荘重な快速の奏鳴曲
始発電車というやつは夜明けに走り出すイメージがあった。
彼女も中学生まではそう思いこんでいた。だが理科の授業で習うとおり、日の出時刻は毎日変わる物だし、世界で一番発達した東京の鉄道網が、特段のトラブル無しに一分以上も発車時刻を違えることはないのだ。
もう少しで新学期というこの季節は、まだ冬と言っていいほどの身を切るような寒い風が都会を吹き抜けていく。日本の中心、そして地球に広がる人類の版図として拠点の一つであろう大都会新宿に、一日の乗降客数が日本一だという駅は建っていた。
地平線のあたりには、夜明けの先触れが白い光として生み出されているはずだが、高層建築とネオンの底にあたるアスファルトに届くわけもない。
そんな人工物の谷底を歩く少女、藤原由美子は肩に掛かるぐらいの長目の髪を風に散らして、紺色の制服の上に寒さ対策のダッフルコートを着込んでいた。
目鼻立ちは二目と見られない醜女といったら失礼なほど整っており、切れ長の目に強い意思を感じさせる光を宿していた。ただ鼻から頬にかけてまぶしたようにソバカスがかかっている点は、美しさにおいて減点だった。
今日の駅員は職務に真面目な者だったようで、由美子が隣の駅から歩いて着いたときには、もう駅のシャッターは開いていた。
なぜ彼女がこのような早朝に都心にいるかというと、なにも徹夜でオールナイトの映画を八本も九本もハシゴしていたわけではない。彼女の他に両親と弟という、四人家族で一緒に暮らす高層マンションがこちらにあり、来月から高校二年生という彼女は、これから自分の在籍する清隆学園高等部へ登校するのだ。
新宿駅まで歩いてきた理由は簡単である。山手線に合わせると学園最寄りの駅まで繋がっている私鉄の始発との接続がうまくいかないのだ。
もちろんこんな時期である。普通の生徒たちは春休みを満喫しているはずであり、学校で授業が行われる予定は全くない。ではなぜ、熱心な活動をするクラブに所属していない彼女が、こんな朝早くから登校しなければならないのか。
彼女は高等部において図書委員会委員長の職にあった。四月に招集される新入生を交えた新規の委員会が次期委員長を選任するまで、図書室に関する業務には一定の責任があった。
三年生が大学受験を迎える三学期には休館日なしに図書室は開館した。その余波として本棚の整理はおざなりになっており、英文の科学誌と超現代訳日本書紀が同じ棚に並んでいる始末。本来ならば蔵書整理が行われて正される間違いであるが、受験生に遠慮して春休みに入るまで延期されていたのだ。
熱心な委員の数はあまり多くなく「剛腕」で校内に名を轟かせている彼女が陣頭指揮を執ってはいるが、進捗具合ははかばかしくない。
しかもその作業を妨害するかのように、この一年間図書室を根城にしていた常連たち、由美子曰く「あのバカども」が、春休み休館だと言ってあるのに、図書室にやって来ては遊んでいるのである。
傍若無人な連中に対して無策では、学園内に轟いている「剛腕」の評判が泣く。由美子は対抗策として彼らにも仕事を割り振った。
有志による編纂という建前で、図書室の蔵書目録や委員会の業務内容、そして簡単な創立以来の記録まで入れた、清隆学園高等部図書室のこれまでを纏めた冊子を作らせていた。
文章を書く者や挿し絵を描く者など、無駄に器用な者が揃っていたため、その編集作業は軌道に乗っていた。
元来真面目な由美子自身も、発注者兼現委員長としてふんぞり返って仕事を丸投げすることなく、蔵書整理を行いながら平行して編纂作業に関わっていた。
代償として、二つの大仕事を平行して成し遂げるため、由美子は始発で登校しないと、一日の仕事が捌ききれなくなっていた。
もちろん彼女には右腕になってくれる副委員長などのスタッフもいたが、責任感が人より強いせいか、最後は自分で確認しないと気が済まないのだ。
由美子自身がやっかいな性分だという自覚を持っていた。
「はあ」
電光掲示板に表示される運行情報には、これといって気にしなければならないような文字は流れていない。予定通りに始発には間に合いそうだ。
構内を寒風に追い立てられるように改札へ向かおうとした足が、ふと鈍った。
券売機がずらりと並べられたコーナーである。
由美子自身は非接触型ICカード式電子マネーカードを定期券として利用しているため、そちらにはまったく用事はない。
いまそこで少年がポツリと一人で路線図を見上げていた。
中学生だろうか? 身長は男と言うにはちょっと低く、女と言うにはちょっと高めという微妙な物で、体重に関しては見た目で判断することは難しいが、とても軽い数値だと想像できる細さであった。
そのようなシルエットから筋肉ムキムキの運動会系の生徒が持っている精気のような物が発散されているわけもなく、早朝の無人の駅構内という背景も手伝って、由美子には彼が捨てられた子犬のように見えてしまった。
どんな難しい仕事でも責任感を持って取りかかる彼女である、困っている人がいたら、そのまま通り過ぎることは出来なかった。
由美子が目を向けていると、彼女の視線を感じ取ったらしいその少年は、こちらを振り返った。
(やっぱり、ほっとけないよね)
自分自身に小さく溜息をついてから、チラリと時計へ視線を走らせる。始発電車の時間までは余裕があるようだ。
安心して由美子はその少年に声をかけた。
「どうしたの?」
「ええと、どの電車に乗ればいいのか判らなくて」
話しかけられた彼は緊張しているのか、顔面にはあまり感情が浮かび上がっていなかった。まったくの無表情ならばまだしも、それはとても微妙に浮かび上がっているので、機械よりは生物臭いが、爬虫類よりは無生物っぽかった。
真冬よりはマシになったとはいえ、寒さのせいだろうと由美子は思うことにした。
彼はあまりにも体が細いので、女子が男装しているようにも見受けられた。いま答えるために発した高く澄んだ声も、その印象を一層強くさせるものだった。
だが常連組の中に女装好きという変態がいるおかげで、由美子が相手の性別を間違えることはなかった。
由美子は何という名称か知らなかったが、まるで作業着のようなズボンに、温かそうなセーター、さらに肉体労働者が着るようなフードのついた大きいジャンパー、頭にはこれだけは新品のうす茶色のキャスケットを被って、無表情を半分だけ隠していた。
喋り方の調子などから地方からやってきた中学生に思えた。
(修学旅行でやって来て、はぐれでもしたのかしら?)
