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オペレーション・コード;エルフ  作者: 池田 和美
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回想・③



 年の瀬も押し迫った外には、この地方特有の強い風が吹いていた。

 乱暴的なそいつらは、外を支配している自分たちの存在を、屋内で縮こまっている人間どもに知らしめようと、ガタガタと窓ガラスを叩いていった。

 町に他には音がまったく存在しなかった。

 いや厳密に言えば朝の早い職業に就いている者たちは、暗闇の中で動き出しているのだろうが、自室である二階の部屋にいる渚優輝の耳までその気配は届いていなかった。

 学習机の上に置かれた目覚まし時計は、深夜と言って構わない時刻を指していた。

 優輝は布団にも入らずに、冬の冷気が染みこんでくる部屋で、その時計が針を運行しているのを見つめていた。

 一人で夜に起きていると、優輝の脳裏によぎる言葉があった。

(やはり僕は『死に損なった』のかもしれない)

 電気も点けずに、蛍光塗料が塗り込まれているためにボウッと緑色で認識できる、針と文字盤を見続ける。秒針は優輝の鼓動に合わせたように巡っていく。

 冬休みの宿題は、もう大半を片付けていた。口うるさい祖母が監視する私生活で肩が凝る毎日だが、おかげでこうした計画的に片付けなければならない仕事は順調に消化することができた。

 また突風が吹いたのだろう。窓ガラスに木の枝が当たるような音までした。

 すっかり冷えた手足。せめて胴だけでも冷気から守ろうという本能なのか、それとも心細さからか、腕は自分を抱きしめるように巻き付けていた。

 血流が滞って足が痺れた気がする。

 無意識が下半身に命令して、椅子に座りながらも重心を移動させた。

 ふいに世界に新しい音が生まれた。ギイというその音は椅子が軋んだ音だ。

 とても小さな音だったが、階下にいる祖母に聞かれたのではないかと不安になる。

 しばし息すら止めて家の中の気配を探った。

 すると鋭敏になった神経が、一階の廊下に誰かが出てくる音を察知した。そのまま本物のウグイス張りではないが、軋む廊下の音が階段の方へと歩いてくる。

 優輝は自分に透視能力があるような錯覚を得ながら、音の移動にあわせて首を巡らせた。

 祖母の足音と思われるものは、窓ガラスを叩く風の音に邪魔されながらも、確実に優輝の耳に捕らえられていた。

 ふいに扉を開ける音がした。

 いくら祖母が枯れ木のような体つきだとしても、まだ階段を浮遊して登ってくるのには早いはずだ。

 くぐもった水音。そして再び扉を開ける音。

(どこまでも機械的なんだな)

 二年も一緒に暮らしていれば、相手の習性を把握することも可能となる。祖母はこの時間に必ずトイレに立つのだ。こんな深夜に一旦起きるのに、夜明けには起床するのだから参る。それで、いつまで寝穢く寝ていると彼を叩き起こすのだ。

(どうせ、すぐに寿命が尽きて起きなくなるのに)

 管理される生活に辟易していた優輝は、祖母に対して殺意のような物を抱いていた。心の中で何度彼女を殺したか数え切れないほどだ。

 だが死んでしまえばいいと考えるのと、実際に行動するのはまったく別の話だ。

 ただ小学生の優輝には、歳を重ねると眠りが浅くなるという事が理解の範疇外という事もあるのだが。

 祖母の足音は来た道を戻り、おそらく彼女の部屋のものらしい扉の開閉音で終わった。

(計画はあるんだ)

 優輝は祖母に対する激しい感情のままに、自らの意志を想像の中で遊ばせることにした。

 渚家の暖房は灯油ストーブによって行われる。もちろん夜は火を消して火事の予防としている。優輝の関心はストーブ自身ではなく、その燃料にあった。

 保管場所から現在の量までだいたい把握している。二人しか居ない家族でストーブの準備などの労働は、優輝に回されてくることが多くなっていた。

(あそこから持ち出して)

 祖母にばれないようにするために、どうすればいいのか判っている気がした。

(ライターはあの引き出し)

 頭に中ではっきりと必要な物をどう揃えられるかまでシミュレーションできた。

(そうしたら僕の布団に染みこませて、自分で自分に火を点けるだけだ)

 どこにロープをかけていいか判らない首つりや、果たして自分自身に致命傷が与えられるか不安になる、台所の包丁による切腹なんかよりも、確実に死ぬことができる方法に思えた。

(そうすれば逃れることができる。すべてから)

