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オペレーション・コード;エルフ  作者: 池田 和美
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非常に快活な諧謔曲



 桜の花が散る季節、高等部の校舎三階、つまり一年生に割り当てられた階層から外を見ている女子がいた。

 制服である紺色のブレザーを着崩すこと無しに身につけ、腰まであるとても長い髪を、後ろで一本の三つ編みにまとめている。

 彼女の名前は弓原(ゆみはら)舞朝(まあさ)といった。

 自分では平均以下の容姿しか持ち合わせていないと思いこんでいる彼女だが、そんなことはない。雑誌のモデルとまでは言わないが、こうして物思いに耽るように窓辺に座る姿は近寄りがたい雰囲気を纏っていた。

 ただ、いまその頭によぎる思いというのは「だるい」の一言なのだが。

 家からは自転車をとばして三〇分もかかる清隆学園の中等部に入学し、そのまま退屈かつ平穏な三年間を無事に過ごし、今日無事に高等部の入学式を迎えることができた。

 よって頭には新一年生というより中等部四年生という感覚があった。万事に無気力無関心無感動を装っている彼女にとって、入学式など面倒な学校行事は、できるだけパスしたいものだった。

 ただ中等部からの友人が「あなたが出席しないのなら、わたしも出ない」と強く言ったため、その友人のために午前中だけ我慢しようとしているだけだ。

 こうして春の陽差しが差し込んでいるのでは「勉強に」というより「居眠りに」最適といったところ。「だるさ」に拍車がかかるが心地よい物であることに変わりはない。

 まだ入学式も始まっておらず、校門に貼り出されたクラス分け表に従って、各々が一年間過ごす予定の教室に集まり始めている時間。入学案内とともに渡された式当日の予定表によれば、このあと担任がやって来てもう一度式次第を口頭で説明した後に講堂へ移動、そこでつつがなく式を終えた後に時間を長目に取った学活を終われば、今日は解放されるはずだ。

 教室の話題は、同じ市内で起きたという殺人事件であった。東京だからというより、統計的に人口が集中すればそういった事件も増えることになるが、さすがに毎日のように起きているわけでもないのだ。それに事件の被害者は市内の公立中学へ通う少女で、同じ世代の者として、これから事件がどう展開して行くか他人事では済まされないこともある。

 もちろん舞朝も好奇心のままに、耳だけはそういった話題に反応してはいたが、相変わらず顔はうららかな外の景色へ向けられていた。

(だが、ちょっと一年間は同じ教室で過ごすことになる顔ぶれを確認しても、いいかもしれないな)

 ふと思いついて教室へと気怠げに視線を巡らせる。ずっと外を見ていたため視界が青く感じられる中、何気ない風を装って教室内を観察してみる。

 清隆学園高等部は都内だけでなく、日本全国から受験生が集まる進学有名校であった。そのため舞朝は倍率の高い高校受験で狙うことを避け、三年早めに、より入りやすい中等部の段階で受験し、合格したのだ。

 そのせいで今日から高校生生活が始まるという新しいこの一年三組の教室には、中等部で見たことがある顔が五割、無い顔が五割という感じ。

 もちろん目新しい顔ぶれは、今日から清隆学園の生徒となる者たちだ。

 年相応の好奇心で、そういった顔ぶれが気にならないというのは嘘なのだが、彼女のちょっとヒネた心がそれを露わにすることを許さなかった。一人だけ舞朝は離れて自分の席に着いたままなのは、そういった複雑な心境からだった。それに、もともと人付き合いが上手でないことに自覚があったし、なにより彼女の席は一番の窓際だったこともある。

 昨今の少子化のせいか男女共学となっている教室には、出身が同じ者同士らしい五、六人ほどの塊があちらこちらにできていた。まるで草食動物が防衛本能から作る群れのようでもある。

 廊下側の中で一番笑っているのは、中等部でも一緒だった阿部くんだ。たしか運動会系の部活に入っていたような気がする。が、それがどんな競技までは憶えてはいなかった。その対角線に位置する女子グループも進学組の面子である。やはり市内で起きた殺人事件が話題のようで、必要以上に「ヤバい」と「こわいわー」を連発していた。

 真ん中あたりで男女混じってちょっとオドオドしているように見えるのは、受験組であろう。進学組に遠慮するようにボソボソと話している。会話に混じる地名が進学組とそう変わらないので、近所の公立中学校出身なのかもしれない。そうすると今回の被害者とは面識がある人間も混じっているのかもしれない。

 と、舞朝の目が、彼女と同じように一人で座っている男子に止まった。

 舞朝が座る窓際の列から一つ挟んだ三列目、ほとんど横並びの席に座っている、線の細く若白髪が目立つ男子である。男子用の制服の上にフードつきのパーカーを着ているのは、いまだ冷たい風が吹くことのある季節だから不思議ではない。制服自体を着崩しているわけでもなく、学習机の上には、制定はされているが最近では滅多に被る者がいなくなった清隆学園の学帽を置いていた。

 彼はとても中性的で魅力的な外見をしていて、パッと見ただけでも人の目を惹く美しさがあった。女子にしてみれば、美形男子が同じクラスでラッキーといったところか。その証拠に、物騒な殺人事件の話をしながらも、会話の合間に彼を盗み見る女子があちこちにいる。

 とうの本人はそんな自分に集まる視線に気がついていないのか、能面のような無表情のまま、指で摘み上げた何かを見つめていた。

(指輪?)

 舞朝にはそれが茶色い指輪に見えた。彼は光の加減を変えて観察しているのか、それを掲げる手を教室のアチコチに向けていた。

(まあ、高校になると色んな者がいるもんだ)

 他の女子とは違って、彼にそれ以上興味が沸かなかった舞朝は、再び窓の外へと目を向けた。

 そんなマイペースに春の陽差しを楽しんでいた舞朝を、現実に引き戻す事件が発生した。

 まだ担任もやってこず、生徒たちがザワザワとしている中をかき分けるようにして、颯爽とした足取りで舞朝の席までやってきた男子がいた。

 その男子を中等部で舞朝は見かけたことがなかった。

「あれ?」

 気安い調子で彼に声をかけられて、机に伏せていた舞朝は上体を起こした。その声の調子は確実に彼女自身に向けて発せられていたのだ。

 顔を向けると、歩み寄ってきた男子は驚きの表情をしたまま立ちすくんでいた。

「もしかして…」

 記憶を探るような顔をしながら、その男子は舞朝に訊いてきた。

「『しいちゃん』じゃね」

「はい?」

 突然、小学校時代のアダナで呼ばれた舞朝は、表情にヒビを入れながら小首を傾げた。

「どなた…、でしたっけ?」

 改めて長身の彼を見上げる。重ねて記憶を確認するが、中等部で見た顔ではなかった。それなのに春の朝日を受けているせいだけでなく、眩しいほどの笑顔を持つこのイケメンに、舞朝はなぜか見覚えがあった。

「俺だよ、俺。遊佐だよ」

「ゆさ?」

 親しげに話しかけてくる様子に、慌てて頭の中にある、製本したとしてもあまり分厚くなりそうもない交友録をめくる。そのページが、現在からドンドンと過去へと遡っていく。ついには地元の小学校時代まで至った。

「ああ!」

 万事が無気力な彼女が悲鳴のような声を上げた。これはとても珍しいことだった。

 彼女の前に現れたのは遊佐(ゆさ)和紀(かずき)。小学校時代の同級生であった。

「そういえば、しいちゃんはこの学校だったっけ」

「な、なんで、ここにいる?」

 当然の質問を舞朝は和紀にした。

「なんでって。そりゃ同じ『ゆ』だからじゃねえ?」

 高等部初日という今日は、席順は廊下側から名簿順に座ることとされていた。よって廊下側の列の先頭に阿部くんが座り、その後ろの席には女子で一番番号が若い池谷さんが座りと、男女交互に席が決められていた。さらに判りやすいように机の上には出席番号と氏名が書かれたカードまで置かれていた。

 たしかにこのルールでは舞朝の弓原姓と、和紀の遊佐姓では席が近くなる確率は高くなる。

「森川、結木に山本、んで弓原に遊佐。ここか俺の席」

 一番前の席からカードを確認してきて、学校指定の鞄を舞朝の後ろの席に置いた。

「いや、あたしがきいてんのは」

 小学校に上がる前から切っていない長い髪を丁寧に三つ編みしているという、手間も暇もかかりそうな髪型の舞朝は、その長い尻尾のような髪を揺らした。ちなみに一度結ってしまうと寝るときもそのままでいいので、朝の寝癖直しが必要でなく、ここまで長く伸ばした髪の割には手入れを怠っても目立たないという理由でこの髪型だったりする。

「なんで、この学校にいるかってこと」

「そりゃ、ここに受かったからに決まってんだろ」

 小学校の同級生という気安さか、とてもフランクに和紀は舞朝に微笑みかけた。

「自分の成績と兼ね合いですが、それがなにか?」

「だ、だって…」

 舞朝は自分の記憶を探った。彼に関する情報は小学校の同級生というだけでは無かったはずだ。

「たしか引っ越したんだよね? 名古屋だっけ?」

 それまでは弓原家と遊佐家は仲の良いご近所さんで町内会でも有名だったものだ。和紀が父親の会社の都合で引っ越すことになって、舞朝が他のクラスメイトより多く泣いたのは、一つの理由からではなかった。

「ん? まあ」

 まるで他人事のように和紀は言った。

「やっぱり進学は東京の大学にってことになって、じゃあ受験を考えて早めに上京しようか、と話しが進んで、親と一緒に戻ってきた」

「じゃあ寮ってわけじゃないのか」

「ああ」

「おやおやあ」

 話していると横から声がかけられた。顔を向けると舞朝が中等部で顔見知りだった一人の女子が、興味深そうに大きめの目をクリクリ輝かせながら寄ってくるところだった。

「人見知りするマーサにしちゃめずらしい。男と話してんじゃん」

 艶の良い黒髪を短く刈り込んでいるその女子は、確か他の女子からは「ウサギ」とか呼ばれているスポーツ(ウー)マンであった。

 実際の年齢よりも物静かな舞朝が、クラスの話題というやつに乗り遅れないように、なにかと絡んでくれる数少ない知り合いであった。もっとも彼女に言わせると舞朝は「物静か」というより「年寄り臭い」らしいが。

「見れば中々のイケメンじゃん。紹介して、ね、ね、ね」

 あからさまに値踏みする顔になって、長身の和紀の顔を下から睨め付けるウサギ。どうやら舞朝の友人として、この男は彼女にふさわしい人物かどうか、彼女なりに審査しているつもりらしい。

「あ、えーと。彼は遊佐くん、同じ小学校だったヤツ。こっちは中等部で同じクラスだったウサチャン…」

(え~と、本名なんだっけ? ツムギだったか?)

 こんなものである女の友情というのは。

「…」

 舞朝が思い出そうと口をつぐんでしまうと、沈黙が訪れた。まさか紹介がこの程度で終わるとは、お互い思ってなかったようだ。

「凪沙よ」

 舞朝が本名を憶えていなかったことに全然ショックを感じていない明るさで名乗った。聞いてそうだったと舞朝はフルネームを思い出した。この娘の変なアダナは、彼女の名前の音節から、まずはみんなの連想がアメリカ航空宇宙局へ行ったため、しばらく「USA」と呼ばれていたのがふりだしだ。それが最近ローマ字読みに変換されてウサチャンに至り、ウサチャンが女子っぽい名前のウサギへと変化したのだ。

 まあ本人は女の子らしい呼び名だと喜んでいたが、万事に変な方向にバイタリティ溢れる校風の清隆学園である。そのうちに「ラビット」とかに変わるに決まっていた。

 ちなみに舞朝はその孤高な態度が幸いしてか、名前をちょっと英語読みしたような呼ばれ方で固定されていた。

「遊佐くんは、何か運動をやってるの?」

 彼女が目をキラキラさせて話題を変えた。その輝きは、何か企みのような物を感じ取らせた。和紀の方はそんなことには気がつかないのか、泰然と腕を組み直していた。

「いや、これといってやらないな」

 舞朝の記憶では、和紀は小学校時代には野球チームでレギュラーだったはずだ。

「じゃあソフトボールやらない? ソ・フ・ト! ボクは女子ソフトなんだけど、うちの男子ソフト弱いんだよ。だから新戦力は大歓迎だよ」

「うーん」

 舞朝が知っていた和紀は運動が好きな少年だったが、今の彼は眉をひそめてみせた。

「激しい運動は医者に止められてんだよね」

「ありゃ意外」

 彼女は遙か遠くの景色を見るように、自分の額に手を当てて高い位置にある和紀の顔から足元まで値踏みをするように視線を移動させた。

「健康そうに見えるけど」

「交通事故に遭っちゃってね」

 あくまでも笑顔で和紀は答えたが、ちょっと寂しさのような物が見えて、彼女は勧誘の矛先を舞朝に向けた。

「じゃあマーサ、ソフトやんない?」

「もう、あたしは部活決まっているけど」

 知っているはずの勧誘に、確信犯を非難する目線になってしまう。

「天文部でしょ。あんなトコ辞めなよ」

「やめるつもりは、ない」

「だって、あんな変人の巣。絶対よくないよ」

「へんじん?」

 女子二人で話し始めてしまったので席に着いた和紀が、聞き捨てならない単語を耳にして、不安そうな顔になった。

「変人じゃない!」

「んー、じゃあ」

 彼女は思案顔になって言い直した。

「変態?」

「あのね…」

 舞朝が反論しようとした途端に、壁のスピーカからチャイムが鳴り響いた。どうやら、そろそろ担任がやってくる時間のようだ。

「そうそう聞いた?」

 それの意味するところから連想したのか、コロッと態度を変えて舞朝に訊ねる。

「なにを?」

「担任よ。た・ん・に・ん」

 てっきりクラスの話題を総浚えにしている殺人事件の話しでもふられると思っていた舞朝は、クラスメイトらしい話題に拍子抜けのような物を感じた。

「ええと。お茶によく含まれている成分だっけ」

「そりゃタンニンだろ」

 後ろから和紀がツッコミを入れてくれた。

「どうやらボクら三組の担任は、男鹿センらしいよ」

「あ、そ」

「小石ちゃん先生がよかったなあ」

 天井を見上げて夢見る表情になる相手に、舞朝はジト目を向けた。彼女にとって恋愛対象が教師というのは、いまいち理解不能なのだった。

「もうチャイム鳴ったから、先生来るぞ」

「ああ、そうね」

 慌てて自分の席へ戻っていった恋に恋する女子を眼で追っていると、後ろから和紀が話しかけてきた。

「なあ、しいちゃん」

「その『しいちゃん』って呼び方やめろ」

「あ、わりい」

 黙ってしまったので振り返ると、真面目な顔をした和紀が椅子の上で腕組みをしていた。

「どうした?」

「じゃあ、なんと呼べばいいんだ?」

「それ以外だったら、苗字でも名前でもなんでもいいよ」

「名前?」

 あからさまに頬を赤らめた和紀のその反応が判らないまま、舞朝は言った。

「部活の先輩でも名前で呼ぶ人いるし」

「ああ、そうなんだ」

 がっかりする和紀に、舞朝は訊いた。

「で、なんのようだ?」

「そのう…。部活が変人って?」

「あれはあの娘の主観だろ。普通だよ。普通の人たちだ」

 だいぶ毛色は違っているけどね。と、続けて言いそうになった言葉を呑み込む。

「どこにでもある天文部」

「で、その天文部にだな、今日入学式のお前が、なんで入ってんの?」

「それは簡単。あたしは中等部からこの学園だろ」

 確認するため振り返ると、和紀はうんうんと思い出を懐かしむようにうなずいていた。

「ああ。俺は引っ越すことになってたから、あんまり関心がなかったけど。クラスの半分の男は残念がってたぜ、同じ中学に行けないって」

「なんで?」

「なんでって、そりゃ…」

 まさか男子の間で人気があった、なんていう告白を今更するのも照れくさく、和紀は語尾をモニョモニョと口の中に濁した。

「で? 中等部から来てて?」

 不思議そうに見つめる舞朝に、笑顔を作り直して和紀は訊いた。

「うちの学園、中等部と高等部とで、部活の交流会があるんだ。それでだいたい中等部の子は高等部の先輩の顔を知ってるの。弱小部が揃っている文化会系の部活なんかは、高等部に来る前から、他の部活に取られないように、中等部にいるうちから勧誘されるんだ」

