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ママと娘と、ときどきパパ

作者: 藤和希


 僕の嫁さんである由香子(ゆかこ)はめちゃくちゃ可愛い。

 黒水晶を想起させる瞳に長い睫毛が彼女を凛々しく見せる。

 艶やかな黒髪にすらりとした肢体、引き締まった臀部といった抜群のスタイル。

 料理上手で話し上手、社交的で友達も多く、優しい笑顔はだれもを虜にするだろう。

いわゆるお嬢様学校を出て、都内の有名大学に進学し、一部上場企業に就職するというまさに完璧の一言に女性。


 反して僕は特にこれと言って特徴のない平凡な顔に就職先も平凡なところ。趣味もなく、友達も少ない僕とどうして結婚してくれたのか不思議でならない。

 彼女と出会ったのはおよそ10年以上も前のことで、物語という楽しい物語もなかったのでここでは割愛するけれど、まあなんだかんだ紆余曲折あって彼女と結婚した。


 そして僕らの間に生まれた娘である姫子(ひめこ)はどちゃくそ可愛い。

 由香子のDNAを充分に引き継いだ彼女の顔は可愛い以外に表現のしようがない。

 真っすぐに整った眉、大きなお目々、ちょこんと乗った小鼻、ぷっくらとした唇。まるで漫画に出てくるようなキラキラとしたオノマトペが飛び交うような可愛い子である。

 小さいながらも大人びた雰囲気を醸し出す彼女はモデル等の芸能事務所から声もかけられるほどの可愛さを持ち、それは第三者から見ても認められる可愛さである。

 しかも小学生とはいえテストではいつも高得点。かけっこもいつも一番で運動もできる。先生やクラスメイトからの信頼も厚く、クラス委員長を立派に勤め上げている。


 とにかく自慢な娘なのであり。

 とどのつまり僕がなにを言いたいのかというと。


「幸せだなあ」

「どうしたの突然」


 ぽつりと僕が漏らした言葉を由香子が拾う。

 向かい側に座る彼女は食事の手を止め、僕のほうを不思議そうに見ている。


「つい本音が出ちゃっただけ」

「本音って。そんなに美味しかった?」

「それはもちろんだけど」


 料理は美味しい。

 なんなら美味しすぎて外食しても美味しいと素直に感じなくなっているまである。


「…………」


 ちらりと由香子の隣に座って箸を動かす可愛い娘を見る。

 食事を食べているだけだというのにこの可愛さ。天使か?


「……」


 僕の視線に気づいた姫子が顔を上げる。


「じろじろ見ないで」


 一言。

 たった数文字の言葉。

 しかしその威力は鋭利なナイフが刺さるよりも痛い。


「ちらっと見ただけだよ」

「うそ」

「うそじゃないって」

「じゃあちらっと見るのもやめて」

「えぇ、それはいいじゃん。てか向かい合っているからさすがに無理だよ」

「じゃあママだけ見ればいいじゃん」

「もちろんママも見たいけど、姫子も見たいじゃん」

「ほら、やっぱり見てるじゃん」

「…………」


 口が滑った。

 誘導尋問上手すぎない?


「まあまあ姫ちゃん。いいじゃない。ママだってパパに見られ続けるの嫌よ」

「それはそれで傷つくなあ」


 胸を抑えて痛みを堪える表情を作る僕をしらーっと姫子は見て言う。


「だって気が散る」

「じゃあパパもそっち行こうか?」

「もっと嫌」


 苦い表情となって味噌汁をすする姫子。

 せ、狭いからだよね? 三人で並んで座っちゃうと狭くなっちゃって食べづらいからだよね? 決して僕が近づいたら嫌とかそういう意味じゃないよね?


