魂の安らぐ場所
……………………
7.62x51ミリNATO弾は、男のほぼ胸の中央に命中した。
弾丸は易々と安物でダサいデザインのシャツを貫き、薄っぺらい皮膚を食い破り、体内を真っ直ぐ突き進む。
そして、ドクドクと脈打つ心臓から伸びる大動脈が裂かれ、役目を果たした弾丸がそのまま背中から突き抜けて壁に弾痕を刻んだ。
引き裂かれた動脈からは、これまで男──体重は約70キログラムかそこらだろう──の全身に血を行き渡らせていた圧力のままに血が吹き出る。男のシャツが真っ赤に染まっていき、男はグラリとバランスを崩した。
あっという間に血は抜けていき、血液を失った体は出血性ショックを引き起こし、細胞単位で臓器が機能不全になる。心臓は早々と退場し、いくら口をパクパクさせたところで酸素は体を巡らない。
心臓が停止し、脳が機能を停止する。
脳神経は死ぬ間際に家族や友人との思い出だとか、あるいはどうでもいい記憶を男にいろいろと思い出させてやりながら、最後にニューラルネットワークは発火することをやめる。
心臓停止。呼吸停止。脳波停止。
それからゆっくりと“魂”が死ぬ。
複雑なニューロン・ネットワークの発火から生まれる凝集性エネルギー・フィールドたる魂──あるいはシジウィック発火活動は、人間が機械的に死んでから、30分ほどの時間をかけて崩壊していく。
魂は自分を維持するために脳の活動が損なわれたことで形を失い、己の宿っていた体の中でエネルギーを放出しながら完全に消失する。
天国に行くこともなく、地獄に落ちることもなく、魂は実に科学的に失われる。
「片付いた、と」
俺は建物の屋上に伏せて構えていたG28狙撃銃の光学照準器から目を離して、目の前に広がる光景を見渡す。
600メートルほど先の家屋の付近で、うちの会社──ベータ・セキュリティーの4両のストライカー装甲車から強化外骨格を纏ったオペレーターたちがHK416自動小銃とM249軽機関銃を構えながら降車している。
俺の弄られた視界に表示されるARは、オペレーターたちが味方であることを示す青いアイコンをご丁寧に点灯してくれているが鬱陶しい。
装甲車から降りたオペレーターたちは実に馴れたやり方で、家屋の扉を吹っ飛ばして、スタングレネードを投げ込み、次々に突入していく。パンパンと銃声が響くのが聞こえ、インカムに補整された音響情報は罵倒や悲鳴を捉えていた。
やれ、帝国主義の手先だの。暴力的アナーキストだの。くたばれだの。とっとと死ねだの。そういう猥雑で、意味のない言葉を俺の視聴覚はわざわざ補整をかけて、言葉としてそれを認識できるようにしてくれる。
『近隣にお住まいの市民の皆さん』
と、上空を飛行しているQH-6無人汎用ヘリのスピーカーから人工合成されたような女の声が響いてきた。
『現在、当地区で治安回復作戦が実行中です。当社のオペレーターはカザフスタン共和国政府より委任された法執行権限を有しております。オペレーターの指示に従って行動してください。また、当社のオペレーターに対して非協力的な行動が行われた場合におきましては──』
バタバタとローター音を響かせ、ヘリはお決まりの警告文を読み上げる。
『事前の警告なく致死的な制圧手段を行使する場合があります。危険ですので、お控えください。繰り返します──』
遊園地のアトラクションで流れるような平穏なリズムで、ヘリは物騒な警告を付近一帯の住民に対して行った。
その間にも装甲車から家屋に突入したオペレーターたちは、家屋の制圧を続けていた。スタングレネードが瞬く光や、手榴弾が使われた煙などが、俺が伏せている600メートルほど離れたビルの屋上からも良く見える。
突入から15分ほど経ったとき、オペレーターたちが突入した家屋の窓にRPG-29携行対戦車ロケットを抱えた14歳ほどの少年が身を乗り出してきた。狙いは家屋の外に控えている装甲車だ。
「馬鹿な奴だな」
狭い室内であのままロケット弾を発射すれば、バックブラストで全身火傷だ。
俺は少年が自殺行為に走る前に、少年の頭に.7.62x51ミリNATO弾を叩き込んでやった。頭がパンと弾け、白い壁に真っ赤な血がスプレーされたように散らばり、少年は窓から半身を落とした。
装甲車のRWSは少年が死んでからその存在に気付いたようで、少年の死体に向けて銃弾を叩き込んだ。大口径のライフル弾が窓枠に引っかかった少年の体をガタガタと揺さぶり、ついにその体は窓から地面に転げ落ちる。
戦場にはつき物の、奇妙なほどに滑稽な光景だ。
そして、近隣の住民もそんな光景を見ようと思ったのか、ただ銃声が聞こえてくるのに不安を覚えたのか窓から顔を出し始めていた。
それに対する会社の返答は攻撃的な威嚇射撃だ。作戦中に家屋から出てくる奴は敵だと思って対処しろという命令が出ていて、現場のオペレーターたちはしっかりとその命令を守っている。
外国の企業に雇われた、外国の軍隊の出身者が、外国において我が物顔で武器を振り回している。全部が合法的で、ミラノ・サミットという茶番の後で国際社会が容認している行為だ。
なんと素晴らしい世の中。
そしてようやく銃声が次第に小さくなり、突入から40分ほどが経つと、突入したオペレーターたちが、家屋内で拘束した“テロリスト”たちを引き摺って出てきた。
『タイタンより全部隊へ。全目標確保。繰り返す、全目標確保。撤収開始だ』
「デイジー・ベル、了解」
インカムからタイタン──司令部の淡々として、感情のない命令が告げられ、本日の仕事は終わりとなる。
俺たちに割り振られたコールサインはデイジー・ベル。実に皮肉なコールサインだと感じる。壊れたロボットが歌い続けた歌ってのいうのは明らかな俺たちへの当て付けだ。あの映画はどういう意味だったのか、結局俺には分からなかったが。
「なあ、リリス」
「はい。なんでしょう?」
ここで俺は初めて、同僚の名前を呼ぶ。そして、少女の声が返ってくる。
リリス。
俺の隣には16歳ほどの少女がいる。細い手でM249軽機関銃を構え、その体には不釣合いな84ミリ無反動砲と弾薬やら何やらがぎっしり詰まった背嚢を背負い、ブカブカの都市型迷彩の戦闘服を纏った少女だ。
持ってるものこそ立派に兵隊だが、見てくれはどう見たとこで学生鞄を持っているべき高校生かそこらの少女だ。恐ろしいほどの場違いな存在だ。
若々しい黒髪は長いポニーテイルにして背中に伸ばしており、俺が呼んだのにリリスはその丸々とした真っ赤な瞳がポカンと俺の方に向けられる。
「お前、幻肢痛って知ってるか?」
「幻肢痛ですか? はい。知っています。ある種の脳の機能不全ですね」
リリスは何でも知っているし、教えてやれば何でも覚える。
「そう。足や手がなくなったら、脳がそいつを恋しがるって痛みを発するって奴だ」
「恋しがる、ですか。幻肢痛は自分の四肢に対する好感情から発生するものではありませんが」
だが、こいつは比喩の類がてんでだめだ。
「なら、全身が無くなっちまったら、どこが痛くなるんだろうな?」
俺はそんなリリスにそう尋ねながら、撤収の準備を始めた。
装甲車は車列を組んで俺たちがいるビルに迎えに着ており、乗り遅れれば基地まで歩いて帰る羽目になる。ここの住民はただでさえ俺たちを恨んでいるのに、それだけはご免だ。
「難しい問題ですね。私はそれに対する回答を有していません」
リリスもむうと考え込む表情をしながら、20キロ以上ある武器弾薬をたんまりと背負って軽々と立ち上がる。
「ああ。響さんは、どこか痛むのですか?」
次にリリスは心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「まさか。俺たちは痛みという感覚を取り除いただろう。ナノマシンと薬で脳をマスキングしてる連中と違って、俺たちは完璧に痛覚を除外してる。腹に50口径を食らったって、鼻歌が歌えるぞ」
俺もリリスも脳はどっちも完全な人工物だ。
人間の脳を模倣し、効率化し、最適化したコンピューターが俺とリリスの脳。
脳だけではなく、体も全て人工物だ。炭素繊維や人工筋肉で構成された機械の塊で、人間と言う形だけを維持した中身は完全な別物で、クソをするアヒルの玩具を最新鋭の技術で作り上げた代物だ。
そんな俺とリリスの違いは、ひとつだけ。
俺の脳には魂があって、リリスの脳には魂がない。
俺は魂があるから元の体が1%も無かろうと人間としての権利を有しており、リリスには魂がないからメティス・メディカルの財産としてしか扱われない。
「帰るぞ、リリス。今度はもっと魂が得られそうなことがあるといいな」
「はい、響さん」
そして、リリスは魂を求めていた。
……………………
……………………
人生をどこでどう間違ったのかは分らない。
あの任務を受領した時点で俺は間違っていたのかもしれない。または、国際情勢が緊迫の一言で片付けらるほどに悪化していたときに、軍隊に入ろうと思ったことがそもそもの間違いだったのかもしれない。
だが、悔やんでももう手遅れだ。
俺は東京大学医学部附属病院のベッドの上にいる。完全に隔離された空間で、一歩、一歩近づいてくる死に諦めの心を持ちながら。
俺が病院にいる理由は重度の放射線障害によるものだ。俺は自分の遺伝子が放射線でズタズタにされて、体が腐り落ちていくのをベッドの上で待っていた。
何で、放射線障害なんて負ったのかって?