 これを学園では『青田買い』と称していた。

「それって問題にならないの?」

「まあ、いちおう最低限のルールはあるけどね」

 正式に勧誘するのは中等部で三年生に進級してからだとか。先輩という立場を利用して恫喝などの行いはしない等。とりあえず思い出したルールを口にした。

「もう一ついいか?」

 説明は終わりとばかりに、黒板の方へ向き直ろうとした舞朝を引き留めるように、和紀は指を立てた。

「小石ちゃんとか、男鹿センって?」

「小石ちゃんは小石先生のこと。地学の先生で、天文部の顧問。確か二年前ぐらいに東北の学校から転職してきた先生で、ちょっと背が高いだけの普通の先生。男鹿センは、現国の男鹿先生。大学出たばかりで若くてかっこいいから、彼女はああ言っていたけど、本当はコッチの方が女子人気は高いみたい。教育熱心だから中等部の授業も受け持っていて、あたしたちも知っているわけ」

「あ、そうなんだ」

 二人が話し終えるのを待っていたわけではないだろうが、ちょうど話しが切れたタイミングで、教室の扉が元気に開かれた。

 入ってきたのは長身の男性教師であった。肩幅もそれなりの物があり、筋肉質のその体は期待に違わずキビキビとした動作をしていた。

 入学式の今日はわざわざ理髪店か美容院へ行ってきたのだろう、黒々とした髪はきれいにセットされ、ワックスを使ってテカテカに固めてあった。もちろん髪型自体も年寄りめいた七三分けとかではなく、若々しい当代の流行に乗ったものであった。着ているスーツはまるで貸衣装屋の物のような卸したてに見える新品であったが、これも彼の若さにとてもよく似合っていた。

 総体的に見て舞朝が口にしたとおり、若くて格好いい男性教師を絵で描いたような姿をしていた。

「はい。席について」

 目元だけでなく、どこまでも優しい声で、担任が現れたというのに席に戻らない生徒たちに注意を促した。それだけでクラスの女子の半分は夢見る顔になった気がした。

 時間がせっぱ詰まっているのか、フレームの細い腕時計を何度も確認して、ちょっと早口で話し始めた。

「えー時間がないので、すぐにでも廊下へ名簿順に並んで欲しいんだ」

 そこで言葉を切って、黒板へ自分の名前を大書した。

「君たちの担任を受け持つ男鹿(おが)俊之(としゆき)と言います。科目は現国なのですぐに教科も受け持つことになります。はい、それでは廊下に並んで」

 気がつけば廊下の方から喧噪が流れてくる。どうやら他のクラスもそれぞれ担任に急かされて整列を始めたらしい。

 廊下で整列した一年生は、当初の予定通り講堂へ移動を開始した。

 入学式じたいは極めて平均的な高校の物となんら変わる物はなかった。

 学園理事からの挨拶に始まり、高等部校長の話しなどが、若者の忍耐をテストするようにダラダラと続けられた。

 話題にしたって特に変わったところが見られない、ちょっとだけ市内で起きた殺人事件に触れたりしたが、普通に新入生への祝辞であった。

「なんだありゃあ」

 春もまだ早く、広い講堂に籠もる冷気が無ければ眠気さえ感じさせる式次第であったが、和紀が小さな声で魂消た声を漏らしたのは、新入生代表の挨拶であった。

 代表に選ばれたのは入学試験において一番の成績を取った者、つまり入学生首席となった者が壇上に上がり在校生代表である現生徒会会長に向かって行うのだが、その入学生首席の格好が普通とは違っていた。

 着ている者は他の新入生と同じ紺色のブレザーなのだが、それに色々と派手な装飾がついているのだ。

 左胸には二つのメダルを提げ、胸ポケットには金色と銀色の飾り緒が交差、さらに右腕には大きく校章をあしらった赤いワッペンが三つも縫いつけられているのだ。

 隣の列でその呆れたような小声を聞いた舞朝は、そっと斜め後ろの和紀に告げた。

「成績優秀章だよ。ナナは頭良いから」

「あれ、オマイの知り合いか?」

「そうだけど」

「シッ」

 小声とはいえ私語を交わす二人を諫める舌打ちがどこからかしたので、慌てて口をつぐんだ。

 新入生代表の挨拶自体は何も問題なく終了した。短くしている黒髪と、起伏の乏しいボディラインで小学生の男の子のようだが、身につけている制服は(色々と徽章がついていたが)女子用の紺色ブレザーであった。

 首席入学を果たしたその女子生徒は、壇上から降りるために振り向いた瞬間、グラリと体が大きく揺らした。さては貧血かなにかで倒れるのではないかと式に参加している複数の者が心配したが、その後は何事もなかったようにしっかりとした足取りで壇上からのびる階段を下った。

 そのささやかな異常以外には、入学式はつつがなく終了した。

 他の学校とちょっと違ったのは、新一年生だけでは盛り上がらないはずの校歌斉唱で、進学組が校歌を知っており、それなりに斉唱となっていたことぐらいである。

 式の後は各教室に戻り、連絡事項などで終わりのはず。

 やはり連絡事項の中で大きく取り上げられたのは、市内で起きた女子中学生が殺された事件であった。犯人が捕まるなどで事件が沈静化するまでは、登下校の安全確保のために近くの駅に教師が配置されること、また帰宅が遅くなって同じような事件に巻き込まれないように、部活動など放課後は時短といって早めの帰宅を促すことになっているなどであった。

 舞朝の天文部にはあまり関係がなさそうであるが、毎月一回は夜の天体観測会を行っていた。彼女は漠然と観測会はしばらく中止かなと考えた。

 殺人事件に関する事の次に大きな連絡事項は、ホームルーム合宿であった。

 富士山の山麓に合宿所を持つ清隆学園では、春一番に学年ごとにそこへ一泊二日というスケジュールで行くことが慣例となっていた。

 行ってやることと言えば各クラスの役員決めだったり、一年間同じクラスで過ごすためのオリエンテーションであったりする。

 昨年は、ホームルーム合宿に向かう一年生のバスが、トンネル崩落に巻き込まれるという大事故があった。そのせいで、今年も中止になるだろうという噂もあった。だが、トンネルに閉じこめられた者はいたが、骨折など深刻な怪我をした者が出なかったこともあり、今年は行われることになったようだ。

 ホームルーム合宿での班分けは後日に行うので考えておくようにということで連絡事項は一通り終わったようだ。

 やれやれと舞朝が自分の肩を揉みほぐしていると、担任は、これから一年間同じクラスで過ごしていく間柄なのだから必要と思ったのか、それとも進学組と受験組との間に垣根が出来ないように配慮したのか、廊下側から生徒に自己紹介を始めさせた。人前で喋ることが億劫な舞朝にとって、自己紹介などはただでさえ不愉快な出来事であった。

 最初に立った阿部くんなどは名前と中等部からの進学を告げただけで席に戻ってしまった。彼だけではなく、だいたいがそんな同じような発表が続いていく中、舞朝にとって部活の勧誘に関する収穫のような物があった。

 入学式が始まる前に舞朝の気を惹いた、三列目の席に座っている男子が立つと、声変わりをしていないような高く澄んだ声で名乗りを上げた。

「渚優輝です」

 その見た目に似合った声に、クラスの女子から小さなどよめきのような物が起こった。もちろん万事に無気力な舞朝はそれに含まれていなかったが。

 緊張したまま固まった顔にはあまり感情が浮かび上がっていなかった。まったくの無表情ならばまだしも、それはとても微妙に浮かび上がっているので、機械よりは生物臭いが、爬虫類よりは無生物っぽかった。

 彼は、自分は東北出身だが、中学時代は天文部に所属していたと話した。

 弱小部活に所属する舞朝にとって重要な情報である。彼が高校で再び天文に興味に持つか判らないが、いちおう勧誘相手になるかもと舞朝は心のメモに入れておいた。

 渚優輝は自己紹介が終わり席に戻ると、まるで白昼夢の続きを見るかのように天井の方へ視線をさ迷わせはじめた。

 そんな情報を入手できた自己紹介であったが、その後は再び単調なものへと戻ってしまい、やがて順番が窓際にまで回ってきた。

 万事が活動的な二つ前に座るソフトボール部員などは、勧誘の良い機会と捉えたのか、自分のことよりも所属する部活がいかに楽しいかと説明する方が長かった。

 もちろん万事に無気力な舞朝がそれに引き摺られることはなかった。

「中等部からの進学した弓原です。天文部です」

 自己紹介にしてはとても短いが、それだけ言って席に戻る。天文部へ勧誘できそうな優輝へ視線をやると、先程と同じく視線を上の方へ遊ばしており、あまり反応がなくて気落ちした。

 舞朝の次に立ったのは、もちろん後ろの和紀であった。

 バンと音が立つほど勢いよく立ち上がると、威勢良く啖呵を切るような勢いで

「名古屋から来た遊佐和紀。ただの高校生には興味ねえ。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら俺のところに来い。以上」

 と、著作権法違反のようなことを堂々と言い放った。

 舞朝はすぐ背後で起きた椿事に、振り返って開いた口が塞がらないまま硬直していたが、その後頭部になにかが当たって我を取り戻した。

 カランという軽い音を立ててチビた鉛筆が舞朝の机に落ちた。どうやら列の前方から投げつけられたらしい。なんだと思って前を向きなおせば、こちらを振り返っていた顔見知りが、舞朝と目を会わせてきた。その赤茶色の大きな瞳を持った、美人と言えなくもない顔立ちが構成した表情が、言葉の代わりに彼女の心情を雄弁に語っていた。

(君の周りには変人しかおらんのかい?)

 舞朝は黙って頭を抱えた。

 なぜなら彼女には、和紀が求めた宇宙人にも未来人にも異世界人にも、それから超能力者にも心当たりがあったからである。

 担任教師の妙に優しい言葉で着席した和紀は、しばらく不満そうに頬杖をついていたが、まるで猫じゃらしを見つけたマンチカンのように、舞朝のまとめた後ろ髪の先端へ手をのばした。

「おい、やめろよな」

 ヅラではないので引っ張られたらとても痛い。まだ毛先に指を絡めているだけのようだが、それを警戒して舞朝は半分だけ振り返った。

「だって、ここで一発かましてやろうと思っていたのに、不発だったからさぁ」

 和紀なりにショックだったようである。

「あんな自己紹介で感銘を受けるのは、アニヲタぐらいなモンだろ」

「絶対受けると思ったんだけどなあ」

「ネタとしては古くって、みんなもう忘れてるだろ」

「そうかな? 物事には風化する物としない物があると思うんだが」

「まあ、あたしは原作派だがな」

「お!?」

 和紀にとって意外な反応だったらしい。毛先を玩んでいた指を止め、改めて舞朝の顔を見た。

「なんだよ」

 まるで子供のような笑顔に、少々怯む舞朝。

「いや、なんでも」

 そのまま嬉しそうに舞朝の毛先で遊ぶ和紀。そこに人の気配が近づいた。

 和紀がいじけているうちに、担任は取りこぼした細々な連絡事項を伝え終わったらしく、すでに教室から姿を消していた。教室内は再び朝と同じような喧噪に包まれていた。それは一緒に帰宅する者同士の他愛のないお喋りだったり、部活の勧誘だったり様々である。

 そんな中、腹を押さえてケラケラ笑いながら近寄って来るのは、入学式の前にも寄ってきたウサギだった。

「なによ遊佐くんのアレ? キミの一流ギャグ?」

「悪かったな」

 さすがに羞恥心が刺激されたのか、和紀の顔が少し赤くなった。

「ホント、マーサのそばにいると楽しいねぇ」

「あたしをこいつと一緒にしてくれるな」

 舞朝は口を尖らせて不満げな顔で、机の上の鉛筆を返却した。

「さてと…」

 昔の人は言いました。「善は急げ」と。

 舞朝は一瞬で表情を戻すと席を立った。彼女が怒ってしまったのではないかと二人が少しだけ顔を曇らせた。

「どこ行くんだ?」

 荷物もそのままに歩き出そうとするので、和紀が訊いた。

「勧誘」

 もちろんその相手は、先程の自己紹介で中学時代は天文部だったと言った渚優輝である。

 舞朝が近づいても、彼は相変わらず視線を黒板の上あたりへやっていた。もしかしたらホームルームが終わっていることにも気がついていないのかもしれなかった。

 彼は周りの喧噪など耳に入っていないかのように、いまは目深に被った学帽の下から、右手で摘んだ指輪のような物をまた覗き込んでいた。

「よ」

 舞朝が声をかけると、のろのろと革製らしいその指輪ごと振り返った。舞朝を輪っか越しに確認すると、とても眩しいものを見てしまったように目を瞬かせて、指輪を制服のポケットへ落とし込んだ。

 たったそれだけの動作だったが、異様な雰囲気を感じさせる。どこと指摘するのが難しいのだが、やはり生物的な動きというより、機械的動作により近いのだ。

「やあ」

 どこかぎこちない感じで返事をしたが、不安そうに左右へ視線を泳がせる。理由は、彼女の背中に着いてきた、先程までの舞朝の話し相手に有るらしい。人見知りする性格で、いっぺんに三人も近寄られて動揺しているのかもしれなかった。

「あたしは…」

 舞朝が口を開くと、いちおう微笑みを浮かべてくれた。それも工場で生産されたような無機質成分が多い物だった。

「ゆ、弓原さんだったね。ボクの自己紹介を聞いていたんだね。ボクも中学校では天文部だったんだ」

 最初は何を話してくるだろうかと訝しげに曇らせていた表情を、舞朝は一気に破顔させた。どうやら優輝の方も舞朝の短かった自己紹介を憶えていてくれたらしい。

「天文部に入ってくれるのか?」

「そ、それは、なんとも…」

「そうだよな」

 急ぎすぎたとちょっと反省をする。

「いちおう部活の見学だけでも大歓迎だ」

 すると優輝が口を開く前に背後から声が降ってきた。

「よかったな、しいちゃん」

「その名で呼ぶなと言ったろう」

 と、右斜め後ろを睨み付けてから、表情を変えて幼なじみに訊ねた。

「なにが、よかったって?」

「とりあえず今年の天文部には、見学者が二人は居るってことさ」

「はい?」

 舞朝は和紀に聞きかえしてから、すぐにその意味することを察した。

 和紀は、自分の胸を親指で差しながら念を押すように宣言した。

「おれも、天文部に興味がある」

 言葉を失った舞朝は、二人の顔を交互に見比べた。

「いいな、いいな」

 ひょいと肩に、鞄の他に部活の荷物をかけているクラスメイトが声をあげた。

「天文部は大入りだね。どっちかソフト部にちょうだい」

「せっかくの新入部員を渡せないよ」

 舞朝は慌てて両手を広げた。弱小文化会系部活としては、二人という頭数は相撲で例えるなら大入り袋が配られる程の大収穫である。

「じゃあ、行こうか」

「どこへ?」

 和紀の当然の質問に、とびっきりの笑顔で舞朝が答えた。

「部活。今日も集まっているはずなんだ」

「すると、地学室に行くわけだ…」

 部外者のはずの彼女が、バットケースごと腕を組んで小難しそうに考え込む真似をした。

「男二人にマーサ一人じゃ危なくない?」

「な、なにを言う。おれは紳士だぞ」

 和紀が言い返すのを待っていたタイミングで言った。

「地学室までついていってあげるよ」

「さては小石ちゃんが目当てだな」

「へへ~、ばれたか」

 ペロリと舌を出す彼女に、乙女の執着心を感じた舞朝なのだった。

 高等部の天文部は、放課後の活動拠点を地学講義室に置いていた。それは北側の棟、別名C棟の二階に存在した。各クラスが並んでいるB棟からは全ての校舎のド真ん中を周回している中央廊下を通っていく事になる。また一年生の各クラスに割り当てられたのがB棟の三階なので、一階層下らないとならなかった。

