あるくように、そしてうたうようにゆつくりと(緩徐楽章)
どこからかパトカーのサイレンが近づいてくる。
(今さら慌てて駆けつけても、死人は急がねーっつーの)
芽吹きもだいぶ開いて、緑色の葉が増えてきた枝を見上げながら上下奈々芽は、ぼーっとそんなことを考えていた。
「かみしもぉーっ! 帰ってこーい」
そんな自分の世界に閉じ籠もりがちな奈々芽のことを、よく判っている同僚の田久保光一が大声をかけてきた。
「いや、どこにも行っちゃいないですけどね」
瞼が下り気味の目線で、この冷たい空気の中でも汗を拭いている光一を見る。柔道家であり逮捕術の競技会で入賞したこともある相方は、まるで工事現場の作業員が昼飯時に抱えている弁当箱のような、真四角な顔をしていた。
そんなスペックから誰もが振り返る美青年であるわけもなく、光一は太い猪首に頼もしい肩幅を持った普通のおっさんに見えた。
(ふむ。奥さんとの仲は相変わらず順調か)
彼の糊がきいてパリッとしたシャツを見て奈々芽はそう思った。彼女の方はまるでテレビに出てくるキャリアウーマンを地で行っているようなシルエットをしており、黒にとても近い茶色のスーツに同色のパンプスを合わせていた。
本当ならば真っ赤なハイヒールの方が似合うのではないかと、お洒落に疎い自分でも思うのだが、服務規程で踵の高い履物が禁止されているのだから仕方がない。そんな服務規程が存在する理由も身に染みて知っている奈々芽は、何に対しても反骨精神が暴れ出す自己の性格を押さえ込み、あえてその規程に反逆しないようにしていた。
「で?」
どのような事態でも冷静に対処する、それが奈々芽の職場に求められているものだ。肩書きは警視庁刑事部捜査第一課所属の警部補という厳つい物。この若さで叩き上げのわけがない、かといって階級がちょっと低いのは、先程述べた反骨精神のせいで上司にはあまりいい印象を持たれていないからによる。ただ性格に難があっても能力には関係なかった。普通の婦警ならば交通課にでも飛ばされそうなぐらい性格は悪い。しかし、それさえも霞ませるほどの、国内外からの高い評価が、彼女に一課の席を与え続けていた。ドイツ、フランス、そしてアメリカ各州へ研修として赴き、そこでとても高い成績を残しているのだ。
光一の肩越しに、この小さな幼稚園には似つかない物が、飾られるようにして遺棄されているのが目に入る。
「何人か見あたらなくなったようだけど?」
今になって気付いたと言わんばかりに、奈々芽はあたりを見まわした。一緒の車でやって来た所轄の若い刑事が半ダースほどいたはずだが、どこにも見あたらなかった。
「トイレに駆け込んでケロケロやってるよ」
同情するように四角い顔を歪める光一。彼はこの癖のある相方と組んで結構になる。普通の男ならば腹を立てるようなことを奈々芽に言われても、表情を悲しそうに変えるだけで受け入れる度量の大きさが彼にはあった。
本人は、頭の方は彼女に負けるが、腕っ節で助けることができると思っているようだ。それよりも町のお巡りさんといった、いつでも失わない優しさを持った人格の方で、奈々芽を助けていることの方が多かったのだが。
「なんで?」
理解できないのか奈々芽は光一に尋ねた。
「そ、そりゃあ無理ないだろ」
本人は戯けて言っているつもりなのか、輪郭と同じ四角い眉が額の上の方へ寄せられたが、現実の悲惨さがそれを許さなかったのか、声はだいぶ硬い物だった。
「あんなもの。安物のハリウッド映画ならゴマンと出てくるでしょうに」
鼻息を一つ吹いてから、地面に敷かれた黄色いビニールシートから外れないように歩き出す。
二人の向かう先には、複数の紺色の作業着を着た人間が作業を行っていた。その中心で両腕を広げるようにして、仰向けで大の字になっている人物が、動かなくなった眼球で、上空を流れる雲を見つめていた。
園庭には、幼い子供が転んでもケガをしないように、細かい砂利が敷き詰められていた。その上に鑑識が終わるまで、捜査員たちが余分な足跡をつけないように、通路用を示すビニールシートが延ばされていた。
その園庭に磔となった被害者を、通路用ビニールシートから見おろす。
それがしきたりだからといった程度の仕草で手を合わせてから、奈々芽は光一へ事務的に話しかけた。
「身元は?」
「それは現在照会中らしい」
「同じね」
奈々芽はしゃがみ込みながら対象の観察を続けた。
「ああ。このあいだの中学生と同じだ。頭を殴りつけて人事不省になった被害者の腹をかっさばいてる」
「でも前回とは、ちょっと変えてある」
二四時間前は普通に暮らしていたはずの存在を前に、とても事務的な口調を崩さずに奈々芽は言った。
「手と足の指を全部切り飛ばしている」
「悪趣味だな」
光一の声もなるべく平板な物へと変化していた。人間の死体を前に不謹慎なようでもあるが、最高の供養はこんな形に被害者を加工した犯人を捕まえることだということが判っているのだ。多少の同情心や共感などで感情を揺らして、大事な手がかりを見落とす方が被害者に失礼であろう。
工事現場で使われるような木の杭が、被害者の脇腹を貫通しているように見えた。杭には丁寧にも横木が縛りつけられており、まるで某宗教のホーリーシンボルのようだ。
その姿は、三月に中学生が犠牲者となった猟奇殺人と同じように見えた。が、奈々芽が指摘したとおり、今回はわざわざ裸足にされた足の指まで切り刻んであった。
そして最大の特徴は、被害者の腹部が切り開かれて、そこら中にハラワタが散らかしてある点だ。これは三月の犠牲者と同じだ。
新鮮な血の臭いを嗅ぎつけたカラスどもが、木々の間からこちらの様子を窺っている。臓器の内二つ三つは変形していたので、彼らの朝食になった可能性もあった。
この強烈な特徴はマスコミ発表をしていなかった。いや、発表できるわけが無い。よって前の事件を模倣した別の人物による犯行ではないことが自動的に判った。
「今回もか…」
奈々芽は被害者の足元にしゃがみ込んだ。そこには突き刺した鉛筆で一枚のメモが地面に留められており、そこに横文字で何かが書いてあった。
「Eli、 Eli、 Lema Sabachthani?」
流暢に読んだ奈々芽を、光一は驚愕の面持ちで見おろした。
「かみしも、判るのか?」
「簡単じゃない」
それが幼稚園児の書いた平仮名の文章であるかのように、奈々芽は半分だけ光一を振り返った。
証拠物に触れないように気をつけながらも、細い指先を向けてもう一度読み上げる。
「エリ、エリ、エマ サバクダニ」
しかし学生時代に英検を合格したことのある光一ですら、なんという意味か皆目見当つかなかった。
「なんだ? スペイン語か?」
「ヘブライ語よ」
奈々芽は、つまらなそうに言って、半眼がちな彼女の目がすっと細められた。
「意味は『神よ、何故に我を見捨てたもうや』」
「呪いの言葉か? ますます猟奇じみてきたな」
光一が奈々芽の肩越しにメモを見おろして、興奮したのか鼻息を荒く言い放った。
「盗作だけどね」
あっさりとばらして奈々芽は立ち上がった。
「とうさく?」
「ええ。あなたも知っているでしょ『ナザレのイエス』ぐらい」
「なざれのいえす?」
首を傾げる光一。
「イエス・キリストと呼べば判るかしら」
「おお」
今度はポンと手を打つ。
「ナザレのイエスがゴルゴダの丘で磔刑になった時に、天を仰いで最後に言ったとされる言葉よ」
「なんでも知ってるなあ」
光一が感心した声を漏らすと、奈々芽は今までの作っていた顔を、ちょっとだけ照れくさそうに変化させた。
「前回の事件で調べたもの」
「いや。それにしたって凄いぜ。オレならまだ何語かすら判ってないだろうからな」
「まあ、こういう『趣味』に走るヤツの傾向ぐらいは、向こうで教わったから」
種明かしの瞬間だけ見せた年相応の表情は霧散し、もとの犯罪を分析し犯人を追い詰めるための顔に戻って奈々芽は言った。その横顔を残念そうに見た光一が、もとの無骨な声に戻して訊ねた。
「で? やはり、これは警察庁広域犯罪者に指定されている『ペテロ』の仕業なのか?」
「さあ」
つまらなそうに腕組みをして奈々芽。
「彼とはちょっと手口が違うような気がするわ」
「だが捜査会議では『ペテロ』犯行説が有力だぞ」
「ねえ」
まるでドーナッツの種類を訊ねるような口調で奈々芽は相棒を振り返った。
「我々が知っている『ペテロ』って、どんな犯罪者?」
「ううーん」
再び光一の四角い眉が顰められた。眼光が鈍くなり、焦点があやふやになる。
「ここ二〇年近く日本各地で猟奇殺人を続けている異常者だ。最初は俺たち警察もマスコミ発表を続けていたけど、模倣犯が現れちゃいかんと、最近じゃ積極的な開示派に対して、慎重派の方が優勢だな」
「それだけじゃないわ」
やはり半眼で被害者を見おろしながら奈々芽は補足した。
「プロファイリングでは知能は高く、おそらく地質学に長けた人物であろうと思われている。なぜなら、彼が初めて訪れたであろう土地での立ち回りが、あまりにも見事すぎるから。地図を見ただけでその土地の風土を想像し、そこから繁華街の通行人の様子から街灯の本数まで想像できる能力がないと、人目を避けることが難しいはず。彼の場合は犯行の瞬間どころか、逃走経路なども目撃されなさすぎている。もちろん自動車を運転することも判っているが、大都市近郊で暮らしている以上のことは判らない」
「足跡すら残さないバケモノだっていうんだろ」
初めての土地ならば地面が土なのか舗装されているのか、ぬかるんでいるのか乾いているか等の情報が決定的に不足し、足跡ぐらいは残しそうなものである。しかし『ペテロ』に限っては、長年そこに住んでいる者(または、住んでいた者)のような立ち回りしか考えられないような動きで犯行を続けていた。全国の警察が追っている連続猟奇殺人犯であるが、今年に入るまで二人にとって対岸の火事であったはずだ。なぜなら…。
「とうとう東京に現れた…」
国家警察がない日本では、県境を超えた犯罪に対する捜査は後れがちになる傾向があった。それも計算の内なのか『ペテロ』と呼称されている殺人者は、連続して同じ地方で犯行を重ねることは少なかった。
「会議では彼の犯行と思われているようだけど」
面白く無さそうに奈々芽は半眼の視線で光一を睨み付けた。
今のところ疑われている『ペテロ』と呼称されている殺人鬼も、何か硬い物で頭部を打撃し、人事不省になったところを、なにか大きな刃物で腹腔を切り裂いて芸術品を作るのが、主な犯行パターンであった。
そして短い文が書かれたメモが残されている点も同じである。
「違うわね」
しかし奈々芽は断言した。
「そうなのか?」
「第一に、彼はこんな短期間に犯行を重ねない。第二に、彼が好む日付と違う。第三に、残されたメモの内容が違う。第四に、今まで避けていた東京で仕事をしたから。あと八つほど上げられるけど、もっと理由が必要かしら」
「管理官にも同じ事を言ってやれよ」
「嫌よ。どうせ信じてくれないもの」
奈々芽はもう用が無くなったとばかりに、プイッと被害者へ背中を向けた。管理官というのは捜査会議で議長として、この先の捜査方針を決める二人の上司にあたる人物だ。
今日の早朝において『連続殺人捜査本部』と看板が掛け替えることになった捜査会議では、この事件担当の管理官の強い意向(もしくは思いこみ)によって、『ペテロ』犯人説が有力なのだった。
「でも…」
奈々芽が幼稚園の園庭を振り返った。
そこには点々と被害者の物と思われる血痕が落ちていた。足跡の方も、下が細かな砂利が一面敷いてあるので、もちろん残っている。が、不思議と加害者と思われる物は見当たらない。
被害者はOLと思われた。履いていた物は見つからないが、おそらくハイヒールと思われる跡が、血痕のそばに残されているのが見て取れた。
他にたくさん残っている足跡は、全部小さい足跡だった。おそらく園児たちが昨日つけたものだろう。
「おかしいわね」
奈々芽は光一に話しかけるでなしに、首を捻った。
「なにがだ?」
「あっち…」と幼稚園の門へ最短距離で歩き出そうとする彼女の肩を、光一が掴んだ。