 もちろん、向こうの世界で家族に会えるなんてことは考えていない。だが当てつけのように優輝が死ねば、祖母へ幾分かの復讐になるかと思ってのことだ。

 実の息子は殺人犯。そして孫の一人もまともに育てることができなかった。かつて教育者として活躍していた祖母へ被せる汚名として、最大のダメージを与える物になるだろう。

(灯油をまいて火を点けるなんて…)

 ふと我に返った。

(パパと同じだな)

 そう気がついた途端に、父親の最後の言葉が鮮やかに蘇った。

「おまえもしねええ!!」

 たまらず耳を塞ぐ。しかし直後に起きた爆発と、体中が焼かれる感触までもが戻ってきた。

(あれから二年…。いや三年になるのかな)

 年が明けて春になれば中学校に進学するのだ。それなのにまだ優輝の心と体には、父の事件で体験がこびりついているかのように残っていた。

 肉体的には、体のアチコチに残された傷以外に、異常はないはずである。それなのに、あの日あの時の音や熱は皮膚の感触としてすぐに再現される。

(あの時、なぜ僕だけ置いて行かれたのだろう)

 行き先が天国か地獄かは判らないが、父親は全てを持って行ってしまった。優輝だけを現世に残して。

 だが優輝にはまだ家族を追いかけるつもりはなかった。

 祖母との生活は最悪だが、まだ希望が残っていた。

 もちろん学校での生活ではない。

 殺人犯の息子という肩書きだけでなく、体格も小柄な方で、さらに学力も劣るとなれば、進学校のクラスでは、普通の児童たちのいい気晴らし対象にされる。もちろん優輝にもその化学反応のような人間関係は作用した。

 大人たちは「イジメ」と一括りにして、キョウイクゲンバが悪いとか責任のなすりあいをしているが、攻撃する側が自覚していないケースだってゴマンとある。

 日々に溜まる大人たちへの不満だったり、課題の消化を求められる学校への不満だったり、人間として感じるプレッシャーのはけ口とされているだけなのだ。

 もちろん被害者たちは苦痛に苛まれるため、場合によっては一生忘れないほど心に傷を負ったりする。だが攻撃側からすれば、腹が減ったら食事する、便意を感じれば排泄をする、暑ければ薄着をするし寒ければ厚着をする。その延長線上で、ストレスを感じたら攻撃する。ただそれだけなのだ。普通の人間が毎日の排泄を記憶していることなどあり得ないのと同じように、加害者は被害者がそこにいなければ、攻撃した事実を忘れてしまう。

 クラス中から攻撃を受けても助けてくれる児童なんているわけがない。それは「次にイジメられる役」の立候補にしかならないからだ。

 それに優輝は途中で転入したという立場もあった。二年たってもクラスからは余所者の地位で見られていた。これでは彼に対する攻撃が止むわけがない。

 しかも担任の丹波ですら荷担しているのだ。

 よほど第一印象が悪かったとみえる。それが優輝自身のせいではなく、主に祖母が放った暴言が根拠になっているのだから始末に困る。

 教室で直接暴力を受けている時に出くわしても見ないふりである。それどころかクラス運営が自分の思い通りに行かないときに、優輝へ当たり散らしたり、一人だけ肉体労働を課したりと、率先して児童たちに優輝がストレス発散のターゲットであることを示していたりもする。

 家では祖母が敵。

 学校では味方が誰もいない。

 こんな生活から逃げ出す方法を考えて考え抜いた

 優輝は自分の知っている全ての情報を吟味し、希望が湧いてくる単語を発見した。

 柴田のおばあちゃん、だ。

 成り行きで父方の親戚に引き取られて暮らしているが、なにも母親が天涯孤独だったわけではない。母の旧姓は柴田といい、町の中心部からちょっと離れた市街地の一軒家で暮らしているはずだ。

 柴田家の人々は渚家とは違って、おおらかな人物が揃っていた。

 盆や暮れ、正月などに顔を見せに母親に連れられて何度も行ったことがある。さすがに優輝一人で訪ねた事はないが、小学校も後もう少しで卒業という自分に、そのぐらいのことは可能かと思われた。

 鉄道やバスの時刻表は、図書館などの端末で、簡単に調べることができた。

(柴田の家まで行けば、なんとかなる)

 事件後一度も柴田家の者とは顔をあわせていないが、それは祖母が向こうを嫌っているからだということを優輝は正確に理解していた。もちろんその理由までは、小学生であり男である優輝には判らない物だったが。

(そろそろいいか?)

