初雪の情
彼女と初めて会ったのは、確か六歳ぐらいの年頃だったと思う。初雪が見事に積もりゆく早朝のある日。小さな子を連れた、御伽話でしか見たことのない雪女らしき者は、幼い僕に頭を垂れて頼み込んできたのだ。
「突然の訪問、お許しください。私たちは少しの間、どうしてもこの場所を離れなくてはならないのです。けれども、幼子を連れていくわけには参りません。ですからどうか、この子をこの家に置いて頂きたいのです」
「……どういうことですか?」
真白な長髪に薄浅葱色の浴衣を着た、この世の者とは思えないほどの美貌を持つ、全く見知らぬ女性。そんな異彩を放つ女性の申し出に、僕は呆然と問い返した。
最初は、全く意味が理解出来なかった。話を聞き始めてみても、やはり冗談か何かだと思っていた。この家には大人はおろか、ただの子供である僕一人しか住んでいない。こんな不安定で不相応な場所に大切な子供を預けるなど、冗談以外の何物でもあるはずがない。
「私は、この場所に住む人間のことを深く信頼しているのです。それに貴方がとても優しい人間であると、私は昔からよく知っていますから」
意味深な口調で言い切り、女性は笑みを浮かべる。
「昔からって、その、どういう……」
真意を尋ね返そうとした丁度その時、女性の着物の裾に縋り付いていた少女が初めて小さく声を上げた。
「このひと、だれ……」
は、と束の間、息が詰まったような感覚に陥る。不安げな顔でこちらを見つめる少女の姿を視界に収めて瞬きをすると、何故だろうか、不意に小さく喉が鳴った。
――欲しい。瞬間過ぎった考えは、頭の奥深くに淀みとして残る。自分の中に浸透した言葉は頭を振っても消えることがなく、浅ましい欲望に怖気が立った。僕は、どうかしている。
視線の先にいる少女は何を思ったのか、瞳に僕を映した途端に、目を見開いてかたかた身震いをした。虚ろな頭で見つめ合った時間は数刻にも満たなかっただろう。怪しげに微笑んでいた女性は衣擦れの音とともに静かに屈み、少女の肩に手を置いて口を開く。
「この人はね、鶴屋俊成さん。この冬の間、お前の面倒を見てくれる優しい人だよ」
「ちょっ……!」
了承した覚えはない。慌てて少女に向けていた視線を女性に移すと、女性は何やら少女に向かって言伝をしていた。どう考えても流れは女性の方にあった。厄介なことになってしまった。事態が変わらないことを薄々理解しつつも、やはり納得仕切れずに再度反論する。
「あの、でも彼女を預かると言ったって、僕はやっぱりまだ子供だし……」
「子供だから良いのですがね……」女性は悲哀と困惑の入り混じった複雑な顔を覗かせると、すぐに取り繕い、それでは、と。一つ決意した声で言った。
「どうしても納得出来ないとおっしゃるならば、一つ、私の大事な、命にも代わるものを貴方に渡しましょう」
「大事な……なんだって!?」
突如口に出された物騒な言葉に、思わず声を上げる。命と同等なものなんて、どう考えても貰い受けることなど出来ない。対価として貰うには余りにも重すぎる。
「大丈夫。私は必ずここにこの子を迎えに来ます。だからその証明として……これを受け取ってください」
女性はそう言うと、着物の奥にある自らの胸元に右手を当てた。その手は目を疑う間もなく、ずぶずぶ身体の中に入り込む。身体の内部を掻き乱すなんて、人間でもなんでもそう楽なことではないだろう。痛苦を堪えた表情で固く瞼を閉じて身中を探る女性。人間ではありえない異様な光景に、僕は目を逸らすことが出来そうになかった。見つめているのも束の間、突然女性が目を開いたかと思うや否や、勢いよく、何かを握り込んだ右手が身体から抜き出された。抜き出す衝撃とともに、ぱしゃりと近くにいた少女や僕の体躯に透明な液体が飛び散る。驚きつつもそっと拭うと、その液体は触れた瞬間に乾いて気体に溶けてしまった。これはきっと水だろう、何故だか妙な確信を持ってそう思う。そうして暫く肩で息を吐いていた女性は震える右手をもう片方の手で無理やりこじ開けて、手中にあった何かを差し出した。
「……っ、く、どうぞ……」
女性の手の内には、小さな塊が乗っている。暗い部屋の中では詳しい形も分からない。恐る恐る手の先に掴み取り、まだ昇り始めたばかりの陽光に向けて透かした。
「きれい……」
飛び出した言葉に思わず口を押さえると、女性は苦しげな表情をほんの少し和らげて小さく口角を上げる。
「気に入って頂けたならば私も嬉しいです」
「その、ええと。これは、歯車……?」
朝日に照らされてきらきら輝きを見せるそれは、女性の着物と同じ薄浅葱色をしていた。
「歯車の形に固まった、雪の結晶です。本当は私たち以外の者の体温に触れると溶けてしまうのですが、貴方はまだ子供ですし、それに……」