「通路を通らないと」
「そうね」
大股で、鑑識が敷いた黄色いビニールシートの上を歩き、園舎の方へ遠回りしてから正門へと近づいた。
そこでも幾人かの作業服姿をした鑑識係が、地面に這うようにして血痕の採集を行っていた。
遠く離れた被害者と、その血痕を見比べた奈々芽は、さらに農業用水に沿った道へ振り返った。片方は国道への上り坂へ、片方はこんもりと木立が盛り上がった、何かがある方向へ繋がっている。
奈々芽の目は、その木立の方へ視線が移動した。
「?」
黙って後ろに立つ光一は、戸惑うばかりである。
「ここで最初に襲われた?」
「んだろうなあ」
奈々芽の独り言に相槌を打つ。
その声で、背筋を伸ばしなおした奈々芽は、チラリと光一を見てから、路面を観察しつつ、さっき視線を向けた方へ移動を始めた。
つま先立ちでひょこひょこと足を出すので、まるで足の長い水鳥が歩くような仕草だった。
すぐに手を上げて光一を呼ぶ。
「どした」
「ほら」
彼女の細い指先が、何かを指し示していた。
「別の血痕がある」
「まさか」
光一は、よく見ようと腰を曲げた。
アスファルトのヒビから生えた雑草に、黒い液体がついているような気がした。
「鑑識さーん!」
慌ててオーバーリアクションを取って、幼稚園の正門前を調べていた鑑識係を呼んだ。集団の中から、何事かと一番年下らしい若い男がやってきた。
「ここにも血痕が」
「え?」
光一が指差した地面に、若い鑑識係はしゃがみ込んだ。腰のベルトに差していた薬品を吹き付け、手で小さな影を作って、覗き込むようにした。
ピクッと背中が跳ね、正門前に振り返った。
「ヨシさん! ここにも!」
「なんだって?」
今度は見るからにベテランといった男がやってきた。二人で奈々芽が見つけた新しい証拠の鑑識を開始する。
「よく見つけたなあ」
若い者の横にしゃがみ込んだベテランが、感心した声で光一を振り仰いだ。
「いや、オレじゃなくて、かみしもが…」
そこまで言いかけて、相方がいないことに気が付いた。慌てて見回すと、奈々芽は、道の先で地面を見ながら手を振っていた。
「なんだよ」
あれは呼んでいるんだろうなと、光一は小走りで駆け付けた。すると再び奈々芽は地面を指差した。
「ここにも」
「ええっ!」
光一は、先程の血痕を調べている二人に振り返った。両手を添えて大声で知らせる。
「すいませーん! ここにも!」
「なんだって? おい」
ベテランは、二人じゃ追いきれないと判断したらしい。若いのを幼稚園の方で仕事をしている仲間の方へ走らせ、自分だけやってきた。
そのまま光一はベテランへ新たな血痕をまかせ、いつの間にか先へ行っていた奈々芽に追いついた。
「ここ」
親指で、道の先にあった小さな公園のような林を示した。一目で全体を見渡せるほどの広さしかない。その周囲は農地である。
「入って怒られないかしら」
「怒られないだろ」
光一は反射的に答えてから、敷地と道の境にある門柱に気が付いた。そこにはだいぶ古びた木製の看板があって「清隆学園農学部実験林」と書かれてあった。
「い、いちおう大学の敷地は公園扱いだから、入るぶんにはいいんじゃないか?」
光一は周囲を見回した。立ち入り禁止などの看板は無い。ただ、ここは清隆学園の私有地であることを示す看板だけだ。だが、近くに校舎や実験施設などまるで目に入らない。おそらく大学から飛び地の様に離れた土地なのだろう。
実験林と書いてあるが、何もやっている気配が無い。おそらく近所では公園のような扱いを受けているのだろう。子供が忘れていったのだろうか、ピンク色をしたビニール製のボールが転がっていた。
「ふん」
鼻を鳴らしたような頷き方をした奈々芽は、道でもやっていたように、下を見ながら歩き出した。
「ここ、あと、ここ」
「まずいな」
入るだけなら問題は無いが、鑑識などが入って捜査となると、私有地ゆえに大学側の許可を取らなくてはならなくなる。光一は連絡するために、上着から携帯電話を取り出した。
捜査本部へ直接電話をかけて、門柱にあった清隆学園と交渉してもらうように依頼する。
その電話の間にも、奈々芽の足は止まらず、実験林を抜けて反対側の道まで出てしまった。
仕事が増えて渋い返事しか返してこない電話を早々に切り、その場でウロウロと回り始めた奈々芽の横へ急いだ。
「まだあったか?」
光一の問いかけに、奈々芽の動きが止まった。身長差から見上げてくる。
「最初の犯行現場は、ここだな」
顎で道の反対側にある梨畑を囲うフェンスを示した。
「そこに隠れていて、まず一撃」
目線が移動して、実験林の入り口を向いた。
「そこで、二回目の打撃」
奈々芽の目が差したのは、道路と実験林の境目だった。捜査課で飯を食ってきたはずの光一が見ても、周囲に暴力が行われた痕跡は、一切見られなかった。
「よくわかるなあ」
こりゃ鑑識係の増員を頼まないといけないかなと考えつつ、光一は感心した声を漏らした。
「でも、次に襲い掛かったのは、幼稚園の前ね」
「は?」
木立を透かして見ると、直線だが、けっこう離れていた。
「そして、加工したのは園庭」
「なんで、そんなことしたんだろ?」
「そうね」
幼稚園の方向へ戻りながら、奈々芽は再び考える顔になっていた。
「この林なら、暗いし、周囲からも目撃されづらいだろうし、こうして出入りも自由だし。襲うには、ちょうどいい場所のはず…」
小さな公園程度の広さしかないが、実験林の敷地には、一切電灯の類が設けていないようにみえる。夜ならば街灯がある道路より闇が濃いであろう。
実験林を再び出たところで奈々芽の足が止まった。林を振り返ると目を細めた。
「待ち伏せするにも、あのフェンス脇よりも、こちら側の方が有利だったはず」
「虫かなんかいて、イヤだったんじゃね?」
光一の、ちょっとおどけた言葉に、目だけで呆れてみせた奈々芽は、自分の顎を何度も撫でた。
「たしかに、それは言える。犯人には、ココに入ることができない、何か理由があったのかも…」
そのまま奈々芽は、晴れている空を見上げて固まってしまった。
光一は、雲を見ている奈々芽が、そのまま大気中に消えていく錯覚を得て、慌てて声を張り上げた。
「お、おい。かみしもーっ。どこかへ行くなー」
それに対してキョトンとした顔をした奈々芽は、親指で国道の方を示した。
「どこって、コンビニよ。あなたもどお?」
振り返って微笑む才媛。光一は何故か頬が赤くなっていく自覚があった。
「なんだよ、サボりかよ」
諦めたように溜息をつく相棒に、前を向き直してニヤリと笑ったはずの奈々芽は、その表情のまま半分だけ振り返った。
「なにを言ってるのよ。仕事よ」
春の陽差しが麗らかになってきた清隆学園高等部で、最近の一年一組は授業が終わると騒がしくなっていた。
原因は一番廊下側の列に座る、道着姿の女子にあった。終了のチャイムと同時にドヤドヤと複数の上級生が押しかけてきて、彼女を取り囲むのだ。
「また、おぬしらか」
背筋を伸ばして授業を聴いていた久我五郎八が感心したように腕を組んだ。
「だって久我さん。この間『ツカハラ跳び』をしてみせたじゃないか。ぜひとも我が体操部に!」
「女の子だったら美しさを求めるべきよ。その点、我が新体操部なら、レオタード姿で男どもなんて悩殺よ」
「その身のこなし。君はカバディをやるための才能を秘めている」
「ラグビー部のマネージャーに…」
「インディアカ同好会を忘れないでいただこう」
「今入ると、霊験あらたかな、この壺が…」
「甲子園で僕と握手!」
「我が卓球部の門戸は開かれておる」
入学式のあった日の午後に、どこか運動会系の部活を望んでいると公言した後に見せたツカハラ跳びのおかげで、勧誘するために各運動会系部活のスカウトが押しかけてきているのだ。そろそろ各スポーツも新人戦を考える時期なので、優秀な人材と思われる相手には、少々過熱気味の勧誘合戦が繰り広げられていた。
椅子に座ったままの腕組みで、周囲の騒ぎ立てるスカウトたちの喧噪をしばらく聞き流していた五郎八であったが、なにを思ったのかすっくと立ち上がった。
「?」
五郎八の考えが判らなくて、一瞬静まるスカウトたち。もしかしたら、あまりにも騒ぎ立てたので嫌になってしまったのではないだろうかと、各人が思い始めた頃、五郎八が短く告げた。
「かわやだ」
そのまま席を離れて廊下に出る。すると慌ててスカウトたちがその背中を追いかけた。
「ウチの選手だってツカハラ跳びできる奴なんて、数えるほどしかいないんだ。体操部に来てくれないか? 君ならすぐに選手だよ」
「新体操部なら男の子にもてること間違いなし。だってミナミちゃんも新体操部だったでしょ」
「カバディだ。カバディの神が君にカバディをやれと言っている」
「ラグビー部のマネージャーに…」
「今入ると、この金色の塔が…」
「とてもマイナーな競技かもしれないが、インディアカを嘗めないでいただこう。けっこうハードな競技なのだ」
「俺と一緒に甲子園を春夏連覇しようではないか」
「最近では卓球人気もバカに出来ないんだ。ほら有名選手も多数生まれていることだし。テレビで取り上げられるし」
そのまま一同は階段脇の女子便所の扉をくぐりかけ、半数以上を占めていた男子たちが慌てて飛び出してきた。その背中を、扉の向こうからの女子たちが上げる悲鳴が追いかけた。
「体操部にだって女子の床とか華やかな競技があるのよ。それに鞍馬とか吊り輪とか、一つだけじゃないから飽きないし!」
「隣の男子新体操部みたいに、酸っぱい臭いなんてしないのよ!」
「インディアカ同好会を忘れないで」
「今、入部すると、このビンに入った聖水が…」
「卓球! 卓球をやりましょう!」
女子便所の中からは、まるで何かの応援でもしているような、女子のスカウトたちの声が廊下にまで聞こえてくる。するとバンッという大きく扉を開ける音がして、道着姿の五郎八が目の前の階段を飛び降りた。
「あ! 逃げた!」
非難するような声に振り返りもせずに、二階との踊り場で答えた。
「かわやの中ぐらい、ゆっくりさせろ!」
だが、それで彼女が外に飛び出してきたことが周囲に判ってしまった。
「久我さーん!」
「ラグビー部のマネージャーに…」
「この書類にサインを!」
バタバタと女スカウト数人が追いかけ、数テンポ遅れて廊下で待っていた男スカウトも後を追った。
再び五郎八は階段を飛び、二階へと飛び降りると、B棟ではなくD棟を北へ走り出した。
追っている連中も、みなスポーツをやっているだけあって相当速い。だが流石にスカート姿では全力が出せないのか、段々と女子が引き離され、代わりにスタートで遅れた男子が距離を詰めてくる。それにしても陸上トラックのように整備されていない床に、上履きという悪条件である。他の通行人という障害物もあった。
その点、五郎八自身は道着を着慣れているし、自称『もののふ』だけに俊敏であり、いつもと大してスピードは変わらなかった。
「あ、イロハ…」
かわしていく一般生徒の中に、弓原舞朝もいて、スカウトたちから逃げる彼女へ声をかけてきたが、応対している暇などなかった。
中央廊下を疾走しC棟の角を折れた。
「フッ。競技会で一〇〇メートル一〇秒〇一(追い風参考)を出した僕から逃げられると思っているのかい」
陸上部短距離走エースの沼田が、ニヒルな微笑みと自分では思っているものを浮かべて、その直後に角を曲がった。
「なに?!」
暗いC棟の廊下には誰の姿もない。向こうまで図書室から音楽室までと各種教科教室が並んでいるから、けっして短い直線ではないのだ。
「消えた…」
「消えただと?」
次に追いついてきたバスケ部の部長が、沼田の言葉を聞いて驚きの声を上げる。
「そんなバカな。忍者じゃあるまいし」
「しかし、この一〇〇メートル一〇秒〇一(追い風参考)の僕から逃げられるはずがない」
「手品かなにかじゃないのか?」
次々とスカウトたちが追いついてくる。さすがに息が上がっている者も多いが、それなりに体を鍛えている面子である。すぐに体力は回復した。
「まさかトリックか?」
(脳みそまで筋肉で、できておるのか?)