 なるべく音を立てないように机の引き出しを引く。そこには自分の運動靴が入れてあった。週末に洗って干した物を取り込んで隠しておいたのだ。

 洗ってあったから室内で履くことにも抵抗がなかった。

 ジャンパーに袖を通し、DVDショップの店頭で販促として配っていた、ハリウッド映画のビニール袋を手にする。これは巾着のように口がヒモで絞れるようになっていて、そのヒモを底にある輪を通すと肩からかけることができるという便利な物だった。

 この中には優輝の全財産や(といっても総額で一万円もなかったが)懐中電灯などを入れてあった。

 音がしないように窓を開けた。

 渚家は古い木造二階建てであった。一階の窓には庇がついており、彼の部屋からそこへ移り、附属の物置まで歩けるようになっていた。

 庇の強度が優輝の体重を充分支えられるのは、去年の大晦日に窓ガラスを拭かされたときに経験済みだ。

 冷たい外気に触れて息が白くなった。

 優輝の体重を受け止めた庇が軋んだような気がする。

 そのままの体勢で家の中の気配を探ってみるが、祖母が起きてくる気配はなかった。

 丁寧に自室の窓を外から閉め、移動を開始する。

 物置まで行けば出入りの造園業者が置いている脚立が立てかけてあるので、地面まで安全に降りることができるはずだ。

 二階の外壁沿いに移動すると、陽のあるうちに確認したままに、軽金属性の脚立が畳んだまま物置の壁に立てかけてあった。

 今日みたいな風の強い日には、倒れないようにロープで縛り付けてある事までチェックしていた。

 だが脚立の足をかける部分は、円を斜めに切り取ったような断面をしていた。これは開いて使用する時にその面が水平になるようにされた細工であった。だが優輝が降りようとしている今は、脚立は折りたたまれて垂直になっている。足をかけるのは平らな面ではなくて、平面と曲面がつながる角であった。

 なれない踏み段に時間を取られることになったが、足を滑らせて落下することなく、優輝は地面に降り立った。

 あとは足音を殺して駅に行くだけだ。

 常夜灯がポツポツ点いている街路は不気味であった。小学生の彼がこんな時間に、一人で外を出歩くことなど初体験であった。湧いてくる心細さのような物を、クラスメイトたちが放つ嘲笑の記憶で殺し、なるべく暗がりを選んで歩く。

 普通の大人に見られるだけならまだしも、お節介にも声をかけられたら何と受け答えしてよいか思いつきもできなかった。さらにお巡りさんに見つかったら、ここまで抜け出してきた労力が無駄になってしまうだろう。

 自分の足音が家々に反響しているような気がする。履いている靴はゴム底のはずだが、足音を殺して歩くには技能が必要なことを知った。

 優輝が住んでいる町は、大雑把に言って東北地方に分類される地域にあるが、降雪量はあまり多くはない。年末の足音が聞こえる今日も、見わたす限り白い物は視界に入らなかった。

 やがて同じように人気のない駅まで辿り着いた。

 駅といっても地方の鉄道だ。ディーゼルカーが寂しく一両だけやってくる無人駅である。

 かつて生糸の輸送のために引かれたと、この地の小学生ならば誰でも学ぶ地方の歴史だが、過疎化による輸送量の減少は鉄道の存続問題に直結していた。

 そのため時刻表は空欄ばかりが目立つ白い物になっている。

 そんな駅の周辺に繁華街が広がっているわけもなく、都会のコンビニ風に内外装をお洒落にした酒屋が一軒、マイクロバスの切り返しぐらいは不自由し無さそうな駅前広場に建っているだけだ。外見がコンビニ風というだけで、営業時間まで真似しているわけではない。よって広場に面した入り口には無愛想なシャッターが降りていた。

 他にこの広場に面しているレンタカーと電器店は、いつ閉店したのかが判らないほど風化に身を任せていた。

 ポツンとバス停が一つ。これだって朝夕以外の便は極端に少なくなる。

 ここまで誰にも出会わなかったので気が大きくなったのか、優輝は広場の真ん中を突っ切って駅のホームへと渡った。

 一線一面の鉄骨構造にアスファルトを敷いたプラットホーム。国道のバス停にあるような待合いのための小屋が真ん中あたりに、まるで舞台のスポットライトを浴びているかのようにポツンと目に入った。

 あの小屋の中に時刻表が貼ってある。下調べしてきた時刻にはまだあるはずだが、また年末ということで変更になっているかもしれない。その確認のためにも小屋に行くことにした。

