オレンジ色を半分にする能力
その日は、五泊六日の旅行の五日目だった。
ここまでの四日間は曇り空ながらも、ぎりぎり空が耐え忍ぶような天気だったのだけど、昨日の夜でそのバランスは決壊した。
土砂降りに雷雨で、それはもうひどかった。幸い、夕方には晴れ間も見えてきたし、今は月が雲の影をうつすことすらない。明日帰るときの心配は無用だろう。
ただ、今日はその悪天をいいことに、私はこの部屋に籠城することを提案。この悪天でも出歩きたい、という元気いっぱいな同行者とはお昼からは別行動だった。今日までの四日間でも結構遊び歩いたんだけど、その元気はどこから出てくるんだろう。
とはいえ、私の方は別にやることがあったわけでもなく、部屋の中でゴロゴロとしていた。
時間は無為に過ぎていく。
日もすっかり沈んだころに、ようやく目が覚めた。
さすがに食事をとらないのはどうか、と思い一階のレストランで食事を済ませて、部屋に戻る。
時刻は19時40分。普段なら、お風呂に入る時間だ。
いくら今日は自堕落に過ごしたとはいえ、行かないのは少し気持ち悪い感じがする。少なくとも、この状態のままダラダラしていたくない。
それに、ここの浴場は地下にあるせいか温泉もある。せっかくの旅行なのだし、味わえるだけ味わっておく方がお得というものだ。
いつもよりちょっと遅いけれど、同行人が帰ってくる前にささっと済ませてしまおう。
そう思ってお風呂の準備をしているときに、扉が勢いよく開かれた。
そこには、両手にレジ袋をぶら下げた同行者のレイが立っていた。
「オレンジ色のものを半分にする能力があるんだ」
帰ってくるなり、突然そんなことを言われて、私はなんて言えばいいのかわからなかった。
「ナユタ、君がそんな呆けた顔をするなんて珍しい。そんなに驚いたのかい?」
「……どういうこと、レイ?」
絞り出した言葉はそんなものだったけど、仕方がないと思う。
私の質問と困惑の中間みたいな言葉を聞くと、レイは待ってましたと言わんばかりに手に持ったビニール袋をごそごそと探り出す。
「こちら、証拠の品となります」
とん、という音とともに、オレンジ色の刺身が入った白いトレイが二つ部屋の奥のテーブルに置かれた。
透明なラップで包装されており、その表面には「半額」のシールが張られていた。
「……確かにサーモンの刺身が半額だけど」
まあ、オレンジ色のものが半分、という定義にはのっとっている。かもしれない。
「うん。おいしそうだろ」
いそいそとした調子で目の前のサーモンが開放される。
しかし、そんなことをされても困る。
「あの、私これからお風呂行こうと思ってたんだけど」
「……それは、今すぐじゃないとダメかな」
レイがおずおず、と言った調子で話すのを聞いて、もう一度テーブルを見渡してみる。
サーモンのほかに、すでにちいさな小皿に開けられていた醤油が二皿。
もうすっかり食べる体制は万端です、とでも言いそうな様子。
別に、私のお風呂なんてここでゴロゴロするよりは優先したい、という程度。
「……仕方ない。付き合ってあげるからその情けない顔をやめなさい」
「ありがとう! 先に、冷蔵庫にモノいれてくるね」
レイは手に持っていたたくさんのレジ袋を置く。そのうち一つを手にもつと、部屋に取り付けられていた冷蔵庫へのそのそと歩き出した。
残されたレジ袋を覗くと、ご当地、だの名産、だのと冠されたお菓子がたくさん。ここまで遅かったのはいろいろ巡って選んでいたからだろうか。
「しかし、よくもまあここまで大量のお土産を買ったもので」
「大型デパートなんて珍しいから、つい物色してたら、ね」
目移りしてぽんぽんかってしまった、ということか。
「……給料日まで持つんでしょうね」
「…………最近のホテルは冷蔵庫まであるなんて便利なものだよねー!」
レイの大きな声は、聴きたくないといわんばかり。
本人が目を背ける、というなら他人に口を出す権利はない。私も目をつむるとしよう。
「近頃のホテルなら大概常備してるでしょう」
「それにしたってちょっと大きいよ。ここで暮らせなくもない」
たしかに、一般のホテル用の冷蔵庫よりも明らかに大きい。普通の家庭用くらいのサイズであり、なんとなくこの部屋の風景からも浮いているような気がする。
「もしや……VIP待遇なのでは?」
「冷蔵庫が大きいだけでしょう」
「それだけでも他よりもよいものをもらっているということ。やはりVIP待遇なのでは?」
だとしたらあまりにもしょっぱいVIPである。
「代わりに、モーニングもディナーもないけど」