それは中央アジアのテロリストのせいだ。
中央アジアは30年以上に及ぶ内戦でボロボロになった。軍閥たちが跋扈し、彼らは国際社会が認めた正当な政府と内戦状態にあった。
そして、決定的な出来事が起きたのは、ウズベキスタン共和国の首都タシュケントにおいてだ。
軍閥のひとつがどこからか手に入れた戦術核でタシュケントを消し飛ばす計画が進行中だという情報が、どこからか入ってきた。確証性は高いらしく、放っておけばタシュケントはクレーターに沈む。タシュケントに駐屯している7000名の多国籍軍と共に。
問題に対処するために情報を制限された状況で各国の特殊作戦部隊が動き始めた。アメリカはアメリカ情報軍インディゴ特殊情報作戦ユニットとアメリカ海軍DEVGRUを動員し、日本は日本陸軍特殊作戦群と日本情報軍第101特別情報大隊を迫り来る破局を阻止するために投入した。
作戦はある段階では、ある程度はうまく進んでいた。俺たちは戦術核の居場所を追跡して、どこで狂ったテロリストが同胞もろともタシュケントを核の炎に包もうとしているのかを掴みつつあった。
だが、何事にもイレギュラーがある。
俺たち特殊作戦部隊に追跡されていると気付いた軍閥の指導者は、シルクロードから続く歴史があり、誇り高く、強い“いつかの”中央アジアを取り戻すために予定地点手前で核爆弾の引き金を引いた。
ああ。俺たちは健闘していた。
特殊作戦群はDEVGRUと一緒に核兵器を奪還する寸前だった。彼らは核兵器が炸裂する寸前において、軍閥との戦闘を始めていた。彼らは核兵器を奪還できるところまで進んでいた。
それがテロリストの自爆攻撃でパーになった。
勇敢な特殊作戦群の隊員たちとアメリカ軍の精鋭たちが集まるDEVGRUの隊員たちは出力5KTの戦術核の引き金が引かれて炸裂したとき、そこから僅かに数メートルしか離れていなかった。
大勢の日本人とアメリカ人が大地に黒い影を残すだけで蒸発した。
タシュケントという都市も壊滅的な打撃を受けた。タシュケントの都市の半分は壊滅し、数十万の市民が致死的な影響を受けていた。それを救助するはずの多国籍軍も戦術核の炸裂で機能不全に陥り、大勢が死んだ。
そして、俺たち第101特別情報大隊も大打撃を受けた。
情報軍第101特別情報大隊においてタシュケントの核攻撃を阻止するために投入されていたのは、俺が所属していた第3作戦群で、俺はその中の第7分遣隊を率いて、特殊作戦群のバックアップに回っていた。
核攻撃が起きたそのときも。
炸裂が起きたとき、俺たちは爆心地から僅かに約1キロメートル離れているだけであり、爆発の影響は俺たちのところまで押し寄せて来ていた。
爆風と衝撃波が周囲の建物を薙ぎ払い、熱線が周囲を焼き払った。
俺は辛うじて核による直接的な死を免れた。
ただ、崩れ落ちた建物の下敷きになって、たっぷりの放射線を浴びただけですんだというわけだ。
そう、核攻撃を企てていた軍閥は当初はタシュケントの高層ビルの最上階で核を炸裂させ、その効果を全域に行き渡らせるつもりだった。だが、追っ手が迫ってくるのに焦った連中は地上で戦術核を炸裂させた。
結果は地上爆発。そして起きるは大量の放射性降下物の発生だ。
タシュケント全域に死の灰が降り注ぎ、核の奪還に動いていた部隊も、ただ中央アジアで吹き荒れる内戦と虐殺の嵐を阻止するために派遣されていたアメリカ軍を主力とする有志連合も大打撃を受けた。
そして、俺も。
だが、俺は他の連中に比べればマシだった。
俺の同僚たちは核爆発の熱線をモロに受けて、全身に大火傷を負って、爛れた皮膚を引き摺りながら助けを求めてのたうっていた。あるものは衝撃で吹き飛ばされてきたガラスが全身に刺さって、どうしようもない苦痛の中で死んだ。
対する俺は致命的な放射線を受けただけで済んだ。
そう、致命的な放射線を浴びて、死を待つだけの状態で済んだ。
細胞はその設計図となる遺伝子が放射線でズタズタに引き裂かれたことによって正常な細胞を複製しない。出来損ないの細胞が生み出されては、機能を果たさずに腐り落ちていく。
俺はベッドの上で医師たちが懸命に対処療法で俺を延命させ、死神を遠ざけようとするのを眺めていた。
だが、明らかに戦況は俺たちにとって明確に不利だった。
今の時代でも重度の放射線障害に対する根本的な治療方法など存在しない。ナノマシンを使っても意味がない。医師たちが行っているのは、沈没寸前のタイタニック号から1個のバケツを使って水を掻き出そうとしているようなものだ。
そして、俺はといえば、すっかり諦めていた。
体が腐り落ちていくのは自分が一番よく実感できている。
鎮痛剤が役立たずになったのは2週間前。俺は腐っていく体が発する尋常でない苦痛に夜も眠ることができず、そのことがより体力を消耗させていった。
医師たちも次第に俺の治療を諦めているのが窺えた。彼らは対処療法で辛うじて俺の魂を繋ぎとめているが、それは驚くほど簡単に絶えてしまうもの。医師たちはもはやある種の実験として俺を生かし続けていた。
そんな俺に転機が訪れた。
「響匠情報軍大尉」
病室に医師ではない人物が現れたのは、俺の体が半分ほど腐ったとき。
その男は陸軍の軍服を纏っていて、その胸にはアジアの戦争でのものを初めとする数々の勲章が縫いこまれていた。そして、その階級章は中将を指している。大尉の俺からすれば雲の上の人物だ。
「何でしょうか、閣下。陸軍の将軍が情報軍のただの士官を見舞いに来るほど世間は退屈ではないと思いますが」
俺はこの陸軍中将も、俺に今回の事は残念だとか、一刻も早く回復する事を祈っているだの、心にもない事を告げる類の人種だと思っていた。そういう客は既に大勢訪れているのだからな。
「私は現役の陸軍中将ではないのだよ、大尉。退役した身だ。今はベータ・セキュリティーという会社の顧問をしている。君に告げる話は、君をこの苦境から救い出すための方法があるということだ」
「この状態から助かると?」
俺の体は放射線でズタズタにされている。この分子レベルの傷を癒すことなど、最新のナノマシンを使っても不可能なはずだ。
そして、気になったはベータ・セキュリティーという会社の名前。
ベータ・セキュリティーという会社はアメリカに本社のある民間軍事企業だったはずだ。各地の戦場で数多くの戦闘を経験した兵士たちに、普通よりも多額の報酬をチラつかせて引き抜いていった存在だ。
そのため現役の軍人たちからは自分たちが──国民の血税で──育成した貴重な特殊作戦部隊の隊員たちを攫っていく、鼻持ちならない連中として忌み嫌われていた会社だ。
だが、この会社を初めとするPMCの存在は、今の世界ではもはや無視できないほど強大な存在となっている。
今や国連の武力的な平和維持活動を担っているのはPMCであり、戦争が勃発すれば前線での戦闘から、後方の食糧供給から住居建造までのロジスティクスと、あらゆる分野で戦争に関わってきた。
いわば戦争請け負い会社。戦争の全てをしゃぶり尽くす存在。
だが、そんな会社が俺の放射線障害をどうやって癒してくれるというのだ?
「ああ。助かる可能性がある。だが、君を救うのは厳密に言えば私の所属している会社ではない。私の会社の株式の半数以上を保有している事実上の親会社だ」
「生憎、経済ニュースは見てなくてね。どこの誰が閣下の会社のボスなのかは知らないんだよ」
もったいぶった元陸軍中将の言葉に、俺はやや苛立っていた。
俺は死に掛かっている。1秒、1秒、細胞が出鱈目な複製を行い、機能不全を起こし、俺の体は腐り落ちつつあるのだ。そんなときに暢気な会話を楽しもうという気には、とてもではないがなれない。
「メティスだ。メティス・グループ。名前を聞いたことは?」
メティス。
聞いたことはある。世界最大の医療メーカーであり、世界最大のバイオテクノロジーの会社だ。この会社が今、世界で流通している医薬品の半数以上の特許を握り、再生医学という分野でも大成功を収めて、世界有数の企業として君臨している。
こればかりは経済ニュースをあまり見ていない俺でも知っていた。あの大企業は今ではビッグシックス──またはヘックスと呼ばれる六大多国籍巨大企業として、帝国の如く君臨しているのだと。
「メティスは実験的な医療を試みようとしている。君のその腐り行く体を治療することができるのだ。それも完全に、だ」
「どうやって? メティスが高度なナノマシンの開発に成功したのか?」
元陸軍中将の言葉は不可解だった。
現状、細胞を修復するナノマシンでの治療は行き詰っているはずだ。後数十年経てば、俺の放射線障害を治療できるナノマシンも開発されるかもしれないが、その頃には俺は墓の下だ。
「ナノマシンではない。もっと高度な技術だ。我々の説明に君が同意するのであれば、その治療を開始できる。何事もインフォームドコンセントが必要だからな」
「なら、説明してくれ。何をするんだ?」
俺はいつまでも元陸軍中将が肝心の治療の内容について説明しないことに苛立ちながらも、早い説明を求めた。
「簡単だ。その体はどうあっても放射線による障害から逃れられない。脳も、何もかもが放射線に汚染されて、体はズタズタになっている。だから──」
元陸軍中将は、ゆっくりとした口調でそう語り始める。
「全てを交換する。体の全てを交換するのだ。唯ひとつだけを残して」
「全てを……?」
俺は元陸軍中将が告げている言葉の意味が理解できなかった。この男は一体何を言おうとしてるのだ。
体の全てを交換する? ひとつだけを残して?
「完全義体だ。義肢の延長線上にあるものだ。全てを人工物で作られた体に君の記憶と意識を移植する。そして、そうもっとも重要なものである“魂”をも」
元陸軍中将は、俺にそう告げ、俺は呆然としていた。
……………………
……………………
「魂という“現象”は今や科学的に解明されています。もっとも魂を定義付けるものが曖昧であるが故に、それを認めないものたちも大勢いますけどね」
東京大学医学部附属病院のベッドから、メティス・メディカルの有する研究施設に移動した俺に先ほどからよく理解できない言葉を告げているのは、若い東南アジア系の顔立ちをした研究者だった。
首から提げているIDカードに記されている名前はアンディ・ムルダニという名前と愛嬌のある笑みを浮かべた顔写真が記されている。本人曰く、インドネシアからアメリカに移民した一家の3世らしい。
「魂、か。そんな話を聞いたこともあるな。大騒動になった発見だろう?」
21世紀が始まってすぐボーイングの飛行機がビルに突っ込んでテロとの戦いで時代は始まり、ひたすらに戦争を続けてきた世界とインターネットという無分別な情報社会が構築されてから60年ほどが過ぎた。
そして、人々はついに永遠に神学論争で終わるはずだった魂を“発見”した。
俺は元陸軍中将の話を聞いてから、退屈そのものの病床で、魂に関する知識を得ていた。インターネットに掲載されている文献や、魂の研究について記された電子書籍を買って、それを読みふけっていた。
魂。あるいはシジウィック発火活動と呼ばれる現象。
それが発見されたのは脳神経科学が“特異点”に到達したときだった。
脳科学者たちは、ニューローンのひとつひとつの発火をトレースし、脳の機能を完全に解明しようとしていた。超高度な脳神経の検査器具──これはメティス・メディカル製のそれだ──は、これまではブラックボックスだった脳の活動の全容を暴き立てる寸前にまで進んでいた。
だが、脳科学者たちは奇妙なことに気付いた。
高度な検査装置で集めたデータから予想される感情や思考の変化が、予想されるそれとは異なった形で現れているという現象だ。
Aと入力すればBを出力されるはずのものが、Cと出力されて出てくるのだ。それも僅かなものではなく、多くのことでそうだった。
脳科学者は深海と同じくらい真っ暗な自分たちの脳の中で、何がどうなっているのかを解明しようとした。何かニューロンのパルスやホルモンとは異なるものが、人間の意思決定に影響を与えているのだと考えて。
そして、それは判明した。
脳にはニューロンの複雑なパルスが生み出す、特殊な凝集性エネルギー・フィールドが存在するということだった。
この凝集性エネルギー・フィールドは常に脳のニューロン・ネットワークにフィードバックしており、人間たちの意志や言動に大きな影響を与える。そして、死ねば体内から失われていく。
それは。まるで魂のようにして。
これを発見した学者たちは、この現象にシジウィック発火活動という科学的な名前を付けながらも、これを魂と呼んだ。
人の行動を左右し、死すれば失われるこの現象は、魂というより他にないだろう。
魂の発見は世界に大きな衝撃を与えた。
魂と死後の生は宗教家たちに残されていた最後の砦だった。それがついに科学によって叩き壊されようとしている。自分たちの信仰が脅かされる発見に、多くの宗教家が反発した、とされている。
だが、今はこんな知識は必要ない。
必要なのは俺の体を完全に入れ替えるのに必要なことは何なのかということだ。
「響匠大尉。あたなの脳に蓄積されたデータはナノマシンによるトレースで、完全に次の肉体──いや、機械仕掛けの完全義体の頭脳に移されます。ですが、この際に重要となるのは魂という点です」
「魂。俺には理解できないな。人類はそれほど簡単に魂を左右できる科学力を手にしていたということなのか?」
アンディが笑みを浮かべて告げるのに、俺は理解できなくなってそう尋ねる。
「いいえ。簡単には左右はできません。ですが、限定的なことは可能ですよ。少なくともあなたの魂を、新しい体に移すことは可能です。我々の技術力は、そこまで高まっているのです」
アンディは薄笑いを浮かべたままに俺にタブレット端末の画面を見せた。
「さて、テセウスのパラドックスというものがあります。ひとつのものを少しずつ新しいものに切り替えていくならば、それは本当に当初の存在と同一と呼べる存在なのかというパラドックスです」
テセウスの船のパラドックス。それは今回のように、体を少しずつ完全義体に移し変えていく際には問題となるだろう。どこまでが、本来の自分で、どこからが新しく作られた自分の体なのか分らないこと。複製された自分が、本当に自分であるという保証がないこと。
そう言った問題をメティスの連中はどのように解決するつもりだ?