由美子は常識的な判断をし、自分よりちょっとだけ背の高い相手の顔を見た。
鼻筋は細く通っており、瓜実のようなカーブを描く頬のラインは優美にうなじに繋がり、タートルネックに包まれて見えなくなっている。目に入る範囲では大きな傷や痣など目立つ物は一切無く、細く引き締まった唇は真一文字に結ばれていた。
ただ双眸はどこか暗くうつろな光を宿しており、茶色が薄まっていったような赤い色をしていた。その赤い瞳が焦点を失ったように前を見据えているので、全体的な印象は憂いを抱えた歌人といった雰囲気であった。
(どこかで会ったような気がする)
由美子は初対面のはずの相手を見てそう思った。
いや、彼に出会ったのはこれが最初のはずだ。複数の会社経営をする父親の影響で、由美子は一度でも会った人間を憶えておく訓練を積んでいた。そうでないとパーティなどの公式の席で、相手に無礼になってしまうこともあるからだ。
(会ったことがあるというより…)
由美子の目が細められた。
(今まで出会った誰かに似てンだな)
「その制服…」
由美子の頭の中で値踏みされているのが判ったのか、少々無愛想なままで少年が、彼女の姿を目で差して訊いてきた。
「清隆学園の物だと思うんですが」
「ええ、あなたも清隆?」
「はい。四月から高等部に通うことになります。今日、寮に入る予定で東京に出てきたのですが…」
わずかに赤い色をした瞳がふたたび路線図をさまよった。
「OK。とりあえず一番安いキップ買って」
女の割に決断の速さには定評があった。組織のトップに立つ父親の教育成果というよりも、一年間有象無象の者どもが揃った常連組を御してきて身についた性質だった。
「え? は、はい」
反射的に彼女が指差した券売機で、最低運賃を音声ガイダンスに沿って購入する。腕組みして待っていた由美子は時計と睨めっこをしていた。
「ちょっと急いで」
お釣りがジャランと出てくる音と共に由美子は早足で歩き出した。少年はそれを鷲掴みにしてポケットに放り込むと、小走りで彼女に追いすがった。
「ごめんね」
由美子は振り返りもせずに、急かしたことを謝った。
「電車の時間だから」
「間に合いそうですか?」
少年は声だけはすまなそうに訊いた。
「大丈夫だと思うけど」
二人は改札を抜け、地下にある出発ホームに向かった。自動化が進んでいる都会の駅である。駅員の姿は捜さないと目に入らないし、乗客もこんな時間には、ほとんどいなかった。
いつものクセで一番新宿側の車両に乗ろうとして、朝はそこが女性専用車両になることを思い出し、二両目に変更した。
早朝のため駅のアナウンスも、車掌による案内もない。ただ発車ベルが鳴らされ、車掌が笛を吹いただけで自動扉が閉められた。
「ふう」
朝から急ぎ足はちょっとこたえた。ロングシートに荷物と同時に尻を落とすと、ゆっくりとした加速度が感じられた。
「どうも、すみません。ええと先輩?」
由美子とは向かいの反対側のロングシートに座った少年が頭を下げた。
視線がほぼ同じ高さになって判ったのだが、帽子に覆われている頭は、年の割には若白髪が多く、床屋へ行くのが面倒になったと言わんばかりの中途半端な長さであった。
「藤原よ、藤原由美子。今度二年生」
清隆学園高等部において由美子はちょっとした有名人であった。個性的なメンバーが常連として集まった図書室の首領として、有り難くないアダナまでつけられていたりする。
その由美子を知らなくて先程のセリフから、転校などのわずかな可能性を排除して、少年は来月から始まる新年度における新入生と推理できた。
「ボクはユウキ。ナギサユウキです。海の渚に、優しさが輝くと書きます。今度、高等部に入学することになりました、よろしくお願いします」
丁寧に膝を揃えて頭を下げる。
「渚優輝くんね。こっちこそヨロシク、ナギサくん」
地下鉄のように闇の中を進んだ電車は、薄明の中に飛び出した。ここからしばらくは高架線である。轟々と車内に籠もっていた走行音も散って、会話がしやすくなる。
「藤原先輩は、なぜこんな早朝に?」
当然の質問を優輝は舌の上に乗せた。
「アタシは、図書委員会があって。委員長をやっているもンだから、サボるわけにもいかないでしょ」
「は、はあ」
同意を求められても図書委員会の内情を知らない優輝は戸惑うばかりだ。
すぐに次の停車駅に到着した。早朝なのでまだ快速運転などなく、すべて各駅停車なのだ。とはいえ目的地まではラッシュ時に運行される急行と一〇分程度しか変わらないのだが。
由美子は鞄とは別に、自分が小脇に抱えてきた硬質の書類ケースを開いた。内部にはモバイルパソコンがすっぽりと填め込んであった。モバイル自体は高等部図書委員会の備品で、ケースは百円ショップで購入した物だ。ケースとモバイルは微妙にサイズが異なった。その隙間は、スタイルフォームで埋めてある。ただ空間を埋めるだけでなし、USBメモリーを二本しまっておけるように凹みがつけられていた。さらに、USBポートなどをケースに入れたまま使用できるように、側面には四角い穴まで開いている。こうして由美子が使いやすいように加工したのも、これまた手先が器用な常連組の一人である。
右側に縦に並べてUSBメモリーが収納されている。その内の一つを取りだしてモバイルに差し込むと、データを呼び出す。
画面に昨日まで集まった冊子用の原稿が表示される。清隆学園は学力の高さでも近隣に知れていた学校ではあるが、こうして文章を書かせてみると誤字脱字が多く、由美子が直接校正しなければならなかった。また図書室の歴史を編纂している連中は噂話だけでなく伝説や嘘(ひどい物になると下ネタ)なども平気に織り込んでくるので、そういったもののチェックも怠ることもできなかった。
原稿データの一つを開けようとした途端に、ピコンと癪に障る電子音がしてカーソルが明滅した。
由美子自身は設定した記憶は全くないのだが、この端末にいつの間にか電子メールが届くようになっていた。おそらく彼女がテーブルに置いて何か別の仕事をしているうちに、常連組の誰かが回線の設定を行ったらしい。ちなみに料金の請求がどこへ行っているのかは知らない。
