求め続ける貴方と私
鶴屋俊成の作る食事は、この世に生きる他の何者にも及ばない最高の一品であると私は思う。こちらの好みを完全に知り尽くしながら、食物の新たな美味しさを見出してくれる、私の大好きな人。
「何歳になったんだっけ?」
台所に立っていそいそ忙しく両手を動かす彼に、ベッドの皺を整えながらそう尋ねてみる。どうやらこれから夕食を作ってくれるらしい。
「それ、ここに来た時いつも聞くけれど。お前は一応、僕と同い年? なんだから、問う必要もないだろうに」
ふうわりとおかゆの煮詰まる甘い香りを漂わせながら、つっけんどんに言い返される。少し捻くれたその言葉に嫌悪の情は感じられない。
「えっとね、確認して鶴ちゃんと一緒なんだなーって、そう思うとね。なんだか凄く嬉しいから」
そう、本当に嬉しいのだから。
「……ああ、そう」
少し照れたのか、ぶっきらぼうに彼は言った。後ろ姿であっても、その頬が薄ら赤く染まっていると分かる。彼はこちらを振り返ることなく、視線をぱちぱち火の鳴る焜炉に固定したまま「そうだな」と答えを返す。
「十九、だな」
「わあー、そっか、本当に成人間近なんだね。そうだ、そういえば鶴ちゃん、なんだか前よりも大人びた感じがする。ええとなんて言うか、その、かっこいいね!」
手放しでそう称賛してみると、彼は本気で照れたのか菜箸を持った右の手の甲で自らの額へと手をやった。
「お前って奴は本当に……」
林檎色に染まった顔が余りにも愛おしくて、思わず笑みが溢れる。顔が緩んで仕方がない。
「そういうお前も、同じ十九歳だろう……!」
「そうだね。えへへへ、そうなんだよね!」
言葉を反芻しながら、思わず彼の背中に抱きついた。
(そうだ。私は、鶴ちゃんと同じ十九歳なんだ!)
「お待たせ」と言われて、一人でも十分な大きさの机に料理が置かれる。私と、他ならない彼のために作られた食事。一緒の食物に、一緒のお皿。何もかもが同じであることに、何故だかいつもひどく安心した気分になる。嬉しい。幸せだ。けれども、そんな柔らかい好感情だけでない気がするのは、どうしてだろうか?
「美味しい」
「そうか、良かった」
感想を聞いて、彼はほう、と満足そうに息を吐いた。
鶴ちゃん、大人になったんだな……。和やかな表情で笑みを溢した彼に、ぼうっと見とれる。数年前だったらもっとはしゃいでいたはずなのに、いつこんな顔をするようになったのだろう。一年という年月は本当に短い。
ふと見つめられていることに気づいたのか、眩しそうに目を細められた。彼のその行為が余りにも様になっていたので、慌てて目を逸らし、机上のおかゆに視線を向ける。毎年彼の家を訪ねる最初の日、彼は何故だかいつもおかゆを振る舞う。いつだったか理由を尋ねたこともあったが、結局彼も、自分がどうしておかゆを作るのか分からないらしい。多分、無意識なのだろうと言っていた。無意識には思いが滲む。それを、彼は知っているのだろうか。……人間でない者の私が温かなおかゆを食して大丈夫なのかは知らない。でも、美味しいしお腹を壊したこともないので別にいいんだと思う。
「――と言うかさ」
ごちそうさまでした、と手を合わせた後に、彼は躊躇いながら、少しだけ顔を顰めてそう呼び掛けた。自らが不機嫌であることを隠そうともしないまま、彼は私の髪に手を伸ばしながら続きを口にする。
「今日来るって、聞いていないんだけど」
「うん?」
意図が分からず首を傾げると、彼は「だから」と指先に私の髪を絡ませ、深く溜息を吐いて言い直した。
「僕が出迎えたかったんだよ。予報の期日まであと数日はあったし、最初からそれを知っていたなら、うたた寝なんかせずに、ちゃんと……」
なんて尊大な、言い訳じみた言葉だろう。子供のような反応に口元が緩み、ふ、と小さく声が漏れる。それが癇に障ったのか、彼は片眉を上げて聞き咎めた。
「笑うとこなんか、全くなかっただろう」
「え? ううん、あったよ。本当に」
曖昧に返して笑い続けていると、最初は口の端を歪める程度だった彼も流石に我慢の限界が来たのか、次第にじっとりした目をこちらに向けてくる。気まずい雰囲気になるのも嫌だし、仕方ない。教えてあげよう。
「外。見て」
部屋の奥にある小窓を指差しつつそう言うと、彼は疑わしそうな顔をしながらも渋々言葉に従って視線を向けた。そうして、ああ、そうかと小さく呟く。
「ね。雪、降っているでしょ」
そう言いながら、私も窓の向こうへと視線を向けた。私たちは雪が降る日に訪れる生き物。うっすらくもった硝子の先には、ちらちら、ふわふわ、粉雪が舞い踊っている。風に吹かれて窓辺にふわりと張り付いた真白い花吹雪は、しゅううと瞬時に小さな水の粒へと変わり、そうして空気に姿を溶かしていった。
