郡上八幡 少し昔の不思議な話~青いシャツ~
泉屋の中華そばは、いつ食べても美味いな、と正輝は思った。
泉屋は八幡の町の中にある昔ながらの食堂だ。うどん、そば、どんぶりなど、これぞ日本の庶民の飯、というメニューが並ぶ店だ。そのメニューの中に中華そばもあり、さっぱりとした醤油味のスープが、なんとも美味い。最近はラーメン屋も色々出来て、塩味、味噌味、しょうゆ味、豚骨など、色々あるけれど、ここの店の中華そば以上のものはないと、大人になって他所の店に行くたびに思う。丼も、世間で評判になっている店に行って食べてみたりしたが、どうにも味が濃いだけで、美味しくない。泉屋の食事は、どれも優しい味で美味いのだ。
中華そばを食べ終えて、一息つく。卵丼も食べようか。中華そばを食べた後でも、多分、ぺろりといけるだろう。
今日、正輝が一人で泉屋に来たのは、母の玉枝と言い合いになり、腹が立って、母の作った食事など食べたくないと思ったからだ。
喧嘩の原因は、正輝が仕事を辞めたいと言ったことがきっかけだった。
二十四歳の正輝は、地元の高校を卒業して、自動車メーカーの下請け会社に就職した。工場の現場作業要員である。それが不満な訳ではない。会社の工場は美濃なので、郡上から美濃まで通勤しなくてはならないが、それも特に不満ではない。車で四十分ほどかかるが、都会の満員電車で一時間も揺られることを思えば、楽な通勤だ。
特に不満はなかったものの、この毎日が何十年と続くのかと思うと、鬱々とした気持ちになって来たのだ。就職して六年目になるが、この先、一生これで終わるのかと思うと、まるで自分自身が機械の部品と同じではないかと思えてきたのだ。何十年ここで働き、定年を迎えても、自分がいなくなったところで、会社は大して困らないだろう。
では、何がしたいのか、と言われると、何がしたいのか、とも思う。それでも自分が自分であった証のようなものを残したいとは思う。
そんな話を母の玉枝としているうちに、母が、
「おまん、そんなこと言って、辞めて何が出来るんよ?早い子は、もう嫁さん貰いよるに、今頃仕事辞めて、また一からでは、誰も嫁になんか来ておくれんがな」
と言ったので、カチンと来たのだ。
「いつ来ておくれるかも分からん嫁をアテにして、何十年もつまらんと思う仕事せんならんのンか。一生嫁が来なんだら、一生つまらん仕事するだけで終わるがな!」
正輝がそう言うと、玉枝は一息ついてから、
「おまんな、和ちゃんなんか、戦争行くとき、おじいちゃんとこに挨拶に来て、〝叔父様、うちのお袋、あんなんやで、俺に何かあった時は、叔父様、お袋も親父も頼むンなぁ″って出征したんやで。和ちゃんのお母さん、わがままできっつい人やったでんなぁ。
和ちゃん、今の時代なら、まんだ高校生やったに、そんだけのこと言って戦争行ったんやで。
おまん、自分のこと考えてみんかい。親の家に住まわせてもらって、母親にご飯支度してもらって、ちゃんと仕事もあって、給料もらって、当たり前にボーナスもらって、そんだけのこと、どんだけありがたいか考えたことあるんか。和ちゃんなんか、やりたい仕事も何も、行きたくもない戦争に、行けって言われて行ったんやで。そんで命落として。
優しいお兄ちゃんやったでんなぁ。人と人が殺しあうよな、戦争なんか行きとうなかったに決まっとる。やけんど、行かされたんやで。
それをおまんは、なんとのうやりとうもないってだけで、やりたいこともないに仕事辞めようなんて考えとるって、罰があたるわ。今がどんだけ恵まれとるか、ちぃたぁ考えんか。いっつまでも子供でおったら情けないがな!
