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冬も深まったある一日。二十七歳の平凡なOL、雨井桜子が派遣で働く会社に、恋人の淳史の妊娠中の妻が乗り込んできた。
妻は受付に現れた桜子の名前を確認した途端、力いっぱいビンタしてきた。
「アンタがうちの夫を寝盗った泥棒猫ね! 言っとくけど、うちは離婚なんかしないわよ! あたしのお腹には二人目の赤ちゃんがいるんだから! どうしてもっていうなら、億単位の慰謝料を覚悟しなさいよ!!」
はじめ、まくしたてる女の言い分を桜子は本気で理解できなかった。
しかし、
「すっとぼけないで! アンタがうちの主人の浮気相手なのは、主人のスマホを見てわかってんだからね!!」
と、突きつけられた液晶画面の画像を見て、桜子も顔色を変える。
「淳史さん…………!?」
ようやく桜子も事態が呑み込めてきた。
つまり、桜子が独身の二十九歳と信じ、結婚の約束までしていた恋人は三十六歳の既婚者であり、二児の父親だったのだ。
桜子は知らず、世間的には『不倫』とされる関係を結んでしまっていたのである。
そのあとは散々だった。
動揺しながらも、桜子はとにかく「既婚者とは知らなかった」「淳史とは結婚の約束もしていた」「そもそも淳史と出会ったのはマッチングアプリがきっかけ、既婚者が参加しているとは思わない」と、彼の妻を名乗る女に主張した。
そこに妻を追って当の淳史も駆け込んで来て、上司の「ここで騒がれては困ります」という説得をうけて、髪をふり乱してわめいていた妻は夫と共に帰り、桜子も仕事に戻った。
しかし仕事が手につくはずもなかったし、悪いことに一部始終を見ていた受付嬢の一人が噂好きで、この一件はまたたく間に社内中に知れ渡った。
桜子はあることないこと興味本位で噂され、会社からは契約延長の話をとり消されて「来週は来なくていい」と今の契約まで打ち切られた。
淳史からは電話をもらった。
そして彼が本当に既婚者だということ、年齢を詐称していたこと、桜子との関係は妻が妊娠中の間だけの遊びであり、妻と離婚する気は毛頭ないことを、はっきり告げられた。
さらに一週間後、妻から内容証明で不倫に対する慰謝料として五百万円を請求する書類が届き、しがない派遣にすぎない桜子は文字どおり『絶望のどん底』に突き落とされたのである。
(なんなの、この現実)
中学生の時からの習慣である日記をつける意欲さえわかず、殺風景なワンルームのベッドに突っ伏した桜子の目に、悔し涙がにじむ。
恋人に騙され、会社中にあることないこと言いふらされ、それなのにこちらが加害者として多額の慰謝料を支払わなければならない。
(世間ってこんなものなの? これが現実なの? 私は真面目にやってきたなのに――――)
特別、容姿や才能に恵まれたわけではなかった。それでも真面目に勉強し、大学まで進学して資格をとって、見事、正社員採用を勝ちとった。
それなのにその会社は二年で倒産し、以降はずっと派遣つづきで、出会えたと思った恋人も既婚者で、桜子こそが遊び相手だった。挙句に、わずかな貯金まで奪われようとしている。
桜子の両親は彼女が十代の時に離婚して、どちらも現在は再婚相手との新しい生活に没頭している。桜子に金を貸す余裕などない。
(なんなの、この現実。これが世界なら――――こんな世界、こちらから捨ててやりたい。いっそ、異世界転生でもしてやりたいわよ!!)
思わず学生時代に読んだ小説を思い出した。
その時。
――――この世界を捨てたいか?