由美子の顔が微妙に曇る。そんなイタズラまがいの事を仕掛けてくる者は常連組でも数人に限られた。その中の一人は、由美子にとって天敵とも言える男だったのだ。
(開けても、また変なデータなンだろうな)
昨日そやつから届いたメールは本文が無く、ただ日本海海戦を再現したCG映像だけが添付されていたのだ。
(何を考えているのかまったく判らん)
と、迷っていたのがいけなかった。
由美子が何も操作していないというのに、突然画面が暗転すると画面中央から右へ白い横線が表示された。
「?」
そして暗くなった画面の中で誰かの手がマッチを擦ると、一発で着いた火を横線に近づけた。
すると横線が、まるで導火線のように火花を散らしながら右へと燃えだした。
有名な海外ドラマのオープニングそのままだった。最近、有名俳優の起用で映画になって、巷に帰ってきたシリーズである。
そして内蔵スピーカから有名な五拍子のメインテーマが流れ始めた。
「?」
早朝の電車に似合わない大音量に、優輝はわずかに不思議そうな表情をつくった。好奇心が刺激されたのだろう、電車の揺れにあわせて立ち上がり、画面を横から覗き込んできた。
美麗な液晶画面では曲のイメージに合わせて、スタッフロールとハリウッドの映画みたいな場面集が始まっていた。
ガシャンと派手に窓ガラスを破って、特殊部隊の格好をした男たちが、サーチライトの逆光の中突入してきた。
(原作 … 池田和美、酩酊庵酔夢)
そうかと思えば、まるで刑務所の物のような背の高い壁を背にして、スポーツ自転車の脇に立つ人影に切り替った。
(企画 … 池田和美)
次のシーンでは、夜道を歩く制服姿の女子に背後からバットを持った影が忍び寄った。
(監督 … 池田和美)
ガンという音を立てて、教室に並んでいる学習机の間から差し出される足。
(設定 … 池田和美、酩酊庵酔夢)
場面は一転して、明るい水銀灯に照らされた室内運動場のような場所で行われている体操競技の跳馬へ、武道の道着を着て長い髪をなびかせた人物が跳躍した。
(美術 … 池田和美)
頭部から血を流して地面に倒れた女性へ振り下ろされる牙のような肉包丁。
(撮影 … 池田和美)
生々しい場面から一転して、住宅地にポツンとある空き地が映し出され、そこに「売地」という看板が立っていた。
(編集 … 一太郎)
そうかと思えば、室内に跪いた少年が手の平に収まるような小さなボール箱を、大事そうに手で包みながら取りだした。
(音楽 … NEC VALUESTAR)
場面は再び暗い夜道となり、頭から血を流した女子高生が座り込んでいた。その彼女に向けられた、何者かが持っているスマートフォンに、動画撮影を示す赤いランプが暗闇で灯った。
(BGM … ブルーノ・ワルター指揮
コロンビア交響楽団
ウェストミンスター合唱団
ベートーヴェン作曲交響曲第九番ニ短調作品一二五『合唱』)
暗闇の質が変化して、どこか広い場所に立てられた屈折式望遠鏡が、満天の星空の中からオリオン大星雲を狙って筒先を上げていた。
(音響 … 三塚田 圭)
暗い道にポツポツと点る街灯。そこに黒い服を着た小柄な人物が何かを持って立っていた。嗤いながら。
(プロデューサー … 池田和美)
そして振り下ろされる凶器。跳ね返るようにまき散らされる血飛沫。
(製作 … 清隆学園高等部)
炎の中に立った少女が、黒革の手帳を片手に謳い始める。
(外伝著作 … 池田和美)
そして、少年の声でナレーションが入った。
「清隆学園図書委員会。実行不可能な指令を受け、頭脳と体力の限りを尽くし、これを遂行するプロフェッショナルたちの秘密機関の活躍である。清隆学園図書委員会」
画面に合わせたのか、ゴシック体の安っぽい字体でデカデカと「清隆学園図書委員会」と表示され、これも安っぽい合成の爆発音で粉々に崩れた。
大音量はいつの間にか止み、画面にはオープンリールを模したCGが表示されていた。
二つのリールの中間下部に再生ボタンが用意されている。その近くでカーソルが明滅していた。
どうやらクリックせよとのことらしい。
一瞬、由美子は放置することも考えた。
が、先程某海外ドラマを模したオープニングが勝手に始まったように、自動再生プログラムが仕込まれているかもしれない。ここはサッと聞いてサッと終わらせて、作業に戻った方がよさそうだ。
由美子は(いやいやながらも)キーボード手前にあるタッチパネルを操作し、カーソルを再生ボタンにあわせた。
ガチャリと大時代的な音がしてCGで作られたオープンリールが動き始める。
「おはようフェルプスくん。今日も君に指令を伝えよう」
スピーカからとても中性的な声が流れ始めた。ネタ的には渋い声の方が合っているのだが、この声は彼女がとても聞き慣れた、このイタズラを仕掛けたと思われる本人の物であった。
「誰がフェルプス君よ」
いつものクセで、返事がないことを頭で理解しつつも、つい画面にツッコミ返してしまった。
「蔵書整理に小冊子作りと忙しい君だが、ここのところ仕事をしすぎではないのかね?」
「オマエらが余計な苦労をさせンでしょうが」
一方的に喋っている画面に返事をするなど、まるでコントのようである。しかし無駄にスペックが高いモバイルのせいか、あまりにも自然な音声だった。由美子は乗せられて、今現在、この声の持ち主と会話をしている気分になってきた。
「今日は冊子の表紙を徹夜で仕上げたマサヨシが校門で待っている他は、常連組全員がサボ…、いや休暇を取ることに決定した。よって君は蔵書整理に専念することができるだろう。頑張ってくれたまえ」
なにか変な情報かと構えていれば、だいぶ回りくどい方法だったが、本日は欠席するという連絡であるようだ。常連組の連中は、こういうふうに一事が万事下らないことに全力をつぎ込む、困ったパーソナリティが揃っている集団なのである。
「…例によって、君、もしくは君のメンバーが捕らえられ、あるいは殺されても、当局は一切関知しないからそのつもりで。成功を祈る」
「なにが成功よ。オマエらが邪魔しなければとっくに終わってるっーの」
由美子がツッコミ返すと同時に、オープンリールのCGは最後の音節を再生した。
「なお、このテープは自動的に消滅する」
言い終わった途端に、横に差したUSBメモリーが小さな爆発音をさせて燃え上がった。