「ふたりで一杯一杯なのに来られちゃ狭いよねぇ?」


 ちらちらと不安な眼差しを姫子に向けていると由香子がフォローを入れてくれる。


「え、入るスペースあっても嫌だけど……」


 最後の一粒までしっかり食べ終わった姫子はごちそうさまと言って食器を片付ける。

 すでに食事を終えていた僕だったけれど、しばらくの間動けなかった。


 僕は幸せだ。

 こんな可愛い子たちが家族なのだから。

 しかしいま現在その幸せは失われつつある。

 それは。

 姫子の思春期なのであった。



 思春期とは身体面の変化をきっかけに自分自身が大人に近づきながらも心がついていないことで身体と心が乖離した状態が生み出す焦りやストレスが原因となって起こるものだとされている。

 始まる時期や程度は個人差はあるが大体小学校中学年から中学生くらいに起こり、今年小学六年生の姫子はまさにその期間の真っただ中である。

 言葉遣いが乱暴になったり物に当たったりというような反抗期も相まってそういうこともする子もいれば、返事がなかったり目を合わせようとしなかったり……子供によって様々あるようで。


 まあ要は難しい年頃ということなのだ。


「ねぇママ。そろそろ美容院に行きたいんだけど」

「美容院?」


 休日の朝。

 朝食を摂り終えた姫子が自身の髪の毛を触りながら言う。

 掃除機に手をかけようとした由香子が姫子の髪の毛を見やる。


「ほんとだ。前髪が伸びてきたわね」

「でしょ?」


 伸びたらしい前髪を鬱陶しげに払う。


 ふーん、前髪ねえ。

 食器洗いをする僕も姫子の前髪を見る。

 うーむ、ちょっとパパには難しい話題だ。


「でも今日はママ無理よ」

「え、なんで?」

「言ったでしょ? 今日はこれからお昼過ぎまでお仕事だって」

「あ……」


 姫子の顔が固まった。


 そう、由香子は今日仕事がある。結婚して姫子を産んでからというもの、新卒で入社した企業を辞めた彼女は友達が営んでいる花屋さんでパートとして働いている。由香子は仕事もできるので産後も戻ってきて欲しいと頼まれていたようだったけれど、姫子も小さかったしということで時間の融通が利くところで働きたかったという理由でそれを断り、以前から友達から誘われていた花屋さんで働き、かれこれ数年が経つ。基本的に平日に働くことが多いけれどこうして不定期で休日にも出勤している。今日はその日だった。


「夕方だとご飯の準備もしないとだし、ごめんね」

「ええぇ」


 ショックを受ける姫子も可愛い。


「これで学校行きたくないー」

「仕方ないでしょ」

「ぶー」


 唇をすぼめ、不機嫌そうに声を落とす。

 その前髪でも充分可愛いと思うけれど、細かいところも気にする姫子は可愛い。


「だったらパパに連れて行ってもらえば?」

「えっ、僕?」


 水を差され、僕は驚きの声を上げた。


「うん。だって今日休みじゃない」

「まあそうだけど」


 完全週休二日制の僕はなにかなければ土日は家にいる。

 よって今日は一日中姫子と一緒にいる予定だったのでなんら問題なかったりする。


「いいよ。なんならパパも切っちゃおうかなー」


 最近伸びてきたし?

 ついでに姫子の隣で切られちゃおうかな。


「えー、パパとー?」


 はあ? マジ? あり得なくない? というテンションで言われた気がする。

 気がする、だけであって言われていないので気のせいなのであろう。


「パパと行くか、この前髪で学校に行くか……」


 二択で悩むこと数秒。


「我慢する」


 我慢されてしまった。

 悩みに悩んだ末、行かないことに決めたらしい。


「え、偉いなあ姫子は。そうやって我慢できる子に育ってさすがだ。けど、あれだぞ。美容院くらい行ってもいいんだよ? 身だしなみだし? 社会に出てもそういうの大切だし? そこにお金をかけるくらいどうってことないんだよ? なんならパパも切りたいし、せっかくだから行ってもいいんじゃないかな? パパはそう思うよ」