女性はふわりと花開くように笑うと僕の両手を包み込み、手中で輝く雪の歯車に向かって一つ、リップ音とともに口づけを落として言う。
「……これで、大丈夫」
何が大丈夫なのか。理解出来ず口を開きかけたが、女性の満足げな笑みを見て、はくりと言葉を飲み込んだ。
「これは、誓いですから。貴方が持っていてください。そしてどうか、この子をよろしくお願いしますね」
抗う感情などとっくの昔に消えている。はい、と小さく声を返して雪の歯車を受け取って、僕は女性に承諾した。女性に背中を押されて、静かに僕らの会話を聞いていた少女がこちらに近寄る。改めて見ると、少女と女性は似通った雰囲気を持っていた。白い髪に、花緑青色をした着物。幼くあどけない顔立ちの少女はこちらを見つめてことりと首を傾げる。今までに見たことのない可愛らしさに、思わず頬が上気した。
「……よろしくね」
少女に向けてそっと右手を差し出すと、少女の瞳に小さな星が散らばる。その瞳を瞬きで更に輝かせた少女はきゅっと軽く僕の手を握って言った。
「……よろしく?」
疑問符の浮かんだ言葉に、覚えず笑みが溢れる。なんだか上手くやっていけそうな気がした。
「――それでは、私はそろそろ帰りますね」
静かに様子を見守っていた女性がふと声を上げる。その顔はにこやかではあったが、何故か小さく痛苦の念が滲んでいた。先程雪の歯車を取り出した際に体調が悪くなったのだろうか。心配ではあるが、只人の僕には何も出来そうにない。早く会話を終わらせて帰ってもらった方が良いだろうか。うつらうつらと考え事をしながら、そういえば、と声に出して聞く。
「あの、この子の名前はなんて言うんですか?」
うっかり聞き忘れていた。きい、と縦開きの扉を開いて、今にも帰省しそうな女性に向かってそう尋ねた。
「……ああ、すみません。申し上げておりませんでしたが、私たち雪の精霊に名前はないのです」
「えっ!?」
「私たちは、単なる世界の事象が形を取っただけのものですから。名前のような、個別に表象する言葉をは持っていないのです。意思疎通にも必要はありませんので」
聞くところ、雪の精霊とは名ばかりのものらしい。
「どうしても必要であれば、貴方の好きなように名付けてくださっても構いません」
さあ、どうぞ、と女性はにこやかに笑んだ。
「えっ、その……」
いきなり名付けろなんて言われても困る。いや強制じゃないけど、でも名前がないと不便だし……。困り果てて唸りながら顔を顰めていると、握っていた手に爪が立てられる。ぱっと顔を上げると、横にいた少女と視線が合った。その瞬間、頭の中に電流が走る。
「――じゃあ、雪子」
ゆきこ、ゆきこ。雪の子供で、雪子。口を吐いて出た言葉を何度も何度も反芻して、再び強く言い切った。
「君の名前は、雪子だよ」
ぼんやり僕を見つめていた少女は、僕の言葉を聞いてぱちりと一つ瞬きをする。それを静かに聞いていた女性は「そうですか」と是非もなくそう言って首肯すると、再び扉の下枠を跨いで、再度請うた。
「冬が終わる頃に迎えに来ます。それまでこの子を――貴方の雪子を。よろしくお願いしますね」
そう告げて、女性は今度こそ家を出て行く。その姿が遠く消え去るのを確認するや否や、僕は雪子を部屋に上げた。なんとなく落ち着かない気分で歩き周り、ふわふわしたクッションに彼女を座らせて小声で尋ねてみる。
「それじゃあ、雪子。何をして遊ぶ?」
その問い掛けに、彼女はパアアッと音が出そうなくらいにきらきらと顔を輝かした。
そうして彼女と過ごす三ヶ月は瞬く間に過ぎ去った。
こんこん、と扉がノックされる。彼女と視線を合わせてどちらともなく頷いた。彼女の迎えが来たのだ。きっとあの日やって来た女性だろう。そう思いながら外向きの扉を開いたが、予想は完全に見当違いのものだった。扉を開けたのは、件の女性ではなかったのだ。
「君が、鶴屋くんかな」
着流しを身に付けた背の高い青年はそう尋ねた。雪子によく似た美しい顔立ちに惚けながら返事をすると、彼は唐突に憮然とした表情になり、高飛車に言い放つ。
「馬鹿だとは思わないか」
突然喋りかけてきたかと思えば、一体何のことだ。この人は雪子を迎えに来たのではないのか。若干の不信感や疑念、恐怖を心に宿しながらも、臆することなく毅然とした顔を作って問い返した。
「……何を、でしょうか」
「君の隣にいるその子を預けた者のこと。核を抜いたら死ぬに決まっているだろうに」
本当に馬鹿な奴だ。青年は舌打ちをして、そう吐き捨てる。核……身体の中心にあるもの、つまりは心臓のような。そこまで考えを巡らして、はっ、と息を呑んだ。
「まさか、あの雪の歯車は……!」
急激に身体中の体温が下がる。無性に吐き気が込み上げた。青年はにやりと口の端を歪めて諸手を広げる。