「ですが、その問題は解決しました。“魂”の存在が根底にある限り、いくら人体を機械のパーツに置き換えようとも、それはその人なのです」
「魂があるが故に、か。抹香臭い話だな」
魂というのは20世紀の科学の時代から、その存在が疑われ続けていたものだ。人間の精神と言動に影響を与えるシジウィック発火活動が発見されたことで、人々は魂の存在をほぼ完全には否定しないが、未だに懐疑的な人種もいる。
そう、俺のような。
「宗教とは無関係です。我々の語る魂は常に現実的で、科学的なものです」
そして、そんな俺にアンディは苦笑いを浮かべてそう語る。
「現実問題として、日本政府を初めとする国連加盟国のほとんどが魂の存在を人類の権利に関する項目に絡めているのをご存知ではないですか。魂の存在があれば、その個体に人間としての尊厳と権利を認めるというものですよ。逆に魂がなければ、延命措置を打ち切っても構わないということを」
この話は知っている。
魂が発見されてから、それが人間の意識に甚大な影響を与える存在だと判明すると、最初は先進国が魂についての法令を定め、これまでも法令を改正した。
アンディの語るように魂の存在があるものは、これまで通り人間としての権利と尊厳を手にする。
逆に魂のないものは権利を失った。
ニューロン・ネットワークが活動を停止し、魂を失う脳死に陥った患者は、医師の判断で延命措置を打ち切ることができる。魂の宿らない妊娠2ヶ月前までの胎児は、中絶しても罪には問われない。
だが、こいつは大混乱を呼んだ。
何せ、魂があるのは人間だけではなく、高度な脳を持っているものは、ほとんどが魂に“よく似た”凝集性エネルギー・フィールドを宿しているからだ。
猿とイルカに魂らしきものが見つかったとき、人々はそこまで驚かなかった。犬と猫に魂に似たものが見つかったとき、人々はうろたえ始めた。牛と豚たちにも魂があるようだとなったときには、畜産業者たちは“これは魂ではない”と叫んでいた。
結局のところ、魂はいくつかの急進的な動物保護団体に過激な行動を唆し、その行動でいくつもの人間の魂が失われちまったわけだ。
俺が考えるに人類はまだ魂を見つけていい段階になかったのだと思う。俺たちの社会も、価値観も、他の技術も、魂というものを見つけてしまったために軋み始めていた。社会は悲鳴を上げ、価値観が彷徨い、技術は朽ち果てる。
宗教家たちは告げる。
“これが神の領域に踏み込んだ代償だ!”と。
そうかもしれない。俺たちはいつだってやってから後悔する。いろいろな技術が、社会がそれを受け入れる姿勢のないままに無分別に解き放たれては、俺たちは後になってああするべきだったと後悔する。
だが、宗教家の言っていることにいちいち従ってたら、俺たちは未だに洞窟で生活していて、火を起こすことすら恐れただろう。
後悔はしてもいい。先に進むにはいつだって犠牲はある。
問題は犠牲に見合った対価を獲得できるかだ。
「話は単純だよな。俺はそっちの会社が作った完全義体とやらに移る。そのときに魂を一緒に移植できれば、俺は元々の体が1%もなかろうが、各国政府から人間として扱ってもらえるってわけだ」
「その通りです。人間の本質は魂です」
俺は改めてアンディの会社であるメティスがやろうとしていることを確認し、アンディは頷いた。
俺はこの体を捨てる。全てだ。
この体はもうどうにもならなない。脳味噌だって放射線の影響を受けてる。ナノマシンをいくらぶち込んだってどうにもならない。
だから、この体を捨てる。
生まれて30年弱世話になった体を捨てるというのは人生の決断でも大きなものに分類されるものだが、もう俺には選択肢はない。
「これがあなたが移ることになる完全義体ですよ、大尉」
アンディは俺の新しい体を見せてくれた。
それは俺の外見的特長を完全に再現した、俺のクローンのようなものだった。
「中身はどうなってるんだ?」
「人工筋肉と完全に人間と同じ行動ができる人工臓器が詰まっています。これはちょっとした都合で軍用規格のそれになっていて、それなり以上に頑丈ですよ。スーパーマンになれるようなものです」
外見は俺そっくりだが、中身は機械仕掛けだ。
遺伝子操作を行い養殖された海洋性哺乳類から採取した人工筋肉が常人の数倍もの力を振るうことを可能とし、人間だったときの生活を維持できるように食べ物を味わい、消化できるようにもなっている。
「たが、見かけだけなんだろう。見た目だけ人間で、中身は機械だ」
「生体機械、という言葉の方が適切ですがそうですね。まあ、クソをするアヒルの現代版ですよ」
クソをするアヒル。
ジャック・ド・ヴォーカンソンという発明家が作ったアヒルの機械。食事をして、クソをするように見えるが、実際には消化などはしておらず、体内に隠してある消化済みのクソを時間差で吐き出すようなもの。
「これしか選択肢はなしか」
「現状では。止めたくなりましたか?」
俺は自分が移ることになる意識も魂もない空っぽの機械を眺めて呟くのに、アンディは目を細めてそう尋ねた。
「いや。やるさ。俺はこんなに早々と死ぬ気はない。まだやりたいことがある。そのためなら──」
俺はトントンと俺の次の体を叩いた。
「クソをする人間にだってなってやるさ」
俺は施術を承諾し、メティスは俺に非常に実験的な医療措置を行うことになった。
……………………
……………………
俺の死期は迫っている。
メティスは俺にまだ国が認可していない医療措置を行うために、日本政府に圧力をかけ、俺への医療措置は特例として厚生労働省に承諾された。
俺の死期は近い。
もう、急がなければ、俺は新しい体に移る前にドロドロに腐りきって、死体になってしまう。それは俺にとっても、メティスにとっても望ましいことではない。
「施術を実行する前に上の人間が視察に来るようです。今回の件は役員会でも取り上げられるほどに重要なものですから」
だというのに、メティスはわざわざカナダの本社から日本に重役たちを派遣した。
「こんにちは、ヒビキ大尉。私はヘレナ・J・カーウィンといいます。メティス・グループのCEOの立場にあるもので、今回のあなたの施術に非常に注目しています」
やって来たのは死んだ目をした白人の女がひとり。
若い、のだと思う。思うというのは相手が若々しいようで、また老齢な狡猾さを感じさせるものだったからだ。外国人との付き合いは多かったが、これほど年齢を図りにくい相手は初めてだ。
「こちらはコセン・シイバ技術顧問です。彼は魂と精神の研究の最先端を進んでいる我が社の誇る世界有数の科学者ですよ」
そんな女が紹介したのは長身の日本人だった。
細い目をしていて、その瞳からは感情は読み取れない。俺の事を実験用のラットだと思っていたとしても不思議でないほどに、無感情に俺を見つめていた。
「どうぞよろしく、響大尉。椎葉古仙といいます。施術の説明は受けていますか?」
「ある程度は。だが、魂を抜き出して、俺の新しい体に移すってのは理解できない」
コセン──古仙と名乗った男が尋ねるのに、俺は肩を竦めてそう返した。
「ああ。まだその説明が行われていませんでしたか。なら、私が説明しましょう」
古仙と名乗った科学者は、学者として相応しい落ち着いた口調で語る。
「幽体離脱、という現象はご存知ですか?」
「知ってる。だが、オカルトだと記憶しているが」
魂の次は幽体離脱か。
「確かに俗に言われる幽体離脱はオカルトの域を出ません。自分の死んだ兄弟に出会ったとか、体から離れていくのを感じて、遠くのものを見たなどというのは、科学的に立証されていないオカルトです」
幽体離脱にオカルトではないものがあるかの口調で学者は語る。
「ですが、科学的に立証された幽体離脱があります。ある種のショック症状を引き起こした人間の脳から一時的に魂が抜けるという現象です。これは肉体が損傷を負って、そのことが魂を傷つけることを避けるための防衛措置だと考えられています」
科学的に立証された魂。科学的に立証された幽体離脱。
発達した科学は魔法と見分けが付かなくなるというが、まさにこれがそうだろう。
次は何が科学的に立証されるのだろうか。神か? それとも悪魔か?
「あなたの魂を移植するのには、この幽体離脱を利用します。あなたの体に人工的にコントロールされたショック症状を引き起こし、抜け出た魂を、新しい体へと移植するという手はずです」
「それは成功した例があるのか?」
この科学者が言っていることは、話だけ聞いているならば筋が通っているように感じられる。だが、やはり胡散臭い。
「猿での実験は成功しました。人間ではありません」
「なるほど。リスキーだな」
そもそも自分の生まれ持っての肉体を捨てて完全義体に移る人間というのは俺が初めてなのだから、前例があるわけがないのだ。
「ご心配なく。施術は高い確率で成功しますよ。我々の理論には瑕疵はない。予定外のことがないのであれば、あなたの魂は新しい体に受け継がれ、あなたは存命することが可能になるのです」
「他に手もないことだしな」
前例がなかろうが、なんだろうが、俺はこのままなら死ぬ。死を回避するためには、危険に飛び込むしかない。
「施術には多くの注目が集まっています。会社としても、全力を挙げてこの施術を成功させるつもりです。あなたはひとりではありませんよ、ヒビキ大尉」
最後にそう告げて、メティスの酷く気味が悪いCEOとまるで感情の読めない技術顧問は去っていった。
「あの人たち、不思議なんですよね」
アンディは重役たちが俺を訪れている間は、猫を恐れて逃げるネズミのようにどこかに隠れていた。
「ネットで検索しても、あの人たちの情報はまるでないんです。ヘックス──六大多国籍企業のボスだってのに顔写真の一枚も引っかからないですよ。普通の多国籍企業なら、CEOの写真なんて腐るほどヒットするのに」
あの薄気味の悪いヘレナ・J・カーウィンというCEOはどういう魔法を使っているのか、自分の姿を隠しているようだ。
それからアンディはメティスの経営の酷い閉鎖性だとか、極端な秘密主義についてだとか俺に話していた。俺は話半分でそれを聞き流し、腐り行く体がいつになれば終わるのかを待った。
そして、ついに施術の日がやってきた。
全体を監督するのはアンディで、魂に関する部位に担当するのは名前も知らない気難しそうなドイツ系カナダ人だった。
「リラックスしてください、響大尉。施術はそう長い時間はかかりません。あっという間です。気付いたときには終わっていますよ」
それが事実なのか、単なる気休めなのか、アンディは俺にそう告げた。
「既にあたなの記憶はナノマシンが残らず新しい体にインプットしています。後は人工的なショック症状を引きこし、人工的な幽体離脱を実現し、あなたの抜け出た魂を掴んで、新しい体にいれるだけ。それだけですよ」
アンディは俺の緊張を絆そうとしているのだろうが、余計なお世話だ。
「こちらの準備はできた。いつでも始めてくれ」
ドイツ系カナダ人の科学者は、アンディにそう告げた。
「では、始めましょう。我々の実験は科学史に刻まれるでしょうね。成功しても、あるいは失敗しても」
失敗して名を残すのは俺は御免だ。何としても成功して貰いたい。
「では、麻酔を。起きたときには新しい体ですよ、響大尉」
アンディは最後にそう告げて、俺に麻酔をかけた。
俺は眠りに向かいながら考える。
本当に俺は新しい体に移れるのだろうか。あれはこれの記憶と人格をコピーしただけのものであって、俺との連続性はないのではないだろうか。科学者たちの語る魂は本当に人間その人を特定するものなのだろうか。