「べつにいいよ。わたしもう決めたから」


 くどくどと長ったらしく行きたいアピールをするも姫子は素っ気なく言った。


「でもほら、前髪が目に当たると悪いし」

「ヘアピンで留めればいいもん」

「まあ僕の付き添いでさ」

「パパひとりで行けば?」

「……そうだね」


 頑として首を縦に振ってくれないので僕は食器洗いに戻った。

 ま、まああれだね。姫子はそこまでして切ろうとは思っていなかったのかもしれない。


「姫ちゃん。ついてってあげてよー」

「だって普通にパパと一緒に出掛けるとかないし」

「そ、そか」


 由香子はそれきりなにも言わなかった。


「…………」


 僕にだけ当たりが厳しいなあ。はは、意識されているみたいでいいね――なんて思えるわけもなく、僕はただひたすら食器を洗うのだった。



「あ、ママ!」


 僕が風呂上がりのコーヒー牛乳を堪能し、一息ついていた時。

 ソファに座ってテレビを見ていた姫子が洗濯物を干している由香子のほうを一瞥し、なにかを発見したらしく指差す。


「ん、なに? ポケットになにか入ってた?」

「違う、違う」


 ん、と言って姫子はいま一度人差し指を洗濯物に向ける。

 僕も知らずその指し示す方向に視線を向ける。


「……あ、ごめん」


 口元に手を当て、やっちゃったというふうに謝る。

 ふむ、どうやらふたりはなにか約束事めいたことをしていたらしい。


 はて、なんだろう。

 夕飯のデザートを買っていたのに忘れていたとか? まったく食いしん坊だなあ。

 そんなふうにほんわかとした理由を想像し、にんまり顔となる。


「パパのと一緒に洗濯しちゃった」


 …………ん?


「しかもパパのパンツと」


 由香子が洗濯カゴから取り出したのは僕のおパンティだった。


「~~っ、もうママぁ」


 絶望にも似た声を上げ、自分の膝に顔をうずめる姫子。


 ふむん?

 あれれ? この反応はどういうことだろう? まるで姫子が僕の下着類及び服と一緒に自分の服を洗って欲しくないと言っているような感じが伝わってくるのだけれど。

 まっさかー。


「昨日も間違えてたじゃーん」

「ごめん、ついついいつもの癖でそのまま洗っちゃうのよ」

「もぉ……」

「ごめんってえ。明日はちゃんと分けるから。ね?」

「面倒くさいからってわざとじゃないよね」

「そんなことしてないから。はい、じゃあスマホにメモしとくから」


 毎日チェックするメモ帳アプリになにやら文字を入力していく。


「ママ、姫子。ちょっといい?」


 ひとり会話に混ざらず黙っていた僕の限界が達し、口を挟む。


「そのメモ僕にも見せて」

「うん? いいけど」


 由香子に断りを入れてスマホのメモ帳アプリに入力された文字を確認する。


《パパの洗濯物はべつで洗う》


 ……ふう。


「パパの洗濯物はべつで洗うって書いてあるけど」

「うん、そうなの。姫子が嫌だって」

「姫子が?」


 ちらりと娘のほうを見やると姫子はうずめていた顔を上げたかと思えばまた隠れた。


「姫子?」

「パパには関係ないでしょ」

「パパにしか関係なくない?」

「……別々に洗うくらいいいでしょ」

「いやそんなに良くはないかな。ママが二度手間になっちゃうでしょ」

「じゃあわたしの分とママの分はわたしも手伝う」

「パパの分は?」

「……パパがやる」

「まあそれはいいんだけど……、分ける必要なくない?」

「…………あるもん」

「ちなみにどんな?」

「……いいでしょ、なんでも」


 言いたくないのか、姫子はそっぽ向く。


「いやまあいいんだけどね。ただなんでかなあっと。そこまで汚くはないし、汗だってこの時期かかないし、なんならそういう臭いとかは結構気にしているし、そこら辺は大丈夫だと思うけど」


 理由を問うと、


「一緒が嫌」


 端的な一言が返ってきた。


「…………」


 僕がなにも言えずにいると、由香子が苦笑いを浮かべる。


「あはは、汚いとか臭いとかばっちいとかそんな理由じゃないもんねー」


 つまり、理由なくパパのものと一緒に洗うのが嫌と?