五郎八は扉越しにその会話を聞いてそう思った。種明かしをすれば簡単なことだ。五郎八は廊下の角を曲がった瞬間に、開いていた扉に飛び込んで閉めただけだ。
「おやおや?」
廊下の気配ばかりを窺っていた五郎八に、室内から声がかけられた。
「!」
振り返るとそこは五郎八には見慣れない部屋で、一〇人前後の生徒がこちらを見ていた。これが優輝ならば知っていたであろう。奥には作業用のテーブル。手前にはソファを揃えた応接セット。可動式パーテーションの向こうにある白い縦型円筒形の給湯器に、持ち込んだ私物の湯飲み。なんのことはない図書委員(と図書室常連組)が根城にしている司書室である。
「どうしたのかな?」
まるで相撲取りのような縦にも横にも大きさのある男子が、のっそりとした雰囲気で振り返っていた。襟につけたクラス章や履いている上履きなどの学年カラーから二年生だということが判った。
「どうやら一年生のようだね」
巨体の向こうから銀縁眼鏡をかけた男先輩が覗き込む。優輝が入寮日に出会った権藤正美であった。
「図書委員会に何か用かな?」
最初の巨漢が人好きする笑顔で訊ねた。
「って。自分、図書委員どすか?」
他の誰かが怪しげな方言で確認すると、巨漢がそちらに振り返ってニッコリと答えた。
「いいや。監査委員」
「その自分が、なぜ訊く?」
「いや、ほら。なにかせっぱ詰まったようだったしさ」
(この巨漢。動作を鈍そうに見せかけているが、相当できるな)
五郎八は相手を観察して確信した。
(自分より体の大きな相手には、間合いを詰め迅速に急所を撲つ)
そこまで考えて、なにも戦うためにこの部屋へ入ってきたのではないと五郎八は思い直した。
「ええと。入り口を間違えたのかな? 図書室は隣よ」
巨漢の向こうから背の高い女子が顔を覗かせた。
「!」
あまりの眩しさに五郎八は目を瞬かせた。最初はそこに特大のスクリーンが立ててあって、コンピューターで合成した映像が映し出されているのではないかと思った。それがあるかないか判らないほどの空気の動きで、アップにまとめた首筋の後れ毛が揺れたので、そうでは無いことがわかった。ショーウィンドウに並べられているマネキンよりも完璧、テレビや雑誌で目にする本職のモデルよりも美しい少女がそこに立っていた。
生徒会が毎月行っている非公然活動である学園(裏)投票で決められる『学園のマドンナ』で確実に上位に入るような美少女がそこにいた。
じつは五郎八は知らないことだったが、彼女は去年一年間そのタイトルを維持し続けたという、学園始まって以来の人物だった。最近ではトトカルチョが成り立たないので、彼女を殿堂入りさせて二位以下でタイトルを争わせようと生徒会が画策しているらしいが、彼女の美の信棒者たちがそれを許さないらしい。
歴代の『学園のマドンナ』に選出された者の中でも最高の美少女。名前を佐々木恵美子といった。
天文部で舞朝に対する同性愛を公言している愛姫と違って、五郎八にはその気は一切無いが、圧倒的な美の前に声を失ってしまった。
「あれ? どうしたのかな?」
固まってしまった下級生に、恵美子が心配そうに声をかけた。それでも五郎八からの反応は無かった。
黙って硬直してしまった下級生を前に、室内にいる者同士で顔を見合わせていると、恵美子の横で腕を組んで椅子に座っていた少年が立ち上がった。
「?」
ちょっと彼女の肩を押して自分の通る道を作ると、五郎八へ歩み寄りながら、少々鼻にかかった声で言葉をかけた。
「ちょほおいと待ちな」
「は?」
一同が目を点にしている中で、キリリと締まった表情をした少年は言った。
「お嬢さん。一曲いかがですか?」
衆目監視の中、どこかしらからウクレレを取りだしたその少年は、渋い低音の声で歌い出した。
「♪このよーに、そーんな…」
「どうしたの? 彼?」
恵美子が突然歌い出した少年の背中を指差して訊ねた。
「ああ、空楽ね。まあ、ほら判るでしょ」
正美が言葉を濁した。
その少年、不破空楽の頭には『まるで五分ほど前に、剛腕で知られた図書委員長である藤原由美子に、手加減をまったく無しに殴られたようなタンコブ』ができていた。
「ほら空楽。その娘が、とまどってるじゃないか」
正美が声をかけても空楽の歌が止むことはなかった。一方、彼のよく通るバリトンを間近で聞かされている五郎八にも変化が起きた。
地球上に存在する全ての物を呪っているような眼差しが緩んだかと思うと、気のせいか前髪に隠された頬がほんのりとピンク色に染まっていく。
久我五郎八。『もののふ』を自称して己を高き所に常に置こうと努力を怠らない少女であった。その毎日は戦いの連続であった。
たとえば信号を渡るとき。
車道の信号が赤になった瞬間に歩き出すことにかけては、大阪のおばちゃんに負けたことはない。
たとえば昼食時。
購買部においてカレーパンを買い逃したことは全くなく、百貨店のワゴンセールという戦場で日々戦う主婦にひけを取らない。
何事にも神経を張り詰めていた五郎八だが、目の前の少年はどうだろう。そんな彼女が間違って入室してきた、仲間だけの空間から追い出すのではなく、その美声で彼女の緊張すらほぐそうとしてくれているではないか。
などと色々理屈を申しても、人の恋心を説明する手段など存在し無い。まったく無駄なことだ。どう難しい言葉を列挙しても、たった一言での説明の方が的確に物事を説明するときがある。今がその時だ。
久我五郎八『一目惚れ』であった。
しかも人生で初めて経験する感情であった。つまり『初恋』である。
「…~くる缶コーラぁ~」
恋をしてしまえばアバタもエクボ。ウクレレを突然弾き出すなんていう奇行など関係がない。彼女は恋する瞳で彼のことを見つめていた。
「いいかげんに許してあげたら?」
空気を読めないことの方に定評がある正美が、小夜曲の後奏に入った空楽に歩み寄ろうとした。その腕を恵美子が掴んで止めた。
「ちょっと待って」
「?」
そこは同年代の女の子同士。扉の所で硬直した五郎八が、急に歌い出した先輩の対処に困っているのか、それとも心をキューピッドの矢で射抜かれて戸惑っているのかは、一目瞭然であった。
「なに?」
「どない?」
他の男子どもが不思議そうな声を上げるのを手で制し、彼女は窓際に立てかけてあった自在箒を手に取ると、有無を言わさず空楽に殴りかかった。
「む」
それを背中越しに気配だけで察知したのか、両手を頭の上で叩きあわせて白羽取りを試みる空楽。
「どーう!」
見事、都大会常連という美だけでなく武にも秀でた『学園のマドンナ』の胴打ちが決まり、空楽は床に沈んだ。
「あれ? いま楽器どこに行った?」
人間なら当然抱く疑問を正美が口にしたが、彼の言葉は誰も聞いちゃいなかった。なぜなら空楽が撃沈されると同時に、五郎八が懐から裁ちバサミを取りだし、刃先を恵美子に向けて右手に構えたからだ。
細い箒の柄を青眼に構える剣道部エースと睨み合う。
「んあ? 俺はいったい…」
一触即発の空間に、右手で頭のタンコブを、左手で撲たれた腹を撫でつつ空楽が起き上がった。どうやら恵美子の胴打ちで正気に返ったらしい。左右に戦う貌の少女を確認すると、落ち着かせようと二人に掌を向けた。
「どうした?」
それからちょっと考えて付け加えた。
「取り合うんなら全力を尽くしてやっておくれよ」
「そ、それは…」
一同が絶句している中で正美がツッコミを入れた。
「それは腐る物を腐らせて、燃やす物を燃やしちゃうからダメ」
「そうか、ダメか」
素直に空楽は反省した。
「コジローも剣を引け。君もどうした?」
空楽が改めて双方に言葉をかけた。コジローというのは恵美子のアダナである。その苗字と剣道部エースという肩書きから、有名な剣豪からつけられた。
「そんなにツバつけ回っていると、ハナちゃんに言いつけちゃうから」
恵美子が面白く無さそうに刀…、ではなく自在箒を一振りして残心の形を取ると、背中を向けた。襲いかかられて対応が取りにくい背中を見せたということは、この争いもお終いという意味だ。それに、どんな人間が背後から襲いかかっても、彼女ならば充分に対応が出来るのであった。
「ふん。そなた名は?」
五郎八も裁ちバサミの握りに人差し指をかけると、一回転させてから懐へ納めた。
「清隆学園剣道部、佐々木恵美子」
まるで武芸の達人同士の名乗りあいのように言葉を交わす五郎八と恵美子。
「それがしは一年一組、久我五郎八。いずれ、決着をつけようぞ」
「いいでしょう」
背中で答えた恵美子は席へ戻った。どうやら機嫌が悪くなったらしいと感じ取った周囲の男子たちが、おそるおそる彼女の顔色を窺う。
「なにを言いつけられるのだろう…」
そんな中で空楽は、恵美子に言われたセリフに心当たりが無くて首を捻っていた。居眠りと読書が何よりも好きで、ついでにいえばアルコールも大好物だ(注、未成年の飲酒はいけません)このようなプロフィールを持つ彼が女心に聡いわけがなく、逆にどちらかというと朴念仁であった。
首を捻っていた彼だが、どうにも心当たりが見つけられなかったとみえて表情を変えた。
「ええと、なにか用か?」
司書室に用がある一般生徒というのは、ほとんどいない。閉架書庫にある禁帯出の本の閲覧ぐらいなものである。それにしたって本好きの者が求めてくることが多く、そういった生徒とは大抵顔見知りになっていた。
「えっ」
まともに目線をあわせて、五郎八は顔を赤くした。これほど単純な反応をする女子というのも近年では珍しいかもしれない。
「どうした?」
じっと見つめられて赤色が段々と濃くなってきた。ただ彼女の顔面は長い前髪で隠されているので、ちょっと離れてしまうと、もうその変化に気がつくことは難しかったが。
「な、なんでも、ござらん。失礼した」
五郎八は捨て台詞のようなものを残して廊下へ逆戻りした。その途端、周囲を捜索していた各部のスカウトに見つかってしまった。
「あ、久我さん! ぜひとも我が体操部に入部して!」
「見える! あなたの後ろにただならぬ気配が…」
「あなたを新体操部のレオタードが待っているわ!」
「カバディカバディカバディ…」
「ラグビー部のマネージャーに…」
「インディアカが君を講堂で待っている!」
「君ならエースで四番は確実だ! ドリームボールを編みだそう!」
「卓球だよ! オリンピックで金メダルが待ってるよ!」
わっと夏の草むらで集ってくる蚊のような集団から、ダッシュで逃げ出す五郎八。見送った空楽は不思議そうに司書室を振り返った。
「なんだったんだ? いまの?」
「さあ」
壁越しに緊急出動していくパトカーのサイレンが聞こえてきた。そんな雑音は、この建物において当たり前の物となっていた。
なぜならここは警察署であるからだ。都心から山間部を抜けて長野方面に伸びる幹線道路沿いに建っている、東京都多摩地区に存在するとある市を管轄する警察署。その一番大きい会議室で田久保光一は、春の冷気に包まれている状態で、汗をかいていた。
(大道芸であったな)
聴覚を意識から遮断し、暇になった脳が現実逃避の思考に入っていた。
(あれと同じだな。たしか鏡の箱に入れるんだったけか)
「聞いているのかね?」
目の前の厳つい顔をしたオールバックの中年男が、さらに表情を険しくさせた。
「はっ」
ピシリと背筋を伸ばし治して天井へ視線をやった。
「拝聴させていただいております」
「繰り返すがね」
視線を天井の隅に見つけたシミに逃がした光一に、ガラガラ声で相手が告げた。
「上下くんはたしかに優秀だよ。しかし捜査方針とは無縁の事をされてもねえ」
折りたたみ式のテーブルに両肘をついた相手が、光一の相棒のことに一層眉を顰めた。
彼には上下奈々芽のことをとやかく言う権利があった。なぜなら二人の上司だからである。
そして今、直立不動で上司の苦情を拝聴する光一の周囲に、奈々芽の姿はなかった。
「前回の時も勝手にやっていたそうじゃないか。困るんだよね、そういうの」
「そうはおっしゃいますが審議官」
これだけは譲れないと光一は、この事件の審議官に任命された上司に視線を戻した。
「この間のラーメン店員ストーカ殺人事件も、かみしもが拾ってきたネタが突破口になり…」
「まったく否定しているわけではない」
面白く無さそうに両腕をテーブルから持ち上げ、今度は尊大に腕組みをしてみせる。
「だが我々警察という物はチームプレイでトライする『組織』なんだ。わかるね?」
学生時代はラグビーの選手だったらしい審議官の言い回しは、耳にタコができるほど聞いたフレーズであった。
「あまりにもスタンドプレイが多いと、私だって困るんだ」
寝不足らしい審議官は腕組みを解くと、またテーブルに両肘をついた。
そのまま、まるで泣き顔を隠す童のように両手で顔を覆った。
「もうちょっと協力的な行動をお願いするよ」
「はい」
両手で顔を拭った審議官は下から光一を見つめた。
光一の脳裏に再びガマの脂売りのイメージが戻ってきた。
が、いつもと違い、審議官が薄く微笑んだ。
「私が庇えるのにも限界があるからね。キミには、そこのところ、よ~く理解してもらいたい」
「わかりました」
「じゃあ、上下くんによろしく。行ってよろしい」
「はっ。ご迷惑をおかけいたします」
最敬礼をして会議室から退場した。
廊下に出てホッとした溜息をついてしまう。それを書類の束を抱えて通りがかった所轄の婦警が見つけてクスリと笑っていた。
奈々芽の代わりにコッテリ怒られていた事実は今更変えようがないから、気持ちを切り替えて光一はその婦警に尋ねることにした。
「ウチのかみしも知らない?」
「ああ、本店の?」
会議室へ入ろうとした足を止めて振り返ってくれた。
「なんかビデオデッキ探してましたよ。資料室に一台置きっぱなしになってるって教えましたけど」