「ま、そのくらい現代のコンビニ事情の敵ではないのだ」
この窓から見える夜景の光源。そのうちのいくつかはコンビニなんだろう、と思えるくらいには現代はコンビニの宝庫だ。
「……コンビニ飯で満足できる人はそれでもいいだろうけどね」
別にまずいというわけではないのだが、さすがに毎日は飽きが来る。そして、一度飽きた、と思ったものに再度手を伸ばすのは少々気力がいる。
「む。ナユタがそんなこと言うから僕はわざわざスーパーでサーモンを買ってきたんだ。感謝こそあれ、文句を言われる筋合いはないね」
背後に気配を感じて振り返れば、両手に安い缶ビールを持って立ちはだかるレイが居た。
……あえて口にはしないが、刺身はともかく酒の方で手を抜くのでは片手落ちではないか、と思わなくもない。
「はいはい、ありがとう。お礼に今度なんか作ってあげましょう」
とはいえ、その心遣いは喜ばしいし、その行為を無碍にするつもりもない。
「本当かい? それはうれしいな」
少々投げやりなお礼だったかな、と心配だったけど、レイの声の調子から無用なものだったと思わされた。
「なら、そうだね。焼き芋作ってほしいな」
「……まあ、そろそろ旬だけど」
店先にも並び始める季節だし、今年は例年より冷え込んでいる。はやめに焼き芋、というのも悪くないかもしれない。
「ナユタ、もしかしてイモの種類を悩んでる? 焼き芋と言えばサツマイモだよ?」
別にそんなところで迷ったりしていたわけではない。
「いや、あまりに手の入れようがない物を頼まれたからびっくりしただけ」
「またまた。僕が作ると必ず丸焦げになるんだ。アレは熟練の技術で作られているに決まっているね」
オーブンに放り込んで待つだけのはずなんだけど、どうして焦げるのか。
「なんであれ、リクエスト焼き芋は受け付けましょう。楽しみにしといて」
「しとくー」
にこにこと笑うレイ。
焼き芋くらいでそこまで喜ばれると、こちらまで少し気分がよくなってしまう。
「しかし、なんで焼き芋?」
「あの素材の暴力みたいな味わいが大好きでさ。僕にとって秋と言えば焼き芋なのである」
「……なんかこう、アンタは素朴なものが好きだよね」
「素材のうまみを堪能してるのさ」
美食家みたいなことを言っているが、レイがまともに料理をしているところは見たことない。というよりも、焼き芋一つまともに作れないほどセンスがない。一人暮らしも長かったそうだし、買ってきた野菜なんかを生で食べてるうちにそういう味覚に育ったのかもしれない。
「あ、ナユタの作る料理は手が込んでるほど好きだよ」
「……そりゃどうも」
「特にナユタの作るアップルパイとか大好き」
何を食わせてもおいしそうに食べるので実感はなかったが、明言されると少々こそばゆい。
「顔真っ赤にしちゃって。そんなに照れなくてもいいのに」
からかうようなレイを聞いて、思いきりにらみつけてやる。けど、レイは意にも介せずにこにこ笑っている。
冗談なんかじゃなく、本心でほめてくるので本当にたちが悪い。そのうち、何らかの方法で仕返しでもしてやりたいところである。
「……それはともかく。その素朴な食事の一環としてこのサーモンを買ってきたわけなんでしょう」
テーブルにある二つのトレイ。その中身のサーモンの刺身は、一口サイズに切られたものだった。
「半額になったサーモンだよ、正確には」
お値段は一つ辺り約500円。それが半分になったものが二つ。要は合わせて500円である。
「半額だから二つ買った、ってこと?」
「そういうこと。元の値段は変わらないのに容量は二倍、というわけ」
レイはいただきます、とつぶやくとその件のサーモンを口に放り込んだ。
「……それはいいんだけど。さっきの半分にする能力、ってやつとは関係あるの?」
「もちろん。その能力を駆使してこのサーモンは僕とナユタの口に運ばれているのだ、と言っても過言じゃない」
過言じゃないかな。あえて言うことはないけど。
おいしそうに食べるレイを見て、私も一口食べてみる。半額と言ってもサーモンはサーモン。鮮度がどうこう、というほど私の舌は賢くないらしく、十分に美味である。
強いて感想を言うなら、日本酒でも買ってくるべきだったかも、というやり場のない後悔が少し湧いた。安い缶ビールだけが、この後悔の受け皿なのは少々さみしいかもしれない。
それよりも、レイの発言の方が気になるところ。
「能力、っていうけど。単に運が良かっただけじゃないの」