仕事を辞めることは、おまんが決めやええけんど、それには、次の仕事を何にする、どこまでのことをやる、その上で、ちゃんと食べて行けるようにせんならんのやで、よう考えなぁだちかんで」
と、一気にまくし立てた。
和ちゃんというのは、和夫さんという母のいとこにあたる人だ。祖父の姉の息子で、戦死している。
祖父は姉ばかり四人の末っ子だったため、盆、正月には、祖父の姉たちが夫や子供を連れて遊びに来たので、母は年上のいとこたちによく遊んでもらったようだ。その中でも和夫さんは、面倒見がよく、母は子供のころの盆や正月の思い出話になると、必ず、「和ちゃんがな、…」と、よく遊んでくれた優しいいとこの名前を出すのだ。
和夫さんが出征したのは、母が小学三年生の時らしい。祖父のところに挨拶に来た時、和夫さんは盆、正月とは違って、一人でやって来た。
子供だった母は、和夫さんはまたすぐ帰ってきて、次のお正月には会えると思い込んでいた。和夫さんは、若い元気なお兄さんで、死ぬなんてこと、想像さえできなかったのだ。
しかし、和夫さんは帰らなかった。目の前でその人の死を見たわけではない。それでも、和夫さんは、盆も正月も会えない人になってしまったという事実は、少なからず幼い母には辛く、悲しく、衝撃的な出来事だったのだろう。
正輝が中学生になり、反抗期に入ると、親子喧嘩になるたびに、母は和夫さんの名前を出した。和夫さんに比べて、正輝がいかに子供でしっかりしていないか、と怒るのだ。
反抗期真っ盛りの頃は、戦争なんていつの時代のことかと、母が古臭いことを持ち出してしかりつけるのに腹が立った。戦後生まれの正輝にとって、戦争は、とっくに歴史上の出来事で、終わってしまったこと、もう起きるはずもないことになっていたのだ。
店が混んで来たので、追加注文をしてもいいものか、少し悩んでいると、
「相席ええかな?」
と、一人の若い男が向かいの席に座った。
野球でもしているのか、五分刈りにしている。穏やかそうな笑顔には、まだ幼さが残る。少年を卒業したばかりの青年、といったところか。
メニューを見ながら決めかねているようなので、
「ここはなんでも美味いでンなぁ。迷うンなぁ」
と正輝が言うと、困ったように笑っている。
「俺、ここ来たら、中華そばは絶対頼むんや。今食べたけンど、追加で卵丼食べようか迷っとるとこなんや」
正輝が言うと、その青年は、
「卵丼にする」
と言った。それを聞いて、正輝も追加で卵丼を食べることにした。
その青年は、青い木綿のシャツを着ていた。無地のシャツだと思っていたが、よく見ると細かい柄が入っていた。祖父が昔、寝巻で着ていた浴衣に、よく似た感じの柄があった気がする。とはいえ、昭和五十八年に、じいさんの寝巻をシャツに仕立て直して着ているとは思えない。例え母親が手間暇かけてシャツにしてくれたとしても、今時の若い奴が、素直に着るとも思えない。
正輝は向かい合いの席で、何となく黙っているのが気づまりになり、
「その服、渋いけンど、ええ柄やんなぁ」
と言った。青年は顔を上げて、少し笑うと、
「お袋が作ってくれたんや。もうすぐ家離れるで、浴衣に仕立てようとして買ったけンど、服にしてやるって。
うちのお袋、裁縫は得意なんや。やけんど、作ってくれたやつ、素直に着んと、怒るんや。癇癪持ちやでンなぁ」
と言う。自分より若いと見えるこの青年が、家を離れるとは、進学なのか、就職なのか。
「お袋さん、寂しがっとらんか?心配もしとるろ?」
正輝が言った。
「どうやろ。
お袋、何かにつけて怒ってばっかおるでンなぁ。心配しとるんか、寂しがっとるんか、ようわからん。
やけんど、最近ちょっと怒らんようになったでンなぁ。もしかしたら寂しいんかもしれん」
青年は少し考えながら言うと、
「うちのお袋、本当に癇癪持ちなんや。親父にも、どうでもええようなことで、よう怒っとるんや。あんまり怒るで、親父もお袋が怒り出すと黙ってまうんや。
今までは俺がおったで、お袋も機嫌悪うてもご飯の支度もしてくれて、食べるときには、俺が親父に声かけて、三人でご飯食べて、そのうちになんとのう二人ともしゃべるようになって、ってもんやったけンど、俺がおらんようになったら、親父、酒ばっか飲むようになってまわんかと思って、心配なんや」