身長差から下からの目線には「教えたらまずかったですか?」というニュアンスも含まれていた。
「いや。ありがとう」
光一が手を上げて感謝の意を示すと、彼女は両手が塞がっているために顎で廊下の一方を指差した。
「あっちの、ファイルだらけの小さな部屋ですよ」
「ありがとう」
奈々芽の相棒を自認している光一は、再び礼を言うと、そちらに向けて歩き出した。
すでに今日の捜査会議は終了しており、廊下は閑散としていた。
光一は一旦教えて貰った部屋を行き過ぎてしまってから、スチール製の扉を開いた。
「かみしもぉーっ!」
「あ、おつかれさん」
キャスター付きの椅子に前後逆さに座り、背もたれに抱きつく形で、何も映していないモニターをつまらなさそうに眺めていた奈々芽は、首だけ振り返って光一を確認した。
「おつかれじゃないよぉー」
弁当箱に張り付いたノリのような眉を寄せて抗議の意思とする。
だが部屋には制服姿の者が一人いたので、それ以上の苦情を口にすることはなかった。
「できた?」
その所轄の者らしい警官に奈々芽は尋ねた。VHSデッキとモニターをつなぐ電線をチェックしていた若い警官は、本庁の若い女刑事(しかも美人)に急かされて、緊張しているのか頬を赤く染めて振り返った。
「これで大丈夫だと思います」
そう答えリモコンを操作するとモニターが青一面に灯った。
「よさそうね」
「なにを見る気だ?」
満足そうにデパートの紙袋をゴソゴソやりだした奈々芽に、入り口のところから光一が訊いた。これが学生時代なら、人には見せられないビデオの鑑賞会が始まるといった雰囲気である。
「ちょっとコンビニで借りてきたやつ」
紙袋から出したビデオカセットをデッキに挿入すると、自動再生が始まった。
画素は荒かったが一応カラーでコンビニの店内が映し出される。どうやら防犯カメラの映像のようだ。
客はまったくおらず店員も暇そうである。それも当たり前のことだ、右下に表示されている時間は深夜と言っておかしくない時間帯だった。
カウンターに立っているのは大学生か、もしくはフリーターらしい若い男が二人で、なにやら雑談をして盛り上がっているらしい。
「早送りはドレ?」
ビデオの方のリモコンを手にすると奈々芽は、接続してくれた彼に訊いた。
「これです」
「あ、これか」
教えて貰う直前に自分で見つけて、そのボタンを押し込む。すると画面の中の二人がチャカチャカとコントをしている芸人のごとく体を揺らし始めた。
「なんだよ、コレ」
「う~ん、まだかな?」
奈々芽が首を捻った瞬間に、誰かが店内に入ってきたらしく、二人の店員が背筋を伸ばした。それを見て早送りのボタンを離すと、通常の再生速度に戻った。
自動ドアが開いて、日本なら都会でも離島でも山奥にだって現れるサラリーマン風のくたびれた男が入ってきた。
「ち」
小さく奈々芽は舌打ちすると早送りを再開させた。店内をその男が一周していく。どうやらこの男はこれから晩酌するようで、酒の肴になるような物を棚から選び始めたようだ。そのまま送っていると、また入り口が開いたようでカウンターの二人が緊張するのが判った。今度は早送りのままにしていると、カップルらしい男女が腕を組んで入ってきた。
男の方は肉体労働者らしくゴツイ体つきをしており、女は水商売に関係しているのか、髪の色や化粧など派手な色遣いであった。
最初の男が会計をしている間に、黒いジーンズにパーカー姿の女がバットケース片手に入ってきて、客が四人になった。
ビニール袋を提げて「さあ、これから呑みましょうかね」といった雰囲気で最初の男が退場するのと入れ違いに、ねずみ色のパーカーを着た若い男が入ってきた。
「きた」
なにか期待する響きを持ったつぶやき声を奈々芽は漏らすと、再生速度をもとに戻した。
うつむき加減でフードを被ったまま、両手はポケットに放り込んだままで、その男は店内を不自然にぎこちなく見まわした。
その視界にベタベタとイチャつくカップルが入ったのか、雑誌の方へ足を向け、週刊のマンガ雑誌を手に取ると、当たり前のようにページを切った。
立ち読みというやつだ。
その背後でカップルがパンコーナーでなにか選んでいた。どうやらサンドイッチを数点買うようだ。夜食用なのかもしれない。すると今度は別の女が入店してきた。
「これ、もしかして…」
光一はブラウン管を指差した。荒い画像越しにもそのOL風の女が、今朝無惨に発見された被害者と同一人物だと判ったからだ。しかし奈々芽は無反応で画像の続きを見ていた。
被害者とおぼしき人物が飲み物を選び始めたのと入れ違いに、ジーンズの女がペットボトルの代金を支払って、店を出ていった。
自動ドアが開いた音に気が着いたのか、フードを被った男は店内を振り返りカップルに妙に鋭い視線を送ると、雑誌を捨てるように棚に戻し、女に続いて何も買わずに出ていった。
「ふう」
満足そうな溜息で画面を一時停止させると、まだ入り口の所にいた光一を振り返った。
「これがどうした?」
被害者がチラッと写っていたが、よくある深夜の風景ではないか。しかし奈々芽には必要な情報が入っていたらしい。彼女に視線を戻すと、巻き戻しボタンで画面を戻していた。
「ここね」
リモコンを放り出したので画面を見ると、ちょうどフードを被った男の後ろを、被害者らしき女が通った所で停めてあった。
被写体の彼が意識しているのかいないのか判らないが、ドコを見ているのか判らなくなるような、それでいて異様に鋭い目つきをした若い男だということが見て取れた。
「高校生ぐらいですかねえ」
光一よりもモニターに近かった警官が、こちらを見ているように向いている男を評した。
たしかにまったく無機質な視線ではなく、少しだけ生物的な目をしたそのフードを被った男は、少年と言っていい年代のようだ。
「やっぱり、いたわね」
知っていた口調でリモコンを置く奈々芽に視線を戻した。
「かみしもの知り合いか?」
「ええ」
画面を見る目には、滅多に見られない彼女の感情が込められていた。捜査能力では彼女の足元に及ばない光一は、人の機微には聡かった。その彼の目から見て彼女の感情は単純にただ一つの物だった。
憎しみである。
春も進んですっかり陽気も温くまって、廊下を歩くのに首をすくめなくてよくなっていた。特にC棟は冷気の籠もり方が半端ではないのだ。
理由は陽差しが入らないように作られているせいだ。もっと詳しく述べるなら、太陽光に含まれる紫外線は実験用の化学薬品や標本、音楽室の楽器などの大敵なのだ。
どこか別の用事で出かけていた小石は地学準備室へと戻ってきた。勝手知ったる我が家と同じで、遠慮無く扉を開けて室内に入ると、そのひょろ長い背姿が揺れた。
理由は単純である。そこに人が立っていたからだ。
「や、やあ。キミか」
特徴的な丸めがねを人差し指で定位置に戻しながらも、小石は戸惑った声を出した。
狭い地学準備室に、学帽を被ったままの渚優輝が待っていたのだ。
「天文部に入ることにしたのかな?」
とりあえず思いつくままに訊ねてみる。部活動において入退部は顧問へ、本人が書類において申請することになっているからだ。ちなみに授業内容に対する質問をしてくる生徒など、滅多にいない。普通の学校ならば生徒の不真面目さに起因する悩みだが、ここ清隆学園高等部ではまったく逆で、生徒たちの方が授業を置いてきぼりにするほどのレベルなのだ。
「ええ、まあ」
どこかに座るでなし、また寄りかかるでなし、立ったまま指で摘んだ指輪越しに室内を見まわしていた優輝が、制服のポケットにそれを落とし込むと、キョロキョロと、目をさ迷わせながら応えた。
曖昧な態度ながらも、今年から天文部に一名部員が増えることになるようだ。
「そうかー」
無精髭など生えていない顎を撫で回しながら、小石は感心したように言った。
「これで天文部も安泰だなーっ」
丸めがねの向こうから、上体がユラユラ揺れている優輝を観察しつつ、何でもないことのように付け加える。
「新しい部員はうれしいんだが、勝手に準備室へ入るのは感心しないな」
授業を準備するためのこの細長い部屋は、原則的に教師の管轄する範囲であり、清掃なども基本教師自身の手で行うことになっていた。成績や授業関係の書類、また一般生徒が扱うには高価すぎると考えられた実験道具などが納められているというのが理由であった。
「それは、斧がしまってあるからですか?」
「斧?」
意外な質問に小石は小首を傾げた。
「ちがいましたか? 叩くによし、裂くのによし。便利な道具ですから、ボクはてっきり斧かなと」
「キミが何を言っているのか判らないよ」
そういいつつ丸めがねの位置を修正する小石。指で半ば隠されてはいたが、その鋭い眼光は一層輝きを強めていた。
「ボクはですね、見たんですよ」
相変わらず表情を学帽に隠し、目線を泳がせながら優輝は告白した。
「見た? なにを?」
「先生のように背の高い人物が、公園にいたのを」
「それは…」
身長差だけでなく小石は相手を見おろした。この生徒は何を言い出すのだろうと猜疑心が強まった目になっていた。
ただでさえ清隆学園の近隣では連続殺人事件が発生しているのだ。
「上京する前ですけどね」
両手を胸の高さに上げて誤解して欲しくないというジェスチャーをしながら優輝はネタばらしをした。
「キミは、人を驚かすのが好きなのかな?」
ほんわりとした授業中に見せる笑顔を取り戻して小石が訊ねた。
「ボクは人が恐いんです」
学帽の下から優輝は言った。
「そうだろうねぇ」
小石があっさりと同意した。
「お父さんが起こした事件のことは、ほら教職員には一応知らされているしね」
「それだけじゃないんです」
「?」
「地元で出くわした殺人者は、ボクが見ていることを知っているのに、平然と作業を続けたんですよ。あれは見せつけていたんですね。今になって思ってみれば、あれは自分に続く者を捜していたのではないかと感じられて…」
優輝の告白にしばし沈黙が訪れた。
小石は窓の外を確認し、廊下へ続く扉を見、そしてスチール製の扉のついた棚へ目を走らせた。
そのどこにも異常を発見しなかった彼は、言いにくそうに訊ねた。
「キミは、その特殊な体験を警察には?」
「いいえ」
優輝は首を横に振った。
「凶悪犯の息子が語る証言なんて、信じてもらえるはずがないじゃないですか」
「そういうものかねぇ」
小石が想像できないとばかりに窓から遠くを見つめた。
「あんな体験をして歪んでしまったボクを、受け入れてくれたこの学校には感謝しているんですよ」
「それは、お父さんの事件かな? それとも…」
小石が余計なことを口にする前に、優輝は言葉を続けた。
「でも、調べてみて判りました。この学校にはボクのような人間が集められているんですね。とくに二年生には『人喰い』までいるそうじゃないですか。他の学校なら考えられない」
ゆっくりと頭を振る優輝に、危うさを感じたのかやけに優しい声で小石が語りかけた。
「それは学園の理事会の方針が、優秀でありながら問題を抱えている生徒の受け入れに前向きなだけで…」
「対象の選定に先生も一枚噛んでらっしゃる」
「ま、まあ。本校の教師として、ね」
優輝がなにを言い出すのが判らない様子で小石が不安げな顔になる。
「例えばの話しですけどね」
優輝は一歩下がって少し体を屈めた。見ようによっては怯えた小動物が無意識に取る防衛行動のようにも見えた。
「とある殺人鬼がいたとします。何らかの理由でその殺人鬼が自分の『後継者』を欲したとき、その『後継者』を捜すのに、ここはうってつけではないですか? 以前から全国各地で人殺しをしながら、重大犯罪に関わった子供たちをリストアップしておいて、教育者として集める。そして捲いた種が育ったところで刈り取る畑だ、ここは。表向きは進学校として優秀な人材を全国から集めていると言いわけもできる」
小石は両腰に手を当てると、肩を大きく上下させて溜息をついた。
「もしキミが先生のことを…」
「例えばの話しですから」
それでも声に怒気をはらんでいなかった小石のセリフを遮って、優輝は謝るように言った。
「気を悪くされたのでしたら謝ります」
優輝は学帽を被ったまま頭を下げた。少々礼節に欠いた行動であったが、小石はもう一度大きな溜息をついた。
地学準備室に沈黙が訪れた。遠くでテニス部が続ける軽快なラリーの音が聞こえていた。
「まあ天文部、よろしくな」
小石が言うと、優輝は頭を上げながら、彼にしては珍しく相手と目を合わせて言った。
「で? そこにしまってあるのは斧ですか?」
「望遠鏡だよ」
丸めがねに隠された鋭い目が光った。
「高価い望遠鏡の部品だ。人が地上にいながらにして、遠く天界まで見通せるような望遠鏡の、ね。なんなら見せようか?」
小石は白いスラックスのポケットから鍵束を取りだした。
「いえ、けっこうです。先生がそうおっしゃるなら、その通りなのでしょう」
学帽の鍔を直して顔を隠すと、うつむきがちに優輝は小石の横を通った。そのまま彼が入ってきたまま開けっ放しになっていた廊下の扉へ足を運ぶ。
「ああ、閉めておいてくれないかな」
今になって廊下の冷気が気になったのか、小石が優輝に注文をつけた。
「はい。それでは失礼します」
再び学帽を被ったまま頭を下げた優輝は、音を立てずに扉を閉めた。
完全に閉めたところで溜息をついたところを見ると、彼なりに今の小石との会話は緊張していたらしい。
「ボクの『先生』に、変なこと言わないでよね」
ホッと気を緩ませた横合いから声をかけられて、のろのろと優輝は振り返った。廊下の壁に寄りかかるようにして腕を組んでいた人物が、彼を睨み付けていた。
「キミか」
誰かと思えば同じクラスで小石のファンを自称している女子であった。どうやら優輝が小石にいちゃもんをつけたと「お冠」のようだ。見るからにプリプリと怒っていた。