「まさか。……と言いたいところだけど、確かに半額になるまでこのサーモンが残っていたのは運がよかった、という側面も大きい。それは全面的に認めるところかな」
妙に殊勝に反省している。失敗を次に生かすスポーツ選手みたいな面持ちであるが、半額のサーモンごときにそんな闘志を込める必要はないと思う。
「ともあれ、逆に言えば、半額にする、ってところまでは実力である、と」
「うむ」
レイはこれ以上ないくらいに仰々しくうなずいた。
「そこまで言うくらいなんだし、よほどなんでしょうけど。何をしたのよ」
「それは……そうだ、ナユタが当ててみてよ」
名案だ、と言わんばかりにレイは手をたたく。
「また急に無茶ぶりを」
「ヒントはこの窓から見える空。どう、やる気になった?」
目を輝かせながらレイはこちらを覗き込んでくる。
突拍子もない思いつきだこと、とは思ったけど、話のタネにはちょうどいいかもしれない。
「それでもヒントは少ないし、私が聞きたくなったことに答えてくれるなら頑張ってみてもいいかな」
「おーけーおーけー。直接的なこと以外は答えるよ。タイムリミットはこの食卓からサーモンが消えるまでだ」
先ほどまで二つのトレイ合わせて二十枚くらいあった刺身は、今15枚ほど。それなりに時間には余裕がある。
しかし、せっかく無茶を言われたのだし、こちらも言い返しておこう。
「なんか賞品みたいなのはあったりしないの?」
「んー、じゃあ、視界一杯のご褒美、なんてどう?」
適当に言ったつもりだったのに、レイは乗り気で答えてきた。
もしや、そこまで言われることも織り込み済みであったのだろうか。
「そのご褒美とやらがあるなら考えてみようかな」
「よーし、じゃあスタート」
その掛け声とともに、食卓のサーモンが一つ減った。
「先に前提を確認しておくけど」
レイは口元をもぐもぐと動かしながらうなずいた。
「この半額のシールを後から適当に張った、とかそういうインチキはしてないのよね」
もう一度、レイはこくりとうなずきながら、一枚の白い紙を差し出してきた。
そこには、半額のサーモン、缶ビール、そしてミネラルウォーターと明日の朝食らしきお弁当が二つずつ印字されていた。それも、今日の日付である八月三十一日で。
「超能力だの魔法だのを使いましたーなんてことは?」
ごくん、とレイの喉が鳴る。
「そんなメルヘンでもファンタジーでもないんだから、ありえないでしょ」
手と首が同時に横に振られた。
まあ本当に超能力でした、なんて言われても困るが。
「それなら、半額になる理由から攻めるべきかな」
生鮮食品が半額になる理由は、単純に売りさばくためである。
明日になれば廃棄するしかないものであるから、半額という捨て値で売り払った方が店としても被害は最小限で済む。
「まっとうに行くなら、毎日の半額シールが張られる時間帯をチェックして、その時間帯に行けば半額になった瞬間に買えるけど」
「この五日間、そんなことしてたように見えた?」
「いや、まったく」
今日は別行動だったけど、それにしても傾向を判別するのは一日では不可能だろう。
事前に調査していた、という手もあるかもしれないが、私たちの住むところからははるかに遠い。
「もしかして、地元がこの辺だったり?」
「いいや。今も昔も住んでるところは変わんないよ」
であれば、昔住んでいたから熟知している、ということもないだろう。
「……夕方に行けば大概は売れ残っているものは半額になるだろうけど」
「半額になる時間帯って店によって、しかもその日の売れ行きによるから、アタリをつける、ってのは難しいんだよね」
行き慣れた店なら別だが、この旅行先では普段から行き慣れている店などあるまい。
つまり、半額の時間を推測するための情報が足りない、ということだ。
「なら、スーパーの店員さんにいつ半額になるか聞いてみるとか」
「……聞いてみたけど、ダメだったよ」
悲しそうな顔で、レイは遠くを見つめた。
「なら、ネットで調べるとか」
「もしかしたらSNSとかで共有されてる情報があるかもしれないけど、僕には見つけられなかったな」
「なるほどね」
ダメダメ尽くしではあるが、おかげでなんとなく答えは見えてきた。
「へぇ、もう答えが分かったんだ」
レイがサーモンを一口。いつの間にか、食卓のサーモンはなくなっていた。
ちょうどタイムリミットだ。
「ええ。私なりの答えを発表しようかな」
レイはにやりと笑う。
「じゃあせっかくだ、推理ショーでもやってもらおうかな」
テーブルに備えられていたリモコンにレイの手が添えられると、途端に部屋の明かりが消えた。
