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オペレーション・コード;エルフ  作者: 池田 和美
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回想・②



 窓の外には健康的な陽差しが降り注いでいた。

 贅沢なことに個室の病室からは、緑の葉が重なってまるでフェルト地の布が敷き詰めてあるかのように見える庭を、一望することができた。

 その中で一層目立つアクセサリーのような桃色の点は、散歩に出た入院患者の誰かであろう。

 悪夢のような一週間を生き延びた渚優輝は、気怠くそれを見おろしていた。

 小学生のくせに生意気な態度だと思う者もいるかもしれないが、体中で発生している炎症と、それに対して処方された薬の副作用と、二つの理由がちゃんとあった。

 爆発の火炎にさらされた肌は(当たり前のことだが)火傷を負っていた。

 そのせいで優輝は、まるで古いマンガに出てくるようなミイラ男のように、全身が包帯でグルグル巻きにされていた。

 人間は全身の二割の部分を超える火傷をすると重症化し、それが五割を超えると死に至ると言われている。だが優輝はそのほとんどが軽い物であったため、見た目は大袈裟だがそんなに深刻ではないらしい。

 妙に愛想のいい看護師が話したところによると、彼の大袈裟な包帯は治療のために捲かれたというよりも、治りかけで感じる痒みで患部を掻いてしまうことの防止という役割の方が大きいらしい。

 そういったわけで今の彼を見て最初に受ける印象は杞憂にすぎない。それよりも深刻なのは頭部へ繰り返された打撃の方であった。

 バットや散弾銃の柄という硬い物で殴られた結果、全身に麻痺症状が見られた。最悪、脳内に打撃による血腫が発生しており、一生起き上がることの出来ない後遺症が出るかもしれなかった。

 レントゲンから核磁気共鳴画像装置まで、体内を透視する機械で頭部を精密検査することになった。

 いまのところ、どの検査でも異常は発見されていなかった。これからそういった症状が発生する兆候も見られない。

 もしかするとヒビすら入っていなかった石頭が脳を守ったのかもしれない。

 ただ残念なことに、頭部には醜い傷が残ることになりそうだ。

 殴られた箇所には、まるでズボンに当てる継ぎのように大きめのガーゼが貼られていた。いまだに、そこから脳みそが流れ出ていくような感覚がある。が、もちろんそれは錯覚で、患部からはジクジクと血液と体液がまざった物がしみ出している程度だ。

 体の方はそれ以外、健康と診断されていた。

 麻痺があるとはいえ、右手一本で食事をすることも可能であったし、呂律が回らない酔っぱらい程度の言語障害はあるが、会話もできた。

 体の方はそれですんだが、心の方には頭部よりも深い傷がつけられていた。

 ペットロス症候群という物がある。飼っているペットが何らかの理由で死亡した場合に飼い主に起きることのある精神疾患の一種だ。

 犬や猫などの死ですら人の心をかき乱すというのに、ましてや優輝の場合は家族を一気に失ったのだ。

 悪夢を見て飛び起きるなど序の口で、昼間に一人で居ると家族の声を聞くことがしばしあった。

 かつて帰宅すれば当たり前のように繰り返されていた団らん。その日常が耳の奥に残っているのだ。

 玄関を開ける音。靴を脱ぎ居間に顔を出すと出迎えてくれる母の「おかえりなさい」の声。小さな事でも涙を流す弟の泣き声。夕方になって背広で帰ってくる父の「ただいま」の声。それだけではない、母が食器を洗っている雑音や、弟が絵を描く時のクレヨンが画用紙に擦れる音。

「おまえもしねええ!!」

 決まって最後は、父の最期の叫び声でかき消されるのだ。

 そして優輝は両耳を手で塞ぐ。だが耳の奥に残った音がそれで聞こえなくなることはない。

 時たま自分で体を掻きむしりたくなる。それをグルグル巻きの包帯が邪魔をする。たしかにミイラ男のような外見には効き目があった。

 そうした症状から病院側もなるべく優輝を一人にしないように、細かく看護師が巡回に訪れるように配慮されていた。

 いまはその看護師はいなかったが、かわりに別の人物が病室を訪れていた。

 ベッドの脇に置いた丸椅子に腰かけているのは、年老いている女性だった。背は高からず低からず、それでいて贅肉を一切省いたような体型であった。

 強い意思を感じさせる眼差しで、ベッドに上体を起こしている優輝を射ると、彼が意識を取り戻してから毎日一回は口にする言葉を、年の割にはハキハキとした発音で漏らした。

「まったく、だから結婚なんか反対したのです」

 そして優輝にちゃんと聞いているのかと問いただすような眼光を向ける。

 視線を窓の外にやっていた優輝は、かしこまって相手の顔を見た。

 厳めしいほど刻みつけられた皺が、彼女の重ねてきた年月を物語っているようだった。

 内容はもう何度も彼女から聞かされている、優輝の両親が結婚するときに反対したという話しだ。

 この話し自体は初めて聞かされる物でもない。父の実家へ遊びに行ったときに、両親から見えないところで、弟と一緒に何度も繰り言のように耳に入れられたからだ。

(きっとこの先も、何度も何度も聞かされるんだろうなぁ)