と続けた。
聞きながら正輝は、自分が出て行った後の両親のことを気遣う目の前の青年が、随分と大人に見えてきた。自分は、ついさっき、子供のように母にしかられたばかりである。
「おまん、偉いンなぁ。俺は、まんだ親にしかられてばっかおるわ」
と正輝が言うと、
「何しかられるんよ?」
と聞くので、今日の親子喧嘩をかいつまんで話した。
「そうかぁ。やけんど、兄さん、お袋さんの言うこと、間違ってはおらんがな。俺も行けって言われて、仕方のう家出ていくけんど、これがやりたい、なんてもんやない。やりとうもないけんど、行かんことにはうちのもんにも迷惑かかるし、同じように行った人ンたぁにも申し訳が立たん。そうやで行くけんど、兄さんはそんなことないでンなぁ。
郡上の町は、染物屋さんや機織りやさんもあるがぁ、あの人ンたは、その道を極めておいでるでンなぁ。色々細かい手順があるけんど、慣れた人は、それを何事もないようにテキパキとやんなれる。で、素人が出来ると思ってやってみたところで、段取り悪いし、時間かかるし、出来栄えも悪いでンな。百姓やったって、お蚕さん飼うのも、毎朝桑の葉も取りに行かんならんでなかなかに大変やし、お米も植えたらそれっきりってことないでンなぁ。ちゃんと水が来よるか見にも行かんならんし、稗やらの草が生えたら取らんならんしな。
みんな、その道でやっておいでる人は、そういう面倒臭いこと、もう体が覚えて動くんよ。兄さんも、もう何年かはその道でやっといでるんろ?自分ではそんに思っとらんだけで、若い子から見たら、仕事の段取りなんか、随分手際も良うて、いろんな小さいこと、よう知っておいでるって思われとるろ?
仕事ってのは、やりとうてやっとる人は少ないでンなぁ。みんな、取り敢えず縁があってついた仕事を、一生懸命やりよるうちに、親方になって、下のもんにも教えるようになるんやでンなぁ」
青年はそこまで話すと、一息ついたので、正輝は、
「おまんは、家離れるって、仕事か、学校か」
と聞いた。
「うちはそんな上の学校行くほどの金はないで。仕事に決まっとるがな」
と言うので、
「どんな仕事なんよ」
と聞くと、青年は黙ってしまった。余程行きたくないのか。
「要らんこと聞いたンな。悪かった」
「ええよ。兄さん、俺なぁ、家離れることになって、色んなこと思うんや。今まで、親に当たり前にしてもらってきたこと、何にも当たり前やないんやぁって、ろくにおおきにとも言わなんだこと、今になって色々思うんや。親でなかったら、黙って食わせておくれたり、学校行かせておくれたり、着せておくれたり、しとくれんでンなぁ。親ってのは、あんな癇癪持ちのお袋でも、ありがたいもんなんや。
まぁ、俺もいつ帰って来られるんかわからんけンど、帰って来られた時は、一生懸命、親孝行せんならんなぁって思っとるとこや」
青年にそう言われて、正輝は、自分が随分子供じみているような気がしてきた。この青年には、自分がカッコ悪い大人に見えているのかもしれない。
「兄さん、その仕事に就いたとき、この人かっこええンなぁ、って思った人、おいでんのんか?」
青年が聞いた。正輝は入社当時のことをあれこれ思った。
「そうやんなぁ。工場長は、何聞いても、本当に何でも知っておいでるし、また仕事早いんよ。わからん事聞くろ、教えておくれるろ、あぁ、そうなんかって思うことばっかやった。わからん事聞くと、自分でやって見せておくれるんよ。それが手際ええんや。
で、自分でやってみると、そんに上手にはいかんのんよ。何度もやるうち、さっきの話とおんなじでな、体がさっさと動くようになって来たけんど」
「そんで、今は前のようには聞かんろ?」
「まぁな、もう何年かはやっとるで」
「そんなら、兄さん、下のモンに聞かれたりすることもあるろ?教えてやることもあるろ?」
「そら、わからんことは教えてやらんならんがな」
「そうなら、下のモンたぁは、兄さんのこと頼りにしておいでるモンも多いろ」
「そうやろか」