「あ! ああ~っ! データが!」
もちろんバックアップなどされているはずもない。
「あ、あンのやろぉぉぉっ」
操作手順なんかまるっきり無視してポートからUSBメモリーを乱暴に引き抜くと、小さく燃え上がっていたそれを叩いて消した。残骸を握りしめて由美子が切歯扼腕していると、優輝が不思議そうに訊ねた。
「ええと、これは?」
「あなたは関わり合いにならない方が身のタメよ。まったく、バカばっかり揃っているンだから」
USBメモリーの残骸をケースに戻すと、由美子はこれ以上モバイルを弄るのを諦めて、音を立ててケースの蓋を閉めた。
「はあ、そうですか」
優輝は無表情ながらなんとも言えない様に顔を変化させた。表情筋が動かないなりに呆れたようだ。初対面の後輩にすらこうである、学内での評判は言うまでのことではないだろう。
「ナギサ君は…」
とりあえず目の前の仕事が無くなったので、由美子の興味は彼に移った。
「どの電車か知らなかったところからすると、地方の人?」
「ええ、北から来ました」
つり革に捕まって優輝は揺れに合わせて立っていた。線の細い彼がもしラッシュアワーに乗ろうものなら、ポキリと背骨が折れてしまうかもしれない。
「それで清隆に入ったってことは、留学組ね?」
「留学?」
優輝は無表情なりにキョトンとしてみせた。
「ああ、ごめんね。清隆では他のところから受験して寮に入る人のことを『留学組』って呼ぶのよ。他に地元の中学から入った人は『受験組』、付属の中等部から上がる子は『進学組』って言うわ」
清隆学園には幼年部(幼稚園)から始まって、大学院まで揃っていた。中等部の生徒が全て自動的に高等部へ上がれるわけではないが、受験に関して有利になるようになっていた。
「それって、やっぱり派閥とかできるんですか?」
声を固くする優輝。どうやら警戒しているようだ。派閥などあれば人数的に進学組が圧倒的に有利で、逆に留学組が不利になることは、自明の理だ。
「大丈夫よ」
由美子は屈託のない笑顔を浮かべて相手を安心させようとした。
「最初の内はやっぱり何もないって言ったら嘘になるけど、そのうちお互いが慣れて仲良くなれるもの。いい例がうちのバカどもね。筆頭のバカは受験組だけど、進学組も留学組も混ざってバカやっているもの」
「ふうん」
優輝が座っている由美子を見おろした。
「あ、言っておくけど。図書委員会自体には、あんなバカは…」
ここでちょっとだけ言い淀んだ。
「そんなにいないからね」
否定しきれないのは由美子が正直者だからであろう。
「悪いのは、勝手に図書室を根城にしている連中だから」
「先輩は」
眼を細めて優輝は言った。
「その人たちが好きなんですね」
「ええっ!」
顔を真っ赤にして由美子は大声を上げてしまった。これが普段通学で乗っている時間帯の電車だったら大衆の注目をあびてしまうところだったが、幸い始発電車には客は疎らにしか座っていなかった。それにしたって腕組みをして俯いて座り、早朝故の眠気に任せて瞼を閉じているサラリーマン風のような者しかいなかった。若者二人が少々声を上げていても、目を閉じたまま眉を顰めるぐらいだ。
「ン! ンなこと、あるわけないじゃない!」
「そうですか?」
カラスを白色だと指摘されたように、優輝は小首を傾げた。
「ボクが見るところによると、さらにその中の一人が特別だと考えているようですが?」
「し、しし、失礼な事を言わないでくれる!」
これが常連の誰かであったら、遠慮なく拳を鳩尾に叩き込んで黙らせているところだ。だが相手が新入生ではそうもいかない。
ちなみにその事務能力だけでなく、そういった意味でも由美子の「剛腕」ぶりは学内に知れ渡っているのだった。
由美子はどうしていいか判らず、プイッと横を向いてしまった。優輝は後悔のような物を顔の皮膚に浮かべたが、温和しく黙って由美子とは反対側のロングシートに戻った。
電車は定刻通りに駅を渡っていった。
東京都下の住人に身近な自然と慕われている多摩川を渡り、この私鉄が本社を構えている駅へと進入する。
「ほら、降りるわよ」
由美子が先に立ってうながした。
駅を出て行く電車がかき混ぜた空気は冷たく、プラットホームに人影がまばらなこともあって、二人は黙ったまま階段に足を向けた。学園の前まで運んでくれる路線バスは、駅ビルの一階部分にあるバスターミナルで待っているはずである。
改札を出る前に優輝のために精算機に寄る。音声ガイダンスのままに請求された金額を払えば、自動改札を通過できるキップを発行してくれる。
由美子から、新宿で優輝を急かしたような、せわしなさが消えた。どうやら路線バスの発車時間には余裕があるらしい。だが電車内での会話で気まずくなったのか、彼女の方から口を開くような雰囲気ではなく、また優輝は自分から話題を提供するような少年でもないようだ。
キップ売り場を右手に見ながら駅ビルの外へいったん出る。こんな時間だから駅ビルの中を通ることはできない。冷たい空気に首をすくめながら足を運ぶ。
バスターミナルに着くと、気温が低いためバスのほとんどがアイドリングをして停車場に並んでいた。そのせいでビルの一階全体に、ディーゼルエンジン特有の臭いがこもっていた。
「こっちよ」
一度にこんなにたくさんのバスが並んでいる所を見たことが無かったようで、優輝が圧倒されたように口を開いていると、先を行く由美子が突き当たりを右に曲がった。
置いて行かれては大変と、小さな背中を追いかける。三番と大書された停車位置で、清隆学園最寄りのバス停を通る路線バスも、他のバスと同じように車内暖房を効かせて客を待っていた。
乗車ドアをくぐり、いつも座っている後ろ気味の席に着く。優輝は遠慮したのか通路を挟んだ反対側の窓際に座った。
クセでモバイルを開こうとして思い直し、由美子は面を上げた。
こんな春休みの早朝に制服姿をしているのは自分だけだ。運転手は所在なさげに運転席のハンドルにもたれかかっているだけであるし、他には誰もいない。
彼女は、そおっと優輝の横顔を見た。
帽子で半分隠れた彼が気配を感じたのか、こちらを向いた。
「だいぶ身軽だけど?」
「寮には宅配便で送ってあるんです。あとはボクが行くだけ」