「ナギサくんの中学では、どのレベルの活動をしてたの?」

 春の風景を目に焼き付けておこうという風情で、階段室の窓へ視線をやっていた舞朝は振り返った。

 その舞朝のあからさまな上機嫌に、優輝は抱えていた不安といった物が薄らいだようだ。わざわざズボンのポケットに入れていた右手で、小さく作った拳を顔に当て、クスリと笑った口元を隠した。学帽で大分隠されていたが、あの印象的な瞳がまるで獲物を捕らえた猫のように細められた。

「ユウキでいいよ。弓原さん」

「あ、それじゃあ、あたしのこともマーサでいいよ」

 拳を外すと優輝の微笑みが露わになった。それは温かいという感じはまったくしなくて、どちらかというと図形的な口の歪み方だった。

「学校の望遠鏡で観測会をやったことがあるよ。でも、もっぱらコンビニでマンガを読むことの方が多かったかな」

「あのさ、マーサ」

 横からウサギが首を出した。

「本当に、天文部って不思議よね」

「なんでだ」

「だって、美少年に美少女ばかりじゃん。うちの男子なんてジャガイモにカボチャにサツマイモが揃ってるんだよ」

 まあ高校の運動会系部活に所属していれば、髪は全員丸坊主とはいかないが、短くするのが定番であろう。それに汗を掻くだろうから、思春期に多いお肌のトラブルも文化会系よりも多そうだ。

「あたしを入れるなって。あたしは普通だよ」

「またまた~」

 速攻で否定だけはしておいた。ただそれを彼女は舞朝の謙遜と取ったらしく、目を細めて彼女を睨み付けた。

「あれだけの美男美女に好かれているんだから、さしずめマーサは『女神』だね」

「まあ部員のことは認めるが…」

 なにせ定期的に行われる『学園のマドンナ』投票で、マドンナ候補者に推薦される美少女まで混ざっているのだ。

「『女神』」

 歩を進める度に必要以上に体が左右に揺れる優輝が目を閉じた。もしかしたら微笑みの種類を変えたのかもしれないが、先程から目を合わせることは無いし、表情筋の方もストライキ状態のようで、感情を読み取ることが相変わらず難しい。

 それと、ただ歩いているだけでそんなにバランスを取ることが下手ならば、両手はポケットから出した方がいいと思うのは、お節介であろうか。

「とてもいい名前だね。『女神』」

「どんなご利益がある女神さまなんだよ」

 和紀が名付け親に尋ねた。

「う~ん」

 しばし天井を見上げていたウサギが、頭の上に電球が点った顔になった。

「貧乏神」

「失礼なことを言うな」

 舞朝が声を上げると、笑わないように口を押さえた間だけ、肩にかけたバットケースが揺れた。

「観測会って、どのくらいの望遠鏡で? 赤道儀がついているような奴か?」

 失礼な彼女は放っておいて、踏み込んで専門的な質問をしてみようと、優輝の方を振り返った。

「そんな立派な物は、田舎の中学にないよ。口径は、そうだな六〇ミリぐらいだったかな」

「それじゃあ土星の輪がやっとぐらいかあ」

「うんそうだね。だけど初めて木星を捉えたときは、感動したなあ」

 前を向いたまま表情を再び取り替える優輝をとりあえず置いておいて、舞朝は反対側を歩いている和紀を見上げた。

「で? 遊佐くんは、なんで天文部に興味があるのかな?」

 キョトンとする和紀。

「なんだよ」

「カズキだ。そんな余所余所しく呼ぶなよ」

 溜息をついてから舞朝は言い直した。どうやら優輝へ対抗心を燃やしているらしい。

「カズキはなんで天文部に興味があるんだよ」

「だって変人の巣なんだろ」

「やっぱり…」

 舞朝は歩きながら頭を抱え込んだ。

 たしか「男子三日会わざれば刮目して見よ」という言葉があるが、和紀には当てはまらないようだ。思い返せば小学生の頃から「藪をつついて蛇を出す」どころか、その蛇を捕まえて、さらに尻尾を掴んで振り回すといった性格だった。

「言っておくが、ウチの部員を愚弄したら、ただじゃおかないから」

 舞朝が一所懸命に睨み付けても、そんなものはどこ吹く風といった顔の和紀。

「変人?」

 優輝が不安そうに曇った顔に取り替えた。

「心配しないでねユウキ。我が部は学園創立以来の歴史を誇る由緒正しい部なんだ」

「その由来と、部員の素質は関係ないんじゃないのか?」

 その和紀のもっともなツッコミに舞朝は思った。

(人が人に殺意を抱くって、こういうことを言うんだ)

 その物騒な思考は顔に表れていたらしい。和紀は見事なステップで舞朝との距離を取り、指一杯に手を広げて、胸の前で振った。

「おいおい穏やかじゃないなあ。ほら見ろよ、あの桜の木を。ああやって麗らかな春の日に、何を思って花弁を散らしているんだろうなあ」

 詩的なことを言っているが、自分の失言を誤魔化す気が満々である。その証拠に和紀が中央廊下から教室越しに指差した木は、赤紫色の花弁がきれいなハナズオウであった。

「安心してねユウキ。ウチの部活には、こいつほどの変人はいないから」

「それって、入部拒否って意味?」

 あからさまに肩を落とす和紀を置いていく勢いで、舞朝はC棟への足を速めた。

 B棟の西階段を降りると、D棟と繋がっている。D棟を抜けてC棟へ曲がった途端に、中央廊下は明るさを減じた。そこには教科教室が並んでいるために、中央廊下に向いた窓は一切無いのだ。

 曲がって右側が図書室であった。廊下側にまるでショーウィンドウのような展示スペースがあり、最近注目されている図書のタイトルなどが掲げられていたりする。その向かいにあるのは美術室だった。

 すでに何度もこちらの天文部に来たことがある舞朝と、中等部の頃から試合などでこれまた高等部に来たことがあるソフトボール部の彼女は、迷わずにその暗くなっている中央廊下の曲がり角を進んだ。

「お、ちょっとした秘密基地みたいじゃないか?」

 足を鈍らせて感想を述べる和紀に、舞朝はクワッと牙を剥いた。

「学校に何を求めているんだ」

「そりゃせっかくの高校生活だからなあ。月面基地へ行ったり、原子力潜水艦に潜入したり、無人島で漂流したりの、めくるめく冒険の日々」

 舞朝は即答した和紀に深い溜息を返した。

「おまえは、まったく変わってないな」

「そう?」

「おや? 二人とも元々の知り合いかい?」

 仲間はずれになるのを嫌がったのか、優輝が訊ねた。

「まあ。同じ小学校出身。ええと同じ中学だと同中(オナチュウ)って言うんだから、ドウショー?」

「キミが言うと、なんか猥褻な言葉に聞こえるね」

 呆れたような表情にチェンジした優輝に、まったく含む物がない笑顔で和紀は答えた。

「うん。意識して言った」

 舞朝はそんな二人を放っておいて先へ進むことにした。隣の女子は当然として、馬鹿な話しをしていた男どもも慌てて追ってくる。

 美術室の次に並んでいるのが地学講義室だった。

「はいよ~」

 舞朝は挨拶のような、かけ声のような物を上げてその引き戸を開いた。

 入り口自体は普通教室と同じ建具であった。入るとすぐに可動黒板と教壇が目に飛び込んでくる。地学講義室は基本的に前の扉を使用して出入りするようになっていた。

 広さで言ったら普通教室の二倍はありそうな室内には、こちらに向かって鉄製の三人掛けの長机が縦二列並んでおり、窓際には軽い実験や実習で使えるように流しが並んでいた。その手前には鉱物標本が入れられているらしい小さな棚がいくつも並べられていた。

 入り口に、今はパイプ机が一つ出してあり、そこに暇そうな顔を隠さずに、一人の男子生徒が座っていた。

 前面にダンボールで作ったらしい看板に「天文部入部受付」とデカデカと書いてあることから、部の関係者とわかる。席についていた男子は、舞朝が見慣れない三人を連れてきたのを見て、まるで狐のような鋭い吊り目を、さらに細めて微笑んだ。

「やあ、ハドソンさん。お連れは?」

 目つきとは違って、物腰の柔らかい声で受付の男子は、舞朝をハドソンさんと呼んだ。

「こっちの娘はつき合いですけど、こっちの二人は部活の見学希望らしくって」

 舞朝は場所を二人に譲るように横にずれた。

「部長のヤマト先輩。この二人は同じクラスになった遊佐くんと、渚くん」

「ど、どうも」

 一目で学年が判るように、清隆学園では学年色が設けられており、上履きにもそれは適用されていた。パイプ机から覗く足元を覆っているのは今年の二年生である色であった。

「そうか、今年の一年生は豊作だねえ」

 ニコニコとして両肘をついた手を組んで、どこまでも泰然とした態度の部長。その態度が気に入らなかったのか、黒板の前に荷物が集められてあったあたりから、同じ色の上履きを履いた女子が飛んできた。

「見学者?」

「そうみたいだよ、チナミ」

「じゃあ、とっとと名前書いてもらえばいいじゃない。ちなみに名前さえ書かせちゃえば入部同然なんだから」

 上級生同士でなにやら穏やかならぬ事を囁きあっているが、目の前でそれが行われていれば、内緒話になるわけがなかった。

「アイコ先輩、遊佐くんと渚くん」

「よろしくね」

「こ、こちらこそ」

「アイコ先輩は副部長なんだ」

 舞朝が自分よりふくよかな先輩に二人を紹介すると、ニコニコ顔のままの部長が目を光らせた。

「ハドソンさん。遊佐くんとの関係は?」

「はい?」

 一同が目を点にした。

「いや、元カレなのかな? と」

 その途端に火が点いたように舞朝の顔が赤くなった。

「そ、そんなことありません!」

「あの~」

 こちらもささやかに頬を赤らめた和紀が手を挙げた。

「なにを根拠に?」

「ん? 違うのか。ボクの推理もたいしたことないなあ」

 どこまでもニコやかに部長は言った。

「ほら、まったく知らない仲だったら五十音順で紹介するかな? とか。それに渚くんより、遊佐くんの近くに立っているとかが根拠かな? ほら人と人が取る実際距離って、その間柄の親密度で変わる物だろ? そんなところで高等部の前にすでに知り合いのような雰囲気だったからね」

 言われて確認してみれば、確かに舞朝はより和紀に近い位置に立っていた。慌てて二人と等距離に居住まいを正す舞朝を、両手をズボンのポケットに入れた優輝は、つまらなさそうに見ていた。

「ヤマト。人間関係こじらせたら入る子も入らなくなっちゃいますョ」

 副部長に指摘されてもどこ吹く風といった態度である。

「小学校のときに同じクラスだっただけですよ」

 まるで「残念でした」と舌を出す代わりといった感じで舞朝は言った。

「ああ、そうですか」

 そういうことにしておきましょうか、でもお見通しですよ、という微笑みのまま部長はペンを差しだした。

「ま、とりあえず見学するなら名前を書いてくれるかな」

 その掴み所のない先輩の態度に少々とまどいながらも、二人は机に広げられたノートにクラスと名前を書き込んだ。

 最後の文字を書き終わって顔をあげると、泰然とした微笑みの部長はまったく替わらなかったが、その横に立つ副部長は、まるで鬼の首を取ったような表情になっていた。

 地学講義室には今のところ他に部員は集まっていないようだ。室内には先に来ていた二人の物と思われる荷物以外何もない。

「他は?」

 当然の質問が口に出た。

「うん、きっとね」

 細い目をさらに細くして、部長が顎に手を当てた。

「生徒会広報部と新聞部が、合同で新入生首席の取材をするって言っていたから、捕まっているんじゃないかな? なんでも今年の首席代表は優秀賞を受賞したんだって?」

「優秀賞?」

 和紀が不思議そうに舞朝を見おろした。

「まあ見ればすぐに判るけどさ。じゃあナナたちは生徒会ですか?」

「うん。同じクラスの生徒会会計の娘が言ってた。D棟の二階、生徒会会議室だって」

 言外に迎えに行ってあげなさいと言われている気がしたので、舞朝は黒板の横に取り付けられた時計を見上げた。

「まだ時間がありますよね、ちょっと行ってきます」

「ああ、よろしく頼むよ」

 舞朝は適当な長机に荷物を置くと、きびすを返した。

 すぐに男子二人が後に続く。ここまで同道してくれた女子は、胸の高さで手を振っていた。

「じゃあね。ボクは『先生』に会いに行ってくるから」

「ホントに小石ちゃんのこと、好きな」

 舞朝が呆れた通り、本当に自分の欲求に正直な娘であるようだ。彼女に小石ちゃんと呼ばれた地学教科担当の教師は、地学講義室の隣にある地学準備室に居ることが多かった。

「別に部室で待っていても構わないんだぜ」

 廊下に戻り、今来た道を歩き出しながら舞朝は二人に言った。

「いや、そのう…」

 和紀が一人きりの留守番を母親に命じられたチビッコの目になっていた。

「校内をボクに案内して欲しいな」

 ズボンのポケットに両手を入れたまま斜に立って、赤い瞳を隠すように学帽の下で目を細めて優輝。

「…」

 しばらく足を止めて二人の顔を見比べていた舞朝は、結局何も言わずに歩き出すことにした。

 舞朝を先頭に、元来た道を戻りD棟に辿り着いた。

 ここには生徒会などの学生自治に関する部屋や、昼にカレーパンというタイトルを奪い合う阿鼻叫喚の修羅場に変じる購買部という名前の地獄や、味よりも量という価格設定が校内に知れ渡っている学食が存在した。

 D棟二階の半分は「談話室」とか「学生会館」など大袈裟な名前がついている部屋が並んでいるが、実質はそれぞれただの暇人のたまり場だ。しかし残り半分は全く違った。誰の物と判らない喧噪も鳴りをひそめ、ピンと張り詰めた空気が支配していた。

 ここが清隆学園の全生徒に君臨する生徒会執行部エリアなのだ。ただ、月に一回開催される(裏)投票に代表されるように、権力の掌握というよりは金勘定に秀でた連中ではあるのだが。