「そらそうや。困った時は、まず兄さんに聞いてみようって思っておいでるモンもおいでるわ。それやし、何年かそこにおいでるなら、上のモンにも任されることも多いンないか」
「うーん…」
正輝は青年に言われて、今の自分の立場を初めて考えてみた。同期で入社したやつで、残っているのは二人だけだ。確かに、それを思うと、任される仕事も増えて来たし、自分の仕事だけでなく、人の仕事にも目が向くようにもなって来た。新人の頃、訳も分からず、やれと言われたことだけを必死にこなしていた時とは違ってきた。わかる仕事の範囲も広がったし、自分の仕事以外のことも、繋がりを考えるようになって来たのだ。
「そうかもしれん」
正輝が呟くように言うと、青年が言った。
「ええんなぁ。俺もそんな風に働きたいンなぁ。何年も同じとこで働いて、親のこと安心させてやりたいンなぁ」
「おまんは今度行くとこ、長いことはおれんのンか」
どんな仕事なのかと思い、正輝が聞いた。
青年はまた少し黙ると、小さな声で、
「長いこと続けるような仕事でないんや。行く前から、長いことはやりとうないと思っとるんや」
と言った。
とても辛そうな、そして悲しそうな表情で言うので、正輝は、これ以上仕事のことは聞いてはいけないな、と思った。余程行きたくないのだろう。しかし、何の事情か、行かなくてはならないのだ。
あまり何度も仕事の話を聞いて、悲しい思いをさせてもいけないと思い、正輝は、
「その服、ええンなぁ。俺の今日着とるヤツと交換せんかな」
と言った。
「兄さん、それの方がずっと高かろうに、またお袋さん怒りなれんか」
「これは、お袋が買ったやつと違う。自分で買ったやつや。やで、お袋のことなんか気にせんでもええ」
「そうか、、、。これ、浴衣の反物で作ってあるで、同じの二枚あるんや。やで、そうやんな、うちのお袋も、兄さんがほめてくれて、どうしても欲しいってことで、交換したんやって言えば、嬉しいかもしれんなぁ」
「やけんど、こんな安物と交換してきたんかって言いなれんか?」
「ええて。兄さんの服も、粋な縞やがな。最初に見たときから、洒落た服着ておいでるなと思っとったんや」
「そうか。まぁ、気に入ったなら、着とくれ」
そんな話をしながら、二人で卵丼を食べた。
「今な、叔父様の家に行って来たんよ。お袋の実家なんやけンど、俺、一人っ子やで、もし俺に何かあったら、頼むンなぁって、叔父様に言って来た。
お袋、ほんとに怒ってばっかおるでンなぁ。うるそうて嫌になることもあるけんど、今になったら、この先、俺がおらなんだら、親のこと、誰が面倒見ておくれるんや、って思うと、やっぱり心配でならんようになってな。叔父様にそんな話して帰りよったら、なんや泣きそうな気持になってきて、一息ついて、落ち着いてから帰ろうと思って、ここの店にひょこっと入ったんや」
食べ終わるころに、青年が言った。見ると、少し涙ぐんでいる。
「おまん、そんな癇癪持ちのお袋さんでも、子育ては上手にしないたンないか。おまんの話聞いとると、随分と優しい子に育っとるがな。癇癪持ちのお袋さん、怒りんぼやけんど、芯は優しい人なンないか。そやなけらなぁ、おまんのように優しい息子には育たんろ」
正輝が言うと、青年はしばらく黙ったまま俯くと、大きく息をついた。そして顔を上げて、にこりと笑った。
「そうやんな。親父もそれわかっとるはずやんな。確かにそうや。何かあったときには、いつでも心配はしておくれるな。熱が出たときも、怪我したときも。親父のことも、俺のことも、そういう時はこまめに世話しておくれる。
そうや、親父と喧嘩したって、怒って飯も作らん、なんてことはないな。そうやンな、怒るけンど、本当は優しいんなぁ」
満足そうな笑顔で言うと、正輝に向かって、
「兄さん、おおきに。今日は会えて良かった。なんや、少し気分良うなったわ」
と言った。
二人で店を出ると、正輝は、
「そうや、服、交換せんかな」
と言った。青年は、笑って、
「兄さん、本当にええんか?やっぱり返しとくれって言われても、もうすぐ俺、こっちにはおらんようになるで。そんでも良けらぁ、換えてもええで」
と言うので、道路で二人、シャツを脱いで交換した。