「? 誰? 隣のテレビの音?」
『捨てると言うなら、拾ってやろう。代わりに、そなたには妾の世界をくれてやる。妾はロヴィーサ王国オルディネ王朝二代目女王、アウラ・ローザ・トゥ・オルディネじゃ――――』
次の瞬間、周囲のすべてが闇へと塗り替えられた。
驚愕して周囲を見渡す桜子の目に、浮びあがるように人影が映る。
美しい娘だった。
白い肌、薔薇色の唇、琥珀色の瞳。爪は桜色で優美な手は大きな扇を持ち、ほっそりした体を包むのは長いスカートが大きくひろがる、黒のレースとリボンをあしらった赤のドレス。まぶしいほどに若々しいデコルテには真珠のネックレスが輝き、星のような銀髪が滝のように肩から背に流れていた。
基本的に「それなりに可愛い」どまりで、最近は肌の衰えが気になりだした二十七歳としては、向かい合うのも恥ずかしくなるような『美姫』だ。
「妾はロヴィーサ女王、アウラ・ローザ・トゥ・オルディネ」
美姫は名乗り、呆然と立ち尽くす桜子に一方的に説明していく。
いわく、彼女は桜子から見て『異世界』にあたる『ロヴィーサ王国の女王』だという。
「妾と母上しか知らぬ秘密じゃが。妾には未来を予め見る力、予見の才がある。しかし妾の意のままにはならぬ不自由な才ゆえ、妾も母上も他人には明かさずにおいたのじゃが。その才が先日、実に不愉快な真実を見抜いてくれた。――――この世はすべて作り物、創作の中の出来事じゃ、とな!」
白い手が扇をにぎりしめ、女王の眉がつりあがる。
「聖女フェリシアといったか。この世のすべては、そのフェリシアを主役に創られた物語の舞台であり、フェリシアとやらを幸せにするためだけの道具だそうじゃ。妾はその中でも特に重要な道具の一つ。すなわちフェリシアとやらと敵対し、その魅力や尊さを演出するためだけに倒される、悪役だそうじゃ!! このロヴィーサ女王たる妾が!!」
(聖女……フェリシア? 女王アウラに、ロヴィーサ王国…………)
どことなく覚えのある名前である。
「この妾が引き立て役とは! カミヤアイカとやら、万死に値する!!」
「カミヤアイカ…………!?」
その名前でひらめいた。
「『聖なる乙女の祈りの伝説』…………花宮愛歌の!!」
桜子も知っていた。
『セイントローズ』の前に漫画家、花宮愛歌が連載していた異世界ファンタジーだ。
「ほう。知っておるのか。ならば話は早い。そうじゃ。妾はその『伝説』とやらの、登場人物であるらしい。フェリシアとやらはロヴィーサの隣国、ブリガンテの田舎娘じゃが、『聖なる祈りの力』とやらに目覚めて聖女に認定され、周囲から担ぎあげられて我がロヴィーサに侵攻してくる。ブリガンテの第二王子の助力を得て、『悪の女王アウラを倒してロヴィーサに真の平和と幸福をもたらす』と豪語して戦を起こすのじゃ。なんとも尊大で傲慢なことよのう」
「じゃが」とアウラは琥珀色の瞳に真剣な光を宿す。
「その傲慢に妾が付き合う義理はない。この世界がフェリシアとやらの幸福のためだけに存在するならば、勝手に幸せにすればよいのじゃ。妾は知らぬ」
ぴしり、と扇が桜子を指した。
「妾はこの世界を捨てる。そなた、妾に代わってロヴィーサ女王を名乗るがよい」
「…………は?」
「よもや、このような力が妾にあったとはのう。それとも、これは妾の呪詛を聞きつけて恐れた神が、慌てて償いを用意したか。どちらでもかまわぬ。そなたは妾と入れ替わるのじゃ、アメイサクラコとやら」
「はい?」
「そなたと妾は魂の波長とやらが酷似しているらしい。ゆえに、そなたの肉体に妾の魂が、妾の肉体にそなたの魂が入ることも可能じゃ。妾はこの世界に飽いた。座して死を待つなど、まっぴらじゃ。まして二年後に敗者として処刑される未来など。先に妾を見放したのは世界のほう。ならば妾がこの世界を切り捨てたとて、なにが悪い。妾はそなたの肉体に宿って、新たな人生へ向かう」
「ちょ、ちょっと待って」
「そなたには妾のロヴィーサをくれてやろう。好きにしてよい。残り短い人生じゃが、なに、そなたも己の世界を捨てることを望んだのじゃろう? よい話のはずじゃ」
「ではな」と、真っ暗な空間に吸い込まれるように、銀色の髪をなびかせて美姫が遠ざかっていく。
「待ってよ! そんな急に、勝手なことを――――!!」
桜子はようやく慌てて手を伸ばしたが、体は勝手にうしろにさがっていく。
美姫の姿が闇に消え、桜子の意識もそこで途切れた。
「待って…………!!」
桜子は跳ね起きる。暗がりの中、自分の声で目が覚めた。
「夢…………?」
それにしては生々しい。いや。
「あー、あー…………」
声を出すと、記憶にある自分の声と声質が異なって聞こえる。
顔をなでると、アラサーとは思えぬすべすべした張りのある頬の感触。
(まさか…………)
顔をあげると、薄闇に慣れた目が広いベッドとそれを囲むカーテンを視認した。
桜子はおそるおそるカーテンを開く。
見覚えない広い部屋。ちょうどエプロン姿のメイドが厚いカーテンと窓を開いて、朝の光と空気をとり込んでいる。桜子と目が合うと血相を変えてお辞儀し、そそくさと出ていった。
(まさか)
ベッドから降りると壁にかかった大きな鏡を見つける。
鏡に映るのは銀色の髪に琥珀色の瞳の、白の寝間着を着た美少女。
先ほどのメイドをともない、白髪混じりの茶髪をきっちり一つにまとめた、厳格な雰囲気の貴婦人が入室してきた。貴婦人はドレスの裾をつまんで優雅に一礼する。
「おはようございます。今朝はお早いお目覚めですこと。陛下」
桜子は無言で息を呑む。
認めざるをえなかった。
鏡に映る自分はロヴィーサ王国女王、アウラ・ローザ・トゥ・オルディネ。
『聖なる乙女の祈りの伝説』の悪役女王だった――――