 生徒会(裏)投票というのは、毎月行われている生徒会主催のトトカルチョなのである。項目で尤も有名な物は『学園のマドンナ』の選出であるが、昨年から圧倒的な勝者がいるせいか、『学園最恐』だの『ミス(男子)清隆』だの迷走が始まっていた。ちなみに、そのどちらにも圧倒的な勝者が現れてしまい、賭けにならないらしい。

 生徒会掲示板には、複数の写真がピンで留められていた。全員、この高等部の女子である。彼女たちが『学園のマドンナ』候補だったりする。もちろん実際に現金が行き交っている投票は、日本のあらゆる現行法制や規範に照らし合わせるまでもなく違法であるので、あくまでも表面的には生徒会は無関係ということになっていた。

 よって一〇枚ほどの写真にはまったくキャプションなどはついていなかった。たださりげなく高さを変えて留めてあり、新年度一発目の今回も剣道部のエースたる二年生が一位をキープしたことが主張されていた。ちなみに、入学式当日だというのに、もう新一年生の何人かの写真が加わっていた。生徒会恐るべしである。

「ここかな」

 舞朝は生徒会会議室と部屋名が掲示された扉の前で止まった。

「ナナいるか?」

 ノックらしき真似をしてから入った。広さは普通教室と同じくらいあり、そこにキャスター付きのテーブルが幾何学模様で並べられていた。まるで長方形だけを使って誰かの似顔絵を描こうとして失敗したような配置に、意味があるのかないのか判らないが、無駄に面積を浪費していることには間違いない。そのためか何脚かのテーブルは縦に折りたたまれて壁際に並べられていた。

 そんな生徒会会議室には、他にも数人の生徒がいた。そのほとんどが女子で、部屋の真ん中あたりに固まっていた。

「マーサさん」

 集まって世間話をしていたらしい女子の塊から、一人が抜け出した。

 ぱっと見ただけで相当の美人と判るほど目鼻立ちのしっかりした娘であった。その顔立ちに似合う晴れやかな笑顔でこちらを振り返ったところから、彼女も舞朝の知り合いであろうかと察せられた。

 彼女が席から立ち上がると、スタイルもなかなかの物だという事が、制服越しからでもわかった。声もだいぶ落ち着いたトーンの物で、ひょっとして上級生かとも思われたが、身につけている学年色が舞朝たちと同じ色であった。

 その、どこかのファッション雑誌で読者モデルをやっていても不思議ではない彼女は、舞朝の横に見慣れぬ男子二人が立っていると見ると、口元は笑顔のままで和弓のように形の良い眉を顰め、小走りにやってきた。

 足を運ぶ度に、普通の女子からはしないようなカチャカチャという音がする。よく見てみれば、制服とは関係ない一本ナイロン製のベルトを腰に巻いており、板状の物を後ろに提げているようだ。

 近づいてきたことで、身につけている制服も、他の者とちょっと違っていることが見て取れた。胸には赤胴色の飾り緒が取り付けられており、また右袖には黄色いワッペンが二つ縫いつけられていた。ワッペンの一つには校章とともに中等部二年次次席の文字が、もう一つには同じく校章と中等部三年次次席の文字が、それぞれ読み取れた。

「マーサさ~ん」

 その娘は走ってきた勢いのまま舞朝に飛びつこうとした。それを予想していたタイミングで、舞朝は両手を突っ張って彼女の体が密着しないように受け止めた。

 こうして近づいてみれば身長も和紀に負けないほど高い物だと言うことが判る。普通の体格である舞朝が構えて受け止めなければ、二人して床に転がる羽目になっただろう。

「あん。マーサさん冷たい」

 それなのに舞朝の手に額と肩とで受け止められたその娘は、残念そうな顔で必要以上に体をくねらせた。舞朝より豊かな胸が揺れて、制服越しですら色気を感じさせた。

「わたくしとマーサさんの仲じゃないですか」

「いや、あたしにはそんな気はないし」

「ああん。マーサさんのいけずぅ」

 まるで馬に言うようにドウドウと声をかけてから、舞朝は手を引っ込めた。解放された彼女は、それが当たり前のように彼女の右腕に抱きついた。その途端に顔に浮かんでいた笑みが、とても幸せそうなものに変化した。

「で? こちらの殿方たちは?」

「同じクラスになった遊佐くんと、渚くん。天文部に興味があるんだって」

「遊佐和紀です」

「ボクはユウキ。渚優輝」

「わたくしは近藤(こんどう)愛姫(あき)と申します。マーサさんのステディですわ」

 目が点になって男子二人は舞朝を見た。舞朝は左手を横に振った。

「ないない」

 その駄洒落を聞いてしまったような低いテンションに、それが事実とわかる。視界の端にいる生徒会の人間たちも「ああ、またか」といった感じで微笑んでいた。

「ああん。こんなにも愛しているというのにぃ」

 そのまま身長差から愛姫は舞朝の髪に頬ずりをした。

 椅子が引き摺られる音が立て続けにしたので、何かと視線を移せば、愛姫がさっきまで加わっていた雑談の輪が崩れて立ち上がり、こちらへやってくるところだった。

 その全員が腕に報道と書かれた腕章を通していた。

「もう終わったのか?」

 舞朝の質問に、愛姫は笑顔を向けた。

「ええ、取材は無事に」

「一枚いいですか?」

 カメラを抱えた男子が舞朝に確認した。

「あたしなんか撮ってもフィルムの無駄だろうに」

 ちなみにカメラマンが抱えていた大型カメラはデジタル一眼であった。よってメモリー容量の消費にはなるかもしれないが、フィルムの無駄にはならないはずであった。

「よろしいじゃないですか、マーサさんとわたくしのツーショット。絵になりますわ」

「絵にするなら、おまえだけの方がいいだろ」

 流石に自分が平均未満だとは思っていなかったが、読者モデルをやっているような愛姫ほどではないと、自覚している舞朝なのだ。とくに身長だけでなく、全体のシルエットは同じ制服を着ているはずなのに、大人と子供ほどに差があった。これだけのスタイルをしていて、さらに色素の沈着など感じられない程の白い肌をしているからこそ、今様にスカートを膝上の高さに履いていても、それが見栄ではなくお洒落なのだと周囲が納得できるのだった。

 対してそこまでの自信が無い舞朝は、制服を規定通りに身につけ(女子からはイケていないと言われる着こなしだ)スカートから覗く足もサイハイの靴下で覆ってしまって、肌色成分は頭部以外にまったく出していなかった。

 そんな自嘲的な舞朝のセリフに、愛姫が鋭く反応した。

「そんなことありませんわ。充分にマーサさんは美少女です」

 褒められて嬉しくないわけがないが、変なバイアスがかかっていそうな愛姫に言われては、その喜びは半減である。しかも女ならば発達していると何かと有利そうな部位が豊かな愛姫と比べ、自分は貧相な物しか持ち合わせていないことを自覚しているからなおさらだ。そんな比較されるような写真は御免被る。

「まあ、遠慮しておくよ」

 舞朝はカメラマンに手を振って断ると、室内を見まわした。

「あ、いたいた」

 舞朝は右腕に愛姫を抱きつかせたまま室内を進んで、窓際の人影に話しかけた。その人影は、入学式で新入生代表をしたままに、装飾過多な制服の上着を身につけていた。

「ナナ。ちゃんと入学式に出てくれたんだな」

「君がナナに出ろって言うから、ナナは無理して出たんだぞ」

 返答があったので舞朝の後ろに着いていった和紀と優輝は目を点にした。

 どう見ても舞朝が話しかけている相手が人間に見えなかったからだ。窓際に立つ制服姿には、ハッキリ言って首が無かった。しかも肩から先の腕もないし、二本の足すら存在していなかった。

 そこには木のスタンドに立つ被服用トルソーが一体立てられていた。豪勢な飾りがついた制服の上着だけがそのトルソーに着させられているのだ。

「どこを見ている」

 横になにかを隠すように盛り上がっていた白いシーツから声をかけられて、和紀はハッとした。シーツの盛り上がりかたが、ちょうど誰かが座っている程度の大きさだった。

 いや、正確に言うならば誰かが白いシーツを被ってそこに座っているのだ。そんな物を被っているせいで、まるで絵本に出てくるオバケのようである。

 シーツの裾から覗く足首から上が、ズボンに覆われていないことから、相手の性別が女だということが推察された。

(だけど、靴以外真っ裸だったら男もありか)

 和紀は自分の推理に満足した。

 シーツが揺れると、中からピョコンとライオンのヌイグルミが顔を出した。

 どうやらシーツを被っている人物が、右手に嵌めているパペットらしい。そのライオンは小さな手を上げると名乗り始めた。

「僕は、南の魚座はフォーマルハウトからこの地球にやってきた、宇宙人なんだぞ。とてもエレガントな本名があるのだけど、人には発音しづらい音があるから、とりあえずカインっていう名前を使っているんだぞ。この地球の大気は少々僕の体に合わなくて、こうしてナナのヌイグルミを借りて、コミュニケーションを取っているんだぞ」

「ええと?」

 和紀は説明を求めるように舞朝を見おろした。

「ご所望の宇宙人だけど?」

 舞朝が事も無げにこたえると、だらだらと嫌な汗を和紀はかきはじめた。

「う、うちゅう…じ、ん?」

「会いたがってたじゃないか」

「腹話術としての見せ物としては、不完全だね。演者の唇が動いていないところを見せないと」

 優輝が腕組みをしてその正体不明の相手を評した。すると、そのカインと名乗ったライオンのヌイグルミは、怒ったように両手を振り回した。とはいえパペットであるから、鼻面の前でモニュモニュと可愛らしく円運動しただけであるが。

「失礼だぞ! これでも宇宙フォーマルハウト大学で主席なんだぞ、僕は」

 どこまでも彼(?)は、自律していると言い張りたいようだ。しかし後ろから右手が嵌められているのが丸わかりの状態では「芸達者」以上の感想が出てくるわけがなかった。

 声質は少女でも少年の物でもなく、どちらかというと中年男性(しかも小山力也がジャック・バウアーを演じているレベル)に近い、渋さがまじった物だった。

 シーツを被っているとはいえ、小柄な少女が声を作っているのであれば、相当な技量の持ち主と思われた。

「ええと、わかった。お前はカインだな。で? 君は?」

 和紀はその手垢でところどころ汚れた茶色い物体へぞんざいにこたえ、椅子の上で盛り上がっているシーツの方へ話しかけた。

 和紀に話しかけられても、シーツは毛筋ほど揺らがなかった。その視界の下からカインの汚れた毛並みが割り込んできた。

「こらこら。ナナはシャイな性格で無口なんだぞ。だから僕を通して話さなきゃいけないんだぞ」

「はい?」

 どうやら、この(自称)宇宙人が憑依しているヌイグルミを通してでないと、コミュニケーションを取ってくれないらしい。

「わかったよ。ええと、カインだったっけか。お前の飼い主の名前は?」

「飼い主!? 失礼だぞ! 僕は宇宙フォーマルハウト大学で主席なんだぞ!」

「つまり、一コの人格として認めろと?」

「そうだぞ」

 汚れた毛並みの胸を張るカインを見おろして、いささかの脱力感を感じながらも和紀は訊いた。

「ではカイン。君の後ろに座るご婦人は?」

「よくぞ聞いてくれたぞ。彼女は椎名(しいな)(かな)なんだぞ。新入生一年生首席だけでなく、中等部では最優秀成績章を受賞したんだぞ。偉いんだぞ、敬え。もし君が天文部に入部するのなら、特別に椎名のナと、叶のナをあわせてナナと呼んでもいいんだぞ」

「ああ」

 ポンと手をうつ和紀。

「空条丈太郎でジョジョとかいうのと同じだな」

「最優秀賞ってなんだい?」

 その発言を台風で発生した土石流並みに流して、和紀の横から優輝が小さく手を挙げて訊いた。和紀はそれでもブツブツと何かをつぶやいていたが、どうやらネーミングセンスにツッコミを入れたいらしい。そんなことはお構いなしに、カインは小躍りしながら優輝に答えた。

「よくぞ聞いてくれたんだぞ。ナナの上着を見るんだぞ」

 茶色い手が窓際のトルソーに向けられた。

「この学園では生徒にたくさん勉強してもらおうとして、色々な賞が決められているんだぞ。右手のワッペンは中等部の一年生から三年生までの年次首席を記念するワッペンだぞ。メダルは中等部首席入学メダルと、この間もらった高等部首席入学メダルだぞ。胸の飾りは、銀色が中等部首席卒業のしるしで、金色の方が中等部最優秀者章っていって、滅多に受賞者がいない、すごい賞なんだぞ」

 長々と説明されても、それぞれ地方の中学から受験した二人には一向にピントが来ない。すると見かねたのか、舞朝の右腕に絡みついたまま愛姫が口を挟んだ。

「最優秀者賞というのは首席のように、成績が一番だけでは受賞できない物なんです。ナナさんは入学や卒業だけでなく、年次でも首席を維持されたので選出されたのですよ。これはとても名誉なことなんです」

「そういうキミも飾りがついているね」

 優輝が存在感たっぷりの愛姫の胸元を指差した。そこには叶の物とはちがい赤胴色をした飾り緒が提げられていた。

「これは中等部卒業次席章です」

 笑顔のままちょっとだけ眉を顰めてみせた。

「首席章と違ってこちらは自費購入なので、いささかお財布に打撃がありました」

「それなら着けなきゃいいじゃんか」

 和紀のもっともな意見に、笑顔を微妙に変化させる愛姫。

「でも入学式などの公式な席では正装が義務づけられておりますし」

「同じ制服だろ」

「いえ、制服ではなく正装ですよ」

 和紀の不思議そうな反応に、慣れているように微笑みを変化させた。

「入学式の心得みたいなプリントに書いて有りましたでしょ、正装と」

「ああ、ちょっとごめん」

 和紀は頭を抱えた。

「キミはバカなのかい?」

 優輝は定まらない視線で、ちょっと困っているような微笑みに変化した愛姫と、いまだ首を捻っている和紀を見比べた。

「制服だから正装とは限らない。細かい規則なら生徒手帳に書いてあるけど、簡単にまとめると、徽章類を着けるのが正装と規定されているみたいだよ。キミは読んでいないのかい?」

「ホントか?」

 和紀は上着の内ポケットから生徒手帳を取りだし、そして開いてすぐに字の細かさに挫折して、元に戻した。

「ナナさんはあまりにも多くの賞を受けられたので、上着丸ごとを学校側から贈られたのです。これだけの徽章類を揃えた方は珍しいということで、この上着は記念に、しばらく教職員昇降口にある展示スペースに飾られるそうですよ」

 そういえば受験前の校内見学でそこらへんを歩いたときに、歴代の部活などが受賞した記念盾などが飾るスペースが用意されていたような記憶があった。

「そんなチャラチャラした飾りなんか、大人たちが決めただけで、意味はないと思うがね」

 愛姫の説明を受けていた二人の背後から声がかけられた。振り返るとそこに同年代の少年が立っていた。どうやら畳まれたテーブルをパーテーション代わりに仕切ったスペースから出てきたらしい。

「ナオミちゃん、もう着替えちゃったの」

 舞朝が非難めいた声を上げた。

「だ、だれ?」

 和紀がとまどった声を漏らした。それもそのはずで、舞朝に声をかけられた少年は、青いストライプが入ったシャツにジーンズという、紺色のブレザーが制服のはずの清隆学園高等部で、どう見ても私服といった服装をしていたからだ。