 漠然と優輝が思ったことは後に真実となる。

 この見舞いに来ている割に、入院患者へ癒しどころかプレッシャーを与えているのが、父方の祖母であった。

「あんな家のこともろくに出来ない女など娶るから」

 どうやら今回の事件は息子のせいではなく、家の中をちゃんとしていなかった嫁にあると言いたいらしい。

(そんな、きょーいくほうしんだから、パパはおかしくなっちゃったんじゃないかなあ)

 テレビから仕入れた言葉を頭の中で組み合わせて優輝は、家族の間で野間のおばあちゃんで通っていた祖母をベッドから見上げた。

 東京のような都会では、報道機関が報道しきれないほどの事件や事故が起きる。空き巣や詐欺、交通事故など毎日違った話題があり飽きないほどだ。

 もちろんその中には殺人事件や死傷事故も含まれるのだが、都会人には娯楽の延長線上にあるものだ。

 そして、ある日自分の身に事件事故が降りかかり、昨日まではテレビ画面の向こうにあった出来事を前に「こんなはずでは」と現実に打ちのめされるのだ。

 まったく想像力の欠如というのは恐ろしいが、都会人には必要な能力だった。そうでないと大都会では生きていくことができない。

 対して優輝が暮らしていた土地では、そんなことはなかった。

 人が死ぬ事なんて、おおよそ寿命と決まっていた町なのだ。

 そんな平和な土地で、自分の家族だけでなく警察官までを殺傷する事件というのは、とてもセンセーショナルなことだった。

 病院で優輝が意識を取り戻すと、連絡を受けてやってきた父方の祖母は、小学生相手に愚痴を零すように告げた。

「おまえには、私以外の保護者はいませんから」

 ここに来たのも、唯一の保護者である私の義務であるからという態度を少しも隠さなかった。

 そういう父方の祖母を表現するなら「直線で描ける女」であった。

 女性ならばふくよかな曲線だけで似顔絵などが描けるものだが、彼女には当てはまらなかった。いつも厳めしい顔つきをしていて、背筋など鉄骨が入っていると思われるほど真っ直ぐだった。