 何もない線路から、何もないホームに風が駆け抜け、そして優輝に体当たりをして行った。

 ホーム側は解放された小屋であろうとも、少しは風避けにはなるかもしれない。

 もう一つの意味を見いだした優輝の足が少し速くなった。

「?」

 安っぽく白いペンキで塗られた小屋には先客がいた。

 板張りのベンチに横たわる黒い影。そのサイズから大人であろうと思われた。

 だが、その人物は優輝が近づいても起きようとせずに、静かに呼吸に合わせて胴を上下させているのみだった。

 こんな冬の最中に野宿でもしているのだろうか? 少し間違えれば凍死の可能性だってある。

(起こさないように…)

 全ての大人が敵になる可能性がある。風から身を守ることは諦めるとして、時刻表の確認だけはしなければなるまい。

 スカスカな時刻表に、小さな張り紙がしてあるようだ。だが小屋の中には一切の照明は取り付けられておらず、ホームの常夜灯がわずかに差し込むだけだ。

 優輝は自分が背負った袋に懐中電灯を入れてきたのを思い出した。

 風が吹き抜けるホームで取りだして、スイッチを入れる。丸く現れた白い円を室内に向け、その貼り付けてある紙を読む。

《二十五日からは毎日休日運転となります。三十一日、一日の運転は以下のとおり》

 その下には、ただでさえ少ない休日運転から、さらに本数を間引いた運転予定が印字されていた。

「ん? んが?」

 じっくりと読んでいたのがいけなかったのか、ベンチの影が動いた。どうやら優輝の懐中電灯の光が時刻表を掲示しているプラスチック板に反射し、その人物を起こしてしまったらしい。

「おーう」

 野太い男の声で、まるで熊を威嚇するような声をあげて、寝ていた人物が体を起こした。

 突然のことに逃げも隠れもできずに凍り付いている優輝をチラリと見る。

「なんだ、オマワリで、ないのか」

 上から下まで黒い服を何枚も重ね着した男は、よく警官に起こされているのかそう言って顔を手の平で拭った。

「何時や? いま?」

 ボリボリと胸のあたりに手を差し入れて掻いてから、懐から古風な懐中時計を取り出す。

「もうそろ、始発かぁ」

 もうちょっと寝られたのにな、という顔をしてから訝しむ表情になって優輝を見た。

「どうた? 座らいのか?」

「ああ、は、はいっ」

 相手が身を起こして席を空けてくれた。どうやら小学生の優輝がこんな時間に表を出歩いていることを不審に思っていないらしい。

 それでも顔を見られないように、優輝は懐中電灯を消して男の隣に座った。ベンチに残されていた男の体温が急激に失われていく。

 横に座って判ったが、みすぼらしい格好をしている割に、男からは嫌な体臭などしなかった。それどころか髪の毛からはわずかにシャンプーの香りがする。

「おや? ほほう」

 一人で納得しているような声を出しているので、暗闇の中で目だけを向けてみた。男は変な動きで優輝を見ているようだ。ひょこひょこと上体を左右に揺らして、まるでグラウンドの向こうで球拾いをしている補欠にブロックサインで何かを伝えようとしているキャッチャーのようでもある。

 暗闇の中で、眼球だけが差し込んでいる常夜灯の光を反射していて、不気味であった。

(もしかして、この人…)優輝にはこの人物の正体に心当たりがあった。(ベニヤおじさんかな?)

 ベニヤおじさんとは町内に出没する不審者のことである。一見して浮浪者のような格好をして町を徘徊しているだけではなく、奇声を上げて小学生を追い回したりもする。もちろん大事な児童を預かっている学校側からは、危険人物とマークされているのだ。

 だが実態は無害な人物であることは周知の事実だ。町で出会っても、こちらから手出しをしない限りすれ違うだけだし、小学生を追い回すのだって、水をかけたりするイタズラをされて怒ったからだ。