「なにか変な物を見たとか、事件の『目撃者』を騙っていたようだけど。まったく失礼しちゃうよ」
半歩前に出て指を突きつけた。
「ボクは目撃者なんかじゃないよ」
突きつけられた指鉄砲が本物だったとばかりに体をかわして優輝は続けた。
「正直に言うなら被害者だね」
「文句をつけるなら加害者だろ」
相手の眉がキリキリと寄せられたのを確認すると、優輝は溜息のような物をついた。
「ボクはキミの夢を見るんだ」
「は?」
彼女は自分の体を抱きしめるように腕を巻き付けて、ブルッと一回震えた。
「なにそれ? キモイ」
「恋の告白なんかじゃないよ。言うなれば、喩え話だね」
目を合わさない優輝は、それでも薄い笑顔を浮かび上がらせると、彼女に背を向けた。
「同じように喩えて言うなら、キミはボクと同じだね」
「はぁ?」
「同じ人に興味があるようだから」
「キミは誰?」
とても平板な声に相手がキョトンとする。
「同じクラスじゃないか」
「そうじゃなくて…」
まだ話しかけようとするクラスメイトを置いて、それきり優輝は廊下を歩いて去っていった。茫然とその背中を見送った彼女は、表情を取り替えて意中の人がいるはずの扉をノックした。
「小石ちゃ~ん、いるんでしょ。入っていい?」
地学講義室のいつもの場所へ肩にかけてきた荷物を下ろして、舞朝は深い溜息をついた。
「あら、マーサさんいけませんわ。溜息をつくと幸せが逃げていってしまうと言いますでしょ」
教室を出た瞬間から、廊下で待ちかまえていた近藤愛姫に右腕は占領されていた。その彼女も自分の荷物を下ろすために、しばし舞朝から離れた。
「今日も直巳は来てないのか」
一般教室よりは広いとはいえ照明は普通と同じで、目の上に手をかざす必要などないのに、そうやって地学講義室の中を見まわして遊佐和紀が言った。
「あいつ、大丈夫なのか?」
とっても不思議そうに和紀が、進学組に声だけで訊ねた。
「ナオミちゃんは、成績だけはイイからな」
再び愛姫に囚われながら舞朝は答えた。
この一週間ほどで前田直巳の生態は、受験組二人にも理解できた。制服を嫌うどころか、まともに授業へ出ている気配もないのだ。天文部における昼休みの黒点観測や、放課後の活動の時にふらりと現れて参加する。しかも教師などに見つかるとうるさく言われるのを自覚しているのか、窓から出入りしていたりする。
ちなみに地学講義室は二階であった。
伝統ある天文部であるが、じつは放課後にはあまりやることはない。だいたいその日に授業で出された課題などを、みんなで寄り合っての勉強会でこなす以外には、おもいおもいに遊んでいたりする。
天文部としては一般生徒にも声をかけて、学校に泊まり込んでの観測会を月一程度の頻度で企画するのだが、時短令が出ている現在は無理であろう。それに四月前半では目だった天文イベントもない。これが四月後半から五月前半にかけてならば、「こと座」「みずがめ座」の両流星群があるので、月の条件が良い方に観測会を開く意味があった。
ちょっと早いがその準備のための話し合いをしてもいいが、ここには一年生しかいなかった。
どうやら二年生のクラスではホームルームが伸びているようだ。二人を待つという選択肢が考えられるが、一年生たちは久我五郎八の退部騒動というものを抱えていた。
どう考えても今はそちらの方が優先であろう。
「やあやあ。みんなご苦労さまなんだぞ」
入り口から中年男性の声がしたと思って振り返ると、茶色いライオンのヌイグルミが右手を上げて(椎名叶の右手に、はめられている状態で)入室してくるところだった。
やはり叶も窓際の、いつもの席へ荷物をおろした。
「さて、どうするか」
舞朝は地学講義室を見まわして独りごちた。
右腕の愛姫を見る。いつものとおり彼女はニコニコとした笑顔のままだ。そのまま背後に立つ和紀へ視線を向けてみた。
和紀は舞朝が何か言い出すのを待っている顔であった。一方、迷子にならないように親鳥の後についてくる雛のように、入学以来舞朝たちのそばにいる優輝は、めずらしくココにいなかった。まあ彼も(いくら爬虫類っぽくても)人間であるから、色々な生理現象がやってくるのは不思議ではない。
荷物を置いた叶が、右手でカインを踊らせながら近づいてきた。シーツ被っている彼女の表情は判らない。
ここは舞朝が決断するシーンのようだ。
「とりあえず、また皆でイロハの所に行くか」
「それもそうですね」
右腕に抱きついている愛姫が珍しく舞朝を引っ張った。
「ど、どうしたアキ」
なにか急かすようなその態度がいつもの愛姫と違うような感じがして、足を踏ん張って留まろうとした。
そんな舞朝を愛姫が少し悲しそうな微笑みで振り返った。
「まさか悪いことが起きるんじゃないだろうな?」
「いえ、そんな…」
口ではそう答えたが愛姫は全てを判って困っているような雰囲気であった。それは今すぐに災害が起きるというレベルではなく、誰かに会わせたくないといった態度である。
「お~い弓原」
舞朝の右腕を使った綱引きをしていると、地学講義室の出入口に人影が立った。
何者かと振り返ると、舞朝と和紀、そして優輝のクラス担任の男鹿であった。
「あ、先生」
じゃれあっている風に見える二人を見て微笑んだ男鹿は、地学講義室の中を見まわして不思議そうに訊いた。
「渚がドコにいるか知らないか?」
「はて?」
舞朝の代わりに和紀が答えた。
「今日は教室で別れて、別行動ですけど」
「そうか。じゃあ校内放送かけないと捕まらないかな?」
「なんで、おれらに訊くの?」
首を捻っている男鹿に和紀が訊いた。
「入学式からこっち、おまえら一緒にいるじゃないか。色々とあるかもしれないが、まあよろしく頼むよ。仲良くやってくれ」
「色々?」
なにか奥歯に挟まった言い方だったので、舞朝はキョトンと右腕に抱きついている愛姫と顔を見合わせた。
彼女は困った微笑みをしていた。どうやら男鹿の言わなかった『色々』に心当たりがあるらしい。
「見つけたら先生んとこ来るように言ってくれ。職員室にいるから」
若さが溢れる男鹿らしく、早めの足取りで次に優輝がいるだろう見当をつけた方へと歩き出した。
「いろいろって、なんだ?」
何にも考えていないような和紀すら舞朝の顔を覗き込んでいた。
シーツの擦れる音がした。振り返ると叶が左手を真上に差しあげていた。いつもの受信状態である。
「目論見と後悔。そして思いやり。ふわふわの暖かさ」
一心不乱に目を閉じて何かの気配を探っていた叶は、瞳がちな目を開くと、愛姫を見た。
「優しいのですね、あなた。でも一人で無理をしなくても、いいんですよ」
三人分の視線を受けてたじろいだ愛姫は、溜息をつくと表情をいつもの微笑みに戻した。
「そうですね、わたくしのマーサさんですものね」
「?」
「彼はきっとA棟の一階中央廊下で会えると思います」
「じゃあ男鹿センが捜しているって伝えてくる?」
どちらにしろ五郎八に会うために動こうと思っていたのだ。事のついでという言葉もある。
その時、壁に取り付けられたスピーカがパチパチと電気音を立てた。
“ピンポンパンポ~ン。一年三組の渚優輝くん。一年三組の渚優輝くん。面会者がいらしています、至急職員室の男鹿のところに来るように。ピンポンパンポ~ン”
どうやら男鹿は手っ取り早い方法を選んだようである。
「ほ、ほら…」冷や汗をかいた顔で愛姫が微笑んだ。「放送があったから渚さんに伝言は不要かと」
しかし、どう見ても今の優輝に舞朝を会わせたくないという風にしか見えなかった。
「行くからな」
その秘密主義に怒りすら感じた舞朝は、自分より大人な体つきをしている愛姫を引き摺るようにして歩き出した。
地学講義室を出て美術室の前を通過すると、普段は使ってはいけない非常階段がある。その向こうはD棟になっており、階段と便所が角にまとめられていた。
その階段を降りたところで左を向けばD棟一階である。
と、反対側に騒がしさを感じて振り返った。真っ暗なC棟一階の反対側に、人だかりができている様だった。
「?」
数人が『とにかく廊下を走るな』の張り紙を無視して、舞朝たちをかわして、D棟からその人ごみに加わるために走っていく。
「ありゃあ、なんだ?」
事件が起きるのが楽しくて仕方がないという態度で、和紀が中央廊下の遥か向こうを見ていた。
舞朝がチラリと愛姫を見ると、覚悟を決めた顔をしていた。
「行ってみようぜ」
今にも駆け出しそうな雰囲気の和紀が先頭に立ち、舞朝の左手を取った。
「お、おい」
さすがに恥ずかしくて振り払おうとしたが、男の力でしっかりと握られていてできなかった。
舞朝が引っ張られると自動的に愛姫がついてくる。そして人ごみが苦手な叶は、シーツを被ったまま舞朝の背に隠れるようにして着いてきた。
人ごみはC棟と、主に教職員のスペースとなるA棟の境目にできているようだ。
四人が人ごみの端に着くと、A棟の廊下には生徒たちが一杯であった。その人ごみが、建物中央付近の生徒昇降口のあたりだけ空間を残している。
舞朝たちが、その人ごみに驚いていると、生徒昇降口脇にある扉が丁度開いたところだった。
そこはPTA会議室という札がつけられた部屋で、校外からの面会者が通される部屋となっていた。
室内から男鹿と、スラリと細いスーツ姿の女が出てきた。
瞼が半分降りたような表情のその女と、男鹿がなにか言葉を交わしている。
その次に優輝が出てきた。
彼の姿が見えた途端に、人ごみがざわつき始めた。生徒たちの囁き声が否応なしに舞朝の耳に入ってきた。
「あれ刑事だってよ」
「え? なんでケーサツが?」
「なんでも一年のヤツを任意同行らしいゾ」
「なにやったんか? 万引きか?」
「自転車ギったんじゃねえの」
そのざわついている廊下に、脇の職員室から出てきた複数の教師が声をかける。
「おい、道を開けろ。通れないじゃないか」
PTA会議室から大人たちに囲まれた優輝が、こちらの方へやってくる。教師たちに押しのけられた生徒の波に揉まれていると、優輝の後ろから、もう一人厳つい男が着いてくるのが見えた。ガタイの良さから体育教師にも見えるが、舞朝は校内で見かけたことのない顔だった。
厳つい男は丁寧に扉を閉めて、ちょっと残念そうに人ごみを見た。その顔に浮かんでいるのは「同情」の二文字であった。
いったん生徒昇降口に寄り、優輝の靴を回収すると、一団は舞朝たちが見ている教職員昇降口の方へやってきた。
学帽に表情を隠した優輝が、目の前で大人たちへ連れられて出て行った。
舞朝たちは、彼に一言もかけることができなかった。
「なにがあったんだ?」
話しが見えない和紀がキョトンとしていると、脇から声がかかった。
「あれマーサにしちゃ耳が速いじゃん」
「?」
振り返ってみればクラスメイトの情報通(ということになっている)バニーさんであった。
「速いも何も、通りがかったようなモノなんだが…」
まさか愛姫の『五分未来』で導かれたとも言えずに、舞朝が言葉を濁した。
「じゃあ、なにも知らないんだね」
目をキラキラさせていた。噂話好きにも程があるというものだが、彼女には当てはまらないらしい。
「彼。容疑者として警察に引っ張られるんだってよ」
「容疑者?」
まだ話しが見通せずに舞朝は目を瞬かせた。
バニーさんは左右を確認し、野次馬が適当に散って誰もこの会話に耳をそばだてていないことを確認してから、ぐいっと舞朝に顔を近づけて、トーンの落とした声で囁いた。
「どうやら『連続通り魔殺人』の、らしいよ」
「え!」
驚きに背筋が伸びてしまった。しかし一瞬でも同級生を疑ってしまった事を恥じるように、舞朝は騙されないとばかりに相手を睨み付けた。
「まさかあ」
「だって部屋の会話を、監査委員の人が立ち聞きしちゃったって言ってたもん」
「え、そんな…」
よろよろと視線が宙にさまよった。それからキッとクラスメイトを睨むと、舞朝は言った。
「嘘だと言ってよ、バーニー」
「?」
「アニヲタかよ」
ポンと和紀が後ろから肩をこづいた。
「なんでボクが嘘を言わなくちゃならないのさ」
「じゃあ…」
不安になった舞朝は仲間の顔を見た。和紀は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているし、叶は相変わらずシーツ姿だ。ただ一人、愛姫だけが平常運転だった。
「アキ。まさか…、これ?」
残念そうに微笑みを変化させて愛姫は顎を引いた。
「さてと、ボクはこれから部活行かないと」
微妙な顔を見合わせている二人にはお構いなくバニーさんが右肩にかけたバットケースを振った。
「キミもやらない? ソフト?」
黙ってしまった前列二人を飛び越えて、和紀に話しかける。
「いや。だから体壊しててさ」
眉を顰める和紀。
「せっかくのイイ男なのに残念。そういえばもう一人のイイ男は?」
わざとらしく額に手をかざして周囲を見まわしていた。
「直巳だったらサボりだぞ」
「また?」
素っ頓狂な声を上げつつも、進学組の彼女も直巳の生態は知っていたと見えて、そう批難する響きはその声には含まれていなかった。
「あんなに頭が良くてスポーツ万能で顔もいいんだから、真面目に通えば女子人気ナンバーワンだと思うけどな」
「ああ」
同性の和紀ですらそう思えるハイスペックを持っているのが前田直巳という人物なのだ。
「まあ、あの自分は『異世界人』とかいう妄想は止めてくれないと無理だけどね」
「彼は『異次元人』」
それまで黙っていた叶がシーツの下から口を挟んだ。
「あれ? いまボクそう言わなかったっけ?」
その二つでは、まあ普通の女子高生にはさほど違いがないからであろう、バニーさんはしきりに首を捻っていた。
「あ! 時間! じゃあねマーサ!」
首を捻ったついでに部活の集合時間でも思い出したのか、バニーさんは後を見ずに駆け出していった。
「いかがされます?」