 やれやれまったく……。

 電気代と水道代、どれだけかかるかなあ。



 おやすみ、と言って自分の部屋へ眠りに行った姫子。

 子守唄を歌って寝かしつけていた彼女はいつからひとりで寝るようになっただろうか。

 感慨に耽る僕の前に由香子がお酒を置いてくれた。


「ありがとう」


 姫子が生まれてから僕はお酒をほとんど飲んでいない。

 もともとそこまで好きなわけではなかったし、なにより姫子になにかあった時車を運転できなかったり頭が正常に働かなかったら嫌だったからだ。まあいまとなっては心も身体も成長したのでそこまで心配してはいないものの、お酒は控えていた。


「ぷはっ」


 プルタブを開け、飲むと久し振りに美味しく感じた。

 それは歳をとって飲み方を覚えたからだろうか。


「由香子はいいの?」

「私はいいわ」


 向かいに座った由香子は紅茶を飲むようだ。


「なあ由香子」

「なに?」

「最近姫子、僕のこと避けてない?」


 避けている、と表現したがもっと直截的に言うなら――嫌われている、である。

 それは思春期とか反抗期と呼ばれるものなんだろうけれど、こうも急に来られるとこちらもびっくりしてしまう。


 てか普通に寂しい。

 そう――ただただ寂しいのである。


「あんなにパパパパ言ってくれてたのになあ」

「パパとは言ってくれているじゃない」

「そうだけどさ」


 僕の言わんとしていることを由香子もわかっているようで小さく笑った。


「パパと結婚するって言ってたもんねえ」

「それ。だから余計にショックでさ」

「まあ仕方ないんじゃない? 姫ちゃんもお年頃なんだから」

「まだ小学生なんだけど」

「でももう高学年でしょ」


 来年には中学生なんだから、と由香子はしみじみ言う。

 そうだ――来年にはもう中学生となる。

 姫子は大人の階段を着実に上っている。

 中学の三年間なんてあっという間だ。部活動も始まって、勉強もより難しくなる。家族よりも友達が優先され、遊ぶことはおろか、より家族との時間は減る。

 高校、大学、そして就職。

 きっと姫子とはこの先、あまり一緒にいられなくなっちゃうだろう。


「そんな顔しないでよ」


 どんな表情となっているのか、僕にはわからない。


「なあ由香子。由香子は寂しくない?」

「私は寂しくないかな。ほら、姫ちゃん私にはいままでどおりだし」


 うぐっ、そうだった。


「子供の成長を見守るのが私たちの務めでしょう?」

「そうだけど」

「大丈夫よ。私はずっといるから」


 そっと優しく僕の手を握ってくれる。


「由香子はずっと変わらないね。変わらず――優しい」

「そう? ありがとう」


 ふふっと穏やかに笑んだ顔は僕の心をいつでも和ませてくれる。


「やっぱり僕は由香子と結婚できてよかった」

「姫ちゃんが生まれてきてくれたからでしょ?」

「うん、そうだね――由香子と僕の娘、だからだよ」

「そうね、私たちの娘だもんね」


 それから僕と由香子は他愛のない話をした。

 姫子に避けられようが嫌われようが、遠くから見守ってあげよう。

 きっとそれが父親としての務め、なのだろう。



 あくる日の晩、仕事から帰ると姫子が男を連れてきていた。


「――さすがにそれは早すぎるだろうおおおおおおおおお!」


 絶叫。

 珍しく僕は腹から声を出して叫んだ。


「え、なに? どゆこと? 幻覚? おかしいな、この家には僕以外男はいないはずだけど」


 目をこすって何度も瞬きを繰り返す。

 しかし目の前の光景は変わらない。

 いつものリビングのテーブルに姫子とだれかが座っており、その向かいに由香子がいる。


「あら、パパおかえり。今日早いのね? ごめんなさい、お迎えできなくて」

「ううん、いいよ。ただいま。まあ忙しくなかったからね――じゃなくて」


 律儀に立ち上がって僕の鞄を受け取ろうとする由香子を制して部屋の中へ進む。


「そちらの方は?」


 見知らぬ男を指して言う。

 まだあどけなさが残るも美丈夫と言って差し支えない男である。

 いまどきの塩顔とかいう部類の爽やかな感じを受ける。

 年齢的には姫子と同じだと思われ、三人の前には小皿とコップがあり、談笑していたのだろう。


「姫子のお友達、かな?」


 殊更それを強調して言う。

 一番有力なその関係を失念していたくらいにパニックになっていた。

 なぜなら姫子が男の子の友達を家に招き入れたことがなかったからだ。

 自慢ではないが姫子の交友関係はほぼ把握している。美紀ちゃん、未来ちゃん、穂香ちゃん、凛ちゃん、深美ちゃん、まだまだいるけれど、これ以上言うとキリがないのでよく遊ぶ子たちでいいだろう。