 だが大都会ならまだしも、こんな地方の田舎都市に存在していては悪目立ちしていることには違いない。

 お巡りさんに囲まれてどこかへ(おそらく警察署)連れて行かれるのを、優輝も見たことがあった。

「ふうむ」

 意味があるのかないのか、この町一番の変人は、しきりに自分の顔を撫でながら優輝のことをジロジロと見ているようだ。

「こいは面白い」

 ベニヤおじさんは右の指から何かを抜くと、それを掲げた。吊られて優輝もそれを見上げてしまう。

 どうやら指輪のようだ。

 ベニヤおじさんはゆっくりとそれを顔の前まで下ろして、その輪っか越しに優輝のことを覗き込んだ。

「君のまわには、たさん居るだねえ」

 片言の日本語のような物で話しかけられてしまった。ちなみにベニヤおじさんは純和風の顔つきをしているから、外国人ではないと思われた。

「うんうん、いっぱだ」

「何がです?」

 気持ち悪くて、つい聞き返してしまった。

「君のまわには、妖精さんがたさんおるだね」

「妖精?」

「そ、妖精さん。そこかしにおるもだけど、君のまわにはあまっていように、たさんおる」

 優輝は自分の周囲を見まわしてみた。もちろん暗闇しかない。

「どこにくの?」

「ええと」

 相手がベニヤおじさんでも言ってもいいのか迷ってしまう。

「うんわった」

 指輪のような物を再び右手の小指に戻しながら彼はうなずいた。

「おじいがつていってやろう」

「ええ?」

「頼またから、妖精さんに」

「はあ」

 レールの継ぎ目が鳴り始めた。遠くから踏切の警報機が鳴る音が近づいてくる。始発列車がやってきたのだ。

 この地方鉄道の朝は早い。支線の一つが港に乗り入れているため、海で仕事をする男たちを運ぶために意外なほど早くの便があるのだ。そのかわり一時間あたりの本数は極端に少ない。

 いま乗り過ごしたら次まで一時間近く待たされることになる。仕事納めはまだであるから、その便にはサラリーマンなど大人がたくさん乗ることが想定できた。

 やけに響くブレーキ音をさせて停車位置に停まると、一両だけのディーゼルカーはカロカロとエンジン音を周囲にまき散らした。

 優輝は小屋から立って、車両後部のドアに向かった。乗るときはこちらのドアで、降りるときは運転手側のドアから料金を払いつつだ。バスの後払いシステムと同じである。

 寒い冬季は自分でドアを開けなければならない。いくらホームとはいえ、鉄道車両のドアは高い位置にあった。

「どら」

 後ろからベニヤおじさんが手を伸ばして開けてくれた。

「あ、ありがとう」

 教育熱心な祖母だけではなく、今は土の下にいる母親からも、人への感謝を忘れてはいけないと教わった優輝は、相手がベニヤおじさんでもちゃんと礼を言った。

 暖房の効いた車内には、他に乗客はいなかった。

 出入口の近くには、たくさん乗客が座れるベンチシートが、車体中央には乗り心地がいいボックスシートが具えてあった。優輝はボックスシートを選んだ。

 あたり前な顔をして向かいにベニヤおじさんが座ってくる。優輝は迷惑そうな顔になってしまったが、先程のドアの件もあることだし、放っておくことにした。

「おおう、おうおう」

 ベニヤおじさんは車内を興味深そうに見まわしていた。

(もしかしたら乗るのは初めてなのかもしれない)

 まるで子供のように目をキラキラさせているベニヤおじさんを見て、優輝は素直にそう感じた。

 ディーゼルカーは運転手の操作でドアを閉めて発車した。

 ホームと違って明るい車内である。この突然の同行者を観察する余裕が優輝にも生まれた。相手が何者か知っていても、町ではジロジロと見るわけにも行かなかったが、目的地に着くまで時間は充分ある。

 歳は老人と言っては失礼なほどで、意外に若いようである。顔のどこにも皺は現れておらず、伸び放題の蓬髪にも白髪は見つけられなかった。

 髭もちゃんとあたっているらしく無精髭は目立つほど生えていなかった。

 服装はなぜか夏物衣料らしい薄着を何十枚も重ね着をしており、半袖で隠れない下腕には黒い布をまるで包帯のように巻き付けていた。

 ズボンも作業着のような物を重ね着しているらしく、一番外側に履いている黒色をしてポケットだらけのズボンは、前のチャックがちゃんと閉められないようだ。下に履いている紺色をしたズボンの一部がはみ出していた。

 特徴的なのはその目で、どこを見ているのかが判らなくなるような斜視であった。だがその両方が熱病に罹ったようにランランと輝いており、優輝でなくとも何を考えているか判らないという印象を与えるのだった。

