欠片を手の内に収めて身体から抜き出した。息をする度に鈍痛が酷くなる。当たり前だ、身体を掻き乱すことはおろか、核の一部を欠けさせたのだから。力の抜けた腕を無理やり動かして、手の中にある破片を口に押し込んだ。唾液を出しながらちろちろと舐める。味のしないそれは、彼が来るまでに緩く溶かしておかなければならない。
はあ、と小さく息を吐いて布団に身を預けていると、ほんのり空気が暖かくなるのを感じる。見上げてみれば彼が腕を組んで顔を顰めていた。髪は濡羽色にてらてら光を弾き、衣服の間から見える素肌はうっすらと赤みを帯びている。風呂から上がる間もなくこちらに来たのだろう、どことなくまだ熱が残っているような気がした。
「またお前はそんな――」
彼はこちらに右手を伸ばして、小言を述べようと口を開く。私は差し出されたその手を掴んで引き寄せ、無防備に開かれたそれを、私は自らの唇で塞いだ。
「ぅ、……っ、んん、ぅ」
ぼんやりとした頭の端で、誰のものとも分からない声が上がる。舌で唇を開かせ、彼のものにぬるりと絡めると、ぎょっとした顔をされた。彼は驚きと戸惑いに満ちた表情をしながらも、されるがままになっている。抵抗したら小さな私が傷付くことを分かっているのだろう。その賢さが、今は少し憎らしかった。唾液を絡ませ、舌に乗せていた欠片を彼の口内に押しやると、彼は反動でこくりと喉を上下させる。
(……飲み込んだ)
これでいい。その挙動を確認して内心で頷いた。彼の口内から自らの舌を抜き、それから唇を離す。
「……っ、は」
銀糸は瞬く間に途切れ、つう、と細く、飲みきれなかった唾液が彼の顎を伝った。長い口づけが終わり、彼はけほりと一つ咳をし、それから荒い息を吐いて言う。
「何、を……」
呆然と呟いて口元が拭われた。色づいた目元に生理的な涙が滲んでいる。迷い子のような瞳で彼は訴えた。
「何を、考えている……?」
怒りの見えないその顔に、鶴ちゃんは残酷なまでに優しいなとぼんやり思う。本当に貴方は優しいから。両手を差し出して、彼の名を呼ぶ。ねえ、鶴ちゃん。
「今日は、ここで眠らせて」
温かな布団で外界を覆って彼は私を抱き締める。布団の中は私たちだけの世界で、鶴ちゃんの体温は、私にはとろけてしまいそうなほど熱かった。でも、まだ溶けない。私は溶けることが出来ない。何度好きだと言っただろう。何度想いを伝えたか。好き。大好き。傍にいてほしい。子供のような安直な言葉に彼は頷いて、僕もだと言った。そうして瞬く間に最後の夜は過ぎていった。