「祥真くんよ、同じクラスだって」


 僕の問いに答えた由香子は僕から鞄を受け取って片してくれる。


「へえ、姫子と同じクラスの」


 素性を知った僕はゆっくりと彼に近づく。

 すると彼――祥真くんとやらは、椅子をがたっと鳴らして立ち上がる。


「新藤祥真です。姫子さんとは仲良くさせてもらっています、お父さん」

「待て、いまなんて言った?」


 挨拶のできるいい子かと思ったら、最後の言葉が引っかかった。


「俺の名前ですか? 俺は新藤祥真と言います。新しいに、藤です。藤って富士山の富士じゃないですよ、藤原とかのほうです。あと祥真は――」

「いやきみの名前じゃない。最後だ、最後」

「最後? え……、でも姫子さんのお母さんがパパって言ったからてっきり――」

「ええ、姫子の父です。だからきみのお父さんではない」

「あ、はあ、そうっすね。それは知ってますけど」

「知っている? え、じゃあなんでお父さんって言ったの? 僕には名前があってね――」


 くどくどと僕が説教めいたことをしおうとしたら由香子が「凄まない凄まない」と身体を押して邪魔してくる。


「姫子さん、俺なんか変なこと言っちゃったかな?」

「ごめん祥真くん。あんまり気にしないで、この人の頭がおかしいだけだから」

 蔑んだような瞳を僕に向ける姫子。

「姫子、この人ってなんだ? パパだぞ。パパ。僕は姫子のパパだ。あ、あれ、ちょっと待って、姫子どこに行くんだ……? 祥真くんとやらは帰るんだろう? え、どうして姫子まで? 姫子? 送るのか? そんなのはいいから僕と話を――」


 僕の声は空しく、玄関のドアがぱたんと閉まってしまった。


「ひ、姫子ぉぉ……」


 掠れた声で落とされた痛哭はだれにも拾ってもらえなかった。


――


「姫子。さっきの男の子はなんなんだい?」


 夕食。

 冷静さを取り戻した僕は家のすぐそばで見送って帰ってきた姫子を迎え入れ、彼との関係性を改めて聞く。


 突然のことに加えて彼からお父さんなどと言われれば正常な状態を保つほうが無理かろう。しかしいまの僕の脳は酸素を充分に含んだ状態で常のそれだ。


「なにってなに?」


 ぶっきらぼうに問い返される。


「クラスメイトってことは聞いたけど」

「そう。じゃあいいじゃん」

「いやただのクラスメイトをうちに呼ばないだろう?」


 だったらいままで何人の子をうちに呼ばなければならないというのだろう。

 いやこれはただの屁理屈か。


「お友達、なんだよね?」


 先ほどと同様、その部分を強める。


「六年生になって、新しい友達ができたとかそんなところか?」


 ひとつの可能性としてあげる。


「うんうん、わかる。クラス替えをして新しい子と仲良くするのはすごく良いことだと思うし、友達は大いに越したことはない。友達と話したり遊んだりして姫子が楽しんで幸せそうにしていると僕も嬉しいし幸せに思う。けれどね、あの子はどうだろう? 人様の親をお父さんというか? それにまずは僕になにか一言あってから姫子と仲良くすべきなのにそれを通り越してうちに押しかけてきて……。あまり彼のことを悪く言いたくはないし、姫子の交友関係に口出しをしたくはないのだけれど、彼はやめたほうがいいと思う。うん、パパはそう思う」

「……パパにあれこれ言われたくない」

「うん、まあそうだろうけど、ほら、あの子はさ、男の子だし? いやもちろん異性だからってどうのこうの言いたいわけではないんだけれど、なんか、ね。……も、もちろんそういう関係じゃないのはわかっているんだけど、でも、ねえ」