困った微笑みのまま、すでに答えが分かっているという態度で愛姫が舞朝に訊いた。
「迎えに行く」
舞朝はとっくに閉まった教職員昇降口のガラス戸を見た。警察が彼を疑うなら、自分は彼の無実を信じてやろうという顔になっていた。
「ふーん」
つまらなそうに和紀が鼻を鳴らした。
「無気力無感動、んで無いバストの、しいちゃんにしちゃ積極的じゃないか」
「その名前で呼ぶのは、やめろって言っただろ!」
すかさず振り返って牙を剥く舞朝。
「しかも無いバストってなんだよ!」
「だってなあ」
和紀の視線が舞朝と、彼女の腕に抱きついている愛姫の間を行ったり来たりした。男の目線で二人の極限られた体の部位を比較していることが丸わかりである。
「なにをおっしゃっているんですか遊佐さん」
イタズラ坊主に向けるような困り果てた微笑みに表情を変えた愛姫が言った。
「マーサさんは完璧です。この顔も! ちょうどいい大きさのバストも!」
「二人とも死ね!」
舞朝はタップダンスのように右脚を上下させ、二人の上履きへ自分の踵を落とした。
「すいませーん」
脳天気と思えるほどの明るい声が司書室に響いた。
いつもの通り室内には(少数の)図書委員会に所属する生徒と(多数の)図書室常連組とも言うべき生徒が、特にやるべき作業があるわけでもなくたむろっていた。
「おやおや?」
入り口近くで縦にも横にも大きい巨漢が、人好きのする笑顔で出迎える。彼は図書委員ではなく常連組のはずなのに、もはや司書室の受付係といった風情だ。
「どうしたのかな?」
相手が見慣れぬ一年生女子と見て、一層丁寧な物言いになる。
「ええとぉ」
相手が見上げるような大男だというのに、赤いフレームのトンボ眼鏡をかけたその女子は、警戒心を感じさせない調子で小首を傾げた。どことなく間延びしている口調で訊ねる。
「わたしぃ、図書委員なんですけどぉ。先週ぅ、当番の時にぃ、どうやら傘を忘れてしまったかも…」
「あなたは一年の…」
事務机の方でなにやら書類の決裁をしていたらしい藤原由美子が席を立った。
彼女は今週の水曜日に行われた新年度一発目の図書委員会ミーティングにおいて、満場一致で図書委員長に再選された。委員長の任期は、年度を前後で分けておおよそ半年ずつなのだが、これで二期連続就任である。それだけ彼女が『剛腕』である証とともに、なんやかんや言われていてもみんなに愛されている証拠でもあろう。
ただ彼女自身は委員長職を「押しつけられた」と思っている節があったが。
その全体会合の席で、由美子は新しく委員に加わった一年生たちの顔を記憶していた。その中にこの来訪者も混ざっていたはずだ。
彼女のところに行こうとしたが、最初に応対した巨漢が、なにしろ縦にも横にもでかいので彼女の進路を塞いでいた。
「たしかクラマさんだっけ?」
「はい。一組の鞍馬さくらですぅ」
委員長に憶えて貰っていたのが嬉しかったのか、クラマと呼ばれた一年女子は間延びした口調ながらも明るい声で答えを返した。
「忘れ物ね」
巨漢の鳩尾にパンチをめり込ませてどかしながら、図書委員長である由美子が前に出た。そのまま給湯器の横にある傘立てに歩み寄る。
電車などでも忘れ物で傘が一番多いが、ここでも多い方だった。たしかに先週に、朝にパラッと降って快晴になった日があった。そのためか、忘れ物として図書委員会が預かっている傘は、新年度が始まったばかりだというのに、すでにけっこうな数となっていた。
「ええと、どんな傘?」
忘れ物台帳を取り出しながら、実際の傘と見比べて由美子は彼女に訊いた。
「ピンク色の傘ですぅ。ええと、これかなぁ?」
由美子よりは頭一つ分背の高い彼女は、腰を屈めて傘立てから一本を指し示した。
たしかに白や透明など安売りしている傘が圧倒的に多い中で、ピンク色と呼べる傘はそれ一本だけのようだ。
「ふむ」
台帳と照らし合わせてみる。どうやら彼女の言うとおり先週の忘れ物のようだ。
「いちおう訊くけど、名前なんか書いてなかった?」
「あ、書いてありますぅ。柄のところにぃ」
由美子は言われるままに傘の柄を確認した。
「『たまに友好的なハースニール』って」
…。
「たしかに間違いないようだよ」
黙ってしまった由美子の横から、野次馬で傘を覗き込んでいた正美が、銀縁眼鏡を光らせて確認した。
たしかに柄の部分に、マジックペンらしいもので同じ文句が書き込まれていた。
「しかしハースニールって、これまたマニアな名前を知ってるね。普通エクスカリバーとかじゃないの?」
傘から視線をあげて正美は訊いた。それに対して新一年生はニッコリと微笑みかえした。
「『確約された勝利の剣、エクスカリバー』は家に置いてあるんですぅ」
…。
今度は正美まで黙り込んでしまった。そんな空気になってしまっても彼女は平気なようで、天真爛漫で朗らかな笑みのまま立っていた。
「ハースニールってなによ?」
作業机の方で誰かが誰と無しに訊くと、硬直したままの由美子の背後に立った空楽が、三〇万光年もの旅路を乗り越えてやっと帰ってきた「赤い地球」を視界に入れたような遠い目をして天井を見上げた。
「何もかも、みな懐かしい」
「?」
一同が目を点にして顔を見合わせていると、空楽は腕組みをしつつ答えた。
「伝説の騎士が持っていたとされる魔法の品だな。この騎士が持っていた鎧、楯、兜、籠手、それに剣の五つのアイテムは特別でな。世界中の猛者たちが求めたときく」
「さすが先輩ぃ。お詳しいですねぇ」
髪の長い一年女子は、感心したように空楽を見た。
「日本で言う三種の神器みたいな物か?」
「三種の神器って?」
「それすら知らないのか?」
「あ~、あれでっしゃろ。冷蔵庫に洗濯機に、炊飯器」
「巨人、大鵬、卵焼き」
「どの三種の神器だよ、空楽に訊いてみろよ」
「うむ。刀に鏡に、結晶体だな」
「は? 曲玉じゃないの?」
「なんだ、知らんのか?」
「空楽のそれは、神器は神器でも、神さまが違う…」
キンコンカン。
好き勝手にワイワイ騒ぎ始めた常連組から、小気味のよい楽器のような音が立て続けにした。
「どいつもこいつも。ココに集まる奴で、まともな人間はいないのかよ」
立て続けに有象無象どものドタマを小突いた拳を撫でつつ、由美子がブツブツと呟いた。
集団から離れていたせいか、災厄を被らなかった正美が、その言葉を聞きつけた。
「そんな連中の筆頭が藤原さんね」
「なンでだよ? あ? 返答しだいじゃ殴るぞ」
「なぐってからいわないで…」
見事なボディブローが決まって、正美は床に崩れ落ちた。
「まあ委員長だから筆頭には間違いないんじゃ?」
最初の巨漢に再確認されて、由美子は彼へも鋭い拳撃を放った。が、なにしろ相撲取りのような体である。
「いたいなあ」
にこやかな笑顔を少しだけ歪めるが、全然効いていないようだ。
「俺も『せいけん』を一つ持っているぞ」
自分の胸を親指で指しながら、由美子の攻撃からいち早く立ち直った空楽は胸を張った。
「はあ?」
なにを物騒なことを、という顔をしてから由美子は思い直した。
「ああ、いつもの木刀ね」
由美子と常連組の何人かは、昨年一年間で色々な事件や事故に遭遇した。そんな中で、武力が必要になった時に、空楽は赤樫でできた木刀を愛用していた。
「いや。どんな男でも『せいけん』は装備されているのだ」
断言する空楽。由美子を挟んだ反対側で巨漢が含み笑いで指摘した。
「それって神聖って意味の『聖剣』じゃなくて、りっしんべんに生きるって書く剣だよね」
「うむ」
したり顔で一つうなずくと、空楽は右の人差し指を頭上に掲げた。
「お婆ちゃんが言っていた『心が生きる欲望と書いて性欲』だと」
どこかの誰かが教訓を垂れるような口調で喋る空楽の前で、由美子の顔が青くなってから赤くなった。
物凄い音が、壁を隔てた図書室まで響いてきた。
「どうしたの?」
あまりの騒音に二部屋を隔てる扉を開けて、今日のカウンター当番だった副委員長の岡花子が首を突っ込んできた。
「うがああっ」
雄々しく猛り声を上げる由美子の周りで、男子たちが床にぶっ倒れていた。
「どうしたの? おねえさん?」
「下ネタ禁止!」
花子の声に反応した由美子の怒鳴り声が廊下にまで響いた。花子は、由美子の他には唯一無傷で立っていた、さくらに目で訊ねた。一年生らしく制服を真面目に身につけて、回収したばかりの傘を抱きしめるようにしていた彼女は、これまた副委員長に再選された花子を見知っていたのか、にっこりと微笑んだ。
「委員長が予想以上に、ピュアな方だっただけ、みたいですよぉ?」
「ふむ」
とりあえず扉を閉めてから花子は由美子に歩み寄った。
「とりあえず、おねえさんは落ち着こうか。お茶でもいかが?」
肩で息をしていた由美子が、血走ったままの眼でうなずいた。
「あなたもいかが?」
由美子にだけお茶を準備するのも何か優遇しすぎているような気がして、ついでとばかりに一年女子にも声をかける。
「はいぃ。いただきますぅ」
破顔させた勢いでずれた眼鏡を、指ではなくて手の甲で定位置に戻しながら、さくらが乗ってきた。
「今日の茶菓子はなにかな?」
血の海に沈んでいたはずの空楽が、応接セットに腰かけながら訊ねる。
「うんっと、カステラかな」
そんな変わり身の速さも慣れてしまったのか、花子は大して動じずに答えて、給湯器のあるコーナーへと足を進めた。
「オマエらはソファ禁止。あっち行け」
由美子が作業机の方を指差しつつ反対側へ腰かけた。
「なに?」
不満の声を漏らして由美子を見るが、途端に鬼神もかくやという彼女の目つきとまともにぶつかり、すごすごと退場していった。
「ったくバカばっかしなンだから」
ソファにふんぞり返って腕組みをする由美子の向かいに、傘を抱えたままのさくらが着席した。
「バカですかぁ?」
トンボ眼鏡の向こう側で目をパチクリさせている。
「そうじゃなきゃガキね」
断言して鼻息から溜息のような、怒りの残滓のようなものを噴き出した。
「子供ですかぁ?」
「しょうがないんじゃない」
コロコロと喉を鳴らしながら花子がやってきて、手早く煎れたお茶を応接セットのガラステーブルに並べた。空楽に予告したとおり茶菓子は袋に小分けされたカステラのようである。
「不破くん、二月生まれだもの」
「それじゃあ、私と二ヶ月しか違わないんですねぇ」
「あら、あなたは四月生まれなの?」
「はい。随時プレゼント受付中ですよぉ」
ほとんど初対面の先輩が多い中で『たまに友好的なハースニール』を抱きしめながら誕生日の宣伝をするとは、この一年女子も肝が据わっている方だと言える。
「私の鞄にはまだ若干の余裕がありますよぅ」
とか林家一門のようなことまで言っていた。
「女の子に贈るプレゼントかあ。やっぱりハンカチとかかな?」
「いやいや真っ赤なバラの花束でしょ」
「わかってまんねんね。でも花なんぞ役に立ちませんどす」
「じゃあジュエリーとか」
「高価くつきそー」
「んじゃあエロいランジェリー」
「それってセクハラじゃん?」
「洋服ってけっこう高価いよ」
彼女いない歴=これまで歩んできた人生という者が揃っている男子たちが作業机の方で騒ぎ始めた。
「貴様ら、判っておらんな」
偉そうに腕組みをして全員を見おろす視線になった空楽は、バカにするように鼻を鳴らしてみせた。
「じゃあ空楽だったら何を贈るよ?」
彼だって、生きてきた長さがそのまま彼女いない歴だということを知っている正美が訊ねた。
「もちろんこうだ」
空楽はきびすを返すと、応接セットのところへ戻ってきた。
「?」
さくらは、なんのために近づいてきたのかが分からずに、キョトンとして目を瞬かせていた。その前に跪くと、いつ用意したのか制服の内ポケットから、手の平に収まるような小さなボール箱を取り出した。
「満天の星空を、この小さな箱に詰めて君に」
そのまま何も入っていなかった箱の蓋を開けながら差し出した。
「シチュエーションとして、場所は東京タワー、時間帯は夕食後の談話タイムですねぇ」
ニッコリと応対した。
「これなら、たとえ中身が一粒のダイヤでもOK」
グッと親指を立てる空楽に、花子とさくらがクスクスと笑い出した。
「でも、やっぱり本物を詰めて贈ってね」
「そうですよぅ、先輩ぃ。女の子にもてたかったら、経済的にしっかりしていただかないとぉ」
「あたしゃ願い下げだかンな」
空楽の目が泳いで来たのを感じ取って、由美子は一刀両断にした。
「ふ~、やれやれ。最近のおなごは『浪漫ちすと』でないのう」
まるで老人のような物言いでがっくりと肩を落とす空楽。
「えぇ? ちゃんと『ろまんてすと』ですよぅ」
反論するかのように、さくらが口を尖らせて言った。それでもどことなくのんびりした雰囲気だったため、セリフが全部ひらがなに聞こえた。
「東京じゃあ難しいですけど、満天の星空を見上げるなんて『ろまんちっく』じゃないですかぁ」
ニコニコとした笑顔で同意を求められて、ぎこちなくうなずき返す空楽。後ろの方で誰かが「ロマンチックが止まらない」「ふぅっ!」とか言っているのが聞こえた。
「先輩も星を見る女の子は好きですかぁ?」
彼女に訊かれて空楽は腕組みをしながら立ち上がった。
「う~ん」
小難しい顔をしてちょっと時間を取ってから答えた。
「スポーツに汗する女性も好ましいが、やはり星空を愛でる女性に側にいてもらうというのもいいな」
「その心は」
花子がもう答えは判っているとばかりに訊いた。
「本を読むにしろ、居眠りをするにしろ、うるさくなくてよい」
ソファに座る少女三人は顔を見合わせて「やっぱり」とばかりに肩をすくめるのだった。
「ええと」
依然と定まらない爬虫類のような視線を室内に彷徨わせて、優輝は話し相手になってくれるだろう相手に声をかけた。
「取調室じゃないんですか?」
「まあ任意同行した人全員が、犯人というわけじゃないでしょ。世界の大多数は善良な市民さまで、溢れかえっているの」