「ご名答。あれは僕たちの核だ。その様子だと君が持っているんだな? それに形も残していると。――ああ、大丈夫。返さなくていい。それは誓いの証なのだから」
青年は僕の顔を覗き込みながら、思い出したような顔で「ああ、そうだ」と。小さく瞬きをして言い重ねた。
「申し遅れてすまないね。僕は彼女の名目上同僚となっている者だ。よろしく頼む」
その言葉とともに、色素の薄い片手が差し出される。僕は青ざめた顔で何の返事も思い浮かばないまま、呆然とその手を握り返した。
立ち話もなんだからと部屋へ招くのを固辞されてから数分後。暫く雑談した後、青年は最初の話題にあった、件の女性の最期を補完して言う。
「彼女のことだが、別に君が思うより気にする必要はない。どうせ僕らは、最期には世界に溶け還る生き物だ。それが早まっただけのことだからね」
その歯車は大切にし給え、と青年は述べた。それは彼女の生命が吹き込まれているから滅多なことでは溶けないし、同種族の僕たちにしか壊せない。けれどもね。そう語る青年の顔はひどく優しく見えた。「それはこの子にとっても形見になるだろうから」と。そう言い切ると青年は雪子に目を向けて手招きをする。
「それではそろそろお暇しようか」
その言葉に、今まで黙っていた彼女は無言で小さく頷きを返すと、僕の元を離れて青年に近寄った。
「雪子」
青年と手を繋ぎ、今にも家を出て行こうとする彼女に向かって、辛抱溜まらず声を掛ける。僕はただ、あの女性に言われて預かっていただけだ。これでもう、彼女に会うこともなくなるのか。寂寥感とともに名を呼ぶと、彼女よりも青年の方が強く反応して僕に詰め寄った。
「何? ユキコ? ユキコとはなんだ。君、まさか」
この子に、名前を付けたのか。青年はいっそ恐ろしいくらいに真剣な顔で、そう尋ねる。そういえば、この人の前で彼女の名前を出すのは初めてだったか。場違いなところに思考が飛びつつ、こくりと頷いて言葉を返す。
「はい。雪の子供と書いて、雪子です。……あの、もしかして何か不味かったのでしょうか?」
「いや、不味いことではない。だが……」
青年はそう口籠もって困惑を映した瞳を瞼の奥に隠すと、流れるような動作でその口を片手で覆った。あいつ最期に余計なことをしやがったな、と小声で悪態付くのが聞こえてくる。どうやら青年にとって雪子を名付けられるのは想定外の行動だったらしい。
「正直気は進まないが」
青年は溜息を吐いて、彼女と僕とを交互に見た。何を言われるのだろう。でも、きっと彼女に関することなのだろう。ぼんやりと青年を見上げる彼女に目をやり、再び青年へと視線を戻して返事をした。
「はい」
「冬の間だけだが、それでもいいと言うのならば、君。大人になるまでこの子を預かる気はないか?」
夢のような提案だと思った。そうして僕は、その言葉に何の疑問も呈さないまま二つ返事で受け入れたのだ。初雪が降ってから、暦上での冬が終わるまで。それが、僕と彼女が共に過ごせる制約期間だった。
「おそよう、鶴ちゃん」
「んん……」
ふあ、と大きく欠伸をして目を開く。随分と深く眠っていたような気がする。身体を起こし、ぼんやりした頭で目を擦った。今は何時だ?
「いつもは早起きなのに、意外だなあ。昨日は眠れなかったの? 今日はお寝坊さんだね」
ふふ、と小さく笑い「もうお昼だよ」と雪子は言った。その声が妙に近くに聞こえるものだから、訝しみながら顔を上げて「うわっ!」
思わず驚嘆の声が出た。彼女の顔が目と鼻の先にあっる。全く気づかなかった。いつの間にベッドに上がっていたのだろう。きらきらした純粋な瞳が眩しい。想定外のことに戸惑っていると、彼女は顔を綻ばせて言う。
「うわっ、てなんなの。うわっ、て」
びっくりした? 笑顔で顔を覗き込んできた彼女に、びっくりした、と。何の捻りもない言葉を伝えた。本当に、驚いたとしか言いようがない。それから他愛もない言葉を交わしていると、彼女が「ああ、そうだ」と、長い睫をぱたりと伏せて言葉を告げる。
「そういえば、愛成くんから電話があったよ。三日後にこちらに来るから、よろしくって言ってたよ。お昼ぐらいにお邪魔します。中学のお友達も一緒かもって」
「はあっ!?」
聞いてない。思わず声を荒げると、だって鶴ちゃん寝てたんだもん、と当惑した顔で返された。揺すっても抓っても起きなかったし。少しだけからかいの念を帯びた声色に、覚えず口を尖らせる。仕方ないだろう、お前の寝顔を見ていて眠れなかったんだから。その言葉は喉奥にそっと押し込めて聞き返した。
「雪子、お前。許可したんだろう」
「うん!」
満面の笑みで返す彼女。躊躇いも何もないそれに頭を抱えながら「分かった」と返し、大きく溜息を吐いた。