「意味わかんない」

「意味は、この際わかんなくていいよ。僕はただ姫子のことが心配で」

「心配ってなに。祥真くんのことなにもわからないのに、なんでそういうこと言うの? いままでお友達連れてきてもそういうこと言ってこなかったじゃん」

「いやそれはそうなんだけど、彼は男の子じゃんか」

「男の子だからなに?」

「姫子は女の子だからわかんないかもだけど、女の子とは違うというか」

「人なんだからだれだって違うじゃん」

「そうだけどそうじゃなくて――」

「あーもううるさい!」


 聞きたくないとばかりに姫子は耳を塞ぐ。


「うるさいって……僕はただ姫子のことが心配なんだって」

「パパ、落ち着いて」


 静観していた由香子が興奮気味の僕を宥める。


「ま、まあそうだね。美味しい食事中にごめん。また彼のことは改めて話そうか」


 締めくくるように言うと、姫子が箸をばん、と勢いよく机に置いた。


「わたしがだれと仲良くしようがだれとどんな関係になろうがパパには――関係ないでしょ!」

「お、おい姫子」


 ここまで感情的になったことのない姫子の姿に驚き、僕の声は小さく萎む。


「美紀ちゃんのお父さんも未来ちゃんのお父さんもあんなふうに言ったりしないし、ここまで口うるさくしないのに、どうしてパパはわたしのことになると……そんなふうになるの!?」


 尻すぼみの声は震えていた。

 怒りか、それとも悲しみか。

 俯く姫子の表情は見えなかった。


「ごめん姫子。パパは姫子のことを思ってただけで……、嫌な気持ちにさせちゃってたらごめん。本当にごめん」


 謝ることしかできず、頭を下げる。


「…………っ!」


 ごちそうさま、と小さく言って自分の食器だけを片して部屋に入ってしまう。

 後悔の念に駆られながら、僕はただただ姫子の部屋をぼーっと見つめ続けた。



「ただいまー」


 帰宅を告げる声に由香子はリビングから顔を出す。


「姫ちゃん、おかえりー」


 愛する娘の帰還ににっこりと笑いながら手を振って迎える。

 手を洗ってランドセルを自室に置くと、キッチンに立つ由香子の背中にぴたりとくっつき、興味深そうに覗く。


「あ、ハンバーグだ」

「当たりー」

「なにか手伝う?」

「ううん、今日はいいよ。ありがとね」

「わかった」


 自宅に置いてあったスマホを手に取り、ソファに寝っ転がっていじり始める。

 スマホを持たせたのは昨年からだが、小学校には持っていかずこうして帰宅後に使っている。しっかりと約束を守る真面目な子である。持たせた理由は『姫子が迷子になったりなにかあった時に持っていたほうがいいからね。……あと、姫子とメールしたい』という我が夫の意向であったり。


「パパからLINE来てた?」

「夕方からしか見れないのわかっているのに朝から来てる」


 呆れたように言う姫子の表情は言葉とは裏腹に楽しそうだ。

 食事の支度はほとんど終わっていたので姫子の隣に腰を落とす。


「――それでいつまでそうしているつもりなの?」

「なにがー?」

「パパのこと避けるやつ」

「……べつに避けてないもん」


 図星を突かれた時に目を逸らすのが姫子の癖である。

 嘘が下手な子だなあ、と思いつつ由香子は続ける。


「効果はあった?」

「だからなんのこと」

「パパのこと嫌いになれた?」

「……嫌いになろうとなんてしてないもん」


 なおもスマホに目を向ける姫子。

 認めるつもりはないらしい。


「ふーん、そう?」


 姫子が夫を避けて数日。

 ちょっと前までは家族三人本当に仲が良かった。

 ママ、パパと可愛らしく呼んでは毎日楽しく暮らしていた。

 しかしどういうわけか、夫を避けるようなことをし始めた。

 露骨に。


「パパのことを好きなことがそんなに変?」


 核心を突く。


 いまの姫子はまさに思春期なのだろう。

 身体が成長し、いろいろと周りの目が気にし始めてきた彼女は、周りと自分が違うことに気づいた。周りのお友達と違って自分はお父さんのことが好き、それをひとつのコンプレックスのように羞恥心のように感じてしまった。

 だからパパを嫌いになろうとした。

 ひどいことをして、ひどいことを言って。

 この前は男の子を呼んで仲良くなろうとして、愛情を他に向けようとした。


「す、好きとかじゃないし」


 拗ねたように言う姫子もまた可愛い。


「パパあの日から落ち込んじゃっているのよ。それに反省もしてて、祥真くんにも謝りたいとかそんなこと言って。姫ちゃんと仲良くするんなら苦手なことから好きな食べ物まで教えなきゃとか言ってメモした紙も、ほらこれ」