前田(まえだ)直巳(なおみ)。彼も天文部の一年よ。こっちは部活見学の遊佐くんと、渚くん」

 舞朝に紹介されて直巳は半眼になって二人を見おろした。髪型といいルックスといい男性モデルのような直巳であるが、身長も相当高かった。中性的な高さの優輝はもちろんのこと、平均身長より確実に高い和紀よりも、さらに上を行っていた。

「ま、よろしく」

 小脇に抱えたバッグをテーブルに置きながら声だけで挨拶をしてきた。どうもお気に召さなかったようだ。

「よ、よろしく」

 戸惑った和紀の視線を受けて、舞朝が説明をしてくれた。

「ナオミちゃんは制服が嫌いなんだ」

「だからって、いいのかい?」

 ふらふらと室内へ視線をさ迷わせながら優輝が訊いた。生徒たちの自治組織である生徒会の人間が居るにも関わらず、誰も問題にしていないようだった。

「は」

 とても乾燥した声で直巳は鼻で嗤った。

「服装程度で人の価値が決まるものかね? これだから、この次元の人間は嫌になる」

 すると、先程から定まった四角四面の動作を全くしていなかった優輝が、彼にしては素早く振り返った。

「確かに服装で人の価値を決めてはいけないかもしれない。しかしキミも制服を着ているボクたちを、服装で差別しようとしなかったかい?」

「そういう意味ではなくてだね」

 やれやれこれだから低次元の人間は、という態度で直巳は肩をすくめてみせた。

「失礼かもしれないが、キミのそういった態度は改めた方がいいと思うよ」

「僕が言いたいのは、次元の違いであって…」

「なにが違うのかな?」

 二人して冷静な振りをしつつも、段々と感情がエスカレートしていくのがわかった。和紀は困ったように眉を顰め、舞朝はとりなそうと二人の顔を交互に見比べ、そしてカインは短い手で身繕いをしていた。

「はあ。文明人はココにはいないのか?」

「ボクには言葉が通じないと、そう言いたいのかい?」

 優輝の声にはとうとう怒りの響きが混じっていた。相変わらず両手はポケットの中だが、その中で握り拳が作られているのが、端から見ていてもはっきりと判った。直巳も応戦できるように、少し間を開くように下がった。

 二人はそれ以上一ミリも動けなくなった。対峙する二人の間に、いつ入り込んだのかわからない程の素早さで愛姫が進入し、右手を直巳の喉元へ、左手を優輝の喉元へピタリと向けていたのだ。

 その貫手のように差し出された掌に、キラリと光る物が沿うように保持されていた。

「うっ」

 優輝は呻き声のような物しか漏らせなかった。

「近藤。その物騒な物を仕舞え」

 怒った声のまま直巳が、栗色の髪をした人物へ言った。

「お二人とも、ケンカはなさらないで下さい。万が一マーサさんが巻き込まれるようなことがありましたら、わたくし…」

 そのまま声色を悲しげに変化させる。口元は微笑んでいて、セリフは舞朝に対して殊勝な物だったが、目は全然笑っていなかった。

「わかったから」

 呻き声以上何も出来なくなった優輝の分も直巳は大きな声を上げた。

「本当ですね」

 ニッコリと目を細めて、攻撃態勢である腰を落とした姿勢から上体を起こした。そのまま、呆気にとられている和紀の目の前で、自分が両手に持っていた凶器を納めはじめた。

 愛姫の手に握られていたのは、笹の葉のような形をした薄く透明な武器だった。特徴的なその武器は、あまりにも薄いだけではなく、材質自体がまったく透明な物質でできていた。

 無造作に上着の背中を捲り上げ、そこに隠れていた鞘へ戻し始める。そんな物を見て、和紀が喜ばないわけがない。

「すげーすげー」

「ただのナイフですわ」

 和紀が目をキラキラさせて喜ぶので、愛姫は収める手を止め、右手の一本をクルリと手の中で回してみせた。

「これ、なんでできてんの?」

 息をかけるだけ溶ける氷のような透明さである。わずかに会議室の照明を反射する刀身に、うっすらと目を丸くしている和紀の顔が映っていた。

「ガラスですわ。切れ味は…」

 目が同じ会議室にいる生徒会の連中の方へ泳いだ。

「まあ装飾品のような物です」

 再び透明なナイフを手の中で半周させると、目で確認せずに一発で後ろ腰の鞘へ見事に納めた。

「で、さきほどのお話しですが」

 愛姫はそっぽを向き合ってしまった優輝と直巳へ視線を戻した。

「渚さんがお怒りになるのも尤もなのですが、前田さんがおっしゃったのは、別の意味があるんですよ」

 愛姫が舞朝の右腕へ抱きつき直すと、もとの笑顔を振りまいた。その笑顔で毒気が抜けたのを見計らって、舞朝が口を開いた。

「ナオミちゃんは、別の次元からこの世界にやってきた『異次元人』なんだって」

「はい?」

 聞きかえしたのは和紀だった。

「だからナオミちゃんが言った違う次元っていう言葉は、文字通り違う世界っていう意味なんだと思うぞ」

「でも…」

 和紀はちょっと天井を見て考える振りをした。

「人を下に見ているのは変わらないんじゃ…」

「まあまあ、カズキ」

 舞朝は必要以上に声を張って話しかけた。誤魔化す気満々である。

「宇宙人に続いて異次元人に出会えた感想は?」

 舞朝の言葉に、虚をつかれた顔で自分の顔を指差していた和紀だったが、しばし硬直後に腕を組んだ。

「まだ未来人に会っていないからなあ」

「それならば」

 舞朝の右腕から愛姫が声を上げた。

「少しニュアンスが違うかもしれませんが、わたくしが該当するかもしれません」

「?」

 その超高校生級の美貌へ聞きかえすように和紀が視線を向けた。

「アキは『五分未来からやって来た時間旅行者』なんだ」

 舞朝の紹介を受けて、愛姫は一旦彼女から離れると、まるで舞踏会に出席しているお姫さまのように、スカートを摘まんで膝を曲げると、ペコリと挨拶をした。

「以後お見知りおきを」

「ごふんみらい?」

「ええ。詳しく説明しますと…」

「まあ、あまりツッコムな」

 得意そうに愛姫が喋りだしたのを遮るように舞朝は言った。語らせたら長くなる話しのようだ。

「ええと、じゃあ…」

「まあ、世の中には色んな人間がいるということだぞ」

 若い声で話し合っているところに水を差すように、渋い声が入ってきた。視線を移すと、カインが両手を宥めるように振っていた。

 するとシーツの一端がするすると立ち上がった。あるかないかのその重みによって覆いがずれ、下から左手を真上に差し上げた姿が現れた。

 下から現れたのは、黒髪を短くしていて、冬服越しだとはいえ体の起伏が全く感じられないほどの線の細い体格をした少女だった。その二つの点から小学生の男の子のように見えるが、下に履いているのは間違いなくスカートであった。それは入学式で新入生代表として壇上に上がった人物であった。

「ふうん」

 いい機会だと遠慮無く見る和紀へ、カインは腕を向けた。

「こら、あまりジロジロとナナを見てはいけないんだぞ」

 体型は男の子のような叶であったが、その高い知性を感じさせる引き締まった表情をする顔は、なかなかの物であった。スタイルから何から総合点では愛姫に遠く及ばないかもしれなかったが、バストショットだけで美を競わせたら、その差は僅差になると思われた。

「感じる…」

 小さな顎が動いて、とても平板な声がした。その音色は、そのシーツに隠されていた外見によく似合っている澄んだ物だった。

 叶はまるで痛みをこらえるかのように表情を苦しげに変化させた。

「理性の青、感情の赤。まるでマーブル模様をしたクッキーのような触り心地。叫ぶ心に溢れる痛み。燃え上がる炎にまき散らされる血飛沫。この幼子が泣いているような電波は、あなたね」

 叶の黒眼がちな瞳が優輝に向けられた。そのまったく感情がこもっていない輝きを見ていると、どんな大罪でも懺悔をして許しを得ることができそうな気がした。

「ボクが泣いているだって?」

 そっぽを向いていた優輝が叶へ視線を移した。氷のような叶の視線と、一定に定まらない優輝の視線が絡まった。優輝は見てはいけない物を見てしまったように、慌てて天井へ視線を逃がした。

「よ、ナナ」

 和紀は二人の間に割って入って、とても気軽に声をかけなおした。だが直接話しかけられても、毛筋ほど表情は動かなかった。それどころか左手だけでシーツをたぐり寄せると、再び頭から被ってしまった。

「よっぽどなんだなあ」

 和紀が感心した声をあげた。

「もっと自信をお持ちになってもよろしいのに。成績だって一番ですし、顔だってわたくしの次ぐらいに美人ですのに。もちろん一番はマーサさんですけれど」

 愛姫の口調が、手がかかる娘を心配する母親のようなものになっていた。

「よくこんな調子で、入学式の新入生代表挨拶に立てたね」

 優輝の指摘に、和紀は叶が壇から下りざまにグラリと揺れた事を思い出した。あれは貧血などではなく、この対人恐怖症のような物の一環だったのではないだろうか。登るときには壇上にいる少数の学園首脳部しか視界に入らないが、下りるときには式に参加している全員が目に入ってしまう。普段がこんな調子であるなら、それは大変な苦痛だったに違いない。

「先生に土下座されたんです」

 愛姫は、自身の制服の上からもわかるくびれラインに手を当てて説明した。

「二組の入学式は、担任がまず教壇でナナさんに土下座した事から始まりましたわ」

「そりゃあ」

 どうやら愛姫と叶は同じ二組らしい。表面上はプリプリ怒り出した愛姫が、目を丸くする二人に説明した。

「規定の格好をしてくれなければ、このまま辞職するまで言いましたわ」

「まあ、来賓も来るから。こんな格好で新入生代表の挨拶をされたら、給料に響くわな」

 二組担任にしてみれば、進むも地獄、留まるも地獄といった心境だったに違いない。それでも校則だからとか、正装だからとか言って強制的にシーツをはぎ取ることをしなかったのは、賞賛されるべきだろう。

 きっと叶もそういった担任の譲歩や事情も考えに入れて、シーツ無しでの入学式への参加を承諾したのだろう。

「マーサが…」

 シーツの奥から少女の声がした。

「マーサが約束を守ってくれたから」

 入学式前に二人で約束したのだ。本当は「ダルイ」の一言でサボろうとしていた舞朝が、入学式に出席したのは、叶のためだった。

「さてと」

 照れたように舞朝は手を打ち合わせて、会議室にいる全員の注目を集めた。

「もう生徒会の取材とかは終わったんだろ? だったら天文部に戻っても構わないよな」

 言葉を向けられた生徒会広報部の女子がコクコクとうなずいた。

「じゃあ、行くぞ」

 舞朝が歩き出すと、愛姫が慌てて自分のバックを取りに走った。

 白いシーツの塊に戻った叶の高さが変化した。どうやら立ち上がったらしい。その高さは平均身長に遠く及ばないものだった。シーツの裾がテーブルに置かれたバックの一つを飲み込むように覆い、それで彼女が荷物を回収したことが判った。

 直巳も先程テーブルに置いた荷物をふたたび小脇に抱えた。

「急がないと、時間に間に合わないかも」

 六人の先頭に立った舞朝が言うと、細いピンク色の革バンドで巻いた腕時計を愛姫が確認した。

「いえ、余裕はたっぷりとあるようですよ」

「?」

 その時間に追われた態度に、和紀と優輝の顔が訝しげにゆがんだ。

「この後、なんかあんの?」

「観測が…」

 舞朝の右腕に再び取りついた愛姫は、微笑みを向けながら教えてくれた。

「天文部伝統の観測が待っているんです」



 六人に増えた一行が地学講義室に戻ると、一見室内は無人に見えた。

 愛姫は右肩にかけてきたバッグを置きに舞朝の右腕から離れ、つつつと小走りに走ると、さも当然のように舞朝のバッグの横にそれを置いた。

 それに釣られたのか、おそらく制服一式を押し込んである大きな荷物の直巳も、その近くで身軽になった。

 唯一、叶だけは離れた位置の窓際で空いている席に荷物を置きに行った。

 そんな三人にはお構いなく、舞朝は部屋の最後尾に足を向けていた。そこは不自然に掃除用具入れや荷物用のロッカーが並べられており、その隙間を暗幕で埋めて部屋を仕切っているようだった。

「はいよー」

 挨拶のような物をかけながら、その暗幕をくぐっていく。当然、和紀も優輝も後に続いた。

「はうあ」

 和紀が呑気ながら感心した声を漏らした。

「秘密基地だ。秘密基地だ」

 直後にそういいながらはしゃぎ出すのは高校生として如何なものだろうか。

 もう一人の部活動見学者である優輝は、両手をポケットに入れたまま茫然と口を開けた。

 確かに暗幕で黒板側と区切られたそこは、小学生ならば秘密基地と名付けても不思議ではないスペースだった。

 広さは六畳ほどで、片方の壁は先程述べたようにロッカーや掃除用具入れの背中で出来ている。反対側は地学講義室の突き当たりで、大きな掲示板が取り付けられたままになっていた。

 窓はワンスパン分あり、そこからは校舎裏のテニスコートを見おろすことができた。反対の廊下側には、本来ならば地学講義室の後部出入口となるべき扉があったが、その付近には古い天球儀や、丸めた模造紙、何らかの形に切ったダンボールなどが山積みになっており、その機能は果たせそうにもなかった。

 同じように雑多な物が窓際付近へ侵略を始めているようだったが、そちらには実験用の流しがあり、その端に並べられたコップ類から、それ以上の侵攻は防がれるものと思われた。

 しかし、そのような細かいところを二人は見ていなかった。

「大砲?」

「そんなわけあるわけないだろ」

 思わず和紀が漏らしたボケに、舞朝はツッコミを返した。

「お、帰ってきたね」

 その器材の横から部長が柔和な笑みを返してきた。

「ヤマト。時間ですよ」

 脇でクリップボードに留めた書類をチェックしていた副部長が、自分の腕時計を確認した。

 和紀が秘密基地と呼んだ空間には、大きな器材が設置されたままになっていた。一抱えはありそうな円筒形をした本体は、天窓越しに空へ向けられていた。

 それは高校のこんなスペースに設置されているにしては大きめな屈折式望遠鏡であった。ただ上を向いているだけでなく、鏡筒にはこれでもかというほどの色々なパーツが着けっぱなしになっていた。

「それでは、本日の太陽黒点観測を始める」

 部長が高らかに宣言した。

「日付確認」

 部長がロッカーの背に貼り付けた模造紙に書かれているチェック項目を、大きな声で指差し確認した。

「四月七日です」

 まるで儀式のように副部長と舞朝がこたえた。

「あら、始まっていますわ」

 愛姫がそう声をかけながら入ってきた。後ろに叶も直巳も続いた。

「現在時刻確認」

 次の部長の一言で、部員全員が時計へ目を走らせた。

「定時です」

 今度の復唱は人数が多かったので、ちょっと聞き応えのある音量になっていた。

「天候確認」

「晴れてます」

 天窓を振り仰いだ舞朝だけがこたえた。

「南中時刻確認」

 続いて部長が項目を読み上げる。すると事前に調べてあったのか、副部長が抱えていたクリップボードの上に視線を走らせた。

「本日の南中時刻は十一時四三分です」

「高度確認」

「本日の高度は五七、四度です」

 副部長の数字の読み上げに対応して直巳が器材の三脚直上に位置する目盛り環を確認しながら、その下から突きだしているハンドルを回転させて筒先の細かな角度の調整を開始した。