今になって疑問が山のように浮かんできたが、俺の意識は麻酔薬によって眠りに付き、俺は魂を移すという大事を他人へと委託して闇に沈んだ。
……………………
……………………
施術はあの古仙という科学者が言っていたように問題なく成功した。
俺の魂は人工的なショックを与えられて、危機を回避するために体外に飛び出し、それをメティスの技術者たちが捕らえて、新しい体に移植した。古い体は魂を失い、ショック症状の影響もあって死んだ。
メティスはこの成功を世界に発表した。脳を侵すような神経性の病に罹患していようとも、もはや人類には応じる手段があるとして。そう、もはや不治の病などはないというようにして。
連中は大成功に喜び、メディアは俺の写真を撮影していった。
施術は大成功。それで終わり。
「動けん」
だが、俺にとってはこれが始まりだった。
「まだダメですか?」
「上手くいってないことだけは確かだといえる」
俺に与えられた俺そっくりの体は、中身は人間だった俺とは異なる。人工の筋肉は人間の筋肉とは全く異なるし、神経系は“効率化”によってより簡素で、耐久性のあるものに置き換えられている。
そんな体をホイと与えられて、その日のうちから動かせたら天才だ。
俺はまるで生まれたての小鹿のようにフラフラとしか動けず、用を足す──この体は半分が有機物で出来ており、代謝が行われているのだ──のにも人の手助けが必要な有様だった。
「ふうむ。あらかじめ動作制御のデータをこれまでの義肢の使用者のビッグデータから抽出して入力してあるのですが、上手くいきませんか。普通の義肢の制御なら、その方法で上手く回るのですけどね。やはり全身となると規模が違うのか」
アンディは俺の悲惨な有様を見て、顎を擦っていた。
「リハビリって奴がいるんだろう? 俺は1日でも早く自分で小便にいけるようになっておきたい。早いところ、始めようぜ。俺は軍隊できっつい訓練にも耐えてきた。多少の辛さには耐えられる」
「そうですね。体は手に入っても、それが上手く動かないのでは、成功とは言えませんから。明日からリハビリを始めましょう。だけど、これじゃ予定のリハビリプログラムじゃ上手く回らないかもしれないな……」
アンディは俺の脳味噌に手足を動かすプログラムをあらかじめ脳に埋め込んでいて、それで全てが上手くいくと思っていたようだ。
俺の今の脳はコンピューターだ。いや、こんな体になる以前も広義的な意味では俺の脳は有機的なコンピューターと言えたが、今の俺の脳は完全に人間が設計したコンピューターだ。
カーボンナノチューブの半導体と幾分かの有機物で出来た最新型電子脳が、俺の記憶の詰まった生身の人間だったときの俺の脳をエミュレートし、そこに魂が影響を与えて、今の俺は思考し、行動する。
だが、ちょっとばかり気味が悪くなることもある。今回のときのように、他人が俺の脳に勝手にデータやプログラムを入力されているとしているとなると、俺は本当に生身のときの俺と同じなのかと。
ともあれ、俺は前向きに考える。
俺は新しい肉体に移った。生身のときの記憶があり、好きな音楽や食べ物、友人知人への感情は変わっていない。そのことにはメティスが移植手術後に行った幾たびもの精神鑑定テストでハッキリしている。
なので、俺は俺だ。連続性がどうだろうという点は哲学者に任せる。
そして、俺は一刻も早く、体を動かせるようになりたい。
「また飛んだり跳ねたりできるといいがな。旅行にも行きたい。軍隊にいたときにはいろんな国家を旅したが、それは銃火器で完全武装して、敵対する勢力として強引に押し入ったものだった。俺は平和に世界を旅したい」
俺は辛うじて上手く動く唯一の部位である口でそう呟き、被験者の心理的影響を調査するために記録することが推奨されている日誌にそう記した。
そして、俺がついにリハビリに挑むときがやってきた。
全身義体であっても、やることは普通のリハビリによく似ている。歩行器を使って歩き回ったり、平行棒を掴んでヨチヨチと赤子のように歩くことだ。
軍隊にいたときと違って、過酷なノルマはない。全てがメティスが最善だと判断したスケジュールに沿って行われている。俺は酔いどれの間抜けになった気分でフラフラと歩き、そして転ぶ。
「苛立たしくなってくるな」
自分の体が上手く動かないことほど苛立たしいものはない。自分が自由に出来るはずのものが、まるで自由にならないということほど腹立たしいことはない。
「では、そろそろアシスタントを紹介しましょう」
俺は初日のリハビリを終えて、そんな苛立ちを抱えていたとき、アンディはそう告げて、ある人物を俺に紹介した。
「こちらはリリス。あなたの早期の回復を手助けするアシスタントです」
そう告げてアンディが紹介したのは少女だった。
濡れ羽色の綺麗な黒髪をポニーテイルにして纏め、そのあどけなく、無垢で、これまで世間に一度も晒されたことがないように感じるような顔立ちには、ガーネットか何かのように透明感のある瞳がポカンと浮かんでいた。
「介護師やメディカルトレーナーにしちゃ、若すぎないか?」
少女の年は甘く見積もっても16歳かそこらだ。俺のリハビリを担当するのが、こんな若い娘だというのは理解に苦しむ。
「ご安心を、響大尉。彼女はあなたにもっとも近い存在ですよ」
「俺に近い存在……? 俺と同じように魂を機械に移植したのか?」
アンディは悪戯を思いついた子供のような笑みでそう告げ、俺は怪訝そうにリリスと呼ばれた少女を眺める。
魂を機械に移植するという冒険的な施術が実行されたのは、俺が記憶している限り、俺一人だけだったはずだ。俺の前にその施術を受けたものはいないし、俺の後からメティスは施術を行ってもいない。
「いいえ。彼女はアンドロイドです。人間を模倣して作られた人形です。あなたとは違って生まれから人工的に設計された存在で──魂を有してはいません」
「アンドロイド、とはな」
正直、驚いている。
これまでロボット工学は技術的特異点に向けて突き進んでいた。だが、ここまで人間そっくりのロボットが作れるようになった、という話は聞いたことがなかった。
「彼女はあなたを適切にサポートできますよ、響大尉。彼女の体は、あなたのそれとほぼ同じものです。彼女と同期しながらリハビリを進めれば、より早期に回復することが可能になるでしょう」
「俺と同じか。だが、そいつには魂がない。扱いはどうなっているんだ?」
アンディが自慢げに告げるのに、俺は疑問に感じていたことを尋ねた。
俺の体は100%人工物だ。アンディの話を聞く限り、そのリリスって娘も、俺と同じように100%の人工物であることになる。脳も、筋肉も、臓腑も、クソも全てが人間が効率的に設計した代物のはずだ。
「彼女はメティスの資産ですよ。彼女には魂がありませんから」
俺の疑問にアンディはあっさりとそう告げた。
魂。
ニューロン・ネットワークの発火活動で生まれる未知の凝集性エネルギー・フィールド。俺のこの機械の体に移植され、俺を人間だと証明している大事な命綱。
リリスにはそれがない。だから、体が全く俺と同じであろうとも、人間としては扱われない。その外観が完全に人間の少女のそれであっても、彼女はメティスが所有する資産の一部として扱われる。
僅かにゾッとする話だ。
俺も魂の移植に失敗していたら、この目の前のアンドロイドと同じように、メティスの資産として扱われていたのだろう。人間としての権利も、尊厳もなく、ただの物として扱われていたのだろう。
会社の資産ならば権利も尊厳もない。モルモットのように扱われても文句は言えず、処分されても抵抗することはできない。
俺は魂がちゃんと体に宿っていることに感謝した。
「では、リリス。響大尉の今日のリハビリの状況を見て、何が必要なのかをチェックして貰えるかな?」
「はい、アンディ博士」
リリスはアンディの言葉に応じると、首の背中側にある穴にケーブルを繋ぎ、それを俺の方に伸ばしてきた。
「それは何だ? 何をするんだ?」
「有線接続です。響さんから今日のリハビリの結果をダウンロードして、それに対する適切なパッチを作成します。それを当てれば、次からのリハビリでは大きく前進すると思われますよ」
有線接続。俺の脳も、リリスの脳もコンピューターだ。コンピューターがLAN回線で接続できたように、俺とリリスの脳もケーブルで繋ぎ、リリスは今日の俺が何回転んだとか、どんな動きが上手くいかないかの情報をダウンロードできる。
「大丈夫なのか?」
俺としては他人に脳を覗かれるのは愉快な気分ではない。
「大丈夫ですよ。リリスは完全な人工物です。響大尉のプライベートに踏み込もうというような好奇心はさしてありません。もし、プライベートに触れたとしても、人間より厳格に守秘義務を果たします。彼女以上に信用の置けるトレーナーはいないといっても過言ではありませんよ」
リリスは機械。
俺も機械だが、俺には魂があって、俺の魂は定められたルールを破ろうとすることを唆す。人間のプライベート──今日、何回用を足すのに間に合わずに、パンツを替えたことなどを見れば、そのことに興味を示し、冗談のネタにする。
対するリリスにはそのような心配はない。
彼女は完全に機械であり、要らぬことを唆す魂は存在しない。機械として従順に仕事を果たし、プレイベートに触れたとしても事前に設定された保守義務に従って、それを他人に吹聴するようなことはない。
だが、それではリリスはあまりにも人間と異なる気がしてくる。
「フム。四肢の神経系プログラムと脳のシンクロが上手くいっていないようです。これを解決するパッチは明日までに作成しておきます」
俺がそんなことを考えている間にも、リリスは問題を発見した。
彼女は俺が考えていたリリスという機械と人間との違いに関する考えも読み取ったのだろうか。だとすれば、彼女はそれを見てどのように感じたのだろうか。
自分がロボットであることに苛立ちを覚えているのか。それともロボットであるがために人間の有する煩わしさから解放されたことを誇りに思っているのだろうか。
「響さん。私も一刻も早いあなたの回復を祈ってます。私と同じような体を持っている唯一の人で、それで人間としての尊厳を持ったという人は初めてですから。あなたが回復して、研究が進めばもしかしたらと期待しているんです」
リリスは不可思議なことを最後に告げると、俺に繋いだケーブルを抜いて、俺に一礼するとリハビリ施設から去っていった。
「あれはどうこうことだ? あの娘は何を求めてる?」
「ああ。彼女は“あるもの”を求めているのですよ。そして、私たち研究者も同じ事を求めているのです」
リリスの態度を不審に思った俺が尋ねるのに、アンディは小さく微笑んで告げる。
「あるもの?」
「そう、あなたにはあって、リリスにはないもの。つまり──」
100%人工物の俺と100%人工物のリリスの間にある違い。
「魂ですよ。私たちは人工的に作られたアンドロイドが魂を宿すかどうか。それに注目しているのです。そして、リリス自身も魂を求めて、これまで様々な実験に参加してきたのですよ」
魂。
人間が宿すとされ、他の動物がそれを宿すと知れると大混乱に陥ったもの。
リリスはアンドロイドという完全な人工物でありながら、人間が人間であると保証するその魂を求めていた。
……………………
……………………
「今回の響大尉の完全義体への移植実験には、ふたつの側面があります」
俺がリリスというアンドロイドが魂を求めているという衝撃的な事実を聞かされてから僅かに数十分後に、アンディは聞かれてもいない説明を始めた。
「ひとつは本当に魂を人工物に移植できるかという問題。これは猿では成功していましたが、人間では初めてのことです。これが成功するか否かが、この実験の最大の注目点でした。うちの広報部も熱心に報道しています」