 どんな時でも自分を高めることを忘れずに切磋琢磨し、曲がったことが大嫌い。

 去年の夏休みの宿題に、絵日記を書いてくるという宿題があった。

 弟と並んでその課題に、父の実家へ帰省したことを書いたときも、定規で引いた線で似顔絵が描けたほどだ。

 世の中に必要なのは四角四面の秩序である。

 それが優輝の祖母、野間のおばあちゃんの信念だった。

 秩序こそが人間の正しい道だと信じて疑わない彼女は、どこまでも真っ直ぐな人間であった。

 こうしてベッドの脇に座っていてもピンとしたままだし、動作の一つ一つまでもまるで見えないレールの上を滑る機械のようであった。

 優輝の父を出産するまで、地元の誰もが知る進学校において教鞭を執っていたという経歴を聞くと、誰もが納得できる女性であった。

 そんな彼女であるから、息子の結婚相手も「家柄」などという奴に拘って決めようとしていた。

 だが東京の大学に進学した息子は、そこで出身地は近いが、どこの馬の骨と判らない女と恋愛結婚をした。

 もちろん彼女は反対したが、すでに息子が選んだ女の胎内には、後に優輝と名付けられる新しい生命が宿っていた。

 彼女が嫁に対する最初の感想は、自分の息子は真っ直ぐ育っていたのに、それをねじ曲げた女というものであった。

 もちろん反対はした。

 しかし彼女の孫にあたる生命を宿しているという強みで結婚は二人に押し切られてしまった。

 教育者として堕胎させるという選択は思いつきもしなかった。

 そういったこともあって、彼女が優輝個人に抱いている印象も、けっしてよくない物だった。歯に衣を着せないでよいなら「お前さえいなければよかった」と言わんばかりだ。

 それならば、この事件を機会に放り出してしまえば、永久に縁を切ることも可能であろう。

 しかし彼女のプライドがそれを許さなかった。

 ここで優輝を放り出せば、自動的に彼の母方の実家となる柴田の家に引き取られることになる。

 それだけはなんとしても妨害しなければならない。

 たしかに世間一般で言われているように、家柄ではこの地方で渚の家は片手で数える内に入るような名家であったが、私生活は恵まれたものではなかった。

 彼女の兄弟はすべて不幸な事故や病によって幼い内に他界。唯一生き残った彼女へ一族の期待がかけられた。

 いずれ婿をとり家に入ることが判っていても、全てのことに妥協は許されなかったし、また彼女自身でも自分の甘えを一切許さなかった。

 小学校から大学まで、並みいる男子と首席を争う位置に成績をいつも保持し、また運動などでも負けないように頑張っていった。

 地元の会社への就職よりも教師を選んだのは、後々に広い人脈を得るためだった。

 一事が万事そんな調子であったから、結婚相手は自分で決めることも相成らず、周囲が見つけてきた男を婿入りさせることとなった。

 夫となった男は、周囲からは真面目で仕事が出来て、さらに釣り合いが取れるくらい家柄もよいとされていた人物であった。

 しかし一緒に住むようになって男の金メッキは三日で剥がれた。

 趣味人と言えば当たり障りのない言い方であるが、彼女からしてみればまったく理解できない浪費を繰り返すだけであった。一言注意をしようものなら古い男にありがちな暴力によって解決しようとした。

 二一世紀の現代ならばDVとされても不思議ではない私生活であった。

 家柄で結婚した妻に愛情を感じることも少ないのか、息子が成長してからは囲った愛人のマンションで生活する始末。

 そんな家庭であったから、いきおい彼女の期待は一人息子たる優輝の父親にかけられていた。

 その息子が見つけてきた百姓娘。町を歩いているときならば鼻にもかけない女のはずである。

 しかし何事にも完璧だったはずの彼女にも敵わないものを、息子の嫁は持っていた。

 それは普通の女では当たり前の、感情豊かで、横に居てくれると幸せを感じさせる、優しい家庭的な雰囲気であったりした。

 一言に纏めれば「人間らしさ」という物だった。

 嫁の実家も年収はそれほどでもなかったが、みすぼらしいほどの貧しさでもなく、なによりも家族同士の仲が良かった。

 夫婦は互いに理解し合い子のことを愛していた。子は親に孝行を重ねる。家に縛られてきた彼女が求めることすら許されなかった、平凡な幸せというものを持っていた。

 婚前に妊娠させての結婚であるから、どちらかというと負い目を感じる側である男の実母という立場だけでなく、はじめて両家の顔合わせをした時に感じた眩しさほど、彼女を打ち据えたものは無かった。

 よって彼女は、嫁の実家である柴田家の人間とは、関わらないようにしていた。

 今回、優輝の病室が個室である理由は、面会謝絶にするためであった。

 それは好奇心に溢れているため思慮のある配慮という物を無くしている記者どもから優輝を守るためというより、自分には持っていないものを溢れるほど持っている柴田の人間が優輝と接触することを妨げるためであった。

 病院の院長どころか、勤務している医師や看護師の大半が、本人だけでなくその子弟すら教え子という、絶対的権力を持っていたからこそできる業であった。

 ただ単純な嫉妬だけではない。これは自分の息子を奪った女への復讐でもあった。

「とりあえず優輝は体を治しなさい」

 それを為すのが義務であるから実行するようにという命令口調で、祖母は優輝に言った。

(これから、どうなるんだろう)

 祖母から視線を外し、ありきたりな天井を見上げる。

 今までは父や母という緩衝剤があった祖母との関係だが、もうそれは失われた。世間的に見ても、家族を失った子を父親の実家が引き取ることが普通であろう。ということは、これから優輝は、彼女と家族として暮らしていくことになる。