 黒い髪の割に色素の薄い瞳の片方が優輝に向いた。

「どで、おりっの?」

「新町」

 つい正直に答えてしまった。言葉が出てから相手がベニヤおじさんでも油断しないでウソを言って誤魔化すことができたと反省する。

「ほか」

 ベニヤおじさんは左手を右手に重ねた。何をするのだろうと観察していると、右の小指に嵌めた指輪のような物を抜いて、駅の小屋でやったように掲げた。

 指輪だと思っていた物は革製の指貫だった。

 それをやはりホームの待合い小屋でやったように覗き込み、その輪っかを通して車内のアチコチへ目を向けた。

「それは、なんです」

 優輝は自分の好奇心に負けてベニヤおじさんに訊いてしまった。

「これはおじいの宝物で『ジョセイニの指輪』つだよ」

 一旦視線を外して優輝に微笑みながら解説してくれる。

「こで、妖精さんたちが見えようになる」

「本当?」

「ああ。のぞくか?」

 宝物の割にはあっさりと優輝に差し出してくる。優輝は彼の指に摘まれたままの『ジョセイニの指輪』とやらを覗いてみた。

 それで見える世界が変わるわけがなかった。

「どだ。ええよ」

「はあ」

 なんとも曖昧な返事になってしまった。

 ディーゼルカーは鉄路を進み、次の駅へ停車した。寒い空気とともにOL風の女が乗ってきて、小学生と浮浪者という異様な組み合わせを見て、明らかにギョッとした。だが、それ以上は無関心を決め込んだらしい、その女は前方のベンチシートまで行って、そこに座って体を丸めるようにして目を閉じた。

 女が車内で居眠りを始めたのを見て、優輝は静かにしようと思った。ベニヤおじさんも人の睡眠を邪魔する趣味は無いのか、再びただの革製の指貫に見える『ジョセイニの指輪』を覗き込む作業に没頭した。

 次の駅ではゴム長を履いた釣り人の格好をした男が二人乗り込んできた。彼らもまた優輝たちを見てギョッとしたが、何も言わずに運転席の後ろまで行き、そこから立ったまま風景を眺め始めた。

 長い鉄橋を渡り、目的地が近づいてきた。

 暖房が効いているため温かい車内で眠気に襲われていた優輝の肩を、誰かが掴んだ。ふわふわと半分意識不明だった優輝が瞬時に我を取り戻すと、ベニヤおじさんが顔を覗き込んでいた。あの『ジョセイニの指輪』はいつの間にか元の位置に戻っていた。

「つぎぞ」

「ああ、ありがとうございます」

 今度は心から感謝の言葉が出た。もし彼がいなかったら寝過ごしてしまうところだったかもしれない。

 車内に設置されている電光掲示板から料金を読み取り、小銭を取り出す。現金の持ち合わせが無さそうなベニヤおじさんの分も自分が払わなくてはいけないのかなと考えていると、彼はどこからか大きなガマ口を取りだした。

 中からは溢れんばかりのビー玉が出てくる。

「まちがただよ」

 照れたように微笑むと、別のガマ口を取りだした。そちらには優輝のサイフと同じくらいの小銭が入っていた。

 駅に到着する前に席を立ち、二人して運転席の後ろにある料金箱の所へ行く。

「キミ」

 停車してから小銭を料金箱に放りこんでいると、ふいにベンチシートから声をかけられた。優輝たちの次に乗ってきた女である。

「はい?」

「その…」女は言いにくそうに視線を、さ迷わせながら訊いた。「大丈夫?」

「は?」

 優輝はその言葉が意味することが判らずに目を瞬かせた。

 見ると運転席の後ろから風景を見ていたはずの二人連れの男も、運転装置に手をかけている運転手すら彼のことを見ていた。

 その目には疑惑の二文字が浮かんでいた。しかしそれは優輝自身に向けられた物ではない。四つの視線の先を確認した優輝は、自然さを心がけて微笑んだ。

「大丈夫ですよ」

 どうやら優輝が、ベニヤおじさんに誘拐など犯罪行為に、巻き込まれているのではないかと心配したようだ。実際はその逆で、優輝の家出にベニヤおじさんが勝手に着いてきているだけなのだが。

 規定料金を二人とも払って、ホームに降りた。

 ディーゼルカーが出発する前に、身を切るような冷たい風が押し寄せてきた。車内の暖房で温められた体にはそう堪えなかったが、そのうち服も体も熱を奪われてしまうのだろう。

 こちらは昔の名残で、無人駅とはいえ駅舎があった。明るい構内を抜けて駅前広場手前にあるバス停までやってきた。

 家族で柴田家を訪ねるときは、駅からバスに乗車していた。

 だが事前の下調べで判っていたことだが、この時間のバスはない。バスの時刻表にも、寒い風に千切れて飛びそうになっている年末年始による時刻表変更の紙が貼ってあった。

「どすだ?」

 身長差でベニヤおじさんが見おろしてきた。

「おばあちゃんちまで歩くんだけど」

「そか」

「着いてくるの?」

「妖精さんが言ってるだでな」

 このまま柴田家に着いてこられても面倒しか起きそうもなかったが、優輝にはベニヤおじさんを追い払うことなどできそうもなかった。

(まあ、叔父さんもいるしな)