「おまん、そう長いことやりとうない仕事なら、その仕事しながら、次に本腰入れて何やるか、考えたらええがな。そんで、次の仕事は長いこと続ければええ。
それには、病気にならんと、元気で帰ってこなぁ、だちかんで」
正輝が言った。
「兄さん、おおきに。兄さんも元気でなぁ。俺、元気で帰って来たら、兄さんの下で働かせておくれんか。そう思ったら、なんや、楽しゅうなって来たがな」
青年が嬉しそうに言うので、
「わかった。俺の会社が、その時に募集しとったら、上のモンに聞いてやるに、絶対元気で帰って来るんやで。
俺、この店には、よう来るでンなぁ。帰って来たら、この店に来なれ。絶対会えるに。そん時は、ここで中華そば食わんかい。おごってやるに」
と言うと、青年は、
「おおきに。もう今からご馳走さんって言っとくに、約束やで」
と笑った。
二人握手をした後、手を振りあって別れた。
帰る道すがら、青年との会話を思い出しつつ、正輝は今の自分の状況を、冷静に考えてみた。
確かに、入社した当時と比べれば、ベテランとは言えないが、それなりに仕事に自信は持てるようになった気がする。
今年の春は、新入社員の一人が、自分の担当ラインに入って来たので、課長から指導係を任された。仕事にも慣れていて、尚且つ、新入社員にとっては、年の近い先輩の方が、いきなりベテランにあれこれ聞くより、聞きやすいだろうという会社の方針らしい。まだ新入社員だった頃の記憶が薄れていないヤツの方が、相手の気持ちも、疑問に思う点も、よくわかるだろうという配慮のようだ。
その後輩と仕事をしていると、数年前の自分を見ているような気になってくる。そして、それから自分はここまで出来るようになったのだな、と思う。叱られたこともあったが、教えてもらって、我慢して使ってもらって、今があるのだと思えて来た。
改めて感謝しつつ、他の仕事に変わってどうするのか、と思った。職人になって修行してでも進みたい道があるのか?例えば、大工?左官?染物屋?指物屋?表具師?
いや、子供のころからなりたかった仕事というものはない。憧れていたパイロットなど、とうに諦めて、今更なれる訳もない。
そうだな、自分は恵まれている。後輩も頼ってくれているし、上司や同僚たちとの人間関係が悪いわけでもない。世の中には、自分のように、小さな歯車のように働く人間も必要なのだ。例え小さな歯車であっても、今のところ、取り敢えず必要とされている歯車には、なりつつあるようだ。
そう思うと、今の自分に少し自信が持てるような気がしてきた。そうだ、継続は力なりと、昔から言うじゃないか。小さな歯車なりに、なくてはならない歯車になってみてもいいかもしれない。そうだ、あの青年に何年か後に会った時、頼りがいのある、きちんとした大人になっていたいじゃないか。
家に着くまで、そんなことを考えていたら、仕事を辞める気など、全くなくなっていた。
玄関を開けて家に入ると、奥から母の玉枝が「お帰り」と言う声が聞こえた。喧嘩をして家を出て行ったのに、帰れば「お帰り」と言ってくれる。当たり前だと思っていたことが、今日はありがたく感じるのも、あの青年と会ったせいだろう。
青年と交換したシャツを着たまま台所に入った。玉枝は再度「お帰り」と言って、振り返った。
正輝の姿を見た玉枝は、一瞬、息を飲んだ。
「おまん、そんな服、持っとったか?今、和ちゃんが帰ってきたかと思ったがな。おまん、今まで気イ付かなんだけど、和ちゃんによう似とるンなぁ。
和ちゃん、最後に挨拶においでたとき、そんな青い服着ておいでたんや」
玉枝が目を丸くして、本気で驚いた表情で言った。
「ええろ?泉屋で出会った男の子と、交換したんや。
仕事なぁ、やっぱ続けることにした。おまんに叱られたでと違うで。その子としゃべっとるうちに、色々考えて、そうすることにしたんや。その子なぁ、大変な仕事に行かんならんて言っとったでンな、俺も不満ばっか言ってもだちかんでな」
正輝が言うと、
「なんよ、急にしっかりしたこと言うがな。なんや、和ちゃんがおまんに乗り移ったみたいやがな」
玉枝が笑って言った。
「はずがないがな」
正輝が言い、親子二人で笑い合った。