 優輝には、うまくやっていける自信が全くなかった。

「おまえの父親が使っていた部屋があるので、退院後はそこに暮らすのです」

 戸惑っている理由を誤解したのか、祖母はこれからの話しをはじめた。

「服やなにやらは、おいおい買って揃えて行けばよいでしょう」

 その言葉で優輝にはもう何も残されていないことが実感できた。

 家族四人で笑いあったあの居間も、毎日床についていた子供部屋も、何度も読んでいたお気に入りのマンガすら失われてしまったのだ。

 すべて父親が持っていってしまったのだ、母親や弟と一緒に。

「学校は転校しましょう」

 規定事項のように告げる。

 優輝が目を丸くしていると、質問が口に出る前に祖母は答えた。

「もとより公立学校でなく、私が勤めていた学院の附属小学校に通わせるつもりだったのです」

「それだけ?」

 包帯グルグル巻きのせいだけでなく、うまく動かない顎の関節を使って訊ねると、祖母にはめずらしく躊躇するような態度が見られた。

 少しの間だけ優輝から目を逸らしたが、強い眼光を瞬き一つで取り戻し、先程まで以上の視線で優輝の目を見た。

「おまえは何歳になる」

「九歳です」

「そうですか。ちょっと早いかもしれないが教えておきましょう」

 祖母は一回口を閉じ、少しだけ感情のような物を言葉に混ぜた。

「おまえはこうして入院治療しなければならない怪我を負った被害者でもあるけど、同時に加害者の息子でもあるのです。ここまでは判りましたか?」

「はい」

 返事は明瞭にしないと野間のおばあちゃんが怒ることを知っていた。

「同じ血を分けた者ならば、同じような性質を持っていると考える風潮がこの国にはあるのです。ことわざで言うならば蛙の子は蛙」

(カエルの子はオタマジャクシじゃないのかな)

 そんなことを口にしたら怒り出すのを知っていたので、優輝は思ったことを口にしないで、ただうなずいてみせた。

「つまり今回のことを受け、次はおまえが何か事件をしでかすと周囲の人間は考えるでしょう」

「でも、友だちもいるし」

 忘れてはいけない、優輝は事件が起きるまでは普通の小学生だったのだ。もちろん彼にも気の置けない友だちがもちろんいて、秘密基地ゴッコなんかして遊んでいたのだ。

 優輝にはあの子たちが自分に冷たい態度を取ることを想像できなかった。

「その子自身は気にしないかもしれませんが、その子の親はどう考えるでしょうね」

「…」

 祖母に指摘されて優輝は言葉を詰まらせた。たしかに子供同士ならば垣根は低いかもしれないが、大人たちはどうだろう。

「あの子と遊んじゃいけません」

 そう誰かの母親が口にしている様子が容易に想像できた。

 きっと今頃、クラスメイトの家庭では、その言葉が実際に使われているだろう。

(ここを退院して小学校に戻っても、おそらく波のない海辺のような静けさが出迎えるのかもしれない。渚だけに)