「ああ」
由美子は、校舎とはコンクリート打ちっ放しの床と、安っぽい造りの屋根でできた、渡り廊下の先にある建物を思い出した。
「今日から受付なんだ、でも…」
由美子は愛用している腕時計で現在時刻を確認した。バスの発車時刻まであと一分といったところだ。
「ちょっと早くない?」
「それが、電車の乗り換えの関係で…」
優輝はとても薄く困った顔になった。
「着いたとしても、まだ、みんな寝てるわよ」
「そうですねえ。散歩でもして時間をつぶすことにします」
「ちなみに、なンもないわよ」
現地を知っている由美子は忠告した。
「なんにもない?」
「そう。戦争中は飛行場だったとかで敷地だけはやったら広いンだけど、ガッコの建物の他は、なンもないの」
「そうですか、まあ何とかなるでしょう」
楽観的なのか、それとも自分に対して無頓着なのか。表情が乏しいことから後者である可能性が高かった。
「そんなンで大丈夫? 寮に入るって、大変なンじゃない?」
「これでも集団生活には慣れているんです」
優輝は答えてから、説明不足だったとばかりに付け足した。
「昨日までは孤児院にいたもので」
「それは…」
由美子は不味いことを聞いてしまったと後悔した顔になった。
「いやいや気にしないでください」
優輝は無表情のままで手をヒラヒラと振った。
「息の詰まるような生活から解放されて、むしろ幸せなぐらいですから」
「あ…」
由美子が何かを言う前に、運転手が車内放送のスイッチを入れた。そのまま手順に従って扉を閉め、バスを発車させた。
会話が遮られたことを半ば感謝して、由美子は体をバスの揺れにまかせた。
路線バスはターミナルを出ると、広い国道に出た。すぐに長い橋を渡る。二人にしてみれば、先程電車で渡った多摩川を戻ることになるが、他に清隆学園に向かう路線が無いのだから、いくら無駄に感じられても仕方のないことだろう。
始発バスゆえか途中のバス停での乗降はなく、すぐに二人が降りる予定の「清隆学園入口バス停」の車内アナウンスが流れた。
道案内役の由美子が手近のブザーを鳴らした。
由美子は電車と同じ定期券になっているカードをバスの器械にかざせば運賃を払ったことになる。優輝と言えば、どうやら地元とは運賃の支払い方法が違ったらしく、運転手に説明してもらいながら小銭を運賃箱に放り込んだ。
バスは二人と排気ガスを残して走り去った。バス停のある国道から学園の敷地まですぐである。
学園全体が少し盛り土の上に建っているため、とても緩い登り坂を並んで歩いた。ここらへんにはポプラが両脇に植えてある。
「どう?」
寒さで口を開くのが面倒だったが、由美子は少年に訊いた。
「どう、とは?」
ほとんどアスファルトを見ていた優輝は、とても微細にキョトンとして聞き返した。
「これから三年間通うガッコを見て」
「ああ。まあ受験の時も来ましたし。あいかわらず広いなあぐらいですか、感想は」
「まあ広さだけは無駄にあるわね」
私立清隆学園。一つの敷地に集められているのは、幼年部(幼稚園)から短期大学、そして大学の半分である。大学も高度成長期までは全ての学部がここに集まっていたらしいが、いまは理系の学部以外は、多摩都市モノレール沿線に引っ越していた。
二人はポプラが植えられた並木を抜け、そろそろ花見客が集まり出す桜並木へ曲がった。
その突き当たり、広大な敷地の端にあたる所に、まるで刑務所のような高い塀に覆われた学舎が建っていた。
これが高等部の校舎である。
コンクリートの黒い壁は威圧的ですらあり、その印象を薄めようと、何代か前の生徒会が花柄に塗ろうとしたらしい。が、ペンキを塗る面積があまりにも広すぎたため、予算不足で挫折したようだ。
そのコンクリートの壁は、二人が歩んでいる道とぶつかるところで丁度切れており、レンガ造りの門柱に挟まれて、これまた頑丈そうな門が構えてあった。
いまその鉄製の門の前に、人影が一つ立っていた。
朝日を浴びて、ドロップハンドルのおんぼろ自転車を支えて立つその影に、由美子は見覚えがあった。
身長は由美子や優輝よりは少し高め、身の回りのことには無頓着なのか髪の毛は少々乱れていたが、校則通りに紺色をした制服は、キッチリと身につけていた。
日の光をキラリと反射する銀縁眼鏡をかけて、いかにも真面目そうな印象を与える男子生徒である。
いま、その彼は眼鏡の向こうの眠そうな瞼をしばたたかせていた。
「よう。おはよう、ゴンドウ」
由美子が朝の挨拶をすると、相手はいかにもな作り笑顔を浮かべた。
「おはよう! 藤原さんが朝から男連れで登校なんて! こいつは春からえんぎぐえええええ」
セリフの後半が乱れたのは、容赦なく由美子の拳が、彼の腹にめり込んだ他にならない。
体を折って痛みが治まるのを待っている彼の後頭部を見おろして、由美子は平手を出した。
「ンで? あのバカからメール来てたわよ。なンでも表紙できたンだって?」
言葉が出ないのか、少年は苦しげに何度もうなずくばかり。
「ついでにオマエに頼みたいことができたから、図書室まで来い」
「ええっ」
苦しげな表情のまま殴られた少年は体を起こした。
「ヒロシみたいに殴られ慣れてないんだから、藤原さんも手加減してよ」
腹を撫でながらぶつぶつと言う。
「それに、今日は寝ていようと思ったのに」
「彼、ナギサくんの案内をして欲しいのよ」
由美子は親指で優輝を指した。
「なぎさくん?」
「渚優輝と言います。この春から清隆学園に通うことになります」
優輝は眼鏡の少年に頭を下げた。
「僕は権藤正美って言います。もし興味があるんだったら君も美術部に来ないか?」
「こらこら」
由美子は二人の間で手を振った。
「部活の勧誘をンなとこでするな」
「いやあ。弱小部活は、いつでも優秀な人材を求めているから」
「ボクが優秀な人材と限りませんよ」
謙遜なのか優輝が告げると、正美はすかさず言い返した。
「藤原さんと同伴登校できるなんて、充分に希有な人材ひいいいいいいいいいいいいいい」
もちろん正美のセリフが変に乱れた理由は、先程と同じだったりする。
「ナギサくんは、まだ制服出来ていないンでしょ」
正美の腹部から右拳を引いた由美子は、優輝を振り返った。