メティスの連中は魂を完全義体に移すことに自信満々だったが、実際には上手くいくが分らない実験的な施術だったわけだ。まあ、成功したのだから、俺としてはもう文句はない。それにしても賭けだったとは。
「もうひとつの目的は、あなたと同じ体を有し、同じ脳を有するリリスが魂を宿せるかどうかです。あのリリスの体は、響大尉とほぼ同じようにできています。響大尉が魂を宿すことに成功したならば──」
アンディは僅かに考え込むように顎を擦る。
「リリスにも魂を宿す可能性があるということです。我々は人類史で初めて、神々の神秘などというくだらない言葉で片付けられてきた、魂の創造について、科学的に立証されることを成し遂げるのです!」
そう語るアンディはやけに熱が篭った口調だった。
「神が嫌いなのか?」
「正直に言えば。我々人類は神のために人を殺し過ぎてる。時は21世紀。そろそろ魂の神秘にも、死後の生にも、神にもご退場願おうじゃあないですか」
アンディ注目しているのは、俺が魂を得て活動することよりも、彼が作ったリリスというアンドロイドが魂を有するか否かの方にあるかとわかった。
「もし、リリスが魂を宿したならば、世間の宗教屋たちは居場所を失って、笑いものになるでしょう。魂は特別重要なものでもなく、やろうと思えば人間が自分の手で生み出せるものだと判明するのですから」
アンディはよほど宗教が嫌いらしく、宗教についての悪感情を隠すことなく、俺に対してそう告げた。
「そうなるなら、宗教屋たちは今のこの現象は、神が定めた魂ではないと言い出すんじゃないか?」
魂。シジウィック発火活動は、科学的に証明された魂だとは完全には言い切れない。それは人間の意志に対して影響を与えるが、各種宗教が謳っているような神秘性は欠片もないのだ。
だから、宗教屋たちは否定しようと思えば、シジウィック発火活動を魂ではないと否定することが出来る。魂は他にあって、ニューロン・ネットワークが生み出す無機質なものなどではないのだと。
「いいえ。大衆は既にシジウィック発火活動を魂だと看做しています。これこそが自分たちの個を定義するものだとして」
アンディの語るようにシジウィック発火活動は既に多くの大衆が、それを魂だと受け止めている。だから、彼らは魂のないものあるものを区別する法律を定め、その法律の施行に人々は反対しなかったのだ。
「なので、今更これは魂ではないと喚いても、他に魂と看做される現象が発見されない限りはシジウィック発火活動が魂です。ニューロンの複雑なパルスが生み出す凝集性エネルギー・フィールドという実に科学的なものが魂です」
なるほど。民衆は既にシジウィック発火活動を魂だと認めた。
魂を侵害するものは刑事罰を受けるし、魂に関係するいくつもの法律はシジウィック発火活動を指している。
だから、宗教屋が今更これは魂ではないと叫んでも、既に受け入れられている価値観を変えることは難しい。彼らが他に魂と呼べる存在を見つけ出さない限りは、シジウィック発火活動が魂だった。
「よく分からんな。そこまで固執する必要があるものか」
「ありますよ。人工的な魂の生成の成功は神を否定します。イカれた原理主義者が盾にしている忌々しい神はさよらなです」
俺にはそこまで神を否定したくなる気持ちは分らなかった。俺は熱心な神の信仰者でもなく、かといって熱心な無神論者でもなく、神に対してどこまでも無関心であったがために。
「テロリストは結局は社会の不満が鬱積した結果だ。神がいなくなろうと、連中は他のお題目を見つけるし、熱心な原理主義者たちはアンドロイドが魂を宿したからといって神を崇めるのをやめたりするまいよ」
宗教に熱心な連中はどいつもこいつも面倒だ。人の言う事は聞きはせずに、自分の言い分だけを押し込んでくる。
俺は神には無関心だが、21世紀の軍人という職業柄のため熱心な宗教の信仰者たちを大勢殺したり、殺させたりすることがあった。
「テロリストたちも根底が揺らげば求心力を失いますよ。それに、これまでは自分たちはテロリストや原理主義者とは無関係だという顔をしていた連中から神を取り上げてやれる。連中は味方の顔していながら、敵と戦おうとはしない屑の集まりだ」
アンディは柄になく口汚くそう告げた。
「誰かをテロで失ったか?」
「……妹とその家族を。妹はインドネシアに帰っていた。そこでテロに遭ったんですよ。2024年のスカルノ・ハッタ国際空港での銃乱射事件。知っていますか」
俺が事情を察するのに、アンディは肩を竦めてそう告げた。
「知ってる。日本人も8人死んだからな」
「酷い話ですよ。インドネシアは穏健なイスラム国家を謳っていながら、起きたのは流血の惨劇だ。あの日以来、私は穏健だろうと原理主義者だろうと、宗教や神にまつわるものを否定できる科学を目指してきました」
俺はアンディの話を聞きながら考える。
アンディの家族を殺したのはイスラムの名を名乗るテロリストだ。IS(イスラム国)のインドネシア支部を名乗る組織が犯行声明を出していたからな。
だが、アンディが憎んでいるのは過激な宗教家たちだけではなく、穏健なものたちもだった。彼にとってすれば、穏健派の宗教家たちは自国で過激なテロリストがその根を伸ばすのを見過ごし、敵に利したものなのだろう。
「宗教の話は面倒だ。俺は無宗教だから、正月も祝わないし、クリスマスも知らん。ただ、他の連中がどうこうするのは自分に害がない限り、好きにさせてやればいいと思うが」
「害があるんですよ。宗教というものそのものに。非科学的で、非論理的で、非文明的な過去の遺産が、文化という免罪符を使って人を殺す。故に宗教は完全になくなってしまわなければならないのです」
俺がそう告げるのに、アンディは憤然としてそう告げる。
「宗教が殺した人間の数と、科学が殺した人間の数を比べれば、前者が圧倒的に多い。ダーウィンの進化論は優生学を生み出し、ナチスのジェノサイドを招きましたが、それは間違った学説の解釈のためです。科学が、本当に科学たるなら、殺される人間より救われる人間の方が多い」
微妙だなと俺はアンディの告げる話を聞いて思った。
アインシュタインの発見は原爆を生み出し、俺の祖国と中国で何十万という人間を殺し──俺を殺しかけた。それも科学の犯した殺人にカウントしているのだろうかと、俺はアンディの話を聞いて思う。
「ま、リリス自身も魂を求めているのですから、私は多少の思惑があったとしてもそれを応援しますよ。彼女が魂を手にすれば、きっと素敵な女性になる。そう思いませんか?」
「悪くはないだろうな」
リリス。あの娘は俺の回復のために働いてくれている。俺と同じ体を有するものとして、俺の事を手伝ってくれている。それに悪い感情を抱くようなことはない。
それが神を否定したり、科学原理主義の世界を生み出したとしても。
「さて、そろそろリハビリの時間です。リリスがパッチを作ってくれていますから、それを適応して、どうなるか見てみましょう」
アンディはそう告げ、今日のリハビリが始まった。
「響さん。四肢の制御関係のパッチの方が出来ました。今から適応するので、有線接続をお願いします」
「ああ。繋いでくれ」
リハビリの開始はリリスが俺のために作ってくれたパッチを適応することからだった。俺の四肢の制御系が上手く動いていないのを修繕するためのパッチを、俺の首の後ろ側にある有線接続のポートにケーブルを繋ぎ、リリスと俺は接続される。
「今、適応しています。少し待ってください」
リリスがそう告げるが、俺には頭に何かが流れ込んで来ているような感じはしなかった。パッチは俺の最適化された脳にダウンロードされているはずなのだが、それを感覚として感じる事はなかった。
恐らくは俺が愛用していた軍用規格のタブレット端末も、何かがインストールされるときには、今の俺のように何も感じなかったのだろうな、と俺は思う。
「適応完了。では、動いてみてください」
そしてダウンロードとセットアップは数分で終了し、リリスは俺との有線接続を解除した。
「フム。動けるようになるか」
俺は動ける事を期待して車椅子から立ち上がる。
するとどうだろうか、俺は自然に立ち上がれた。今まではよろめき、倒れ掛かっていたのが嘘のように、俺は極自然に立ち上がり、歩行器に掴まることができた。
「おおっ。こいつはいい。嘘みたいだ。これなら歩行器なしでも──」
俺は自然に歩けたことに驚き、喜び、この先に進めるのではないかと、歩行器なしで歩こうとした。
が、それはダメだった。俺はよろめき、慌てて歩行器に掴まることとなった。
「ああ。まだダメでしたか……。今の状況を調べるのに、情報をダウンロードさせて貰っていいですか?」
「好きにしてくれ。頼みの綱はお前さんだけだ」
リリスが落胆した様子で告げるのに、俺は歩行器に掴まったままに有線接続用のポートがある首の後ろをリリスの方に向けた。
「では」
リリスは俺の体から情報をダウンロードしていき、それから俺の動作が上手くいかない原因を探り出し、それに対応するパッチを作る。
「悪いな。何度も、何度も」
俺の動作はなかなか現役時代の俺のようにはいかず、俺はリリスに何度も情報のダウンロードとパッチの作成を頼むことになった。
「大丈夫ですよ、響さん。これが私の仕事ですからね」
リリスはいつでも笑顔だ。
彼女がアンドロイドだからか? それとも本当に笑みを浮かべるに足る状況だと思っているのか?
俺はそのことをリリスに尋ねた。
「基本的に私は笑みを浮かべて行動するようになっています。その方が好感が得られやすいと設計者たちが考えましたから。アンディ博士もいつも笑顔でいるようにと言っています」
「それはダメだ。それはいかん」
リリスが張り付いたような笑みを浮かべて告げるのに、俺は首を横振った。
笑顔とは本当に楽しいことがあったときのためのものだ。いつも笑顔を浮かべているのは、感情の発露を正常に動作させていない。
「本当に嬉しいことがあったときために特別な笑い方を用意しておくといい」
「特別な笑い方、ですか?」
俺が告げるのに、リリスはポカンとした表情を浮かべて首を傾げる。
「こんな感じの笑みだよ」
俺はリリスの頬をグニッと押さえると、唇の両端を引き上げて、満面の笑み、とでも言えるものを浮かべさせた。
「これが特別な笑い方ですか? 私のプログラムにはない動作ですね。特別な状況で笑う、ということは想定されていませんでしたから。こうすれば人間らしくなれるのでしょうか?」
リリスは自分の指でグニッと唇の両端を引き上げて、ぎこちなくな笑う。
「ああ。人間は特別な状況で笑うことがあるものだ。本当に、心の底から嬉しかったときには、いつもの儀礼的な笑みではなく、本心から笑う。笑わずにはいられないって幸福な状況ではな」
俺はリリスにそう告げながら、小さく微笑む。
俺のこの笑みも特別な笑みだ。リリスのような微笑ましい存在を見たときに自然と浮かび上がってくる笑みだ。
「笑顔ひとつだけでも、やはり私は人間とは違っているのですね。私は本当に魂を得ることができるのでしょうか……?」
リリスの望みは魂を得ること。人間と同じ権利が認められる要素である魂を得ることが彼女の望みだった。
「リリス。どうして、お前さんは魂が欲しいんだ? やっぱり周りから物扱いされるには嫌だってことなのか?」
だが、俺はリリスが魂を求めている理由を知らなかった。
リリスは何のために魂を求めているんだ? 人間と同等の権利を獲得してメティスの財産という立場から脱するためか? それとも何か別の理由があるのか?