 自分で自分の苗字を使った駄洒落で慰めてみる。

 全然笑えなかった。

「同じ冷たくされるならば、知らない人間の方が楽だということです」

 人生経験積んだ者にしか語れない言葉で祖母は言い切った。

 たしかに昨日まで仲良しだった子らに、明日から声をかけても無視されるようになったら辛いかもしれない。同じ無視されるなら全然知らない子の方が楽かもしれない。

 喩えそれが一〇トンの重さと、一〇トンと一ミリグラムの重さとの違い程度だとしても、だ。



 こうして優輝は転校を決意した。

 転校までに片付けなければいけない問題は、とりあえず一つだけだった。

 自分自身の体調である。

 火傷の方は一月もせずに痒みがなくなった。背中の一部にシミのような模様が残ったらしいが、自分の視界に入らないので気にならなかった。

 麻痺の方は繰り返された打撃の後遺症といったものだった。

 最初は右手一本しか動かなかったが、じきに左手も動くようになった。それから病院でリハビリが始まった。

 ただ歩くという行為がこんなに大変な事だったのだと思い知らされた一ヶ月だった。

 歩行訓練でかつての自分を取り戻すと、自然と言葉や表情なども取り戻すことができた。

 ただ暗闇に一人で居ると聞こえてくる、家族の声は消えることはなかった。

 元気を取り戻した頃。厳つい体に背広を着た男の人たちが優輝を訊ねてきた。

 新聞記者ならば病院側が追い返すところだが、彼らは刑事だった。いわゆる事情聴取という奴だ。

 その場には祖母も同席した。それは不躾な質問から優輝を守るためというよりも、彼が下手なことを言って家の名誉に傷をつけないように監視することが目的だった。

 事情聴取が始まる前に彼女は優輝に言った。

「おまえはまだ小学生なのだから、難しいことは言わずに『よく憶えていません』と答えるのですよ」

 たしかにそれは便利な言葉だった。

 優輝自身が本当に憶えていないときにも使えたし、父が女の人を殺した様子は一部始終を見てしまっていたが、その言葉で説明しなくて済んだ。

 それに、すでに捜査の方は進んでいたようで、優輝からは大した事を聞かなくても問題はなさそうだった。

「また話しを聞かせてもらうかもしれません」

 マニュアルに乗っているからそう言い残して刑事たちは帰って行ったが、それから彼らが優輝のところに現れることはなかった。

 病院で二ヶ月ほど暮らして、幻聴以外は治った頃。彼は退院して野間にある祖母の家に移った。


 通っていた小学校には、転校の挨拶にすら行けなかった。


 新しい小学校は祖母の家から比較的近いところにあった。

 歴史を遡ると、もともと地主だった優輝のご先祖さまが、東京の有名な先生がこの地方へ私学を開こうとしたときに、進んで寄付した土地だったらしい。

 公立の小学校と違い、こちらには制服が制定されていた。上衣はネズミ色の学ラン、下衣は同色の短パンである。

 優輝の部屋とされた和室で、隠しボタンとなっている学ランのボタンに苦労していると、支度の遅さに痺れを切らしたのか祖母が現れた。

「早くしなさい」

 急かしている口調ではなく、怒っている口調で支度を催促する。言外に「グズなのは、あの女の血が入っているから」という響きが込められていた。

 登下校には、公立小学校では一年生だけが被る黄色い帽子を着用することになる。

 頭部に醜い痕が残った優輝には有り難い校則だった。

 膝から下は真っ白いハイソックス、靴も学校が指定した革靴である。

 優輝のことを嫌っていても、さすがに小学生の転校初日である。送り出すのではなく一緒に行くために祖母も出かける用意をしていた。

 まるでこれから教壇に立つような、落ち着いた色調をした臙脂色のスーツだった。

 始業時間にはまだまだ早い時間であったが、主に彼女の性格のせいで出発することになった。

 道には、部活の朝練にでも向かうのではないかと思われる中学生と、背広を身につけた大人が駅へ向かって歩いていた。

 いくら地方のド田舎とはいえ、都市部へ通勤するサラリーマンぐらいは存在している。その大人たちもこれから長い時間列車に揺られて出勤するのだろう。

 彼らは大多数の無関係な通行人であるから、老女と子供の二人連れをジロジロと見る輩などいない。

 慣れた調子で祖母は少し前を行き、程なく二人は瀟洒な鋳物製の校門をくぐることになった。

 左手に校庭。右手には生き物を育てる授業にでも使うのか、田んぼと畑が数枚並び、その間をアスファルトで舗装された道が、箱形の鉄筋コンクリート製の校舎へ真っ直ぐ向かっていた。

 愛想のない箱形の校舎であったが、道の突き当たりにある生徒昇降口にだけ赤い瓦を葺いた洋館風の造りになっていた。

 観光地に建っているようなその壁面に取り付けられた電気時計が、まだ生徒が登校するには早い時間であると知らせていた。

 まだ所属するクラスも知らされていないので、二人は校舎に沿って反時計回りに移動し、長方形の校舎の短辺にあたる位置に開いている職員昇降口に回った。

 開けっ放しのガラス扉を抜けるとカウンターが設置されており、その向こうで何やら今日の準備に取りかかっていたらしい事務員が、顔にかけた眼鏡に手をあてた。

 どうやらその事務員は目が悪いらしくて、職員昇降口から入ってきた人物が何者か判らなかったようだ。

 ただ毎朝に挨拶を交わしているどの人物とも違うらしいと気がついて、閉めていたカウンター上のガラスを開いた。

「ややや」

 中年のその男は、容姿に似合った枯れた声をしていた。

「これはこれは先生」

 事務員は先生と呼んだ。祖母は高校教師だったはずで、小学校の教壇に立ったことはないはずである。

 つまり彼女の威光がこんなところにも届いているということだ。

「お早いお着きで」

 そう声をかけると顔を引っ込め、脇の扉から廊下へ出てくる。

「まだ担任どころか、校長も上がっていませんよ」

「そうですか」

 家で暮らしているときと同じ態度で、祖母は背筋の真っ直ぐとした受け答えをした。

(まったく変わらないんだ)

 祖母の態度に優輝は感心した。

 先程まで低めの声で子供を叱りつけていた女性が、電話に出るときに一オクターブは声の音階が上げるなんていうのは当たり前だと思っていた。なにせ自分の母親が、そういった使い分けをしていたのを目の当たりにしたことがあるのだ。優輝はそういう風に、女の人は内と外では違う物だと認識していた。

 それが祖母にはまったく当てはまらないらしい。

 優輝はちょっと想像してみた。

(やだあ、アタシぃちょっと早く来すぎちゃった? テヘペロ~)