ブラインドの降りた窓際に寄った奈々芽が言い訳のようなことを口にした。いや実際言い訳であった。連続殺人犯『ペテロ』犯行説を採っている捜査本部の方針とはまったく違った人物から「任意」で「事情」を訊くのに、取調室が使えなかっただけだ。
もちろん上司の了解を一言も取っていない。
「えーと」
小会議室と書かれたプレートが貼られたドアをくぐってから勧められたパイプ椅子に座りもしないで、立ったままの優輝は、もう一度室内を見まわした。
そこには会議室らしく、壁際のホワイトボードと複数の三人掛け折りたたみ机に、パイプ椅子がたくさん並べてあった。それと出入口近くには、いまどき露店のフリーマーケットにすら売っていないようなボロい電気ポットを乗せた演台があるだけ。床は絨毯張りなので余計な音響は吸収されるようで、廊下の喧噪は耳につかなかった。
他にはここまで同行した男鹿と、窓際で振り返った女刑事の相棒らしい厳つい刑事がいるだけだ。
男鹿は男の刑事から出されたお茶に頭を下げている所だった。どうやらあのポットは現役らしい。
「えーと」
どうやら話しのキッカケが掴めない様子の奈々芽は、優輝の真似をしてから男鹿の方へ手の平を向けた。
「どうぞ座って」
こちらも瞼が半分降りたような不完全な表情の奈々芽に、優輝は椅子へ目を走らせるだけで答えた。
「渚。座ったらどうだ」
見かねた男鹿が助け船を出した。
「渚が変な事されないように先生着いてきたんだから、安心していいんだぞ」
「…」
これが生活指導の先生ならば従わないが、わざわざ着いてきてくれた担任であるから、優輝は従うことにした。ついでに男刑事の方も、厳ついなりの愛想笑いを浮かべて椅子を引いてくれた。
「あー、やっぱ名乗らないといけないのかな?」
誰に訊くというより自問自答という口調で奈々芽がつぶやいた。
「いちおう事情を聞く相手には」
そんな態度に慣れている相棒が答えた。
「どーも上下奈々芽という警察の狗です」
「また、そういう…」まるで棒読みだった奈々芽の態度に、いくつかの言葉を繋げようとしたが、優輝と男鹿が見ているのに気がついたので、すかさず弁当箱のような顔に、できるだけ柔和な笑みを浮かべて名乗った。
「田久保光一です」
「渚優輝です」
名乗られたので清隆学園高等部A棟で済んでいた自己紹介を繰り返した。
「お茶、飲みます?」
窓際から湯飲みを傾ける男鹿を確認した奈々芽は、試しとばかりに訊いてきた。
「いえ」
優輝の否定よりも先に光一が動き、出入口脇のポットでお茶を煎れて、彼の前に湯飲みが差し出された。
「…」
相手が少々逆光のため目を細めた優輝は、ふと気がついたように尋ねた。
「女刑事さんとは、どこかで会いましたっけ?」
「あらナンパには古い手ね」
コロコロ笑いながら半眼の表情で優輝を睨み付けた。
「ここで会うのは百年目かしら」
あっさり認めた奈々芽に、そんな話しは聞いていなかった光一の表情が変わった。
「以前はどちらで?」
思い出せない優輝は当然のように質問した。
「ずっと昔。私が節足動物から進化する前のこと…」
バカにしているような事を言いながら、天井を顔ごと少し見上げて、一瞬浮かんだ表情を取り消しながら奈々芽は言った。
「おそらく長久手警部の一周忌でのことだったのでわ?」
黙り込んだ優輝はドコも見ていなかった。記憶の奥を探っているのだろう。
しばらく無表情が続いたが、爬虫類が獲物に気がついた程度の反応があった。
「ああ玄関先で撃たれたお巡りさんですね、父の事件で」
傷の癒えた後に優輝は、祖母に連れられて警察関係で唯一の犠牲者遺族を訪ねた。
優輝の父に玄関先で撃たれて、誰も助けにいけないまま長久手皓次巡査部長は倒れた位置で亡くなった。享年四二歳、厄年のことだった。殉職後二階級特進となり葬儀での肩書きは警部であった。
突然、夫であり父である人物を失った長久手家には、母一人娘一人が残された。
当時、高校生だった娘は、それでも加害者の息子である優輝を直接なじることなどしなかった。
ただ今と同じようにジーッと彼を見おろしていただけだ。
「あれから長久手家では色々あったようで、遺族の苗字も変わったみたいなのよ」
「ご結婚された、わけではなさそうですね」
奈々芽の指には一切の装飾品はついていなかった。
「結婚したのは母親の方よ。ま、死んだお父さんだけが、世の中の男全てじゃないし」
「それは。遅いようですが、おめでとうございます」
ピクリと瞼をひくつかせた奈々芽は、その何も飾っていない白い指で黒髪をかき上げて「ふぅ」と大きく息をついた。
「渚くんは…」
気を取りなおしたように声質を変えて、優輝の目を真っ直ぐ見て奈々芽は言葉を発した。
「深夜の散歩が趣味なのかしら?」
「いえいえ」
こちらは顔を奈々芽の方に向けていても決して視線を合わせようとしない優輝が、頭を横に振った。
「コンビニで立ち読みするのが趣味なんですよ」
「そうでしょうね」
余裕が生まれたのか、半眼の表情で奈々芽は胸を張った。
「防犯カメラにしっかりと映っていたものね」
優輝の爬虫類のような表情が少々震えたように見えた。それは彼の表情がどう変化するか観察していなかったら判らないほどだった。
「寮の門限時間をオーバーしていたようですけど?」
ちょっとだけ男鹿の方へ目をやる。男鹿は心配そうに優輝を見ていた。
「不良学生なもので」
「…」
奈々芽は相変わらず動きが少ない優輝の表情筋を観察していた。
「『ウソ』は、いけませんよ」
語句の一節ごとに区切って発音して指摘してみた。
今度は優輝が溜息をついた。両手を小さく万歳させて、もうお手上げと言っているような態度を取った。
「わかりました、真実を話しましょう」
手をテーブルの上に戻す。背後に立っている光一から感じられるプレッシャーが一段と高くなった。ここで一言「じつは僕が犯人なんです」とでも言おうものなら、それが冗談だったとしても飛びかかってくること間違いなしだ。
「じつは…」ぐぐっと光一の気迫のようなものが高まる。「僕は正義の味方なので、夜な夜な悪と戦っているのです」
「はぁ?」
室内にいた他の人間全員の頭に?マークが浮かんだ。
「最近、下宿先周辺で猟奇殺人が連続して起きているそうじゃないですか。その犯人を追いかけているんです」
「そういうのは警察の仕事ですよ」
「判っていますけど、まあ『善良な一市民』として当然の事かと」
「『善良』ねえ」
腕組みをして新手の詐欺師を見る目つきになった奈々芽は、優輝を見おろした。
「わかりますよ」
仕方なさそうに優輝も腕組みをした。
「僕が疑われる可能性は高いでしょうね。過去に凶悪犯罪に巻き込まれた事のある子供は、自身が凶悪犯罪の加害者になりやすい、だとか。精神科に通院歴があるものは~、だとか。それに僕がコッチに引っ越してきてから事件は起きている~、とか」
「清隆学園高等部の一年生が、山梨県に合宿へ行っている間に事件が起きなかった、が抜けているようですね」
「おや、それは困った」
全然困っていない調子で眉を顰めてみせた。
「抜けているのは、犯罪者の息子はやっぱり犯罪者だ~っていう偏見の事かと思ってました」
さすがにカチンときたのか、奈々芽が座ったままの優輝に詰め寄った。背後にある光一の気配が優輝よりも彼女の方に向けられた。
しかし当の優輝は席から奈々芽を見上げていた。
その表情はやっぱり機械よりは生物臭いが、爬虫類よりは無生物っぽかった。
「でも、僕は善良な一市民ですよ」
迫られたプレッシャーから逃れるためか、優輝はそっぽを向いてから言った。
「…」
テーブルに片手をついた奈々芽は、そのまましばらく優輝を見おろしていた。
「善良?」
冷えた言葉が唇から吐かれた。
「引き取って面倒を見てくれていたお祖母さんを殺したのに?」
横で男鹿と光一が顔を見合わせる気配があった。それでも表情を変えなかった優輝は、口元を自嘲するように歪めた。
「あれは、僕は無実と結論が出たじゃありませんか。それとも、やはり僕は罰せられるんですか?」
「困りましたね。私は犯人があなただという証拠を掴んでみたいのですが」
「かみしも!」
公私混同しているような発言に、光一の叱責のような言葉がとんだ。
「この子のまわりで、どれだけ人が死んでいるか知っています?」
目だけで光一と、唖然としている男鹿を、さらに黙らせた。本来ならば優輝を擁護しなければいけない男鹿は口を空振りさせているだけだ。
優輝は長く息を吐いた。
「でも僕は容疑者ですらないんですよね」
ゆっくりとバランスの取れない体を左右に揺らしながら立ち上がる。
「だったら、僕がこの部屋から出て行くことを止める権利すら無いわけだ。そろそろお暇させていただきます」
「渚…」
勝手に歩き出した優輝と、彼女にしては珍しく血走った目で彼を睨み付けている奈々芽を見比べて、男鹿は二の句が継げなかった。
「先生に言っておきたいのは」視線をドアに手をかけた優輝から動かさずに奈々芽は言った。「寮生の深夜徘徊は教育上の問題だけでなく、不測の事態を引き起こす可能性がありますので、綱紀粛正を望むということです」
ブラインドから地上を見おろしていると、ヒョコヒョコとバランスを取るのに難渋しているような調子で、清隆学園高等部の男子制服を着た人物が、この警察署から出て行くのが見えた。
「渚くんだっけ? ありゃまずいぞ」
なにが不味いのか、硬直した光一の顔を見ても、奈々芽はピンと来なかった。
「明るい場所なら不意打ちもできないでしょ。それならアレだもの」
奈々芽が顎をしゃくると、ちょうど優輝があるか無いかの段差に躓いて転びかけている瞬間だった。確かに、あれでは襲われても鍛えられた警察官ならば、後れを取ることは無いと思われた。
隣に駆け寄ったスーツ姿の男が(たぶん担任の男鹿だ)慌てて駆け寄って支えていた。
「いや、そうじゃなく。あの先生だよ」
光一が指差したのは、もちろんスーツ姿のシルエットだった。
「先生がネジこんできたら、審議官怒るぞ」
そんな経験は、毎回我流捜査な奈々芽と組んで何回も経験していたが、今回はちょっと派手になるかもしれなかった。なにせ奈々芽の私怨が入っているかもしれないのだ。
「もちろんマスコミなんかにバラされた日にゃ」
「あの先生からバラすことはないでしょ」
「なぜ、そう言い切れる?」
「せっかく『殺人者の息子』という差別を受けていた地元から助け出した彼を、再び同じ目にあわせることになるじゃない」
「でも、あの先生本人のことじゃないだろ? 警察を糾弾したい団体なんて一杯ある。気をつけた方がいい」
「大丈夫よ」
別の清隆学園高等部の制服を着た人物が、一人で歩道をやってくるのを確認しながら、自信ありげに奈々芽は言った。
「あの学校には、過去を明かされたくない生徒が、まだまだ一杯いるもの」
「あの子も容疑者か?」
署の入り口で立ち話をしている優輝たちとは別の雰囲気を持った、茶色がちな髪をした人物を、光一も確認した。
「ええ。あの子が一番手強い相手かもね」
二人して見おろしているのを、なにか超常的な能力で感じ取ったのかと思えるタイミングで、その新しい登場人物がこちらを振り仰いだ。
綺麗な顔に柔和な微笑みが浮かんでいるのが見えた。一見するとただのモデルさんのようだが、腹の内では何を考えているか判らない印象を二人に与える。
こちらを確認したのだろうか、微笑みの質が変わったようにも見えた。
だが見おろす二人はブラインドを盾にしているので、向こうからはこちらを認識できなかったはずだ。
「そのう…」
署に入ってくる人影を目で追いながら、聞きにくそうに歯切れが悪い口調で光一が尋ねた。
「お父さんの事って?」
「今の父は普通の勤め人よ」
梢に留まって地上の獲物を品定めしている猛禽類のような雰囲気のまま奈々芽がこたえた。
「そうじゃなくて…」
「お父さんの事ね」
小さな人影を見おろしたまま奈々芽は語り出した。
「あの子の父親のまわりで、三人もの人物が行方不明になる事件があったのよ。まだ事件の全容が発覚していない段階で、家宅捜査に着手しようとした矢先の出来事だったわ。お父さんはあの子の家を訪ねた捜査員の一人だった」
すうっと目が細められた。地面を歩く優輝の側に、同じような制服姿をした数人の男女が集まるところだった。どうやら心配した同級生あたりが迎えに来たらしい。
「玄関先で正気を失った犯人に、猟銃で撃たれたのよ。撃たれて、その場から動けなくなった。犯人はそれから一二時間以上も猟銃を振り回して立てこもった。お父さんは即死することはなかったけど、誰も助けに行く事ができなくて、そこで息を引き取った」
「事件はどうなったんだ?」
刑事らしく光一は尋ねた。
「最後は、お決まりの機動隊の突入よ。犯人は猟銃を乱射して数人の隊員に怪我を負わせた。そしてあたりに撒いていた灯油に火を点けて、家ごと爆死したわ」
「そりゃ凄いな」
じつを言うと光一は凶悪犯を扱う部署に配属されているため、そういった事件があったことを知識として知っていた。だが話しをあわせるために驚いた顔をしてみせた。
「家の中にいた者で、生き残ったのはあの子だけ。あの子は父親の実家に引き取られたんだけど、その家も不審火で焼失。天涯孤独となった」
「じゃあ、あの子も被害者じゃないか」
なにやら会話をしているらしい制服の集団へ目を移す。
「そうかもね。でもわたしも被害者よ」
「まあ、被害者の遺族ならそうか」
納得しかけた光一を、奈々芽はイタズラっぽい笑顔で振り返った。
「そうじゃなくて」
「?」
「苗字よ、みょうじ」
「は?」
「上下奈々芽なんて、上へ下に斜めなんていう名前になっちゃったのよ。酷いと思わない?」
(長久手奈々芽だって「長くて斜め」なんだから、そう大した違いはないんじゃないか?)
