カネこそすべて 6
記憶は一向に戻らなかった。豪華な公衆浴場での入浴、宿屋の女主人が腕を振るった食事を済ませていく間も考え続けていたが、森をさまよう以前のことは何も思い出せなかった。野盗に出会い、カネを召喚し、セルウォルフに襲われ、ティトラスの街に着いた。覚えているのはそれだけだった。
レーンが時々話しかけてきたが、何を言っていたかよく覚えていない。
夜になり、宿屋の一室のベッドに腰かけ、考え続けた。
読み書きや言葉は分かるが、文化風俗に関してはこの世のことが断片的にしか分からない。知らない世界に急に放り込まれたようだった。レーンの言っていたように、自身が異界からやってきた流れ者なのではないかと思う。
思考が上手く進まない。考えが絡まって迷い、袋小路に追い込まれる。夜は更けているのか、それともあまり時間が経っていないのか、よく分からなくなる。
「飲むぞ」
ふと見ると酒瓶とグラスを持ったレーンが部屋に入ってきていた。ノックはあったのかなかったのか分からない。つかつかと進んできて、ベッドの俺の隣に座ると、グラスいっぱいに葡萄酒を注いだ。
「飲めよ」
突き出されたグラスを受け取る。まじまじと眺める横でレーンはグラスを一気にあおった。そのまま二杯、三杯と手酌で葡萄酒を飲んでいく。
五度飲み干して落ち着いたのか、大きなため息を吐いた。それから指で口の端を拭うと、紫色の瞳でこちらをにらみつけるように見た。頬が赤く染まっている。凄まじい勢いで酒を飲んでいたのだから、よほど酒に強いのかと思ったのだが、そうでもないらしい。
けぷ、と小さくおくびを出すと、こちらが持っていたグラスを奪い取って、あおった。と同時に腕を伸ばしてきた。
首に巻き付いてきた腕に、体が引き寄せられる。
動いたらただでは置かない、と言わんばかりに睨んだまま、レーンが顔を近づけてきた。
熱い。苦い。そして甘い。
葡萄酒とそれだけではない甘い香りが鼻を抜ける。ずいぶん強い酒だ。
飲み下すと同時にレーンの顔が離れる。すこし充血した目から目を離せなかった。
「……何を」
するんだ。と言いかけて顔に掌が覆いかぶさってきた。頭からベッドに押し倒される。
「腑抜け野郎に活を入れてやるってんだ」
レーンは俺の胴の上に跨ると、羽織っていたガウンを脱ぎ捨てた。
「お、落ち着け」
「うるさい」
レーンは服の襟に手をかけ、力まかせに引っ張る。服を剥がされ、怯んでいるとレーンの動きが止まった。
「次は……どうすればいい?」
静寂の後、怒ったような困ったような複雑な顔でレーンが言う。
「……乳首でも、押してみるのはどうだろうか」
「こうか?」
人差し指で両の乳首を押された。何とも言えないむずかゆさである。
「……この次は?」
「連打するが作法だ」
「こうか?」
とととと、とリズミカルに連打する。
「ほ、本当に……これがイイのか?これで元気になるのか?」
首を傾げ、高速で指を動かしながら言う。
これは間違いない。
「お前、処女だろ」
「しょしょしょ処女ちゃうわ!!」
レーンが焦って唾を飛ばす。こみ上げる笑いを我慢できなかった。
「男を元気づけるには、押し倒して身ぐるみを剥ぐのが一番だ、とファトナが言っていたんだ」
ファトナというのは宿屋の女主人のことだろう。確かにそのアドバイスは一般的には間違っていない。
「はははは!お陰で元気になったぞ」
「嘘だ!お前のその笑い顔、馬鹿にしているだろ!」
手下に向かってキツい下ネタを言ったとは思えないほどの実践知識の乏しさだ。
だが救われた。
「さっさと服を着ろ」
俺から降りると、レーンはそっぽを向く。
「もう乳首を押してくれないのか?」
「死ね!一肌脱ごうと思ったアタシが馬鹿だった!」
「だけど、元気にはなったぞ」
「馬鹿」
声とともに金貨が降ってくる。取り上げてよく見るとカネではなく金メッキのメダルである。
「ロス・プロプスの加護?」
そんな文字と太った老人が描かれたメダルだった。
「商売人の守護神。商人は皆、後生大事に身につけているものさ。アンタは行商人なんだろう?森ではそう名乗ったのを覚えてる。ま、アタシはアンタが誰でも、どんな人間でも、どうでもいいけれど。そうふさぎ込まれると面倒さね」
「レーン。お前って、いいヤツだな」
「うるさい馬鹿、アタシはもう寝るぞ」
そう言うなり、レーンはベッドに倒れこんだ
「ここでか?」
「当たり前だろ。同室なんだから。言っておくけど、ファトナが勝手にやったんだからな」
アイツは絶対に勘違いをしている、とレーンが続けた。
「なら、仕方ないか」
やけに大きなベッドだと思ったが、ダブルサイズだったのだろう。
「アンタも早く寝ろ。明日は市場を見せてやる」
「そうしたいところだが、さっきの刺激でどうも目が冴えてきてな」
「だったら眠れるまでおとぎ話をしてやろう。弟や妹を寝かしつけるのは得意だったんだぞ」
子供扱いをして反撃をするつもりなのか。レーンが肘を枕にして振り向く。
「お前のことが知りたい。どんな所で育ち、何を見てきたのか」
見開いてから宙をさまよって、瞳がくるくる動く。そこまで戸惑わせることを言ったつもりは無かったのだが。
「話しにくいなら、いいんだ。単純にお前のことが知りたかっただけだ。他意はない」
「べ、別にアタシのことを話すことは問題無い。だけど、お前って本当にへんな男だな」
こほん、と咳払いをしてレーンが話し始める。
「アタシの生まれはシュベラウス公国領とアルバ王国領の境界の村だ。そもそもシュベラウス公国とアルバ王国とうのはだな……」
語り口はゆっくりと丁寧である。少しかすれた声を相まって、心地よく耳に響く。言っていた通り、おとぎ話を話して聞かせるのは得意らしい。