「なにをしているのです」

 胸元に込み上げてきた何かを、握りつぶすように右手を当てていた優輝に、祖母の冷たい感情がこもった声がかけられた。

 想像の中でケーキ屋のマスコットのように舌を出していた祖母は、現実にそんなことはなく(当たり前だ)事務員に招かれるままに室内への扉をくぐろうとしていた。

 半身だけ振り返って、慣れない環境に戸惑っているように見える優輝の足が踏み出すのを待っている。

「いま行きます」

 優輝は手早く上履きを靴袋から取りだし、履き替えて祖母の背中を追った。

 事務員は二人に身振りで応接セットを示すと、お茶を用意するために部屋の端にある流しへ歩いていった。

 祖母は真っ直ぐとソファに腰をおろした。

 優輝もその隣に間を取って座る。

「なんにもございませんが」

 事務員が祖母の前にお茶を置き、おなじ湯飲みに水だけを入れて優輝の前に置いた。小学生が口にするような甘い飲み物の準備は無いのだろう。

 一礼して謝意を伝える。喉は特に渇いていなかったが、祖母の真似をして一口だけ唇を湿らせる。

「いつもはこの時間においでになるのですがねえ。遅いですねえ校長」

 向かいに座った事務員も尻の据わりが悪いように、事務室のカウンター越しに教職員昇降口を何度も見た。

 優輝は横目で祖母を観察した。

 さすが育児のために退職するまで、教壇に立っていたことがある人物だ。こうして学校に居るだけで威厳と存在感が三倍は増している。

 威厳のある先生に居座られては、この事務員も落ち着かないであろう。

「あ」

 事務員が浮ついた腰を上げ、素早く扉から出ていった。カウンター越しに話し声が聞こえてくる。

 すぐに帰ってきた事務員は恰幅のいい男性と一緒だった。

 それを視界に入れた途端に、予備動作なしで祖母が立ち上がった。一秒の間もなく優輝を見おろすと、厳しい声をかける。

「立ちなさい。失礼ですよ」

 言われなくてもそうしようとしていたところだが、出遅れた事は事実だ。

「おはようございます。先生」

 男性の方が先に祖母へ挨拶をした。

「おはようございます」

 挨拶を交わすというより、軍隊においての答礼のような感じで祖母が挨拶を返した。

「お、おはようございます」

 今度は祖母に注意されないように、丁寧に頭を下げて優輝は挨拶をした。

「これ、帽子をとりなさい」

 どうやっても祖母の目には不出来な孫に映るらしい。しかし帽子を脱がなかったのは相手を敬っていないからでなく、別の理由があったからだ。

「いいんですよ、先生」

 恰幅のいい男性は柔和な笑顔で手を振って優輝を許し、また彼の視線と同じ高さになるようにわざわざしゃがんで微笑んだ。

「この学校の校長の山下です。優輝くんだったね。よろしく」

「よ、よろしくおねがいします」

 再び最敬礼。

「君は五組に転入することになる。担任の先生は丹波(たんば)蓉子(ようこ)先生といって優しい先生だから」

「は、はい」

 口で答えながら優輝は別のことを考えていた。

(五組なんかあるんだ)

 優輝が通っていた公立小学校は各学年三組までしかなかった。学区はそれなりに広いのだが、少子化の波がこの地方にも、いや地方だからこそ押し寄せていた。

 子育てをする世代が魅力的と感じる要素が「自然豊か」以外に存在しないが故の人口流出だった。かといって地方自治体がそれを防ぐための行政を行っているかといえば疑問符がつく。そういった所は、権力がある年寄りに便利がいいように町を変えることには前向きなのだが、育児の大変さを知らない男社会で構成されているから、子育てに関することは後回しになるばかりだ。

 過疎は若者を奪う都会が悪い。そういうフレーズが当たり前のように横行しているが、過疎する側に問題があるものなのだ。

 そんな少子化や過疎化にも負けず、さすがに進学校の附属小学校という看板は児童を集める力となるらしい。あとで知ることになるが、この学校には各学年八組まで存在した。

「まあ、そんなに力を入れなくても大丈夫ですよ」

 児童を扱い慣れている故の柔和な笑みで山下校長はソファをすすめた。

「丹波先生も、もうすぐ上がられると思いますよ」

 祖母にもソファをすすめながら自ら反対側の席へ腰をおろした。

「校長先生」

 遠慮気味にその背後から事務員が声をかけた。

「わっちは朝の準備がありますもんで」

「ええ。お願いしますね」

 半分だけ振り返った山下校長が軽くうなずいた。

「ええ、それでは先生」

 ペコペコと事務員は頭を何度も下げながら隣の部屋へと出て行った。

「優輝くんの学習レベルですが…」

 山下校長は事務員が部屋を出て行ったことを確認してから祖母を振り返った。

「いちおう家で見てみましたが」

 優輝は祖母にやらされたプリントを思い出した。国語、算数、生活、そして英語まであった。そのどれもが公立小学校ではまだ習わないレベルであったため、採点をした祖母自身が痛みを感じたような顔になった。