「好奇心です。私には魂がありません。だから、夢見ているんです。魂を手に入れれば、自分がどんな風に変わるのかを」
リリスはそう俺に語った。
「魂は様々な影響を与えます。それは非線形の効果だといわれています。予想不可能な効果。だけど、私にはそんな魂はない。私の思考はプログラムされた通りに動き、プログラムされたままに感じます」
魂の及ぼす効果はカオスだ。複雑すぎて、今の脳科学では全容を明らかに出来ていない。ただ、何らかの影響を与えていることだけは確かだというだけ。
リリスは自分がそんな魂を有すれば、どうなるのかに関心があった。魂によって、自分のプログラム通りに動くだけの思考がどのように変化し、どのように物事を感じ取るかに。自分にないものが得られた場合のことに興味がある。
「そうか。そういうことなら、俺も手助けしよう。俺はお前さんに体を治してもらっている。なら、俺はお前さんが魂を得られるようにしよう。どうすれば魂が手に入るかは分らないが、やれることをしてやるさ」
そう告げて、俺はポンポンとリリスの頭を撫でた。
「持ちつ持たれつ。人間社会の基本だ。互いに感謝しながら、よりいいものを手に入れる。俺もお前さんが魂を得られる事を望んでいるぞ。魂が手に入ったら、もっと素敵な淑女になるだろうからな」
「ありがとうございます、響さん。私も響さんが一日でも早く体が前のように動けるように力を尽くしますから」
俺とリリスが互いにそう約束し、俺はリハビリに励み、俺はその合間にリリスが魂を得られるのではないかという情緒的なことを行ってみた。
俺が次第に自在に歩けるようになり、自分の手でリンゴの皮を剥いてリリスに食べさせてやることも、歩行器なしで研究施設の中庭を散歩し、リリスと様々な話題について会話することもできるようになった。
「魂は手に入りそうか?」
俺は休暇中に読もうと思って貯めていた文庫本を片手にそう尋ねる。
「難しいです。アンディ博士がいうには、私が人間と変わらない生活を送っていれば、自然にそれが手に入るそうなのですが。まだ私はそれを手にしたという感じがしませんし、モニターも無反応です」
リリスとは一緒にいろいろなことに挑戦してみたが、リリスは依然として魂を得てはいない。彼女が魂を手に入れれば反応するシジウィック発火現象を捉えるモニターも、リリスに魂がないことを示している。
「今の私は響さんのおかげで、かなり普通の人間のように過ごせていると思うのですが。これまではアンドロイドとして、その方面の研究ばかりが行われていて、響さんのように普通に接してくえる人はいませんでしたから」
魂はどうやって宿るのかは謎だ。
複雑なニューロンネットワークの発火が生み出す凝集性エネルギー・フィールドはどのような刺激があって、どのような時期を過ごせば生み出されるのか分らない。ただ、人間の意志を左右し、死ねば失われる存在としか認識されていない。
あるものはニューロンネットワークが稼動し始めた段階で、それが自然に発生すると告げる。だが、あるものはニューロンネットワークが稼動していても、魂が未発達のままになっている例を挙げて反論する。
故にどうやってリリスが魂を得るかは不確かだった。
アンディは人間に魂が宿ることから、人間と同じ行動をすればいいと考えた。
だが、リリスは世界で最高峰の科学者たちが生み出した最高のアンドロイドだ。それをただ人間のように過ごさせる、などということには、これまでの経営陣は納得してこなかった。
そこで俺が現れた。
俺の存在は世界で唯一の魂の移植に成功した男だ。それを補佐するのになら、リリスを使う事は許可されたらしい。
「響さんはどうやって魂を手に入れましたか?」
「手に入れるも何も、お袋の腹の中である程度発育したら、勝手に手に入るものだ。俺は生憎、魂を手に入れるのに苦労してない。すまないな」
リリスが首を傾げて尋ねるのに、俺は肩を竦める。
妊娠から2ヶ月が超えた辺りで魂は自然に生み出される。ニューロンネットワークが稼動して、魂はその複雑な発火からエネルギーを得て、凝集性エネルギー・フィールドである魂を生み出すのだ。
「そうですか……」
リリスは俺の言葉に幾分か落胆していた。
リリスには父親も母親もいない。数多のエンジニアとプログラマーたちが、材料をつなぎ合わせて作ったフランケンシュタインの怪物だ。
魂は親がいなければ、その胎の中で生命を得ないと得られないものなのか。
「まあ、そう悲観するな。俺も魂についてちょっとは調べてみたが、魂は純粋にニューロン・ネットワークが発火することで生み出されるって仮説があるんだろう。それならば、可能性はあるだろう」
俺はリリスを宥めるようにそう告げた。
リリスは悪い奴じゃない。いい奴だ。
俺のために辛抱強くリハビリに付き合ってくれ、周りは変哲な科学者だらけでまともな喋り相手がいないこのメティスの研究所で俺の喋り相手になってくれる。
「そうですよね。希望を捨てずに、頑張りたいと思います」
リリスはそういって、俺が教えた特別な笑い方をした。ニコリと可愛らしく、彼女の本心から笑った。
俺は、俺は正直に言えばリリスが好きになっていた。
……………………
……………………
転機が訪れた。
俺の体が完全に回復したと分ると、メティスは次の実験に俺を投じた。
それは俺の完全義体の性能を調査するための実験。
そう、それは俺の完全義体が軍用規格であることのであることの意味を明らかにする実験である。つまりは俺の体が軍用のそれとして、兵器として機能するか否かを証明するための実験だった。
「ようこそ、ベータ・セキュリティーへ、“スーパーソルジャー”ヒビキ大尉」
俺はメティスの系列企業として組み込まれているベータ・セキュリティーに一時的に移籍した。
既に情報軍は俺を傷病除隊させている。俺が民間軍事企業に移籍したからといって、問題になる法律はない。ただまたしても情報軍が訓練した特殊作戦部隊の隊員が引き抜かれたのに眉を顰める将軍たちがいるだけだ。
「どうぞよろしく、大佐」
俺を出迎えたのは海兵隊上がりの男だった。獰猛な肉食獣のような顔をした男で、目は獣のように爛々と輝きながらも、狂気の色で濁っている。
恐らくは、軍にいたときに碌でもないことをして、追い出された口だろうと、俺は推察した。民間軍事企業の始業は拡大している市場であり、ちょっとした立派な軍歴があれば、多少の問題があろうと引き抜かれる。
「中央アジアについてはどれくらい知っている、大尉?」
「政府軍と軍閥の衝突はいつものこと。軍閥が生まれては消え、増大しては衰退する。その繰り返し。内戦と虐殺の嵐が吹き荒れ、それを仲裁する意志は有志連合には見られない。無法者は暴れ放題で、国際社会は我々にことを委ねた」
中央アジアはカオスの坩堝にあった。
2020年から中国を攻撃するテロリストが蔓延り、中央アジアは混乱の溢れる地域になった。テロと破壊が蔓延り、何人もの民間人が犠牲となり、故郷を追われた。いくつもの政権が崩壊し、文字通りあらゆるものがボロボロになった。
2060年代になっても続いてる戦争においては、消耗を恐れた有志連合は自分たちの業務を民間軍事企業を大規模に雇い、それと同時に国連主導の復興計画案としてさらに民間企業の共同体が参入する。
多国籍企業による国家再建という名の、簒奪の始まりだ。
多国籍企業は中央アジアの資源を目当てに進出し、内戦で疲弊した国家を支配し、自分たちの好きなように金儲けを始めた。現地の企業は膨大な資産を持った多国籍企業に押し潰され、グローバル資本主義の名において、多国籍企業は好き放題に振舞う。
政府は買収されて多国籍企業の活動を制限するどこか大きく受け入れ、彼らにあらゆる行動を許可した。多国籍企業に治外法権に近い権限まで与え、多国籍企業が従える民間軍事企業に法執行権限を初めとする権利を委託した。
中央アジアは今や多国籍企業の庭だ。奴らは帝国主義時代の植民地政策のようにして、各国を支配し、富をしゃぶり尽くさんとしていた。
中央アジア諸国ではこのような多国籍企業の横暴に反対の声が上がった。
最初に声をあげたのは穏便な反グローバル主義団体で、彼らは言葉によって多国籍企業の活動を制限し、中央アジアの政治を中央アジアで暮らす人々のためにするようにと働きかけた。インターネットというメディアを通じて、世界にも訴えた。
だが、多国籍企業はそれを叩き潰した。
最初は対話を試みていた反グローバル主義の団体は相次いで逮捕され、そのまま行方不明になった。言葉で穏便にことを解決しようとしたものたちは、多国籍企業の忠実な犬である民間軍事企業が始末したのだ。
故に反グローバル主義の団体は言葉の戦いを放棄した。
すなわち、武器を持って戦うことを選択したのだ。
“人民共和国軍”。そう呼ばれる反グローバル主義団体が武器を手にして、多国籍企業を攻撃し始めた。
対する多国籍企業は民間軍事企業を使って、それに応戦する。
中央アジアは武装した反グローバル主義団体と各地に跋扈する軍閥と民間軍事企業が抗争を繰り広げるカオスの大地となっていた。
「理解しているならば、話は早い。俺たちの仕事はクソッタレの反グローバル主義団体のテロリストたちを叩きのめし、会社が安全にビジネスを進ませることができるようにすることだ」
案の定、メティスの系列企業であるベータ・セキュリティーの目的も、武装した反グローバル主義団体軍閥に対処することだった。
「連中はテロリストであり、カザフスタン共和国政府は我が社に全面的な法執行権限を与えている。ここでは敵と看做した連中をいくら殺そうと罪には問われん。好き放題にやれる。愉快なものだろう?」
元海兵隊の大佐はそう言ったが、俺にはどこに愉快なものを感じるのかまるで理解不能だった。
「では、仕事を果たしてくれよ、人間の格好をしたブリキの人形。現地に慣れたら、作戦行動に同行して貰う。ここでは仕事は山済みだ。やるべき仕事がないと困る事はないから安心するといい」
元海兵隊大佐はそう告げて哄笑すると、去っていった。
「さて」
俺はメティスのカザフスタンに有する施設にいた。
メティスはカザフスタンでメディ・ホープという事業を展開している。多くの人々に医療が受けられるようにするという事業だ。ジェネリック医薬品を利用し、コンピューター診断を利用し、可能な限り経費を削減した医療制度を確率している。
ただ、そのメディ・ホープには裏がある。
メディ・ホープは薄利多売で大きく儲けを上げている。そして、その儲けは中流階級向けの高度な医療費を削減するために使用されているのだ。
貧乏人から金を毟り取り、比較的金持ちのためにそれを使う。
このことを知った“人民共和国軍”はメティスをテロの対象に選んでいる。自国を経済的に侵略する企業と戦うのだと叫んでいる。
正義がどちらにあるかなんて分らない。
メティスは明らかに現地の医療インフラを破壊し、その後に自分たちに都合のいいものを打ち立てようとしている。かといって、テロリストたちは民間人だろうと、メティスの関係者だろうと容赦なく殺している。
帝国のように振舞う多国籍巨大企業と、それに反発するアナーキストたちの争い。恐らくはどちらにも正義などはないのだろう。
「響大尉。コンディションはどうですか?」
「何の支障もない。今の状況は以前よりいいくらいだ」
施設では俺の技術的バックアップを担当しているアンディが俺の体の具合を調べており、問題がないかのように俺をメンテナンスしている。
「それはよかった。これかはかなりハードな試験になるかと思いますが、我々は全力で支えるつもりなので安心してください」
アンディはそう告げ、俺は戦場へと舞い戻った。
「……リリス?」
そして、戦場に向かう俺にリリスが付いてきた。
「はい、響さん。私も戦場で響さんをバックアップすることになります。万が一のことがあるかもしれませんから」
リリスは何でもないというように、リリスがそう告げた。
「大丈夫なのか? その体は……」
「大丈夫です。この体は響さんと同じ軍用規格のものですから。響さんのお役に立てると思います」
俺の体も軍用規格のそれだったが、それを調節するリリスの体も同じように軍用規格のそれだった。防弾、防爆、防刃のタフな体であり、人工筋肉によって規格外な力を発揮できるものだ。
「……まあ、お前ならば大丈夫だろう。俺と同じ身体能力であるならば、普通の軍人たちよりも高度に戦えるはずだ。ちょっとばかり、心配ではあるものの」
いくら俺と同じタフな体を有していると言っても、リリスの見た目は完全に少女のそれだ。それが戦場に投じられると考えれば、俺としては気が引けて来る。
だが、リリスがやるというならば、やるより他ない。
「では、仕事の始まりだ。明日からはハードな仕事になるぞ」
俺はそう告げて、明日に向けて準備を始める。
戦闘訓練は既に終えている。銃の取り扱いも、近接格闘術も、あらゆる戦闘手段を行えるように俺は再訓練を終えている。これから突入する戦いにおいても、情報軍で学んだ知識が役に立つことだろう。
ただ、リリスのことだけが心配だった。
……………………
……………………
俺たちの最初に仕事は、カザフスタン共和国政府と同地に展開する多国籍企業に反発している“テロリスト”を始末するこだとだった。