光一はそう思ったが、それを口にすることはなかった。
舞朝たちから見てだいぶ昔に、某大手電機企業のボーナスが強奪された事件で有名になった警察署も、今様に近代化されたビルになっていた。その出入口となっている自動ドアから、四人が待っていた人物が出てきた。
途中で小さな段差でコケそうになったが、ここまで同道した男鹿が支えてやっていた。
「やあ」
ぎこちない笑顔を作って、左右によろよろと歩いてきた優輝は右手を上げた。
「ボクを待っていてくれたのかい?」
「ああ、まあな」
都市間を連絡する大型トラックがビュンビュンと行き交う国道であるが、歩道の方はそう人通りは多くなかった。
入り口脇に立つ衛士役の警官に睨まれて、敷地内に踏み入ることができなかった舞朝は、いつ貼られたのか判らない指名手配犯のポスターの前から、やっと移動した。
「お勤めご苦労様なんだな」
「おまえは黙ってろ」
叶の右手にはめられた状態のカインが口を挟んできたのを振り返りもせずに黙らせた。
「無事に出てこれたということは、大丈夫ってことだよな」
舞朝の心配そうな顔に、優輝は表情筋を総動員させて微笑もうとしたが、どうやら失敗したようだ。そのぎこち無い表情に、一層舞朝の表情は曇った。
「先生」
事情を説明してくれそうな男鹿がやってきたので訊ねた。
「ユウキは無実だよな」
「いや」
どこか余裕のある笑みを含みつつも怒った顔になった男鹿は、これ見よがしに腕を組んだ。
「寮の門限破りをしていたらしい。コレはいかんな」
「そこはベッドフォード公爵夫人の顔に免じて、不問にして下さいよ」
「誰だよそれ」
訳の分からないことを言って煙にまこうとする優輝の言葉に、ぼそっと後ろで和紀がつぶやいた気がした。
「さ、帰ろう。清隆に」
舞朝は長い三つ編みを揺らして私鉄の駅がある方向へ振り返った。右腕に抱きついている愛姫が振り回されて、足を少しもつらせて、舞朝によりかかる。
「おっとっと」
そのまま明らかに故意といった態度で舞朝に頬刷りなんかしている。
「あ。ばらんすがー」(棒読み)
「こ、こら。やめろ」
ぐいっと自分の体から引き離そうとしても、舞朝よりも愛姫の方が大きいのでうまくいかない。そこで小競り合いしていて、優輝が一歩も踏み出していないことに気がついた。
不安な顔で舞朝は振り返った。
「帰らないのか?」
舞朝の何気ない言葉に、優輝は微笑んだ。
「帰る家…。帰る場所があるということは幸せにつながる。良いことだね」
始めてみせる優輝の笑顔に、舞朝は自分が耳まで赤くなっていくのを自覚した。
「とりあえず釈放を記念して、お茶でもしてくか?」
舞朝と愛姫のじゃれあいと、優輝の自然な表情を見比べていた和紀が訊いた。
「いや、まっすぐ帰ろうか」
優輝はいつもの爬虫類的なレベルまで顔を戻すと、待っていてくれた四人(とカイン)を見まわした。
「と言っても、家ではなくて寮だけどね」
「優輝は何号室なんだ?」
和紀が屈託のない笑顔で訊ねた。
「二階の十三号室だけど、それがなにか?」
「じゃあ、そこで酒も…(咳払い)お茶会でも」
「いま酒盛りって言おうとしたろ」
聞き逃さなかった舞朝が男鹿の手前声を固くして、誤魔化そうと頭をバリバリ掻いている和紀を睨み付けた。
「そんなことあるわけないじゃないか」
和紀の否定はひらがなだった。
「お茶会はいいけど…」わずかに残念そうな顔になった優輝は、先頭の舞朝、彼女の右腕に抱きついている愛姫、そしてこんな町の中心部だというのにシーツを被ったままの叶を順に見た。
「『銅志寮』は女人禁制らしいけど」
「なんだ残念だな」その台詞を聞いて和紀は優輝の首に腕をまわし、強引に肩を組んだ。「じゃあヤローだけで飲むか」
「それもいいけど…」
優輝はつまらなそうに二人を見る舞朝の方を窺いながら、自分の肩に回された和紀の腕を外した。
「僕も男だと言うことを忘れないでもらおう」
ピョコンと叶のシーツからカインが顔を出した。
「じゃ、おまえも来るか? ナナなしで?」
「ええと」
カインはシーツで隠された叶の顔のあたりを振り返った。もにゅもにゅとなにやら両腕を動かしていたが、パッと和紀に顔を戻した。
「やはり遠慮しておくことにしよう。ナナを一人にするわけにはいけないからな」
「じゃあナシか、お茶」
舞朝が確認するように訊いた。そんな捨てられた子犬のような様子の彼女に、優輝は顔を向けた。
「ボクは、君ともっと話しがしたいな」
相変わらずの爬虫類的表情の優輝だったが、その言葉を聞いて舞朝の頬が再び赤くなる。
「じゃ、じゃあ地学部の部室の方でお茶にしようか」
生徒四人から男鹿を含めて六人連れになった舞朝たちは、駅ビル地下にあるスーパーで買い物を済ませ、清隆学園方面のバスに乗った。
国道を真っ直ぐ進むこのバスでは、校門よりも寮の方がだいぶ近いところに停まるが、こちらの駅に向かう他の路線が無いのだから致し方ない。
六人はバスを降りると多摩川の河岸段丘を延々と歩いて清隆学園まで戻ってきた。
生徒昇降口や職員室があるA棟で男鹿と別れ、C棟二階の地学講義室へと足を向けた。
あと少しで到着するというタイミングで、廊下のスピーカがチャイムを鳴らした。
「あちゃ残念」
舞朝が渋い顔になった。彼女に抱きついている愛姫も、ちょっと眉を寄せて残念そうな表情を作った。
「?」
荷物持ちをかってでた和紀には意味がわからなかったようだ。
「まだ時短だろ。これってクラブ終了の合図じゃないか?」
自由な左腕に捲いた桃色をした細身の時計を確認する。ブラウスのカフスの上から捲いた腕時計は、その時短での部活終了時刻を指していた。
「ええ~」
和紀が眉を顰めた声を上げた。両手に持ったビニール袋の重量は結構なものになる。
「せっかく運んだのに」
「でも小石ちゃんに迷惑かけるわけにはいかないだろ」
「そうだけどさ」
援軍を求めて和紀は愛姫の方を向いた。目があった彼女は笑顔を作り直した。
「わたくしの大事なマーサさんを危険な目にあわせることは許しません」
「ちょっとぐらい、いいじゃないか。なあナナ」
「…」
「ナナも、ちょっとぐらい、いいんじゃないかと。ムグー」
カインが代弁しようとして、叶自身の左手で口のあたりを塞がれてしまった。
「やあハドソンさん。みんな、おかえり」
廊下で話し合っていると地学講義室の方から扉が開かれた。室内から部長のヤマト先輩が顔を出した。
「なんか、大変だったみたいだねえ」
どうやらA棟での騒ぎは彼の耳にも届いているようだ。
「とりあえず一息ついたら」
ヤマト先輩は道をゆずるように扉の前から引っ込んだ。その横にアイコ先輩も心配そうな顔を隠さずに寄ってきた。
「やっぱ、お茶を買ってきて正解だったね」
いいかげん重い荷物に飽きたらしい和紀が先頭になって、地学講義室へと雪崩れ込んだ。鞄などの置いていった荷物は、優輝を心配して出発したときのままだ。
「コップか」
さっそくビニール袋からペットボトルを取りだし始めた和紀の手元を見て、舞朝が確認するようにつぶやいた。
「わたくしが取ってきますね」
愛姫が太陽観測のために仕切ってあるロッカーの向こう側へ、スキップを踏むような軽やかさで行った。窓際の流しには全員分のコップが洗って干してあるはずだ。
舞朝など進学組や二年生は、自宅からマイカップを持ち込んでいたが、優輝には買い置きの紙コップを出さなければなるまい。ちなみに和紀はずうずうしくも入学式翌日には、三倍速いモビルスーツのコップを持ってきていた。
八人分の茶器を、もとは鉱物標本洗浄用の備品だったらしいステンレスのバットの上に並べて愛姫が戻ってきた。
「おやおや」
ヤマト先輩が意外そうな声を上げた。やっぱり、これからお茶会ではまずいかと振り返ると、まだ開けっ放しだった扉の所に、紺色の道着姿の人物が立っているのが見えた。
「もしかして、戻ってくる気になったのかな?」
鋭い目つきとは対照的な、部長の柔らかい声に、五郎八は小さくうなずいた。
「戻ってきてくれるのか?」
舞朝は目を輝かせて五郎八に駆け寄った。
「うむ。やはりこれからは『星空を愛でる女性』のほうがいいのだ」
突然の心変わりに、舞朝の後ろで男子二人は顔を見合わせている。叶は相変わらずシーツで表情が隠されているが、少しは驚いたらしい。右手のカインが絶句をして両腕を広げていた。愛姫だけは全て判っているような顔をして微笑んでいた。
「それとも、いまさら復帰は出来ぬか?」
不安そうに表情を変える。とはいえ目つきの悪い顔をしている上に顔の半分は伸ばし放題の髪で隠れてしまっているので、端から見ていると不良学生がカツアゲしているように見えたかもしれない。
「いや!」
ほとんど脊髄反射で舞朝は答えた。
「出戻りだろうと何だろうとOK! OK! 大丈夫だ!」
舞朝は両手で五郎八の手を握りしめると、うれしさのあまり涙さえ浮かべて歓迎した。
「これでまた一緒だ。よろしくイロハ!」
「う、うむ」
舞朝が全身で示す歓迎を、まともに見ていられなくて視線を泳がす五郎八。と、いつまでも彼女の手を握っている舞朝の掌を、いつのまにか茶器を机の上に置いた愛姫が横から奪い取った。
「だめですよイロハさん。マーサさんの肌はわたくしの物なんですから」
「いいかげん、そのヨタをやめろ」
愛姫の手を振り払いながら舞朝は牙を剥いた。
「ちなみに、辞退届は小石ちゃんの一存で保留になっていたのよ」
アイコ先輩が人差し指を立てた。
「それは、なにより」
五郎八は、高等部に上がってから初めて入る部室だというのに、それがさも当然という雰囲気で入室してきた。
彼女も進学組なので、中等部の頃から何度もこちらの部室には顔を出していたのだ。
和紀がペットボトルを置いた場所に自然と輪になって、それぞれが好みの飲み物をコップなどに注ぐ。
「それでは」
なぜか和紀がコーラを入れた自分のコップを捧げ持った。
「優輝の解放を祝って、かんぱーい」
「あほくさ」
舞朝のつぶやきが一刀両断した。
「で?」
甘いミルクティで唇と舌を湿らせたヤマト先輩が、優輝に鋭い視線と、柔らかい微笑みを向けた。
「なんで警察なんか来たのかな?」
「知る必要がありますか?」
目を合わそうとしない優輝は、それでも力強く聞き返した。
「うん、まあね。いちおう部長だし、他のみんなも知りたいだろうし」
「そうですね。どこから話し始めたらいいのやら」
困ったように床へ視線を彷徨わせる。しかし相変わらずの爬虫類っぽい動きのため、カナヘビが餌となるコオロギを探しているようにも見えた。
「どうやらボクは、ここ最近の時短と原因となっている、連続猟奇殺人事件の犯人と思われているようですよ」
「!」
大きく息を呑んだのは舞朝と和紀だった。だいたい察していたのかヤマト先輩は細い目をちょっと開いただけであったし、愛姫に至ってはさも当然という顔で微笑んでいた。
「それは、どういうことかな?」
それでも優しいヤマト先輩の問いに、優輝の口がポツポツと自分の過去にあったことを話し始めた。
父親の事件。家族全員と家そのものすらも持って行ってしまった。家族の他に、父親の勤めていた会社の人間が二人、その親族が一人、捜査に来たお巡りさんが一人の計四人も亡くなった。
凶悪事件に巻き込まれた子供は、自分自身が凶悪事件の加害者になりやすい事。
事件後に住むことになった父親の実家のこと。厳しすぎる祖母は小学校でのイジメから救ってはくれなかった。
犯罪者の息子という肩書きの重さ。
逃げ出した夜。辿り着いた母方の実家がある町。しかしすでにそこは空き地になっていた。
次の夜の火事。不審火ということでお巡りさんが調べたが、優輝自身が放火したとは断定されなかった。
全身に負った、二度目の大火傷。同じく家にいて火傷を負った祖母は助からなかった。
心と体は二回目には耐えられず、しばらく精神科の病院に世話になる事となった。
天涯孤独となった優輝は、退院後に孤児院へ入ることになった。
「わかったでしょう」
不気味なほど静かに優輝は告げた。
「これだけレッテルが貼られていて、犯人じゃない方が不思議っていうものでしょ」
何杯目かのスポーツ飲料に口をつけながら、優輝は言った。体も顔も、そして視線も舞朝を向いていた。
「で、でも…」
ぎこちなく微笑みながら舞朝は訊いた。
「おまえじゃないんだろ? ユウキ?」
「もちろんボクじゃない…、と思う」
「え?」
「もしかしたらボクの人格が二つに分かれていて、もう一つの『ボク』がやったかもしれない。それをボクが憶えていないだけで、犯人は『ボク』かもしれない」
室内の誰もが押し黙り、沈黙がやってきた。
「それで?」事も無げにその沈黙を破って五郎八が自分の湯飲みからお茶を喉に流し込んで訊いた。「じっさい、おぬしが狼藉を働いたのか?」
優輝の答えを待って、再び全員に沈黙が訪れる。
「いや。もちろん、そんな事はしでかさないよ」
優輝は寂びそうに目を歪めた。
「信じるか、信じないかはキミたち次第だけどね」
「そうかぁ」
鋭い目線で優輝を観察していたヤマト先輩は、腕組みをして言った。
「それで、ここのところ暗い雰囲気だったんだね、渚くんは」
「ええと、はあ、まあ」
変わらぬ態度に拍子抜けのような物を感じながら優輝が答えた。
「よし! それじゃあ次の天文部の活動は決まったな!」
部長であるヤマト先輩は、可動式黒板へつかつかと歩み寄って、チョークを手にした。
「イロハの残留も決まったことだし、新入生歓迎を兼ねての『遠足』にしよう!」
「は?」
「へ?」
話しについて行けない部員たちの中からアイコ先輩が声を上げた。
「ちなみに、それってグループデートって事?」
「そうとも言う!」
声を一層張り上げたヤマト先輩の前で一同は顔を見合わせるのだった。