 そして今も同じようにどこか痛むような顔で目を伏せた。

「他でもない先生のお孫さんですから、こちらとしては補習プリントなどで対応させていただくつもりでございますが」

 山下校長が変なところで言葉を切った。

 突然やって来た沈黙と一緒にちょっと戸惑ったような、それでいて意思のある視線を祖母へ送ってくる。

 その程度で曲がる祖母ではない。なにしろ直線で描ける女なのだ。

「大丈夫です。家で私自身が足りない分の学習を見ますから」

 山下校長の挑戦的な視線に対して、真っ直ぐと見据えるどころか一〇〇パーセント反射するような表情ではっきりと答えた。

「そこのところよろしくお願いします」

 優輝がこちらの小学校へ編入するにあたって、試験などなにも受けはしなかった。ただ祖母が用意した通学セットが、全てリストのとおり揃っているのかを確認したのが唯一の仕事だった。

 普通ならば学力試験と保護者に対する面接試験を合格しなければならないのだ。それを無試験というだけで祖母がどのような横車を押したのか想像できた。

 ただ授業について来られないようなら退学させると山下校長は言外に言っているのだ。

「校長先生」

 入り口が少なめに開けられると、先程の事務員の声が差し込まれるように聞こえてきた。

 柔和な微笑みのまま優輝にプレッシャーを与えていた校長は、いま目覚めたというように雰囲気を変えると、廊下へと続く扉へ振り返った。

「ささ、どうぞ」

 やけに低い腰で事務員が、廊下の誰かと話しながら扉を開いたところだった。彼の案内で若い女教師が入室してきた。

 身長は祖母と同じくらいで、体型も痩せ形であった。それはどこか病気でもしているのではないかと思えるほどで、無理に作った感ありありの微笑みには頬骨が浮き出ていた。

 ただ小学校の教師らしくなく、目は全然笑っていなかった。それよりも口の端や瞼、頬のアチコチなどがピクピクと痙攣している方が目立つ女であった。

 どうやらその部分痙攣は緊張だけでなく、彼女が神経質であるかららしい。新しい登場人物を出迎えるため立った優輝の足元を見て、なにか言いたそうに眉が動いた。なにか失敗をしたかと思ったが、いまは視線を外す事の方が、問題が大きくすると思って、後で確認することにした。

「お、おはようございます」

 まるで喉の風邪をひいたような嗄れた声であった。

「おはよう」

 こちらは柔和な微笑みが変わらない校長が答礼する。彼も立ち上がって、女の横へ移動した。

「こちらが優輝くんの担任となる丹波先生です」

「そうですか」

 若造には下げる頭が無いとばかりの祖母は、立ち上がるどころか挨拶すらしなかった。

「こちらが優輝くん」

「よろしくね」

 緊張だけでなく地声からして相当掠れているらしい丹波は、ぎこちなく作った笑顔を見せた。

「よ、よろしくお願いします」

 優輝は深々と最敬礼をした。挨拶ついでに自分の足元を確認する。

 上履きの踵を踏んづけているわけでもなく、膝小僧に変な物がついているわけでもない。制服の半ズボンを前後ろ逆に履いているという事もなさそうだ。

(もしかして)

 優輝が履いている白いソックスが、左右で別の高さになっていた。まさかとは思うが、あの顔のピクピク感からそうとう神経質な性格が伺えるので、あながち間違いでもなかろう。

「途中からで大変かもしれませんが、仲良くやっていきましょう」

 そう硬い微笑みで言われても優輝の方も作った笑顔で返すしかないではないか。

「さあさあ、まず座って」

 校長がぎこちない挨拶が終わったと見るや、丹波にも席を勧めた。丹波は一瞬だけだが、見下した態度を崩さない祖母へ鋭い視線を走らせたが、次の瞬間にはその表情を大気中へ霧散させ、校長の横へ着席した。