「こいつらは事業の妨げになっている。迅速に始末する必要がある」
海兵隊上がりの職員が告げるのは、人民共和国軍に関係があると思われている、と告げた。だが、証拠らしい証拠を彼は提示しなかった。そんなものは必要ないのだろう。
「こいつらをどうするんだ? 始末というからには殺すのか?」
俺はブリーフィングルームでそう尋ねた。
「当然だ。殺す。数名の幹部を確保したら残りは始末だ。ひとり残さず皆殺しにすることが今回の仕事だ。綺麗さっぱり片付けて治安を回復させる」
海兵隊の大佐は軽い調子でそう告げ、ブリーフィングルームに置かれたホワイトボードに張られた“お尋ね者リスト”をトントンと叩いて示す。
目標は様々だ。
ひとつは民主活動家たち。ひとつは野党の支持者たち。ひとつは未だに根強くカザフスタンに根を下ろしている宗教関係の人間たちで、ひとつはよくいる軍閥で、ひとつは貧民街などを縄張りとする犯罪組織だった。
中にはストリートチルドレンというものも含まれていた。内戦で両親を失い、孤児になったストリートチルドレンたちも、今回のベータ・セキュリティが実行する治安回復作戦の排除対象だった。
「作戦はブロックにわけて実行される。一区画ごと、確実に敵を殲滅していき、我々がこのカザフスタンに平和をもたらすのだ。そのために犠牲は出るだろうが、必要な犠牲というものだ」
ベータ・セキュリティは首都ヌルスルタンから、親会社であるメティスの商売の邪魔者を相当するために作戦を組み立てていた。
ベータ・セキュリティーは都市を細かなブロックに分け、そのブロックを完全に制圧し、敵勢力を殲滅し、そうやって確実に都市ゲリラを殲滅するという計画を立案していたのだった。
「必要な犠牲、ね」
俺にとっては特に動じる案件でもない。
アジアでの7年間での戦争は民間人も山ほど死んだ。俺自身が、その手で民間人を殺したこともある。それも事故ではなく、明らかな敵意を以ってして、自分の手で引き金を引いて民間人を殺した。
ただ、俺は祖国のためだという言い訳ができた。
ヴェストファーレン的な主権ある国家にとってとして、俺は日本という主権国家のために人殺しを正当化した。それは主権国家に許されている権利なのだから。民間人を殺そうとも、俺たちは正義だと信じ込めた。
だが、ここではそんなものはない。
ここで暴れているのは、カザフスタン共和国から法執行権限を委任されたという根拠しかない民間軍事企業だ。民間軍事企業には主権などない。正義があるかどうかも俺には疑わしい。
「確実に片付けていくぞ。問題は腐るほどあるし、銃弾は山ほどある。片っ端から片付けていって、綺麗サッパリと清掃する。ROEは疑わしきは殺せ、だ。理解できたか? 以上だ、兵隊ども」
元大佐はそう告げ、俺たちの作戦が始まった。
……………………
……………………
『ETAは0740。間も無くです』
アメリカ軍から払い下げられたMV-280輸送機に俺は座っている。
俺の向かいにはリリスがいる。彼女もこの作戦に参加していた。
「あんた、元の所属は?」
と、俺の隣に座っている男がそう尋ねてくる。
「日本情報軍だ。第101特別情報大隊」
「おお。そいつは大したもんだ。誇れる戦歴だな」
俺のいた第101特別情報大隊は良くも悪くも有名だ。
民間人だろうと拉致拷問し、あらゆるものを暗殺して回った連中。ついでに言えば火の手が燃え上がって消しようがなくなくなった中央アジアの内戦を引き起こすということもやっている。
「で、そっちのお嬢さんは?」
「彼女はリリスだ。俺の補助をしてくれる」
隣の男が尋ねるのに、俺はリリスを紹介した。
「よろしくお願いします」
リリスは礼儀正しく、ペコリと頭を下げてそう告げる。
「補佐だって? どう見ても子供じゃないか。あんたの仕事はベビーシッターか?」
男の反応は嘲り。こいつも、他の連中もリリスが戦闘に適したアンドロイドだということを理解していない。リリスがちょっと本気を出すならば、彼女ひとりで、ここにいる連中の半分は片付けられるというのに。
「ベビーシッターじゃないさ、俺の方が面倒見て貰っている。彼女の協力があるから、俺はかつてのように仕事ができるんだ」
リリスとのリハビリで、タツミはかつてのように動けるようになっていた。それこそ、作戦に参加していいという許可が出るほどまでに。
「ならいいが、足手まといにはなってくれるなよ?」
「努力します!」
隣の男は冗談半分でそう告げたのだろうが、リリスの方はやる気に満ち満ちた様子でそう返す。戦闘用アンドロイドがどれほどまでの力を発揮するかはメティスも強い憂慮の思いを抱いていた。
『作戦を再確認する。全員、スマートグラスのARをオンにしろ』
ヘリが目的地に到着するまでにあの海兵隊の大佐の声がインカム越しに響いた。
スマートグラス。所謂、ARを実現するための機器であり、本来は民間利用が行われていたものだ。スマートグラスがひとつあれば、観光ガイドが必要なしという具合にこの手の技術は進歩している。
そして、軍隊でも多大な情報が必要となる中で、いかにそれを上手く処理するかを考えた末に、スマートグラス及びARを導入することを決定した。
軍用のスマートグラスは観光ガイドの代わりに敵味方識別から、地形情報とナビゲート、任務内容の確認まで、幅広い情報を兵士たちに提供している。
さて、俺とリリスはそんな文明の利器であるスマートグラスを装備していない。
というのも、俺の眼球は戦闘のために最適化されていて、スマートグラス抜きでもオルタナを表示させれるのだ。俺の今の視野には、パパパッと顔写真が表示されていき、その顔写真の人物の概略が表示される。
『今回の目標は反政府勢力の指導者の一掃だ。この顔写真の連中を全員拘束するか、全員鉛弾を叩き込んで黙らせろ。俺としては後者を推薦しておく』
やはり碌でもない野郎だ。軍で何をやらかしたのやら。
「この人たちを捕まえるのですね?」
「捕まえるか、殺すかだ。リリス。お前は自分の安全を第一にして動け。戦闘用のボディとは言え、損傷が激しいとダメになるんだろう? 注意しろよ」
俺はリリスが心配でならない。
リリスは人がいいし、気遣いのできる少女だ。これがアンドロイドだといわれても、信じられないくらいに人間のようだ。
そんな彼女が育った環境はメティスの研究室という温室だ。それを銃弾が飛び交い、悪意と殺意が蠢く戦場に連れ出して本当に大丈夫ななのだろうかと、俺はやや扶南に感じているのだった。
『間も無く目標上空。いい狩りを、兵隊ども』
ヘリのパイロットの軽口が聞こえる頃にはヘリは、都市に広がるスラム街の上空を飛行していた。
スラム街。内戦で行き場を失った連中が、大都市の排泄するゴミを消化して生きている区画。犯罪の温床であり、子供でさえも平気で人を殺すという殺伐とした環境。
そして、メティスの掲げるビジネスに反発している連中の隠れ家、とベータ・セキュリティーが判断した地域。
『目標上空! 降下を始めてくれ!』
「了解」
俺たちの獲物がいる建物の上空にヘリは乗りつけ、俺たちは数十メートル上空でホバリングしているヘリから、ロープも、パラシュートもなしに降下した。
自然落下する自殺にも似た奇妙な感触の末に、人工筋肉が乱雑な扱いに抗議するように悲鳴を上げて降下は終了した。俺たちの体は人工筋肉の塊であり、多少無茶をしても、それをカバーできるだけの性能があった。
「ブルー・チーム、降下開始」
俺とリリスが降下地点を素早く確保するのとほぼ同時に、ヘリに同乗していたベータ・セキュリティの職員たちが降下する。彼らは自分の体が人工筋肉であることの代わりに、人工筋肉で作られた強化外骨格を纏っており、俺たちと同じように人工筋肉に悲鳴を上げさせながら降下した。
『タイタンより全ユニットへ。イエロー・チームとグリーン・チームが周辺一帯を固めた。心置きなく、ならず者たちを小便を漏らすまで追い詰めて、とっ捕まえるか、ぶっ殺してこい』
元海兵隊の大佐はインカム越しに俺たちにそう命じる。
イエロー・チームとグリーン・チームはこの目標の建物の周辺を固めており、この建物から誰も逃さないように、この建物に誰も接近しないようにと、機関銃を据えつけて防御の姿勢を取っている。
「こちらデイジー・ベル。ブルー・チームと共に建物内に突入する」
俺たちはこのスラム街で暴徒の群れに囲まれる前に、サクッと目標を始末し、ヘリで颯爽と撤退する。そうなってくれることを願っている。
「ブリーチングチャージ、設置。3カウント」
建物は集合住宅のようなものだが、明らかに建築法に違反しているような代物だ。ベニヤ板があちこちを補強し、建物そのものも何百年前の代物なのかと疑いたくなるほどに古い。
俺たちはそんな建物の屋上に降下し、建物への入り口を吹き飛ばすと、アメリカ陸軍のお古であるHK416自動小銃を構えて建物に突入した。
「流石は軍用義体ってか。動きは数倍は速いな」
俺は情報軍時代から親しみあるドア・ブリーチングを行ったが、それは俺が生身の体であるときよりも、何倍も速く動け、何倍も早く室内の“敵”の姿を捉えた。
“敵”。それは迷彩服を着ているわけでもない、貧困層か、犯罪組織上がりの連中だった。安っぽいTシャツを身に纏っており、俺たちが室内に突入してきたことに驚き、大慌てでバタバタと銃を構えようとする。
俺はその無意味な行動を2発の銃弾で終わらせた。
見事なヘッドショット。体が軍用規格であることに加えて、俺の体には銃火器を扱うために必要なプログラムがインストールされている。
俺は機械のように──実際に機械なのだが──正確な射撃を加えて室内にいた敵対勢力を片付けた。
「ひゅー。流石はスーパーソルジャーだな」
俺の後に続いて部屋に突入したベータ・セキュリティーのオペレーターは、そう告げて感心して見せた。
「スーパーソルジャーなんぞじゃないさ。漫画やアニメじゃあるまいし」
俺はそう告げて、俺たちが殺した人間たちの中に、ベータ・セキュリティが手配していた人物がいないかどうかを確認する。
結果は全部外れ。
「もう一仕事する必要がありそうだ」
俺はそう告げて、俺のバックアップに回っていたリリスの方を向く。
リリスは複雑そうな表情をしていた。まるで、俺たちの行った行動が間違っているといでも言いたげな顔をしていた。
「リリス。どうした?」
「少し、感傷を感じました。私が手に入れたくてたまらない魂が、数発の銃弾で終わってしまうことに。そして、本当にこれは正義と呼べる行いなのかと」
リリスはそう告げて、俺に射殺された男たちを眺める。
「こいつらは武装してた。こっちがやらなきゃ、あいつらが俺をやった。これは正しい行為だ、リリス。疑問を抱く余地はない」
敵を殺すのは軍人の仕事だ。
最近の軍人は脳の一部の機能を抑制することによって、相手を殺害することへのストレスを感じないようにしている。子供兵を射殺しても、平然としていられるような措置が先進国の軍隊には施されている。
そうでなければ、良心という厄介な存在が足を引っ張り、隙が生じ、その隙が致命傷となりかねない。
「ですが、この人たちが貧しさから武器を握った人たちです。少しでも貧しさが和らぐならば、このようなことをしようとは考えなかったと思います」
リリスの告げる言葉は正論だ。
中央アジア各国の政権は多国籍巨大企業に尻尾を振り、自国民の貧しさを無視して、多国籍巨大企業に配慮している。
そのようなことに不満を覚えているのが、この場所にいる男たちだ。彼らは自国民の貧しさに腹を立て、ナショナリズムに傾倒し、武器を手にしたものたちだ。彼らは国の不味さから憤っている。
「それは俺たちにはどうしようもないことだ。俺たちのできることは、治安回復のために少しでも力を尽くすことだ。それがおれたちのためになり、この国で暮らす連中のためにもなる」
「そうなのですね……」
俺がそう告げてリリスを宥めたが、リリスは納得していないようだった。。
当然だろう。
今は企業による帝国主義時代の到来だ。
弱者は容赦なく食い物にされ、より富と権力を持った人間が、より豊かになるのがこの世界だ。この世界は不条理だけらで、真っ当なことなどどこかに消え去ってしまったかのようなものだ。
リリスはそんな状況を不満に感じているようだった。それもそうだといえる。リリスは心優しい少女だし、このような理不尽を世の中のことだからといって、受け流せるようなものではないのだから。
「仕事は続くぞ、リリス。残念だが武器を握った時点で奴らは敵だ。それが帝国主義時代に反発するものたちだとしても、自動小銃と爆薬を持っていれば危険なテロリストだ。それは制圧するしかない」
「はい、響さん……」
俺たちの初仕事は、7割の成功と称された。
事前に拘束または抹殺対象と選ばれた人物を全て殺す事はできなかった。捕らえられたのは一部の対象者だけで、殺せたのも完全ではない。
海兵隊の元大佐はこの結果を不服そうに受け取り、より範囲を拡大した掃討作戦を実行することを決定した。
それを聞いているリリスは、どこか憂鬱そうな表情をしていた。
……………………
……………………
その知らせは唐突だった。