「……ごめん。僕の我が儘を押しつけてしまって」
しゅんと消沈した声で謝られる。慌てて窓から視線を離し声の方へと顔を向けると、額に手をやり俯く彼は、何故だか分からないが相当思い詰めた様子に見えた。
「えっ、ううん。私も少し早く来すぎちゃったし」
そんなに悲壮な顔をされると、こっちが困る。言葉を詰まらせながらも率直な思いを口にする。
「……その、早く貴方に会いたかったから」
そう言って、彼をそっと抱き締めた。
「それで、甥っ子さんはどうしたの?」
後片付けを終えてごろりと彼のベッドに横になると、彼は何やら複雑そうな顔をしながら、はあ、と深い溜息を吐いて言った。
「……雪子の布団はそこにあるだろう」
彼の枯れ木みたいに細い指が、大きな白い直方体を指し示す。言われるまま箱の側面に走った細い切れ目に指を掛けて開くと、内部は保冷剤と氷嚢とでぎっしり埋め尽くされていた。これはベッドと言うより冷凍庫だ。なんだか彼を訪ねる度に氷類が数を増している気がする。戸惑いながらも一応問い掛けてみる。
「鶴ちゃん、本気なの?」
「本気? 何が」
彼は不可解そうな表情を顔全体に作り、ぱちぱち頻りに瞬きをした。
「ええ……。こんな冷たい寝床で休憩するなんて、つまんないよ。それに、鶴ちゃんの布団はふかふかだし。昔は一緒に寝てたでしょ?」
「それは本当に幼い頃だけだろう。それにお前の保護者代わりの青年に、あんまり暖かい場所で寝させてやるなって。去年お前を迎えに来られた際に言われてるしさ。もしかして……溶けるんじゃないのか?」
きょとんとした顔で首を傾げられる。まさかとは思うけども、もしや十歳ぐらいから添い寝禁止になった理由はそれなのか。呆れと怒りでわなわな身体が震えた。
「溶けないよ! 溶解するならとっくの昔に暖房で水になってるでしょ。鶴ちゃんの馬鹿!」
感情の赴くまま、ふいと顔を背けてベッドに俯せる。雪の精霊について熱心に調べているようだけれども、私たちの――私のことを何にも分かっていないじゃないか。それどころか敷かれた牽制に気づいてもいない。鶴ちゃんは余りにも鈍すぎる。
暫くむっつり頬を膨らませて黙り込んでいると、背中側から彼がぼそりと呟いた。
「……愛成ならもうじき冬休みだ」
「ふうん」
言いにくそうな声で答えられた言葉に、愛想のない返事を送る。聞きたかった内容のはずなのに、今は全然興味が持てない。これも全部鶴ちゃんのせいだ。ふざけるな。自分のことは棚に上げて責任を押しつけている。その行為に気づいた瞬間、小さく自嘲の笑みを浮かべた。
(私は、どうしようもないくらい子供でしかないから)
大人になりきれない私は、鶴ちゃんと離れていくばかりだ。彼と私は、絶対に同じ者にはなれないのだから。ごめんね……。内心謝りの言葉を述べながらも、振り向くことなくそのまま彼の言葉を背中越しに受け取る。
「その……。本当ならいつものように電話して、彼も家に招こうと思っていたが、……今は少し迷っている」
「どうして?」
躊躇いとともに重ねられた言葉に、ふと振り返る。答えの主は、何かを堪えるような顔で口を真一文字に伸ばしていた。意図が分からず、もう一度問い返す。
「どうして、迷ってるの?」
言いながら彼の頬に手を伸ばした。反芻された言葉に彼は右手を顔に寄せ、戸惑いを含んだ瞳を覆い隠す。それでは私の行為を阻害することは出来ないというのに、感情を押し込めるのは、どうして。数刻の沈黙の後、への字に曲がっていた口が開かれる。
「……独り占めしたく、なったから」
「……ひとりじめ」
ぼんやりと言われた言葉を反芻した。頭の中に真っ白な靄が掛かる。なあ、と強く腕を引かれた。
「聞きたいんだけど。雪子、お前はいつ帰るんだ?」
いつの間にか彼は目元を覆っていた手を離し、こちらを強く見つめている。その視線は真昼の日差しのように熱く、とろけてしまいそうだとぼんやり思った。
「それは、その。いつもと同じだよ。冬の、降雪の終わりに決まって――」
「今年は、僕の誕生日が来るまで帰らないでほしい」
私の言葉に被せるように彼は言い募る。彼の誕生日は三月一日。暦で言うならば、春の始まりだった。原則に従うなら、私は二月の終わりに帰らなければいけない。でも――。感情の抑え込まれたその言葉に、いいよ、と返した。彼は目を見開いて問い返す。
「……本当に?」
信じられないとでも言いたげなその表情。私は頷いて再度了承の言葉を返した。
「今年の冬は、貴方とずっと一緒にいる」
――だって私は、この冬を越えたらもう二度と、貴方に会うことは出来なくなるのだから。