 大人が腰かけたのを確認してから優輝も元の席に戻った。

 冷め始めた茶器が置いてあるテーブルの下で靴下を直す。

「丹波先生は」

 祖母が真っ直ぐと相手を見て訊ねた。

「どこの出身ですか?」

「東京ですが」

 作り笑顔の下に色んな感情が見える答えであった。小学生の優輝ですら判ったのだから、祖母にはそれ以上の事が読み取れたに違いない。祖母は左眉だけピクリと動かすと、表情筋が動いてしまったことを恥じるように、ちょっとだけ早口になった。

「わたしが訊いたのは、どちらの大学かということです」

「丹波先生は…」

 横から校長が口を挟もうとした。それをレーザービームのような祖母の視線が迎撃した。

「わたしはW大学の教育学部の出身です」

 全国的に知られた大学名を出して、心なしか胸を張った。彼女にとってこれが一番の矜持らしい。

「大学を出たはいいけど就職先が無くて『でもしか』で教師になられては困ります」

 祖母の歯に衣着せぬ物言いに、丹波は目を見開き、校長は微笑みを渋い物に変更した。

 校長の顔に表れた皺の深さから、それは的を射た発言だったように思えた。

「まあ先生。若い教師を頭から否定なさっては」

 ポケットから取りだしたハンケチで額に浮いてきた冷や汗を拭いつつ、校長が取りなした。丹波の方はなにか言い返してやろうと思ったのか、口を何回か空振りさせていた。

 靴下をまだ気にしていたおかげで優輝は気がつくことができたが、校長の右脚がサッカーのアウトサイドキックばりに動いて、丹波の左足の甲側面を突いていた。

 校長の冷や汗混じりの取りなしで許す気になったのだろう、それ以上祖母は丹波を責めるような事は言わなかった。

(自分はいいかもしれないけど)

 優輝は大人たちがコミュニケーションを始めたのを聞き流しながら、自分の祖母の横顔を盗み見た。

(これから毎日顔を会わすボクの身になって欲しいな)

 ただでさえサツジンシャのムスコなのに、これでは第一印象が最悪である。それに学力だってプリントのレベルからして相当のオチコボレが決定済みなのだ。

(クラスのお荷物決定じゃないか)

 それというのも転校を決めた祖母のせいだ。

 果たしてどちらがよかったのだろうか?

 祖母に言われて転校を決意したが、やはりこうして会えなくなるとかつての友だちが恋しくなってくる。しかし、もうそれはできない。

 さすがの祖母も教室まで着いてくるとは言わなかった。

 始業時間が近づき、朝の職員会議前に祖母は学校を後にした。会議の間、優輝は一人で同じソファで待っていることになったが、それも長くは待たされることはなかった。

 祖母が帰った途端に笑顔が消えた丹波に率いられて廊下へ出た。

 まず児童昇降口へ案内され、自分の名前シールがすでに貼られていたスペースを確認させられた。場所は靴箱の列の一番はじっこ。履き替えた途端に外へ出やすいと見るか、廊下側からやってきた誰かにイタズラされにくいと見るか、優輝はいちおうプラスに考えることにした。

 さっそく朝に履いてきた学校指定の革靴を収める。かつて通っていた公立小学校と違って、校庭での運動靴を収めるために三段分の厚みがあった。

 これも学校指定だった運動靴もそこへ入れたが、隣の靴箱には学校指定じゃないスニーカが収められているのが目に入った。

 どうやら運動靴に関しては、あまり規制が厳しくないようだ。

 そして朝の会を始める前の、ハイテンションな騒ぎ声が、壁越しに廊下へ響いている校舎を歩く。

 階段を登った先にあったのは「四ノ五」と書かれた札が出ている教室だ。もちろんそこからも廊下へ小学生特有の高い喧噪が漏れていた。

 優輝が先生と教室に入ると、その賑やかしい雰囲気が、一気に墓の中まで急降下した。

 そのどの顔にも担任に対する面従腹背が浮かび上がっていた。どうやら祖母が一瞬にして下した評価は正しい物だったようだ。この女教師がどれだけの強権発動を繰り返し、このクラスで暴君として君臨しているのかが、それだけで判った。

 それから全員が、連行されてきた新しい囚人を迎える牢名主の顔で優輝を見た。

 しかも優輝が顔を向けると、男の子はあからさまに、女の子はさりげなく、目を合わせようとはしなかった。

 どうやら優輝の家族で起きたことは周知のことらしい。

 丹波が優輝に指定した席は、廊下側の一番後ろであった。

 そこへ辿り着くまでに、優輝を引っかけて転ばせようと差し出された足は、一本ではなかった




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