「方位角確認」

「本日の方位は二〇三、三度です」

「サングラス確認」

 すると直巳の横へ移動した舞朝が、筒の横に取り付けられたファインダーのキャップを外して、上から覗いた。

「OKです」

「今日は誰がやる?」

 部長が部員一同の顔を眺めた。

「じゃあ、あたしが」

 そのまま舞朝が小さく手を挙げると、副部長が場所を譲った。舞朝は、その小さな筒に取りつき、まず覗く前に掌を接眼レンズに晒し、サングラスが機能しているか熱で確認した後に覗き込んだ。

「太陽面を確認」

「赤道儀スタート」

 舞朝がすぐに顔を離して、ファインダーのキャップを戻している間に、報告を受けた部長がハンドルに取りついている直巳に指示をした。

「赤道儀起動」

 直巳は、舞朝が太陽面を確認したと言ったと同時に、手元のスイッチを押し込んでいた。

「よし」

 部長は満足そうにうなずいた。

「サンプリズム確認」

「取り付け良し」

 操作する都合上、器材に一番近い直巳が、筒の最後部に取り付けられた部品を指さし確認した。

「太陽投影板確認」

「同じく良し」

「観測用紙セット」

 続いての指示に副部長はクリップボードから紙を一枚外すと、本体下部に取り付けられた台に置いた。角度が着いているのでずり落ちそうになるが、台に備えられたクリップで四隅が留められると、その心配もなくなった。

「セット完了です」

「よし。レンズキャップを外せ」

「…」

 直巳がその高い身長からか、器材の脇に置かれた椅子を踏み台にして、天窓に近い位置へ手を伸ばし、黒い蓋を外した。

「外しました」

 その途端に観測用紙が眩しいほど輝き始めた。目を細めて見ると、そこに円状の何かが投影されていた。

「観測開始」

 いつの間にかに自分だけ眼鏡の方のサングラスをかけていた部長が、どこからかシャ-プペンシルを取りだした。

 白い台の上にはゆらゆらと揺らめく像が浮かび上がっていた。この大規模な観測機器を通して、今現在の太陽が観測用紙に投影されているのだ。

 真っ白に輝く円は、そのコントラストの差から輪郭がはっきりと判った。しかし完全に白色というわけではない。その表面にはホクロのようなものが複数浮かび上がっていた。太陽の黒点である。

 部長が操る筆記用具が慣れた調子で、その黒点の輪郭をささっとなぞった。

「今日は新しい黒点が生まれていませんね」

 紙に反射する光を遮るように左手を顔の前に上げた愛姫が、部長のなぞる太陽像を確認して言った。

「そろそろ活動期のはずなんだけどな」

 直巳がちょっと不思議そうにこたえた。

「よし、写し忘れは無いかな?」

 部長が自分の仕事に手落ちがないか部員の顔を確認した。それを受けて順不同に部員たちが観測紙を覗いた。

「いいんじゃない?」

「大丈夫のようですよ」

「問題なさそう」

「…」

「うまくできたぞ、地球人」

 どうやら部長の仕事には問題点はなかったようだ。部長は一瞬だけ視線を、褒めてくれたライオン(のヌイグルミ)へ向けてから、気を取りなおしたように背筋をのばした。

「よし。観測を終了する。レンズキャップ確認」

「レンズキャップを閉じる」

 直巳がわざわざ口に出してから、天を向いていた筒先に黒い蓋を戻した。プラスチックで出来たキャップが筒先にパチンとはまる音がした途端に、室内が真っ暗になった。もちろんそれはいままで大光量を投影していたための錯覚であった。

 少しタイミングを遅らせてから、部長が筒先へ指を向けた。それにあわせて部員全員も筒先を指差した。

「レンズキャップ確認よし」

 最後の指さし確認は全員で行った。ちなみに叶自身は左手で確認し、カインも丸い手を向けて確認していた。

「赤道儀オフ」

「電源を切る」

 部長の指示で直巳が電源を落とした。

「どれどれ、今日のお日様の機嫌はどうだったかな」

 部長は顔にかけていたサングラスを制服の胸ポケットへ落とし込むと、自らの手で写し取った用紙を投影板から外した。

「まあ、こんなものか」

「だいぶ大袈裟な観測だね」

 取り込んでいた様子が一段落したようなので、声を出すことを遠慮していた優輝が口を開いた。

「うん?」

 横柄にも取れる後輩の態度にも部長の笑顔は揺るがなかった。

「そうだね、ちょっと大袈裟かもね」

 用紙を副部長に渡しながら、部長は大きく掲示されている確認項目を振り返った。模造紙にマジックペンで書かれたらしいその観測手順は、古い物らしく表面に黄ばみが見られた。

「でもね、太陽観測は事故が起きやすい。失明や火災など高校生が扱うには危険がつきまとう。そんな事故を一回でも起こしたら、創部以来ずーっと続いてきたこの観測を止めなければいけなくなるかもしれない。そんな事を防ぐための手順だからね。よく言うでしょ、安全第一って」

「創部以来?」

 優輝が面白そうに唇を歪めた。創部が去年だと言われたらすぐに爆笑しそうな雰囲気だ。

「ええと、どのくらいだっけ?」

 部長がとぼけた声で副部長を振り返った。

「たしか、よんじゅう…」

 そのまま首を横に倒した。どうやら細かい数字は判らないらしい。しかし、高校生から見たらとてつもなく長い期間だということがわかった。なにせ自分どころか、自分の親ですら生まれていないかもしれないほどの昔からである。

「今日の当番は?」

 何年か前(もしかしたら何十年も前)の当番が書かれた模造紙の上に、一枚のルーズリーフが留めてあった。

「今日はナナだ」

 そこから必要な情報を読み取った舞朝が叶を振り返った。

「了解なんだぞ」

 カインがこたえ、叶は副部長からクリップボードごと観測用紙を受け取ると、唯一こちらを向いて設置されている本棚から、二冊のファイルと、赤い表紙の小冊子を取りだした。

 どうやら観測は終了らしい。緊張した様子で指差し確認をしていた一同は、雰囲気を柔らかいものに戻して、広い地学講義室へ戻り始めた。

「それを、どうすんだ?」

 なんにでも好奇心が湧く和紀は、大袈裟なオプションがついている観測器材でなく、叶が受け取った観測記録の方が気になったようだ。彼が叶に着いていくと、優輝も心細さを感じたのか、相変わらず手はポケットのままで、二人の後に続いた。

「どうするもこうするも、観測をしたら記録に纏めるに決まっているんだぞ」

 両手で赤い小冊子を一生懸命抱え込んでいるように見えるカインが言い返してきた。

 叶は窓際に置いた荷物のところまで戻ると、カインがシーツの中に引っ込んだ。しばらくゴソゴソと動いてから彼だけが出てくる。どうやら中で右手から外したらしい。叶はカインを両手で長机へ自分に向くように置いた。

 ちょっと毛並みを整えるように頭を撫でてから、自分の筆記用具を取りだして席に着いた。

 そのままでは視界に問題があるのか、シーツを少しだけずらして顔を出した。理知的に引き締まった横顔を見ていると、まるでベールを被った修道女が、これから祈りを捧げるようにも思えた。

 叶は伏し目がちに、部長のシャーペンで書き込まれた太陽面から黒点数を読み取り、用紙上部に設けられた表に書き込む。その表に、天候や観測者名などの欄が他にもあり、そこへ小さく几帳面そうな字を埋めていった。

 欄が埋まると『観測記録』と大書されている、まだページ数が少ないため薄く感じられるファイルを開いた。そこには昨日までの記録が綴じられており、今日の記録はその上へ加えられた。ページ数が少ない理由は表紙を確認すると簡単に分かった。そこには日付も書き込まれており、それによるとこのファイルを使用開始してからまだ一週間も経っていない。おそらく新学期になって新調されたものだろう。

 もう一冊のファイルには『観測用紙』と大書されていた。開くとまだ何も書き込まれていない観測用紙が綴じられており、叶はそこから一枚取りだした。

 どうやらまとめてコピーしてきてそこにストックしてあるらしい。

 付箋をはさんだ赤い小冊子のページを開くと、細かい数字の羅列からデータを読み取り、明日の南中時刻や高度などの欄を埋めていく。

「その本は?」

 和紀の質問に叶は、手を止めてシャーペンを転がすと両手で持ち上げて、自分の顔の前に掲げた。

「…」

 どうやら自分でタイトルを読み取れと言いたいらしい。

「天文年鑑? そんなものがあるんだ」

 中身を確認しようとしてか、和紀は表紙の向こう側を覗き込んだ。まさか近づいて来るとは考えていなかったのか、顔を隠していた叶は和紀と目が合うと真っ赤になってしまった。

 その純粋な反応に、和紀は素直に可愛いと感じた。

「こらこら」

 その首根っこに手がかかった。右腕に愛姫をまとわりつかせた舞朝であった。

「ナナは見られるのが苦手なんだから、イジメになるぞ」

「あ、ごめん」

 慌てて身を引いた和紀は素直に謝罪の言葉を口にした。叶はその隙に天文年鑑と入れ替えにカインを抱き上げると、彼で顔を覆った。

「まったく」

 カインはプリプリと怒った声をあげた。

「気安くナナに近づくなんて。ナナは恥ずかしがり屋さんなんだって、何度も言っているんだぞ」

「はあ」

 こうして中年男性の声で言われると頭が自然と下がってしまう。でも和紀の心は謝罪というより、カインが喋っている間まったく動くことがなかった叶の唇への好奇心の方が大きかった。

 先程、生徒会会議室で優輝が腹話術として不完全と評したが、なかなかどうして。プロでも通じるほどの完璧さであった。

 和紀が離れてくれたので、叶はカインを長机の上に戻して、作業を再開した。とは言っても、もう項目は埋まっており、明日の分の観測用紙を、副部長が抱えていたクリップボードに留めるだけであった。

「おやあ」

 その時、カインとは違う成人男性の声が地学講義室に響き渡った。意外に大きな声だったので、室内にいた全員が振り返ったほどだ。

 いつの間にかに可動黒板の横にある扉が開かれており、そこから三十代とおぼしき男性が顔を出していた。

 そのあまりの背の高さに頭を入り口の鴨居にぶつけそうだ。その代わりといっては何だが、太さの方は全然無く、ヒョロヒョロとした細い体格であった。

 白髪がまじった頭は綺麗に刈り込まれ、優しそうな表情の顔に剽軽ささえ感じさせる丸めがねが乗っている。その奥から地学講義室を見る目は、ドングリ眼という物ではなく、逆に爬虫類を思わせる細く鋭い吊り目であった。

 白いセーターに白いズボンを履いており、全体に高校教師と言うより、塾の講師といった肩書きの方が似合うような人物だった。

「入学式の日ぐらい、一年生は休んだって構わないのに」

「小石ちゃん。普通の顧問は部活動を推奨するものじゃないの?」

 舞朝がまるで近所の知り合いにするような受け答えに出た。

「いやいや」

 自分の歳の半分もいっていない少女に、とてもフレンドリーに話しかけられても、その白ずくめの教師が浮かべている笑顔は小揺るぎもしなかった。

「先生がケツを叩かなくても、我が部は部員が熱心だから、安心していられるんだ」

 まるで自分の妹に接するような態度と表現するのが適切かもしれなかった。

「おや」

 先程よりは小さな声で感嘆したものを唇から漏らした。自分の縄張りというべき地学講義室に、見慣れない男子生徒が二人も居たことが驚きらしい。

 不躾に和紀と優輝を交互に指差すと、わかりやすく顎を落とした。

 その漫画的な反応に、優輝がつまらなそうな表情に顔を取り替えた。

「まさか、天文部の新入部員とか?」

 目の前の舞朝に確認する。

「小石ちゃん。一応あたしたちも新入生で、新入部員なんだけど」

「あ、失礼」

 丸めがねの向こうで、切れ長の目がキラリと光った気がした。

「君たちは去年までも見かけていたからね。去年が高校零年生だったのか、もしくは今年が中学四年生に思えてしまって」

「小石ちゃん!」

 入学式の前に同じ事を思っていたが、面と向かって中学四年生とはちょっと失礼である。舞朝が語気を鋭くした事にまったく動じない小石は、顔に浮かんでいる笑みを少しは申し訳なさそうにして後頭部を掻いた。

「いやいや、まあまあ」

 腕を組んで右足の爪先だけで床を踏みならし始めた舞朝は、まるで幼児のように頬を膨らませた。

「いちおう部活の見学者で、遊佐くんと、渚くん」

「うん」

 ついっと丸めがねを押し上げて小石は優輝へ視線を移した。なにか思うところがあるのか、しげしげと相手を観察する。優輝は大人からの不躾な視線に戸惑ったのか、目を合わせることをせずに、天井と壁の角を眺めていたりする。

「そういえば」

 小石がしばし準備室へ引っ込んで、一枚の紙を持ってきた。

「イロハがこんな物を持ってきてさ」

 差し出されるままに部長が受け取った。好奇心のままに他の部員たちも彼のところに集まると、首をのばしてその紙を覗き込んだ。

「入部辞退届け? なんでこんな物を」

 舞朝が驚きの声を上げた。

「さあ」

 丸めがねの向こうで切れ長の目が一層細められた。

「なんで小石ちゃんも受け取っちゃうんです?」

 舞朝の非難する声に、小石は困ったように眉を顰めた。

「いちおう部活動は強制出来ないことになっているし」

「でも!」

「ハドソンさん」

 部長が力のこもっていない声でたしなめた。

「小石ちゃんは天文部の良い顧問だと思うよ」

 天文部顧問としてあまり生徒の活動に関わってこない小石であったが、不熱心というわけでもない。毎月一回は行っている夜の天体観測などは、彼が色々な手配手続きをしてくれないと実行が不可能なのだ。そして天体観測の回数は二年前に顧問が交代してから増えることはあっても減ったことはなかった。

「どうやらこれは、部員で解決する問題のようだね」

 どこまでものんびりとした部長の言葉に、部員たちは顔を見合わせた。

「はぁ」

 疲れた様子を隠さずに舞朝が溜息をついた。

「じゃあ、あたしが話しを聞いてきます」

 舞朝がみんなの顔を確認しながら言った。叶は極度の対人恐怖症で無理。愛姫は舞朝から離れようとしない。直巳は個人主義。和紀と優輝に至ってはまだ部員未満だ。自分以外に本人と話しをする人間はいなさそうだ。