 本当に渡しに行かねなかったので由香子が預かっていたメモ紙を姫子に見せる。

 びっしりと書かれたそれを見て姫子はうげっというような表情となる。


「なにこれ、ほんとに馬鹿」

「でしょ?」


 まあそこがいいんだけどね、と由香子は付け足した。

 自分と彼との馴れ初めを思い出し、懐かしく感じる。

 出会った時から、いまに至るまで、彼は徹頭徹尾そんな感じなのだ。


「ママ、なんであんな人と結婚しちゃったの?」


 姫子の疑問に由香子は答える。


「だって惚れちゃったんだもん」


 あの頃から抱く恋慕はいつまで経っても色褪せずに由香子の胸を支配し続けていた。



 あの日から姫子と会話らしい会話ができていない。

 LINEも送りはするも、既読スルーだ。未読じゃないから見てはいるんだろうけど。


「はあ」


 深いため息をこぼし、自宅前で一回深呼吸をする。

 切り替えよう。

 こんなみっともない顔を姫子や由香子に見せられない。


「ただいまー」


 いつもどおりのテンションで言うと、玄関に姫子がいた。

 目が合う。


「おかえり」


 小さくではあるがそう言ってリビングに入ろうとすると由香子もそこから顔を出して「おかえりー」と言ってくれる。

 ふむ、まあ挨拶くらいはしてくれるか。でも嬉しいは嬉しい。

 すでに夕食がテーブルに並べられていた。


「あれ、ママ? 僕の隣に姫子のお茶碗もあるけど?」

「今日姫ちゃんそっち座るのよ」

「へ?」


 どういうこと? と僕が疑問符を浮かべていると姫子が僕の隣の席に座った。


「あっちだとテレビ見づらいから」


 確かにいつもの席だとテレビを見るには顔を動かさないとだから窮屈ではあるけど。


「いいのか?」

「……よくなかったら座らないし」


 あれ、なんか姫子の顔が少し赤い。

 というか今日の姫子いつもの数倍可愛い気がする。


「あ、ね、ねえ。週末動物園に行きたい」


 夕食を食べ始めて数分、控え目に姫子が言った。


「週末? いいわよ。なにかあるの?」

「学校で絵を描く授業があるらしくて、その題材の写真が必要なの」


 動物を描きたいらしい。

 可愛いなあ。

 姫子の描く絵はどれも上手だからいまから楽しみである。


「パパもいいわよね?」

「ああ、い、いや、どうしようかな。週末か」


 由香子に確認されるも僕はごにょごにょと濁す。

 予定などない。

 けれど僕が行って姫子の機嫌を損ねるのならば行かないほうがいいはずだ。

 そう結論付け、僕は断ろうとするも、


「パパも」


 姫子が先に口を開いた。


「写真、撮るの上手いし、パパも来てくれないと……困る」


 恥ずかしそうにお願いされる。

 そんなふうに所望されたら行く以外の選択肢はあるまい。


「行く。僕も行くよ。動物も姫子も撮りまくっちゃうぞ」

「わ、わたしは撮らなくていいからっ」


 見られていることに気づいた姫子はぷいっと明後日の方向を向く。

 そういうところも可愛い。

 ニヤニヤとしていると、姫子が憤ったような表情となる。


「てか、朝からどうでもいいことで連絡しないでって言っているでしょ――」


 怒る姫子と笑う由香子。

 なんだか数日ぶりに家族がひとつになった気がした。

 

 でもきっとこれからもいろんな障壁が僕ら家族に立ち塞がるのだろう。

 いつまでもこの家族の関係が続くとは限らない。

 けれど変わらないものがあるとすれば。

 それは僕が姫子と由香子の幸せを願っている、ということだ。






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― 新着の感想 ―
[良い点] 最高っすね! [一言] 幼馴染みの短編から来ました とても暖かな気持ちになりました! こんな感じの世界観の作品がまた読みたいです! これからも執筆頑張ってください!
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