「はい、そうですが」
「じゃあ私服で校舎に入っても、まだ怒られないわね」
由美子は一人分だけ開かれている鉄製の門に手をかけた。もうちょっとだけ空間を増やすと、先に入って振り返る。
「いらっしゃい。お茶ぐらいは出すわ」
背中を向けた由美子は「入学式をしてないから、まだ新入生じゃないし」とか、「受験に合格はしてるンだから、学校関係者だよね」とかブツブツ言っていた。大人に見つかったときの言い訳を練習していると言うより、自分自身を納得させている様子であった。
正美が自転車置き場へ愛車を回している間に、由美子は生徒昇降口に優輝を案内した。端っこの方に大きなダンボールへ放り込まれているスリッパは、原則として生徒は使用禁止になっているが、優輝には上履きがまだない。そこから一揃え優輝に渡してやる。
由美子が三学期の終了式まで使用した下駄箱は、すでに新入生に明け渡すために空っぽにしていた。
「まだよ」
渡されたスリッパに履き替えようとする優輝を手で制し、由美子は昇降口を縦断し、閉まっていた奥側の扉を開いた。
視界が開け、建物の向こう側が目に入った。
高等部の校舎は四つの棟からなっていた。この生徒昇降口があるのがA棟である。A棟と直角に繋がっているのは、各クラス教室があるB棟と、専門教室を集めたC棟である。高等部にはもう一棟、野球が出来る校庭を挟んだ向こう側にD棟がある。上空から見れば、校庭を取り囲んだ正方形をした並びになっていた。
よって昇降口は便利がいいように、正門側からも校庭側からも入れるように作られていた。
「あっちで履き替えた方が便利なのよ」
由美子は校庭の向こうに見えるC棟とD棟のつなぎ目を指差した。彼女の仕事場である図書室はC棟二階にあった。
二人はA棟を通り抜け、校庭を横断した。目指したのはC棟の西側にある非常口である。ここも校庭側と校舎の外側と、両方から出入りが出来るようになっていた。由美子は鞄の中から上履きを取りだし、優輝は温めてきたスリッパに、ここで靴と履き替えた。
由美子が傍らにある階段を登った。優輝も上を覗き込んでから後に続いた。
二階の廊下に出てすぐ右手が図書室である。入り口は施錠されているが、由美子は鞄のポケットからジャラジャラと音を立てて鍵束を取りだした。
図書室の入り口ではなく、手前の司書室と札が出ている扉を開く。
こちらは学校司書がつかうために設けられた部屋で、禁帯出の本などが並べられた閉架図書と、二、三の執務用の机、そして応接セットと蔵書整理などに活躍する広い作業用テーブルが置いてあった。
部屋の中は早春のため冷え切っていた。学業が始まっていればセントラルヒーターが働くのだが、春休み中のためスイッチを入れても無駄である。もちろん火災予防のため石油ストーブなど他の暖房器具もない。
「適当に座っていて」
そこが定位置なのか、由美子は事務机の一つに荷物を置くと、優輝に応接セットのソファを目で指差した。由美子は背後の可動式パーテーションで区切られた給湯コーナーに立つと、縦に置かれた円筒という形をした白色の器械のスイッチを入れた。だいぶ年季が入った電気給湯器である。これも火災予防のために備えられたものだ。
「さてと」
クセになっているのか、腕まくりをするような仕草を、コートの上からした後に、図書室との境目にあるドアをくぐって司書室から出て行く。すぐそこは図書室のカウンターになっており、普段ならば蔵書の貸出返却業務が行われる。
由美子はカウンターを回り込んで図書室へ出ると、まず入り口の解錠をした。
その間、優輝は初めて入る部屋の物珍しさから司書室内部をゆっくりと見まわしていた。
冷え込んだ鉄筋コンクリートに、わずかばかりだが給湯器から滲み出てくる熱が温もりを広げていく。
優輝は自分のズボンのポケットを探ると、そこから小さな物を摘み上げた。それは指輪のようにも見えたが、宝石などの派手な装飾は一切無かった。優輝はその指輪を覗き込むように目の前に差し上げた。輪っかを通して司書室をもう一度見まわしていると、バタバタという足音が聞こえてきた。
「ぅ~ぃ。さむー」
校門の所で別れた銀縁眼鏡をかけた少年、正美であった。勝手知ったる我が家というように、廊下から室内に飛び込んできた。
「やあ」
優輝が一人で座っているのを見つけると、ちょっと作った笑顔で再び挨拶をしてきた。優輝は指輪をポケットへ滑り落とすと、ペコリとお辞儀だけ返した。
正美はチラリと給湯器へ視線を走らせると、ニッコリと言った。
「もうお湯も沸くから、ゆっくりしていってよ」
「で?」
二人は図書室の方向から声がかけられて振り返った。図書室から戻って来た由美子が、つまらなさそうな顔で腕組みをして立っていた。
「ゲンコーは?」
「まずはコレから」
正美は制服のポケットから何かを取り出すと、大袈裟なモーションで下から弓なりに放り投げた。由美子が両手で挟み止めるようにしてキャッチする。
「これって?」
なんだろうと見てみれば、電車の中で発火してデータが失われたはずのUSBメモリーだった。彼女自身の手で貼られた分類整理用のネームシールまでそっくりである。
「なんでお前が持ってンのよ?」
「いや僕じゃなくてね、ヒロシだよ。なんか渡しておいてくれって頼まれてさ」
「あンのやろう」
ギリギリと手の中のUSBメモリーを握りしめる。どうやら電車内で発火した方が偽物で、こちらが本物のようだ。
「そのまま壊さないでね」
正美の指摘に、キッと厳しい視線を返して由美子は言った。
「昨日の夜にやった校正、無駄になったじゃない」
「いや、それも大丈夫だって。僕はよく分かんないけど、自動的に復活するようにしてあるって言ってたよ」
「手の込んだことを。で? オマエは仕事をちゃんとやったンだろうな」
工夫が凝らされたイタズラに心がすさんでしまったのか、由美子はすっかり男言葉になっていた。
「それはこれ」
正美は肩にかけていた大きいリュックを作業机におろすと、ヒモで縛られた口を解きにかかった。手にしたUSBメモリーをポケットに入れた由美子が近づくと、その目の前に大判のファイルが差し出された。
「はい、これ」
「どら」
由美子が開くと、中には複数のケント紙が挟んであり、全てにイラストが描かれていた。