「悪いねぇ、ハドソンさん」

 全然悪びれずに部長が後ろ頭を掻いた。

「ボクは、ここでやってくるか判らない入部希望者を待っていなきゃいけないし。チナミだとイロハのことを脅しそうだしねぇ」

「や、ヤマトっ。ちなみに私はそんな脅迫なんていう手段は使ったことはありません!」

 見学者である男子二人から向けられた疑念の目に、慌てて手を振って否定する副部長。

「やっぱり一年の問題は、一年で解決しますよ」

 舞朝は荷物を部屋に置いたまま廊下へと向かった。

「よろしく頼むよ」

 顧問が丸めがねの向こうから柔らかい声を送ってきた。

「わかりました」

 それに答えたのは舞朝ではなく愛姫であった。当然のように舞朝の右腕に抱きつきつつ、一緒に歩き出す。

「…」

 水鳥の雛が親鳥に置いて行かれてはたまらないという様子で叶が後を追った。

「ふう。君たちは帰ってもいいぞ」

 命令口調で和紀と優輝に言ったのは直巳だ。彼も当然のように舞朝の背中を追った。

 四人の背中を見て、和紀と優輝はのんびりと顔を見合わせると、うなずきあって歩き出した。どうやら加わることにしたらしい。

 清隆学園高等部天文部に関係する新一年生は再び中央廊下に出ると、あてもなく校舎一階へ降り、裏口と呼ばれる非常口から外の渡り廊下に出た。

「どうして辞めるなんて言い出したんだ?」

 ブツブツと呟きながら舞朝が歩いていると、その右腕に絡みついている愛姫が笑顔を困ったように変化させた。

「さあ」

「どうでもいいけど」

 和紀が二人の横から訊ねた。

「人を捜しているなら、別れて捜した方が効率よくね?」

「なら君は向こうを捜したらいいだろ」

 追い越された形になり一番後ろを着いてくる直巳が冷たく言い放った。肩越しに背後の校舎を右の親指でさしていた。

「ざんねん」

 和紀は直巳を振り返った。

「おれ、その人の顔が分かんないんだよね」

「そういえば、なんでボクたちは着いてきているんだい」

 和紀の横の優輝が、いまさら気がついたといった態で訊いた。

「なんだなんだ? ユウキはつき合いが悪いなあ。天文部に入るなら、一人でも部員が多い方が良いだろ」

 すでに部員であるような発言の見学者であった。一方質問者である優輝は、和紀に振り返られてしまって、慌てて視線を逸らした。

「で? どこから捜す? あてがあるのか分かんないんだぞ」

 シーツからカインが顔を出した。

「そういえば、そうね」

 カインの指摘に舞朝が立ち止まった。

 まさか止まるとは思っていなかった和紀と優輝が先頭の二人に追突、それを見ていた最後尾の叶と直巳は寸前でそれを回避した。

「アキ? イロハはどこ」

「ええと」

 愛姫は背中にぶつかってきた男子二人の顔を、困ったように振り返った。

 その微妙な表情をわざと無視するように、舞朝が重ねて言った。

「五分未来でイロハの居場所ぐらい知っているんだろ」

「そうですね」

 身長差から愛姫は舞朝を見おろした。

「あの方に訊ねられると分かるかもしれません」

 細く白い指が、あてどなく向かっていた先を示した。渡り廊下はそこで駐車場へ向かう道と直交しており、いま丁度体操服を着た女子の集団が横断しているところだった。

 見るからに運動会系の部活に所属する一団だ。学校の雑木林を縫うように設定されているランニングコースで一汗流して、どこか他の場所への移動中らしい。その集団は明るい声で雑談をしながら、今まさに通り過ぎようとしていた。

 その中の一人が、指差されたからでもないだろうが、六人に振り返った。

「おやあ? キミたちもソフトボールやりたくなった?」

 誰かと思えばお節介でお喋りな、クラスメイトであるウサギであった。ということは他の面子は女子ソフトボール部の部員たちなのであろう。

「残念ながら時短のせいで、今日はロードワークだけで終わっちゃったんだけど」

「ちがうちがう」

 舞朝は左手を横に振った。

「お? お?」

 額に手をかざして、運動靴のまま渡り廊下に入ってきた。

「?」

「あいかわらず『宇宙人』は変な格好をしているねえ」

 そのまま最後尾にいた叶へズカズカと近づいて行く。それをわざわざ止める必要も感じられなかったので、和紀と優輝は道を譲ってしまった。中等部でもこんな特徴的な格好で校内をうろついていたので、彼女の習性は進学組のみんなが知っていることなのだ。

 和紀がどいてしまったので、直接追突しないように彼の背中にのばしていた叶の両手が、宙ぶらりんのままで浮いていた。こうしていると、本当に西洋のオバケに見えた。

 そう思いこむと人間の習性として、シーツの表面の皺が、彼女の表情に思えて来てしまう。偶然だろうが、それはとても困って眉を顰めた顔に見えた。

「変な格好とは、ナナに失礼なんだぞ」

 カインが右手から無礼をたしなめる。

「キミも騎士役が大変だねえ」

 ちゃんとカインの顔を見おろして、そう声をかけてから、彼女の手がシーツにかかった。

「おい」

 その肩に舞朝の右手がかかった。

「ナナは対人恐怖症なんだから、やめておけよ」

「あれ? そうだっけ?」

 あっさりとシーツを離して振り返る。叶はそれがスカートの裾であったかのように、慌てて左手で整えた。

「ボクはてっきり何とかという星の習慣かと思った」

「何とかじゃないんだぞ」

 カインがビシッと指差すように手を向けた。

「ナナは『ナイハーゴの葬送歌星』出身なんだぞ」

「というと、ナイハーゴ星人?」

 きょとんと聞きかえす彼女へ、なぜかカインは胸を張って答えた。

「正しくは『ナイハーゴの葬送歌星人』だ」

「…」

「だが分類上は『ナイハーギー』と呼んだ方が正しいな」

「…」

 じーっとカインと、シーツの山に見える叶を見つめていた彼女は、諦めたように言った。

「やっぱ『宇宙人』でいいわ」

「だから! そうじゃな…。むぐー、ムグー」

 カインがさらに語り出そうとしたので、舞朝は顔の口があると思われるあたりに手をあてて黙らせた。

「ところで、ウチのイロハ知らないか?」

「あの髪の長い娘なら知っているけど」

「どこにいた?」

「なんか講堂の隅にいたけど」

「本当?」

 舞朝が確認すると、安請け合いをするように彼女は胸を張って言った。

「ホントだよ、本当」

「ありがと、行こ」

 舞朝は長い三つ編みを翻して渡り廊下の先を向いた。

「なんかあったの?」

 舞朝の機嫌が悪そうなことが気になったのか、誰とも無しに訊いてくる。

「ちょっと彼女に話しがあるんです」

「ふうん。そうなんだ」

 愛姫の説明にうなずいていると、体操服の一団の方から声がかかった。

「バニー! いっちゃうよー!!」

 とうとうウサギからアダナが進化したらしい。しかもバニーと呼び捨てときた。次は何であろうか? 「バニーガール」辺りが有望ではないかと和紀は思った。

 ウサギ改めバニーと別れて体育館から格技棟の脇を通り、講堂へ至る。入学式が行われた講堂は、すでに並べられていたパイプ椅子が片付けられて、室内競技の運動会系が部活を行っていた。

 一番場所を取っているのは器材を出して練習している体操部であった。入学初日だというのに見学者がけっこう集まっており、そのギャラリーの中で先輩たちが吊り輪や平均台、跳馬や床運動などの自分が得意な演目を見せつけていた。

「あそこではないでしょうか」

 講堂内を見まわす舞朝の右腕から愛姫が声を上げた。体操部に遠慮するように、台を一面だけしか出さないで練習している卓球部と、腕立てをしている所属不明の体操服との間を指差す。細い指先の延長線上には書道の道具が一式並べており、それらに埋もれるように袴を履いた道着姿の人物が正座をしていた。

 まるでバリアを張っているかのように周囲には人がいなかった。それもそのはずで、まるで剣道部にでも所属しているような道着姿のまま、壁に向かって右の人差し指を突き出して、微動だにしていないのだ。さらにその指先に一挺の裁ちバサミを立たせていた。裁ちバサミは刃先を下にしており、その自重で細い指先に食いこんでいるようにも見えたが、目を閉じたその表情からは、痛みを感じている様子は感じられなかった。

 向かう壁には一枚の半紙が貼り付けてあり、墨痕鮮やかに丸印が一つだけ描かれていた。

 端から見て、武道家の精神修養とも見える。だが周りに散らかしてある半紙へ目を移してみると、その一枚には見事な楷書体で「愛ある限り戦いましょう」と書いてあり、また別の一枚には筆でどうやって書いたのか判らないが、四角いゴチック体で「とってもご機嫌な斜めだわ」と書かれていた。

 舞朝はその不思議な空間へ、見事な草書体でおそらく「地球の未来に、ご奉仕するにゃん」と書かれている半紙を回り込んで近づいた。

 背筋をのばして座っているのに床に届きそうなほどにのばした黒髪は、あまり身の回りには無頓着なのか、あちこちにハネがあった。その豊富な髪のせいで、顔の上半分すら隠されており、目元は見ることはできなかったが、どうやら静かに瞼を閉じて精神統一しているらしい。

「イロハ」

 舞朝が遠慮がちに声をかけた。

「…」

 話しかけられた娘の顎先がわずかに動いた。どうやらこちらへ顔を向けたらしい。長くのびて顔の上半分を隠してしまっている前髪の向こうで瞼が開かれた。それはとてもきつい印象を与える瞳で、この世に存在する全ての物を呪っているかのような鋭い物であった。

「なにやってんだ?」

「見て判らぬか?」

 舞朝の問いに、とても大時代的な口調で返答があった。

「う、うん。わからないぞ」

「修業だ」

 それからもう少し首が巡らされた。どうやら彼女の後ろに他の天文部のメンバーが居ることと、見慣れぬ顔がそこに混ざっていることに気がついたらしい。

「そちらは?」

「部活の見学者で、遊佐くんと、渚くん。この娘が久我(くが)五郎八(いろは)だ、二人とも」

「ふむ」

 舞朝の紹介に一回だけうなずいてみせる。

「で、小石ちゃんから聞いたんだけど。天文部に入らないって…」

「それがしは、高校から運動へ青春をかけることにしたのだ」

 それだけで説明が終了したとばかりに壁に向き直る。会話の間も指先の裁ちバサミは震えもしなかった。まるでそこに接着剤で貼り付けてあるかのようだ。

 その会話を拒否するような五郎八の態度に、舞朝は食い下がった。

「理由は? ずっと天文部だったじゃないか」

「ふむ」

 五郎八の首が再び巡らされ、なにやら先輩の大技が決まったらしく歓声が上がった体操部の方に目が向けられた。

「若人が運動に汗を流すことに、別段不思議なことはないと思うが?」

 言っている内容は不思議では無かったが、言っている口調は全然若人らしくなかった。とても静かに淡々と喋るのだが、いちおうそこには感情らしき物がくみ取れた。

「それでこれか?」

 舞朝は周辺に散らばっている半紙へ目を移した。ちょうど彼女の右足先には行書体で「ピンクパールボイス」と達筆で書かれた一枚が散らかされていた。

「パフォーマンス書道でも始める気か?」

「いや、これは」

 五郎八は壁の丸印へ向き直った。

「それがしの内なる何かが弾けたのだ」

 その言葉を聞いた全員が脱力感を感じた。

「久我よ」

 直巳が身長だけでなく、その態度からも遙か上から言った。

「運動部に入るって言ったって、君はあまり体を動かすことは得意ではなかったろ」

 直巳の指摘した割には先程から壁の丸印を向いている指先は小揺るぎもしていなかった。ただ腕を上げてその姿勢を維持するだけでも相当の体力である。しかもその先には裁ちバサミが立ててあるのだ。会話の間もバランスを崩さなかったことからも、彼女の腕力と集中力の高さがうかがい知れた。

「今年の春は運動部女子がいいのだ」

「は?」

 会話内容が飛んだ気がしたので、舞朝の目が丸くなった。

「そういえば今月号のファッション誌は、横並びで『運動会系女子推し特集』でしたわ」

 舞朝の右腕から愛姫が微笑む。彼女はそういった雑誌を何冊も購読しているようなタイプであるが、対して壁に向かって正座している五郎八は、そのボサボサにしている長い髪からして、あまりそういった物は読まないかと思えた。

「『運動会系女子推し特集』?」

「はい」

 舞朝に話しかけられて嬉しかったのか、愛姫の表情が一層緩んだ。舞朝も一通り立ち読み程度でチェックするが、そこまで身の回りにこだわりが無かった。それにそういった情報は、愛姫がこうして彼女に供給してくれるのだ。

「なんでも今年の春にもてたかったら、何か運動部に入って汗を流した方がよいのだそうです」

 右腕から微笑みとともに届けられた情報を、脳の中で充分に咀嚼してみる。

「また。そうやって『いわゆる流行』ってやつに騙されて…」

 五郎八はプイッと反対側へ顔をそむけた。

「ほらあ、イロハ」

 だいぶ冷や汗を掻いた声に変えて舞朝は天文部のメンバーを示した。

「今年は二人もイケメンが加わるんだぞ。それにナオミちゃんだっているし。男との出会いなら天文部だって負けてないだろ」

 舞朝のセリフに五郎八の目が再び男性陣へ向けられた。それに対して和紀は右斜め四五度の気取ったポーズで応え、優輝は関係ない壁の方へ視線をずらした。ちなみに直巳はつまらなそうに腕組みをしたままで立っていた。

「なんだったらコイツまでつけるが?」

「マーサさん!」

 舞朝に差し出されて愛姫が悲しそうな声を上げた。

「ほら、これでハーレム」

 ぐっと親指を立てみせる。

「こらこら」

 せっかく決まったと思ったら、後ろから邪魔をする声が入った。

「僕を忘れちゃいけないんだぞ。このつぶらな瞳に滑らかな毛並み。僕も美宇宙人なんだぞ」

「なんだよ、その美宇宙人って」

 毛繕いなんかしているライオン(のヌイグルミ)へ、ついツッコミを返してしまう。

「ナナのような美しい女の子は美少女。ナオミのような男の子は美男子というんだぞ。僕は美しい宇宙人だから美宇宙人と名乗って悪い事なんてないんだぞ」

 そのカインのセリフで、一同は頬紅を塗りたくって五段ぐらいツケマをしたグレイタイプの宇宙人を想像してしまった。

「ふむ」

 その心の隙を見抜いたわけではないだろうが、五郎八が裁ちバサミを指先に立たせたまま、一挙動で立ち上がった。さすがにヒジを曲げることになったが、とてつもないバランス感覚と集中力であることには違いなかった。

 その呪詛で満たしたような目線を避けるように、優輝は学帽を深く被り直した。

「ふむ」

 睨み付ける五郎八に、バツが悪そうに目を合わせないようにしている優輝。彼女が彼の何が気になるのかが判らないが、あまりよい雰囲気とは言えなかった。

「こらこら」

 舞朝が二人の間に入ろうとすると、愛姫が右腕を引いてそれを邪魔した。

「アキ」

「大丈夫ですよ」

 対峙する二人へ水入りというタイミングで、鋭いホイッスルの音が講堂に響いた。

「こらあ。時短だぞ! クラブ活動は終了!」

 開け放たれている扉から赤いジャージを着た体育教師が大声を上げていた。その声で腕立て伏せをしていた集団は救われたような顔になり、競技の卓球というより、遊技でピンポンを愉しんでいた連中は残念そうな声をあげた。

「体操部は器材を片付けるのに時間がかかるんだから、早くしろーぉ」

 職業柄大声には慣れているのか、講堂全体に響く声が飛んだ。名指しされた体操部からそれでも反抗するような声が上がる。

「あと一本ずつ飛んだら終わりにします」

 その声と同時に、紺色の風が講堂を駆け抜けた。

 長い髪を自身が走るスピードで生まれる合成風力でなびかせながら、跳馬の順番を待っていた列を追い抜き、無人のロイター板へ駆け込んだ。

 鍛えている者だけが到達できるトップスピードで踏み切ったその者は、跳馬本体に手をつくまでに体を捻り、ほとんど横向きで手を着いた。そのまま再び宙に浮いた体はさらに横向きに捻られ、後方抱え込み宙返りを完成させると、見事に伸身着地を決めた。

