ある日、森の中…(2)
わたしは左足を軸足にして右足で地面を蹴り、目にも止まらぬ速さで駆けだす――180°後方に。
予想外の行動を目にして硬直する熊。
その表情には若干、呆れの色が出ている気がした。
だがしかし! 逃げるという行為は古来より戦術の一つとして確立された由緒正しき行動なのだ!
ドラ○エしかり、ポ○モンしかり、RPGのコマンドに必須と言っても過言でない代物。
つまるところ、わたしは逃げるという戦闘行為を行っているのだ(錯乱)!
「フーハハハハーーッ、バカめ! わたしが正々堂々闘うとでも思ったか!!」
さすがの熊も、まさかあの状況でわたしが逃げ出すとは思うまい。
散策している間何も魔法だけをを練習するだけでなく、この身体のスペックについても調べていたのだ。
結果は運動神経抜群。
どれだけ長い距離を全力で走ってもこれっぽっちも疲れないし、ハリウッドのアクション映画負けのアクロバティックな動きだってできる。
というか、これはもはやアニメの動きだよね。
ひょっとすると、このハイスペックな肉体も転生したお陰かもしれない。
ありがとう、異世界転生!
そんな冗談はともかく、トップアスリートのみなさんも真っ青な脚力を手に入れた今のわたしが走れば、周囲の景色はまるで自動車に乗ってるみたいに次々に後方へと流れていく。
これなら直ぐにあの熊からも逃げらr「ゴアァァァアッ!!!」れてない(泣)……。
なんか真後ろからすごい音が聞こえるんですけど!
バキバキ!とか、グシャグシャ!って!!
わたしが避けた枝とか木を薙ぎ倒して、ものすごい勢いで迫ってきてるんですけど!
うわっ! ちょっと振り返ったら目の前には厳つい顔面が! しかも鼻息が顔に当たったし!!
ひょっとして、さっきの突進は本気じゃなかったってこと?
マジで怖い。
超怖い。
中学の修学旅行で乗ったジェットコースターも、怖い物見たさでチャンネルを変えたゾンビパニック映画も目じゃないくらい怖い。
今の状況、アニメとかでもよくあるシーンなんだけど、実際に体験してみると本ッ当にヤバい。
画面の向こうの主人公に「ここで不意を突けば簡単に躱せるじゃん?」とか思ってた過去の自分をぶん殴ってやりたいね。
生きるか死ぬかを賭けた鬼ごっこの最中に、そんな機転を利かせられるわけないでしょ!
……って危なっ!?
あいつ地面にあった岩を蹴り飛ばして来やがった!
バスケットボールサイズの岩が顔の真横を通過し、近くにあった木をへし折りながら森の奥へと消えていく。
あと数センチくらい軌道がズレてたらと思うとゾッとする。
当たってたらそれこそ即死だった……って、待て待て待て! 第2、第3の岩を飛ばしてくるな!
ちょっ、掠った!
今のヤツ、ほっぺた掠ったから!!
クソッ、調子に乗りやがって……!
「これでも喰らえ!」
わたしは熊に向かってがむしゃらに魔法を放つ。
火球や氷柱、雷撃に鎌鼬といくつもの魔法が鮮やかなエフェクトと共に熊へと殺到していった。
しかし、そのどれもがクマに対して有効なダメージを与えるどころか、毛を刈り取ることすらできなかった。
うん? 熊が止った?
この感覚……まさか!
嫌な予感がしてその場を咄嗟に飛び退くと、熊がわたしに向かって掲げた前足を振り下ろした。
その途端、熊の爪の先からわたしが放った魔法とは比べ物にならないくらい強力な風の刃が飛び出した。
雷が落ちたかと思うほどの轟音。
舞い上がる砂埃。
しばらくして攻撃が通過した方に目を向けると、地面には5本の深い溝ができあがっていた。
その先には、わたしの身長の何十倍の高さがある巨木が、無惨な姿で横たわっていた。
さっきの大きい音はこれが倒れた音だったか……。
わたしと熊は再度、出会ったときのように睨み合う。
どうしよう。
このまま走って逃げても埒が明かないし、下手すりゃわたしのスタミナの方が先に切れてガブリとやられる。って言うか殺られる!