 柴田家の家族構成は、優輝の母方の祖母にあたる人と、母親の弟になる叔父、その奥さんである叔母に従兄弟が一人の四人暮らしのはずである。

 バスの行程は頭に入っているつもりだ。優輝は風に首をすくめながら足を踏み出した。

 もちろんベニヤおじさんも着いてくる。

 柴田家に最も近いバス停は六つ先になるはずだ。最初の三つは駅に近いからバス停同士の間は短いが、そこからが長くなる。優輝の尺度で言うなら自転車が欲しくなる距離だ。

 時間が早朝ということもあって、こちらの駅の周りにも人影は少なかった。早朝出勤するらしいサラリーマンが、家族の運転する軽自動車で次の列車に間に合うように送られてくるだけだ。

 バス通りを歩く。家並みはあっけないほどに途切れ、夏には水田となる風景が広がる。

 地面は真っ平らではなく、海で波がうねる程度に変化があり、波間に浮かぶ島のようにところどころ林を背負った丘が存在した。幾つかは鎮守さまが祀られているのか、単調な色彩の中で異様に目立つ赤い鳥居が小さく見えた。

 道路の東側に、もう一本車線が取れるぐらいの幅をしたコンクリート舗装の歩道が続いている。

 風は遮る物が無いために、減速せずに優輝の体にぶつかってきた。

 うねる道路の底へ降り、そしてあるかないか判らないほどの勾配を登りきれば再び同じような景色が目に入る。道に車はさほど通らなかったが、まだ夜明けまで少しあるのでライトを点けていた。視界が悪い中を走ってきて、突然見えた歩行者に驚いたのか、数台の車がクラクションを鳴らすこともあった。

 田んぼの中にポツリポツリと集落が見える。そういう場所に一番近い交差点に、看板だけのバス停が立っていた。

(これで、あと四つ)

 同じような風景の先にガソリンスタンドが見えてくる。まだまだ遠いが、周辺に遮る物が無いために視界に入るのだ。この時間に営業をしているとは思えないが、宣伝のためであろう看板にはライトがあてられていて目立つようになっていた。

 優輝はあまり前を見ることをやめることにした。歩いても歩いても一向に近づいている実感が湧かないせいだ。

 風が不思議と止んだ。それを異常と感じていると、右頬だけがライターで炙られたような感覚がやってきた。

「?」

「おてんさまだで」

 駅から黙って着いてきていたベニヤおじさんが、日の出に向かって両手を合わせていた。

 薄曇りの中、丘の向こうからこちらを窺うような様子で、赤い太陽が顔を出し始めていた。

 休耕中の田んぼに残された稲の根っこが、キラキラと雪のように輝き始めた。人間が気のつかないうちに降りていた霜が、日の出の光を反射しているのだ。

 太陽が顔を出したので気温が上昇しているかと思えば、そうではなかった。特に冬などは日の出の瞬間が一番寒かったりする。

 世界に光が戻ってきたせいで見えるようになった白い息を吐きつつ、優輝は足を進めた。

 次のバス停はガソリンスタンドの脇にあった。この先はブロック塀が続く集落である。そのせいで用地が確保できなかったのか、歩道はここから極端に狭くなる。

 脇の農業用水路らしいコンクリート製の溝は、相当の深さがある。幅は自動車の半分といったところか。時々思い出したようにコンクリートパネルで蓋がしてあって、上を歩けるようになっていた。

 朝の農作業に出かける老人などがチラホラと視界に入り始めた。

 集落の中心になる交差点に六つめのバス停が設けられていた。

「はあ」

 見慣れた風景までやってきて、優輝の口から安堵の溜息が出た。

 ここを新興住宅地へ曲がれば、そこに柴田家が建っている。

 だがよくあることだが、その新興住宅地は山の上にあるために、ここからはしんどい登り坂となるのだ。

 つぶれたコンビニと郵便局の交差点からその道を見上げる。まだ夜の名残のような山陰(やまかげ)が張り付いたような台地に、田舎には不似合いな欧州風の建て売り住宅が並んでいた。