「おお~」

 それを見ていた講堂全体がどよめいた。ちゃんとした大会でなしに、こんな部活の勧誘が目的の場所では、滅多に見られない大技であったからだ。

 演技者は講堂全体の注目をあびて、恥ずかしいと思ったのか、そのまま唖然としている体育教師の横を抜けて、外へ走り出してしまった。

「ツカハラ跳びですね」

 突発的に見せた五郎八の見事な演技に言葉を失っていると、右腕の愛姫が解説をしてくれた。

「そうとう高度な技ですよ」

「あれのどこが『体を動かすのが得意じゃない』んだよ」

 五郎八が出て行った扉の方向を指差して和紀が直巳に尋ねた。

「見ればわかるだろ」

 直巳は両腕を広げて周辺を見まわし、困ったように溜息をついた。

「こんなに身の回りのことがだらしない久我に、継続して運動なんてできやしない」

「あ、あのさ」

 舞朝はおそるおそる発言した。

「これって、誰が片付けるんだ?」

 床には書道道具一式と、五郎八の作品が散らかしたままだった。

「…」

 お互い顔色を窺いあい、そして結局舞朝が溜息をつくことになった。

「やれやれ」



 六人は地学講義室に戻ることにした。途中にある流しで五郎八が散らかした硯などを洗ってから戻ると、中で小石が腕組みをして待っていた。入部希望者を待っていたはずの先輩たちの姿は無かった。

「あ~、どうしました? 小石ちゃん」

「どうしたと言われても」

 眉がハの字になっているところから、どうも困っているらしい。

「時短とやらで、部活をやっている生徒を帰宅させなきゃいけないのに、君たちがなかなか帰ってきてくれなくてね」

 そういえば講堂でも体育教師が大声を張り上げていた。

「じゃあ、今日はおしまいですか?」

 舞朝が訊ねると、小石は地学講義室を見まわした。

「ヤマトくんも、アイコくんの騎士役で帰してしまったし。君たちもそろそろ…」

「別に『帰れ』の一言でいいのに」

 そのぐらいの権力を振るっても舞朝はいいと想うのだが、天文部顧問は草食系というやつなのか、命令形を使うことの方が珍しいのだった。

「今からならば、イロハさんを途中で捕まえられると思いますが?」

 右腕に抱きついている愛姫が思いついたように言った。

「そうだな、もうちょっと話してみるか」

「あ~」

 寄り道の相談を目の前でされて、小石が情けない声を漏らす。

「そんなに時間をかけませんよ」

 直巳が突き放したように言い、自分の荷物の方へ動き出した。

「というわけだ。今日の天文部は終わりなんだが、どうだった?」

 愛姫に自分の荷物も頼んで、舞朝は部活見学者の二人に振り返った。

「あの娘、説得するんだろ? つきあうぞ」

「いや、でも」

 そこまでつき合わせても悪いかと思っていると、優輝も学帽で隠した表情で言った。

「ボクも寮暮らしだから、いまから戻っても時間が余ってしまうし」

「それなら、急がないといけないんだぞ」

 三人の会話に茶色い物体が口を挟んだ。

「イロハは歩くのが速いから、ナナが追いつくのが大変なんだぞ」

「じゃあ善は急げ」

 バタバタと全員が荷物を纏めると、地学講義室を飛び出した。

「じゃ、小石ちゃん明日」

 最後に手を振る小石に舞朝が捨て台詞のような挨拶を残して、廊下に飛び出した。

 六人の通学方法はみんなバラバラであった。確認してみると、和紀は自転車通学、寮暮らしの優輝はもちろん渡り廊下を徒歩で、だ。他の天文部部員はというと、舞朝と直巳が自転車、愛姫と叶(それとカイン)が歩きであった。全員で校舎裏手のテニスコート脇にある自転車置き場へ行き、それぞれの自転車を回収すると、荷物を歩き組の分までそれに乗せて、先に出ているはずの五郎八を追いかけることになった。

 舞朝が愛用しているのは、いわゆるママチャリというタイプだ。性能よりも値段で選んだ割にはなかなか活躍してくれる。直巳はブっといタイヤが目立つマウンテンバイクである。普通のユーザーならば荷物カゴなど装備しないのだが、折りたたみのサイドカーゴを装備していた。これは中等部からの習慣で、帰りはみんなで歩いて近くの駅まで行き、駅前の交番で別れるのが定番になっていたためだ。ソレまでの間に歩きの者の荷物を入れるためにつけた物だ。

 直巳の自転車が無骨なシルエットをしているのと対照的に、和紀の自転車は細いフレームのロードレーサータイプであった。舗装された道ならば自動車と競えるほどの速度が出るタイプである。和紀はバンドで後部荷台に自分の荷物を括り付けた。

 舞朝の前カゴに、愛姫が当たり前のように自分の荷物を入れ、直巳が叶に手を差し出した。叶はシーツ越しながらも済まなそうに頭を下げると、自分の荷物を直巳に任せた。

「どうせなら二人乗りして追いかけちゃおうぜ」

 和紀が全員に振り返って提案した。

「いや。それは道交法違反だろ」

 すかさず舞朝が否定する。お巡りさんにはもちろん、生活指導の教師や風紀委員などの、清隆学園で風紀を守らせる側に見つかっても怒られること確実だ。

「でも、追いつくのは難しいかと」

 愛姫が微笑みを微妙に困り顔に変化させて言った。

「校門から見えなくなったら大丈夫だと思うがね」

「大丈夫なんだぞ地球人。いざとなったら上空の円盤へ避難すればいいんだからな」

 直巳とカインも二人乗りには賛成のようだ。ただ円盤とやらが便利に使えるのなら、先に行って五郎八を捕まえていて欲しいと思ったのは舞朝だけなのだろうか。

 夕暮れの空を圧倒するように降下してくる謎の円盤。機械的な表面のあちこちは定期的にランプが明滅し、見上げる黒髪の少女はその迫力に足を止める。円盤の底面以外に、頭の上には何も存在しないほどの巨大さだ。そして円盤の中心から虹色の光が少女に向けられて発射されると、少女の体は宙に浮き、円盤内部へ…。って安物のSFドラマですら使わなくなったアブダクションシチュエーションを想像してしまった舞朝。

「ここに乗せろよ」

 歩き出しながら和紀が荷物を縛ってある後部荷台を指差した。

「えっと」

 優輝はとまどったように自分のバッグを握りしめる。

「大丈夫だって」

 半ば強引に彼の荷物を自分の荷物の上に重ねて、和紀は晴れやかな笑顔を向けた。それが眩しかったわけではないだろうが、優輝は表情を学帽の下に隠して礼を口にした。

「あの。すまないね」

「二人乗りするときは、俺の荷物の上に座っちゃって大丈夫だから」

「ちょっと待つんだぞ」

 シーツの下からカインが出てきて、和紀を指差した。

「そうするとナナがナオミの自転車の後ろに乗るのか?」

「そうじゃねえの?」

「それは無理があるのでは?」

 横から愛姫が口を挟んだ。

「ナナさんは、そのお姿ですから」

「?」

 キョトンとする和紀に、説明不足だったと悟った愛姫が言い直した。

「ナナさんのシーツが前田さんの自転車だと、ギヤに絡まってしまうのでは?」

「そうかな」

 和紀は叶のシーツと直巳のマウンテンバイクを見比べた。たしかに駆動部が剥き出しのマウンテンバイクでは、色んな物を巻き込んでしまいそうだ。かといって和紀の自転車も構造的には同じで、ギヤもチェーンも剥き出しであったりする。

 校内だというのに堂々と私服の直巳は、スキニーシルエットのジーンズを履いているから問題はない。制服姿である和紀はズボンクリップで裾を留めているぐらいだ。叶のシーツならばあっという間にチェーンに絡み取られてしまうだろう。

「じゃ、どする?」

「致し方ありません。本当はマーサさんの後ろは譲りたくないのですが、わたくしが前田さんの後ろに、ナナさんがマーサさんの後ろにというのはどうでしょう」

 それぞれがお互いの自転車を見比べて、愛姫の提案を確認した。たしかにそれが一番であるようだ。

 自転車を押したまま桜並木を折れて、ポプラ並木とは別の、雑木林の方へのびる道へ足を向ける。各駅停車しか停まらないが歩いて一番近い私鉄の駅は、そちらから大学の敷地を掠めて行った方が近道なのだ。

 周囲を見まわすと同じように下校中の清隆の生徒がチラホラいる。中にはカップルなのか、男女で一台の自転車に跨って走り去っていく二人組がいたりした。

「ここらへんでいかがでしょうか?」

 愛姫が直巳を振り返った。

「ん、まあ」

 ちょっと残念そうな顔を隠さずに直巳がマウンテンバイクを傾けた。後部荷台に横座りに愛姫が腰かけると、テコの原理で車体を起こして他の自転車を待つ。ママチャリの荷台にも叶が横座りに座り、サドルに座る舞朝の腰にカインが抱きついた。

「こんな場合なので、女性に抱きつくことを許してほしいんだぞ」

 カインが言い訳のようなことを言っていた。

 優輝は和紀の荷物の上に重ねた自分のバッグのさらに上に尻をおろした。

「よし、じゃあ急ぐか」

 和紀は他の二台を無視するような勢いで走り出した。

「ちょ、速いって」

 安物のママチャリに変速ギヤなどついているわけがない。仲間内で最軽量だとはいえ叶だって高校生なのだから、それなりに質量はある。

「いいか?」

 座り心地が悪いのか、荷台の上で動いていた愛姫に、直巳が声をかけた。

「はい、お願いします」

 他人を考えないスピードで走る和紀に追いつくには、こちらもそれなりに速度を出さなければならない。直巳がペダルをこぎ出すと、ドンドンと町並みが流れ始めた。自然と車体の挙動が大きくなるので、後ろに乗る方も大変だ。

「前田さん…」

 愛姫がとっても冷たい声を漏らした。

「変なことを考えていません?」

「そ、そんなこと、あるか!」

 直巳が少々裏返った声を上げた。マウンテンバイクの荷台はオフロード走行の時に邪魔とならないように小さめにできている。そこに大人の女性とほぼ同じサイズの愛姫が腰かけているのだから、運転者の直巳とはピッタリと体が密着することになった。そして愛姫は『学園のマドンナ』候補になるぐらいだから、体のラインが人よりもはっきりとしていた。特に胸のあたりが顕著に。

 そんな神経戦が最後尾のマウンテンバイクで繰り広げられているとは露知らず、和紀はロードレーサーの速度を落とし始めた。

「おー、どっちだ?」

「道知らないなら、先に行くな」

 早くも息が切れ始めている舞朝が文句を言う。彼女の腹部からカインが手をのばした。

「このまま道なりなんだぞ」

「道なりねえ」

 片手で学帽を押さえている優輝が辺りを見て感想を漏らす。もとは農地だった場所を宅地化したためか、斜めに交差する道がやけに多い。交差点に来る度に、いちおう同じ太さの道を選ぶのだが、道なりというには甚だ頼りない判断基準だ。

 だが、どうやら道を違えることは無かったようだ。前方に広い空間が見えてきた。道はそこで公民館行きのバス路線が通っている幅が広めの道と直交しているのだ。道には交差点へ向かって歩いている道着姿の背姿がある。下校時まで同じ服装で、あの長い黒髪であるから、間違いなく五郎八である。

「?」

 五郎八は一人で歩いていなかった。その横に通学バッグと部活の道具を持った女子がおり、さかんに話しかけているようなのだ。

「あれは、バニーさんか」

 並んだロードレーサーから和紀が舞朝に訊ねた。彼女も自信があったわけではないが、とりあえずうなずいておく。

「おーい。イロハ!」

 声をかけてからハンドルのブレーキレバーを握りこむ。耳をつんざくような軋むブレーキ音とともにママチャリが五郎八の横に停車した。

「お、マーサじゃん」

 五郎八より先にウサギ改めバニーが、二人の横に停まった自転車に反応した。

「イロハ、本当に辞めちゃうのか?」

 半ば同級生を無視して、道着姿が似合っている五郎八に話しかける。

「ずっと天文部だったじゃないか」

「それがしは続けるつもりはないと申したであろう」

「ああ、それでさがしてたのかあ」

 どうやらこの同級生は、舞朝が彼女を捜していると渡り廊下で聞いたのを憶えており、帰り道で偶然五郎八を見かけて、おせっかいにも声をかけて引き留めていてくれたようだ。

「また、なんで天文部辞めちゃうの?」

「今年の春は運動部女子がいいのだ」

 当然の質問に、五郎八は同じ返答をした。

「イロハさんは雑誌の運動会系推し特集に感化されたようですよ」

「『運動会系女子推し特集』?」

「そのとおりだ」

 聞き返した彼女に、五郎八はうなずき返した。

「そういえばボクも読んだよ」

 クラスで情報の押し売りをしてくる同級生も、そういう雑誌は読んでいるようだ。ちょっと青空を見上げながら思い出してくれた。

「今年の春は運動部に入って汗を流した方がいいってやつだ。コレってみんなでソフトボールをやろうってことじゃないかな」

 強引に部活の勧誘を混ぜてくることから、今年の女子ソフトは新入部員があまり集まっていないことが察せられた。

「キミもソフトボールやらない?」

「遠慮する」

 五郎八はプイッと反対側へ顔をそむけた。

「どこか決めたところがあるのか?」

 舞朝は不安になって確認した。

「いや。だが、いずれ決める」

 これで話し合いは終わりとばかりに、五郎八は歩き出した。

「イロハ! 明日も天文部で待ってるからな」

 量だけはある黒髪に隠された背中に向かって舞朝は声をかけた。

 五郎八は半分だけ振り返ると、バス通りにある横断歩道用の信号機の押しボタンへ向けて一回指を鳴らした。

「?」

 和紀が訝しむ間もなく、ボタンの表示が「横断者は押してください」から「しばらくお待ち下さい」に切り替わった。五郎八の手とボタンには二メートル程離れていたが、誰も操作せずに作動したことになる。

「を? をを?」

 見る間に和紀の目が丸くなった。

「わ、すごいね」

 彼女も見るのが初めてなのか、和紀の横で目を丸くしていた。

「水を差すようで申し訳ないが」

 咳払いをしながら直巳が上空を指差して言った。

「車両感知式の信号ならば、感知器の下に立つことで誰にでもできるトリックだぞ」

 たしかに直巳のネタばらしのように、道路の上に張り出した感知器の下に立てば、人だろうが車両だろうが検知して、押しボタンが自動的に切り替わるのだ。しかし純粋な(あるいは単純な)二人は五郎八の(本当の)離れ業に感動した声を上げた。

「すげーよ、イロハ!」

「まるで『超能力者』だね」

「馴れ馴れしく呼ぶでない」

 冷たく半分振り返った五郎八は、黒髪の下から何者も恨んでいる目で言った。

「それに、それがしは『もののふ』であって、そなたの申した『ちょうのうりょくしゃ』などではない」

「いや、すげーってイロハ」

 睨み付けられても、それがどこ吹く風といった調子で、和紀はキラキラした目を向けた。

「うっ」

 その小学生のような目に一瞬たじろいだ五郎八は、丁度信号が切り替わったのを見て、背中を向けた。

「さ、さらばだ!」

 そのまま脱兎のごとく駅に向かって走り去っていく。小さくなっていく道着姿を見送って、和紀は不思議そうに舞朝に振り返った。

「どうしたんだ? あいつ?」

「たぶん…」

 溜息混じりで舞朝は答えることにした。

「素直に自分の力を信じてくれることに、慣れてないんじゃないか?」

「そういうものか?」

 和紀は再び五郎八の背中を捜したが、もう街角を曲がったのか、視界には入らなかった。




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