「ちょっと、急に電気消さないでよ」
「いいじゃないか、それっぽいだろう?」
蛍光灯が消えたおかげで、この部屋の明かりは外から入ってくる月明りくらい。
正直、ショーと言えるようなものではないと思うけど、暗くするだけでも雰囲気は出てきたような気はする。
「それじゃあ事件の概要……といってもアンタがサーモンを半額にする能力がある、なんて言い出しただけのことだったけど」
「オレンジ色のものを半分にする能力だよ。間違えないでほしいね」
似たようなもんじゃないかな、と思う。
「どちらにせよ、この半額のサーモンの入手が今回のキーでしょう」
「まあ、それは間違ってない」
どうやってこのサーモンを入手したのかというのが問題だ。
「はじめに、このサーモンは間違いなく半額で購入されたものだった」
「うん。それも間違いない。このレシートが示すとおりだ」
ぴらぴらと小さなレシートがレイによって揺らされる。
「次に、アンタはこの一帯の正確な半額の時間帯を知りえない」
「その通り。何にも知らなかった」
威張って言うことでもない。
「そして、今日の悪天にも関わらずアンタはお昼を食べた後ほっつき歩いていた」
「お昼には雨も弱くなってたけどね」
その辺はどうでもよくて、なんであれレイにはそれなりに使える時間があった、ということ。
「もう一つ、店員さんに聞いてみたり、SNSでダメもとであれ調べるくらいには、このサーモンを半額で得ることに精力的だった」
「ま、ただの偶然じゃあないってことだ」
それ以上に、レイがそれなりの労力を要してこの半額のサーモンを勝ち取ろうとしていた、という証左でもある。
「最後に、アンタはしょうもないことでも大げさにしようとする」
「…………そんなことはないと思う」
少なくとも、わざわざサーモンを半額で買うことを能力があると言ってみたりとか、部屋を真っ暗にして推理ショーなんかやらせようとしてみたりとか。そんな人間が物事を大きく見せようとしないわけがない。
「この過程から導き出される結論は」
つまり、答えは実に単純なのだ。
「半額になるまで張り込んでいただけ。違う?」
ぱちぱちぱち、と小さな拍手が聞こえてきた。
「正確にはお土産を買う合間にチラチラ様子をうかがっていた、とかなんでしょうけど」
「もうバッチリ。まるで見てきたかのような素晴らしい慧眼だ!」
なんかこう、持てる限りの言葉でほめようとしているのが伝わる。
「というか、他の手段なんてないでしょう、という消去法だけど」
「ま、あてずっぽうじゃない結論にたどり着いたわけだし」
「……結局、能力なんて使ってないような気もするけど」
「使ったのさ、忍耐力を」
屁理屈ではないか、という気もしたけど、この結論からして似たようなものである。
結局、本当に簡単な落ちだったのだ。
しかし、腑に落ちない点がある。
「……ヒントの空、ってのは天命を待つ、みたいな意味で言ったんでしょうけど。結局なんでサーモンを半額で買おうとしたのよ」
「その辺りも推理できない?」
レイは不思議そうな顔でこちらを見ている。
「推理も何もないでしょう。アンタの心持次第だし」
「……ま、ネタ晴らしすれば簡単だけど。そろそろ時間だし、視界一杯のご褒美を優先しようか」
「……時間?」
腕時計を確認すると、19時59分の針が、ちょうど一分だけ傾いたところだった。
その瞬間、耳に甲高い音が聞こえてきた。
「ほら、アレだよ」
レイが窓の先を指さす。
そちらに目を向けると、夜空を埋め尽くすようなオレンジ色の光の花が広がっていた。
「……花火?」
空を切るような音と、破裂音が響き合いながら、夜空を明るく彩っていた。
なんだか、その花火はとても近くに見えた。
「この辺り、毎日20時から三十分間花火を打ち上げるんだよ」
「……知らなかった」
「だろうね。ナユタはちょうど花火を打ち上げてる30分間にお風呂に行っちゃうんだから」
地下にある浴場からは夜空なんて見えはしない。
この部屋にいない限り、視界一杯の花火に出会うことはなかったのだ。
「……じゃあ、アンタの目的は」
「この部屋に20時までナユタを居残らせることなのでした。それも、理由を知らせずに」
いたずらっぽく笑うレイの顔は、花火に彩られて、とても――。
「この花火、ホテルから見るとすごく大きく見えるって評判だったから」
黒を埋め尽くすように、光が奔る。
その光景は、少しだけ。
「この景色をナユタと半分こにしたかったんだけど。どうかな」
魔性で、理性を奪う。
「――とても綺麗」
光が、重なり合う。