「緊急事態だ。本社が実行中だった追跡作戦で、カザフスタン国内に戦術核が持ち込まれたことが判明した。最大出力2.5キロトン。手に入れたのが軍閥なのか、あるいはテロリストなのかははっきりしていない。だが、分かってるのは、間違いなく今、このカザフスタン共和国は核攻撃の危機に瀕しているということだ」
海兵隊上がりの職員からその話を聞いた俺たちは呆然としていた。
「奴らの攻撃目標は不明だが、追跡部隊によると戦術核を乗せたトラックはアルマトイの方面に向かったそうだ。それがフェイントなのか、それとも本当の攻撃行動なのかは分からない。ただ、アルマトイに戦術核は向かっている」
ARにアルマトイの地図が表示される。
カザフスタンでもっとも発展した都市だ。
「核攻撃は阻止しなければならない。我々は戦術核を奪還する。それが今回の任務だ。なんとしても戦術核を奪還せよ。戦術核については微弱な放射線を探知するドローンを展開させて捜索する。テロリストか、軍閥か、どちらにせよ連中が核を起爆するのを阻止しろ。では、具体的なブリーフィングに入る」
ブリーフィングでチームの担当する任務hが決まる。
「デイジー・ベル。お前たちはブルー・チームと一緒に戦術核の回収任務に当たれ。最も危険な任務になるが、支障はないな?」
「ええ。やって見せましょう」
もう二度とタシュケントのようなことに見舞われたくはない。遠くで戦術核が炸裂するのを見て、網膜に爆発の光景が焼きつくよりも、間近な爆発で影だけになった方がマシだ。そして、誰も死なせない。
あんな地獄はもうごめんだ。
「それでは全部隊出撃」
さあ、パーティーの時間だ。
「リリス。今回は残れ。危険だ」
「いえ。私こそ行くべきです。データのバックアップが行える事実上の不死である私こそ、この作戦に参加しなければなりません」
「……そうか」
だが、俺はデータがバックアップで復旧されたお前を、同じお前だとは思えないよ。
俺たちは装備を受け取り、MV-280輸送機に乗り込む。
俺はメインウェポンにHK416自動小銃。サブウェポンにMP7短機関銃を選んだ。歩兵の装備に強化外骨格が当たり前になると、装備重量は増える傾向にあり、拳銃よりも軽量の短機関銃が選ばれるようになった。
今でも取り回しやすさから拳銃を選ぶ兵士はいるが、自分を守るのに、そして相手を攻撃するのに手数を増やしておきたいと考えるのは当然だ。
リリスはメインウェポンにG28狙撃銃、サブウェポンに俺と同じMP7短機関銃。彼女は今回は選抜射手としての役割を果たすことになっていた。
「最悪の任務だぜ。核爆発にだけは巻き込まれたくないな」
「同感だ」
俺はブルー・チームの愚痴に応じる。
ブルー・チームには爆弾処理班も加わっている。彼らが戦術核を無力化する。
『ドローンが目標と思しき車両を発見。追跡中』
状況を知らせるAIが機械音声でそう告げてくる。
「連中、どこで核を起爆するつもりだ?」
「できるだけ高い建物。核爆弾はある程度の高度で起爆される。普通は地上では爆発させない。威力は弱まるからだ。それを踏まえて検索すればざっとこんなところだ」
「なるほど。高層ビルに運び込むつもりか」
「そう見るのが自然だろうな」
そうこうしているうちにアルマトイの市街地に輸送機が到着した。
輸送機から2体のアーマード・スーツ“ヴィルトカッツェ”が投下され着地する。アーマード・スーツはこちらの切り札だ。50口径機関銃、口径40ミリ自動擲弾銃、多連装ロケットポッドを搭載したアーマード・スーツの火力と防御力は半端ではない。
「敵に気づかれないように接近し、瞬時に確保したい。連中が計画失敗を悟って、その場で核を起爆するのはごめんだろう?」
「全くだ。どこかで不意を打って取り押さえたい」
ブルー・チームの指揮官とそう話していたとき、ARのウィンドウが開いた。
『全部隊。ドローンが目標を確認した。目標の戦術核だ。手に入れたのは人民共和国軍。奴らの仲間を尋問したところ、アルマトイでの起爆を目論んでいるようだ。何としても確保せよ。以上』
アルマトイの地図に目標の位置が赤いマーカーで表示される。自動車で移動しているらしく、速度は時速40キロ。俺たちのマークしている建物に向かっている。
「急ぐぞ。クレーターの下には埋められたくないだろう?」
「ああ。もちろんだ」
ブルー・チームとともに行動を開始する。相手が車両で移動している以上、こちらも車両が必要だ。そんなこともあろうかと輸送機の1機が軍用四輪駆動車を運んでいた。俺たちはそれに乗り込み、ヴィルトカッツェは車を掴んでローダー状態で移動する。
『まもなく目標車両周辺』
「警戒しろ。相手が戦術核を運ぶのに護衛を付けないはずがないからな」
ドローンは商業ビルの付近の映像と位置情報を送ってきた。
ここからすぐの地点だ。
「降車! 戦闘に備えろ!」
ブルー・チームの指揮官がそう言い、俺たちは徒歩で目標のビルに迫る。
「畜生。ビルは占拠されてやがる」
「強行突破か。あくまで隠密か」
「隠密している時間はない。強行突破だ」
ブルー・チームの指揮官はそう決断した。
ヴィルトカッツェがローダー状態で急速展開し、50口径の重機関銃を建物を占拠しているテロリストに向けて斉射する。AIに補助された射撃は正確無比で、テロリストたちは警告を発する暇もなく倒れた。
だが、警告なら既に発されている。
建物の2階からRPG-29携行対戦車ロケットを構えた兵士が現れ、ヴィルトカッツェに向けて狙いを定めてくる。
ヴィルトカッツェが応じる暇もなく放たれた対戦車ロケット弾はヴィルトカッツェのアクティブプロテクションシステムに阻まれ、高出力レーザーにより空中で爆発した。
そして、すぐにリリスが狙撃銃で対戦車ロケットの射手を排除する。
「時間がない。突入だ。急げ、急げ」
ブルー・チームの指揮官がヴィルトカッツェを盾にして前進していく。
このビルの本来の所有者たちは皆殺しにされており、死体がロビーに散らばっていた。階段からPKM機関銃がブルー・チームを狙って乱射されるが、ブルー・チームはヴィルトカッツェを盾にして応戦する。俺たちも射撃で1名、2名の敵を撃ち抜く。
ヴィルトカッツェはグレネード弾を発射し、敵を叩く。
「エレベーターは?」
「全て止まっている」
「じゃあ、連中も階段で核弾頭を運んでいるということだ。望みはまだあるぞ。俺たちで核攻撃を阻止するんだ」
「ああ」
ヴィルトカッツェを盾にしながらも意外なほどスムーズな速度で俺たちは階段を登っていく。
外から見た限り、このビルは50階建てぐらいだ。その全てを階段で移動してるならば、強化外骨格を装備している俺たちの方が追いつくのは早い。
ヴィルトカッツェも人工筋肉で駆動するため、速度は強化外骨格を纏った兵士たちと同じ速度だ。俺たちは速いテンポで1階、1階と登っていき、時折待ち伏せている敵と遭遇戦になる。
「進め、進め! 俺たちの手に何十万人の命がかかっているんだ!」
随分とまあヒロイックなことだ。ついこの間までその命を軽々と奪っていたのに。
素直に言えばいいのだ。戦術核がここで炸裂して死ぬのはごめんであると。
そして、また1階層登ったところで攻撃が加えられた。
RPG-6対戦車手榴弾だ。
今回ばかりはヴィルトカッツェのアクティブプロテクションシステムも働かなかった。対戦車手榴弾はヴィルトカッツェを吹き飛ばし、階段から落下させる。
「畜生。やりやがったな、このクソ野郎!」
そのクソ野郎は12歳になるかならないかの子供で怒り狂ったブルー・チームによって蜂の巣にされた。
「どうする?」
「……前進だ。今は戦術核を奪還することを優先する」
「分かった」
俺は指揮官からその言葉を聞くと頷いた。
待ち伏せはあちこちでされていた。
ブルー・チームの隊員が負傷し、その救護のために隊員がひとり、ひとりと減っていく。46階に到達していたとき残っていたのは、俺とリリス、そしてブルー・チームの隊員4名と弾切れのヴィルトカッツェだけだった。
「いけると思うか?」
「いかなきゃ、全員ここで核爆発に巻き込まれてくたばるだけだ」
「だな」
ここにいる全員がナノマシンを脳に叩き込み、戦闘適応調整受けている。電子の脳みそである俺とリリスも同様の効果を及ぼすプログラムは走っている。
つまり、何が言いたいのかと言えば、ここにいる全員が極めて冷静だということだ。
仲間の死に憤ったりしない。感情は動いているように見えるが、実際は全く動いていない。論理的な戦術的判断から行動している。
今から任務を放棄して逃げ出すのは遅すぎる。テロリストたちは既に屋上に戦術核をセットしたかもしれない。逃げ出せないのであれば、戦うべきだ。戦って戦術核の炸裂を阻止するしかないのである。
「全員、残弾は?」
「マガジンが2個。手榴弾はない」
「上等だ。行くぞ」
ブルー・チームの指揮官はヴィルトカッツェを盾にして突き進む。
テロリストの攻撃を受けつつも胸に一発頭に一発で無駄弾を使わないようにしながら、屋上へ、屋上へと迫る。
しかし、どうしてテロリストはこれだけの階層を戦術核を背負ってスムーズに運べた? 連中も強化外骨格を装備しているというのか?
疑問は尽きないが、今は戦うのみだ。
「屋上だ」
最終的の残っていたのはブルー・チームの指揮官とリリスだけだった。
ヴィルトカッツェはまた対戦車手榴弾によって撃破されてしまっていた。
「行くぞ」
「了解」
屋上への扉を蹴り破る。
「──!」
テロリストが叫びながら腰だめにカラシニコフを乱射する。
俺は被弾したが、まだ戦える。
光学照準器を覗き込み、銃弾を放つ。
ひとり、ひとりと倒れていく。
ブルー・チームの指揮官も戦っていた。だが、敵から2発食らってよろける。
リリスも戦っていた。戦術核の傍にいるテロリストを優先的に排除する。
「よくやった、リリス──」
「響さん!」
リリスが俺を突き飛ばした。
次の瞬間、メタルジェットがリリスの体を貫き、上半身を下半身とに分断した。
俺は無自覚に対戦車ロケットの射手を射殺していた。
「おい。リリス、しっかりしろ。俺たちはこれぐらいではくたばらない。そうだろう? 俺たちはタフだ。そうだろう?」
「ええ……。でも、少しだけ、不条理に行動できました。私がやるべきは、響さんの護衛ではなく、戦術核の起爆阻止、だったというのに……」
「戦術核は起爆準備に入っているのか?」
「タイマーが作動しています……。解除しなければ炸裂します」
俺は戦術核が収められてるケースを見る。残り1分で起爆だ。
「ああ。畜生。結局こういうことになったか」
ブルー・チームの指揮官が呟く。
「爆発物処理班は?」
「間に合わん。俺はこうなったときにどうするべきか会社から伝えられている」
「どうしろと」
「上を見ろ」
俺は上空を見上げる。
上空を巨大なB-52爆撃機が飛行していくところだった。
「まさか!?」
「その、まさかだ。全員くたばる羽目に……」
そこでブルー・チームの指揮官は息絶えた。
「リリス! 爆撃が始まる! 離脱するぞ!」
「響さん。行ってください。私はもう──」
次の瞬間、GPS誘導で投下されたJDAMが3発屋上に降り注ぎ、戦術核ごと俺たちを吹き飛ばした。ビルが崩れ、俺たちは落下していく。落下していく。落下していく……。
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俺は病院で目が覚めた。
「大丈夫ですか、響大尉」
「アンディ。俺は平気だ。だが、リリスは?」
「残念ですが」
アンディは首を横に振った。
「……核爆弾は?」
「破壊されました。周囲には放射性物質が飛び散りましたが、ナノマシンで中和しているところです。直に終わるでしょう」
「そうか」
俺は何も言う気にはなれなかった。
「もし、リリスが魂を得ていたとしたらどう思います?」
「なんだって?」
俺は驚いてアンディを見る。
「ログが残っていました。シジウィック発火現象が起きた際に記録されるログが。リリスが破壊される数分前の記録です」
「リリスは、魂を得たのか?」
「分かりません。単なる計器の誤作動だったのかもしれません。今となっては確かめようもない。リリスはスクラップです」
アンディはため息を吐いた。
「ですが、彼女が魂を得ていたとしたら、喜ばしいことですね」
「そうだな。せめて、それぐらいのことは……」
そこで俺は思った。
「リリスのデータは常にバックアップを取っているんだろう? 再現できないのか?」
「できていません。ですから、謎なのです。彼女が本当に魂を得たのか」
バックアップで再現できない記録か、信憑性は疑われるな。
「響さん」
そこで思わぬ声に俺はぎょっとした。
「リリス?」
「はい。バックアップデータから再現されました。リリスです」
そうか。これが魂を宿さなかったリリスか。
「またよろしく頼む、リリス」
響が手を差し出す。
「はい、響さん」
リリスはその手を握った。そっと、優しく。
そして、彼らは戻る。
中央アジアの地獄へと。
ブリキの人形2体が戻る。
魂を求めるために。
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