魔法なんてイメージしてる余裕が全然効かないから大した威力は出ないし、小さい魔法をいくら撃ってもあの防御力の前には焼け石に水。
なんなら物理攻撃で戦うしかないんだけど、熊相手に格闘で挑むのなんて論外だ。
拳を合わせた瞬間、わたしは地面の赤い染みに再転生する。
他に出来そうなことなんて……無いわけじゃ無い。
1番最初に使ったら黒い炎。
何の根拠もないんだけど、あれなら絶対に倒せると直感が訴えかけてくる。
全てを消し去るようなあの炎だったら、この熊の防御力を貫通してダメージを与えられるはず。
もし効かなかったとしても時間稼ぎくらいにはなるだろう。
この際だ、一か八か使ってみよう。
「こっちだ獣畜生!」
「グルァウ!!」
言葉は通じていないだろうけどニュアンス的に罵られたのを悟ったのか、わたしが走り出すと同時に熊も怒りの形相で追いかけてきた。
「『水流槍』!」
気合いを込めて叫ぶと同時に、水でできた5本の槍が生成される。
即席だから大した数も威力もないんだけどこれで十分だ。
『水流槍』はわたしが強く念じると熊に向けて一直線に向かっていく。
熊の方はこれぐらいの魔法ではダメージがないと分かっているのか、避ける素振りも見せずにそのまま突進を継続する。
――かかった!
その瞬間、『水流槍』を構成していたイメージを一気に緩める。
すると、槍の形状をしていた水の塊はただの水飛沫となって熊の顔に降り注いだ。
思わず目を瞑る熊。
「『土隆壁』」
熊の隙を見逃さず、次の魔法を素早く構築する。
わたしの魔力に反応して隆起する地面。それは歪で脆くはあるが、瞬く間に巨大な壁となった。
前を見ていなかった熊は土の壁へと激突し、その姿は崩れてきた土砂の中に埋もれていく。
これで準備は整った。
――イメージするのは黒い炎――
――冷たくて、見た者に恐怖を与えるような炎――
「グガアァァァアッッッ!!!」
熊が瓦礫の山を吹き飛ばして起き上がった。
数度頭を振った熊は辺りを見渡し、わたしに気付くと再度雄叫びを上げて突進を開始する。
――イメージを止めるな、集中しろ!
熊がものすごいスピードで迫って来るがその光景を視界からシャットアウトし、魔法を放つことだけに意識を向ける。
――ただ、冷徹に
ただ、残虐に
一欠片の慈悲もなく
触れた者の全てを奪い去ろうとする、途方もない闇――
わたしはすかさず手を掲げると固まったイメージを言葉に込めて魔法を放つ。
「『終の焔』」
結果は何とも呆気なかった。
手のひらからはあの黒い炎が出てきて、熊の顔に纏わり付いたと思った次の瞬間には首から上が無かった。
それはまさに、一瞬の出来事。
頭部を失った熊はわたしの横を通過していき、やがて全身から力の抜けて地面に倒れる。
ドスン、という音と小さな揺れの後、首の断面からは夥しい量の血が溢れ出し、周囲を赤く染め上げた。
一撃だった。
強靱な肉体を持ち、生半可な攻撃は受け付けず、恐らくは生態系の中でも上位に君臨していたはずの獣は、わたしの放ったたった一撃の魔法でその命を散らす事となったのだ。
地に臥す首の無い骸――その結果がこれだ。
弱肉強食の自然界とはいえ、ちょっとだけ惨い仕打ちの様に感じる。
「……」
言葉が出ない。
グロいのは得意じゃないはずなのに新しいこの身体のせいか、もしくはいきなりの事で気が動転しているのか……、ただただ唖然とするばかりだ。
それに、命を奪ったことに対する実感がない。
魔法を使ったからだろうか?
それとも自分よりも遙かに大きく、害意を剥き出しにして襲ってきた敵だったからだろうか?
血特有の鉄っぽいような臭いが漂って来るが、然したる感慨を覚えることもない。
風が吹き、一瞬だけ血の臭いは薄まる。だが、絶えず熊の首から流れ出る血がこの惨状が消え去ることを真っ向から否定する。
私に『死』というものを――命がいかに儚く、ちっぽけであるのかを刻みつけるかのように……。
しばらくの間、熊との戦闘による物理的・精神的な疲れからか、一歩も動きたいとは思わなかった。
斯くして、わたしの異世界初バトルは幕を閉じる。
惨殺大熊
・8つある魔物の階級では下から4番目の戦災級ランクに位置する。
・この世界の者でも一定以上の実力者しか倒せない。
・通常の兵士ならば、討伐に最低1個大隊――約500人近くが必要となる。放って置けば小さめの町なら半日で堕ちるレベルの魔物。
・剣を通さない硬い毛皮に、鋼鉄の鎧を易々と切り裂く鋭い爪を持つ。
・力も強く腕を振るえば大木をも倒すことができ、凄まじい防御力と耐久力を持つため、生半可な攻撃では傷を付けるどころかびくともしない。さらに、平均して生命力の強い魔物の特性上、付けた傷も1日と経たずに直ぐ塞がってしまう。