正美もイタズラ好きの常連組である。いちいちチェックしないと何を描いてきたかわからない。
(きっと何か仕掛けられてンだろーな)
頭の隅でそんな不吉な予感を感じた。
由美子は覚悟を決めて、えいやっと紙束を引き抜いた。
ファイルを作業机の上に置き、一枚ずつ目を通し始めた。
「ヴッ」
早くも二枚目にしてその手が止まった。
「?」
ソファから不思議がる優輝を振り返ってから、正美は胸を張って言った。
「ソレなんか自信作なんだ。なにせ我ら清隆学園高等部図書室にとって顔と言えるものほおおおおおおお」
正美は由美子の拳がめりこんだ腹を抱えて、のたうち回った。
「コレ! アタシじゃない!」
顔を真っ赤にして彼女が握りしめていたのは、ペンで描かれた彼女の肖像画であった。ちょっと振り返っている角度や目の厳しいところまで、ちょうど今の表情が生き写しになったようだ。背景もこの司書室なので、まるでそこに材質が紙でできた鏡があるようにも見えた。
「うまいですね」
優輝がソファから声を上げた。
「まあ、これでも美術部部長だからね」
腹をさすりつつも正美が彼を振り返ってエヘンと胸を張る。
「う~」
由美子は赤面して自分の肖像画を睨み付けた。たしかに絵としてみた場合、それはとてもよく描けている作品であった。だがこんな物を表紙に採用したら、どれだけ自意識が高い女なんだと、一般生徒に誤解されること間違いない。
「これがロゴの試案ね。これをこう上半分に重ねるのはどうかな」
正美が床から戻ってきて、由美子に掴まれている紙束の中から、ちょっと気取って斜めにした字でタイトルが書かれたケント紙を抜き取って重ねてみる。
「でも、こんな…」
タイトルロゴには文句はない。イラストもよく描けていることには間違いない。しかし、これを採用するには抵抗があった。
「藤原さんのイラストなら、もう一枚あるけど」
正美が由美子の手の中にある紙束から、次の一枚を示した。
「あ?」
捲って視界に入れると、極太のマジックで描かれた由美子の顔をカリカチュアしたイラストがドーンと描かれていた。最初の肖像画から一万分の一ほど減らされた線の少なさだったが、むしろこちらの方が似顔絵として成功していた。
「げふう」
口から何か液体を垂れ流しにして、正美は床に這い蹲った。理由は、まあ想像の通りだ。
「なンで殴られるとわかってって、こういうことするンか?」
「い、いや…。おやくそくかと…」
どうやらいつもより余分に胃へ拳がめり込んだらしい。正美は腹を押さえたまま作業用テーブルを囲うように配置された椅子によじ登ってきた。
「まったく」
何か一芸を仕込まないと気が済まないなんて、まるでコメディアンのような生態ではないか。由美子は呆れた溜息をつきつつ、他のイラストをチェックした。
学校を正門から眺めた物や、図書室を俯瞰で上から写真に納めたような物、かと思えば図書室の室内でカウンター側を雑誌コーナーから眺めたように描いたような物など、先程の二枚と比べて割とマシなペン画が作業用テーブルに並べられる。
しかしどのイラストにも必ず人物が書き込まれていた。正門から見える校舎の窓から顔を出していたり、図書室のド真ん中で腕組みをして立っていたり、カウンターの中で本の受け渡しをしていたり、ただの風景画は一枚もない。しかもよく見れば、そのどれもが先程見せた由美子の似顔絵と同じ顔をしているというイタズラが仕掛けられていた。これで紺色の制服を着ていなくて赤白の服を着ていたら、有名な冒険家と同じであろう。
←(溜め)→Bボタン。キャラが左側の場合。
「まったく、ロクなもんじゃないンだから」
「あのう、だいぶ血が流れていますが…」
由美子がブツブツ言いながら応接セットの横を通り過ぎようとすると、優輝が遠慮気味に訊いてきた。
「あ、ダイジョウブじょぶ。ほっとくと、すぐに治るから」
そのまま可動式パーテーションの向こうにある給湯コーナーに由美子の背中は消えた。見送った優輝は見たくない物を確認するように、恐る恐る作業用テーブルへ振り返った。
由美子は急須に緑茶の葉を入れた。若い世代が揃っているのでコーヒー党ばかりかと思えばあにはからん、お茶好きが揃っていた。しかも玉露や抹茶などの高級茶ではなく、スーパーで値段の安さで選んで買ってくるようなモノが、一番評判が良かった。
由美子はお盆の上に茶器を出す。湯飲みはみんなが勝手に持ち込んで棚に並べてあった。
それぞれの湯飲みを水で雪いでから布巾を敷いたお盆に並べ、優輝の分として客用の物も加える。
少し考えてから棚からカリントウを袋ごとのせた。
このお菓子もみんなが小銭を出し合って購入した物だ。学校司書からは衛生上の問題があるので、三日以上置かないようにと指摘されていたが、逆にそれ以上の期間在庫が残った記憶が由美子にはなかった。
「よし」
お盆の上をもう一度確認した由美子は独り言ちてから、それを手に応接セットへ移動した。
「うむ、やはり茶請けにはカリントウだな」
「いや、あたしはノリを巻いおしたアラレが一番ええどす」
「則巻アラレ? なるほどな」
「おぶ請けとして最強の破壊力の間違おらんどす」
お盆の上を覗き込んだ男どもが勝手な感想を口々に漏らした。
「オマエら! どっから湧いたっ!」
応接セットの長ソファには、優輝の他に、今さっきまで居なかった少年が二人も増えていた。両側をガタイの良い二人に挟まれた優輝は、肩身の狭い思いをしている。
「どうも、こうも」
優輝の右側に座った少年が甘い微笑みで、あやしいイントネーションで答えた。
「朝早うから権藤はんから、あないな知らせを受け取ったら、なんはともかくかけつけますよ」
「たしかにな」
優輝を挟んで左側に座る少年は、したり顔でうなずいた。
「権藤!」
キッと由美子は正美を振り返った。
「てめえ、どんなメールをアップしやがった」
「え? こんなの」
正美は自分のスマートフォンをかざしながら、腕組みをしてまだうなずいている少年の向かいの席に移動した。
由美子は正美の持つスマートフォンを覗き込んで、図書室の常連組で利用しているSNSの画面を読んだ。
*緊急! 藤原さんが男連れで登校!*
「オ・マ・エ・なぁぁぁぁぁぁぁぁ」