 登り坂に意思を折られそうになりながらも、優輝はそちらに向けて一歩踏み出した。

 その時だ。郵便局で飼われているらしい大型犬が、優輝に向かって吼えだした。

 いちおう番犬としての役割を忠実に果たそうとしているらしい。それともまだ朝食前で、気が立っているだけかもしれない。

 一瞬ビクッと体を強ばらせた優輝だが、飼い犬と見て取って胸を撫で下ろす。

「犬は嫌いなのけ」

 不思議そうにベニヤおじさんが訊いてきた。

「うん、まあ。得意じゃない」

 できれば静かに物音すら立てず暮らしたい優輝にとって、ペットを飼うなんていう行為は信じられないことなのだ。

「まあ…」なにか気の利いた事を言い返そうとベニヤおじさんを向くと、彼は優輝の腕を引っ張った。

「わああ」

 突然の事に目を白黒させていると、体の近くでバクンと何かが閉じられる音がした。肩越しに振り返ると、惜しそうに唸り声を立てて大型犬がそこにいた。

「つないでないのかよ」

 優輝よりも大きく見えるその犬は、首輪こそしていたが、それを繋ぐリード類はまったく見あたらなかった。

 ベニヤおじさんが引っ張ってくれなかったら、涎を垂らす口元に覗く牙が、優輝の体に食い込んでいたかもしれない。

「しぃ」

 優輝の腕を掴んだまま、ベニヤおじさんは子供相手に黙るように指示するように、その犬に向かって人差し指を立てた。だが犬に人語を理解してもらうのは無理なようで、犬は二人に向かって吠え続けた。

「しぃーっ」

 それでも飽きずにベニヤおじさんは合図を出し続けた。すると犬は吼えかかるのを止め、バツの悪そうにクルクルとその場を行ったり来たりした。

 視界に優輝が入ると吼えたそうに牙を剥いて唸るが、その度にベニヤおじさんが黙るように合図をした。

 やがて諦めたのか「今日はこのぐらいで勘弁してやる」と言いたげな目で優輝を睨んでから、郵便局の敷地の中へと戻っていった。

「あ、ありがとう。たすけてくれて」

 ベニヤおじさんの知らなかった能力を見て、優輝はまず礼を言った。

「よかった。けはないけ」

「ええ、はい」

「そか」

 ベニヤおじさんは優輝が無事だと判ると、うれしそうに顔一杯に笑みを浮かべた。

「ウチに着いたらお茶でも出しますね」

 そのぐらいしかお礼のしようがない。お金だってちょっとしか持っていないのだ。

「ええよ。人が人を助けのは当た前のこと。れより、もう着くだか?」

「はい」

 優輝は軽やかな足で先に立ってうなずいた。

「ここを登ってすぐです」

 家で重圧をかけられ、学校ではイジメられ、行き場のない袋小路のような生活。それも柴田家に着けば変わるはずである。

 もちろん、すぐにこっちの親戚と一緒に住めるまでは考えていないが、小学校だってもっと楽な所に転校できるだろうし、私生活だって柴田家から言ってもらえば改善されることもあろう。

 四年前まで母親と泣き虫の弟と登った坂道。それを今日は不思議な浮浪者と登る。

「ここに公園があって…」

 キャッチボールをした公園。

「消防団の火の見櫓で…」

 ここでは隠れん坊をした。

「ここを…」

 ここを曲がれば柴田家である。


 空き地に「売地」の看板が立っていた。


 あまりの衝撃に優輝は立ったまま硬直してしまった。

「そ、そんな、なんで?」

 茫然としていると、どこか遠くから話し声が聞こえてきた。

「すません。こに家が建ってたと思うんでが」

「柴田さん?」

「はあまあ」

「あんたダレ?」

「迷子を連れきた者ですけ」

「ふうん。柴田さんは引っ越されたわよ」

「引っ越し?」

「なんでも仕事上のトラブルとか。去年なんて毎日ヤクザみたいな男たちが押し寄せてくるし、やっと静かになったわ」

「でか。どこに越さたか?」

「知るわけないじゃないの」

「君、君」

 トンと肩を叩かれて我に返った。ベニヤおじさんが心配そうに顔を覗き込んでいた。

「んなに肩を落とないで。おじいの宝物やっからよ」

 ベニヤおじさん自身が泣きそうな顔になって、優輝の右手に何かを握らせてくれた。

(おばあちゃんだ…)

 優輝は直感的にこの事態の核にいる人物を悟っていた。

(おばあちゃんなら昔の知り合いに手を回して、柴田の人を町から追い出すことができる)

 ふと握らされて物を見る。それはベニヤおじさんが大切にしているはずの『ジョセイニの指輪』だった。

 そして、その右手の平には、あの事件でライターを握っていたためにできた火傷の痕も残っていた。

(どうやら、もう行くところは一つしかないのかも)


 翌日の夜。渚家は火災を出すことになる。




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