スタッカートの効いたセリフが飛び出した。あまりの怒りに毛根が起き上がり、由美子の髪の毛がまるで鬼女のごとく逆立っていく。
「だって、事実でしょ?」
何にも罪を感じていないのか、正美は由美子が用意してくれた急須からお茶を注いだ。薄い桃色が由美子、島田フミカネのイラスト入りが正美の、そして集会場などでよくある小振りな物が来客用で優輝の分だ。
正美は均等に注ぎ終わると、熱いうちに吹きながらまず一口啜った。
いま手出しをしたら熱湯で大変なことになると思ったのか、由美子は正美をしばし睨み付け、そしてお向かいの二人に視線を移した。
「オマエらも、早朝からこんな書き込み一本でやってくるなんて、暇人だよなあ」
「俺に昼夜の区別という死角はないのだ」
優輝の左側に座る、制服を身に纏って腕組みをしている少年が、偉そうに胸を張った。細部まで校則通りの正美とは違って、ネクタイは締めていないし、校章などの徽章類もいいかげんであった。
その無駄に偉そうな態度に、由美子は呆れ顔を隠そうとしなかった。
「空楽の場合は、昼夜の区別というより、四六時中居眠りをしているんでしょ」
お茶を啜りながら正美がすぐにツッコミを入れた。図書委員長である由美子と知り合いであることから判ると思うが、この少年も読書好きであった。そしてそれと同じくらい居眠りが大好きであった。一年間同じクラスだった正美は、あれだけ授業中に寝転けていたのに、彼が無事に二年へ進級できたのが不思議でたまらなかったが、本人曰く「睡眠学習の成果」らしい。
「いちおう紹介しておくわね」
由美子は、いまだに縮こまって座っている優輝を掌で示した。
「彼が新入生の渚優輝くん。まだ制服は無いンだって」
「渚です、よろしくお願いします」
「うむ。礼儀正しい少年ではないか」
一年しか歳が違わないくせに、腕組みをとかない少年が偉そうに応じた。
「俺は不破空楽だ。こちらこそよろしく。で?」
空楽は横柄な態度のまま由美子へ視線を移した。ピクリと片方の眉だけが跳ね上がる。
「俺の茶がまだだが?」
「自分で煎れろ!」
何か投げつけてやろうとして辺りを見まわし、咄嗟に目についたカリントウの袋へ手を突っ込んだ。が、食べ物を粗末にしてはいけないと幼い頃から施された教育を思い出して、なんとか留まった。かわりに掴んだカリントウをバリバリと噛み砕く。
「もっと味わって食え」
眉を顰めた空楽は指摘し、そして言った。
「茶」
「~!」
「あー、僕が用意するよ」
そのままでは卓袱台返しならぬテーブル返しをしそうな勢いで由美子が空楽を睨んだので、正美は気を利かせて立ち上がった。
「権藤はん。あたしの分もよろしゅう」
すかさずもう一方の少年もリクエストを出した。こちらの少年は制服を身につけておらず、フリースの上下に半纏というちょっと不思議な服装をしていた。
彼は正美が背中でうなずくのを確認してから、真横で縮こまっている優輝に小さく頭を下げた。
「あたしは松田有紀ええます。よろしゅう」
甘い微笑みのままで有紀が、やはり怪しげな方言で名乗った。
「俺が隙は無いのが当たり前として。ユキちゃんは、よくこんな早くに図書室に来れたな」
とりあえずカリントウを口に放り込みながら、空楽が優輝越しに訊ねた。
「まあ、あたしはほら。ねぎに暮らしておりますから」
「ちょっと待て。今日はオマエら休むンじゃなかったのかよ」
由美子が嫌な物を感じ取って口を挟んだ。すると半分だけ彼女を振り返った空楽が、口の端の方だけで嗤った。
「ふっ…。こんなに面白いことが起きているのに、ほったらかしにするお人好しがどこにいる?」
由美子は湯飲みを置くと、頭を抱えた。
「きょおぐらいは静かに仕事が出来ると思ったのに…」
つぶやいた瞬間に、ズパンと大きな音を立てて司書室の扉が開かれた。
「よーう。藤原さんに新しい男が出来たんだって?」
「また、ややこしいのが…」
スキップを踏むような勢いで入ってきたのは、紺色の制服の上から白衣を羽織った少年であった。どことなくエキゾチックな顔立ちをしており、純粋の日本人でないことは一目瞭然であった。
「あ、ミカドも来たんだ。じゃあ三つ追加だね」
給湯コーナーから顔を出した正美が入ってきた人物を確認して、新たな茶器を追加する。
「オマエら、よっぽど暇なンだな」
由美子は呆れた声を出した。
「いや、線細胞の変移実験の同定中だったけど、こんな話しを耳に挟んだら温和しく実験室に籠もってなんかいられないじゃないか」
「じっけんしつ?」
真ん中の優輝が濃いキャラクターの登場に、キョトンとしている。
「あちらさんは御門明実という人で、高校生にして大学の研究の手伝いなんかをする天才なんどすよ」
有紀が紹介すると、いままで正美が座っていた場所に明実がどっかと尻をおろしながら、深い思惑を感じさせる薄茶色の瞳で優輝を観察しながら名乗った。
「オイラは御門明実っちゅーもんだ。スロバキアと道産子との混血で、チャッキチャキの江戸っ子よーぅ」
どこかしら発音のおかしい日本語と、その日本人離れをした外見も、半分が欧州の血ならば納得できるものがあった。ただ言っている内容までおかしいのは、まあ彼の個性であろう。
「ボクはただ、迷っていたら先輩に助けていただいただけで…」
誤解は早く解かなければ由美子の名誉に関わるとばかり、渚は説明しようとした。
「あ~、ムリムリ」
茶器を応接のテーブルの上に置き、自分のお茶を持って作業用テーブルへ引っ越しながら正美が言った。
「説明なんかしたって無駄だから。みんな藤原さんが困る方が楽しいから、聞いちゃいないよ」
「それ、どおいうことだ」
ドスの効いた声で由美子が聞き返した。
「聞いてのとおりだけど?」
罪悪感がまったく無い調子で正美が言い返すと同時に、彼の制服から音楽が流れ始めた。
湯飲みをテーブルに置いて、懐から先程しまったスマートフォンを取り出す。どうやらSNSの通知だったらしく、慌てる素振りも無しに画面をチェックしていた。
「あ、コジローからだ。なになに? 『王子が私を置いて浮気なんて! 信じていたのに!(笑) すぐに画像を送るように』だって。はい、ナギサくんチーズ」
「え、ちょっと写真は…」
新宿駅で出会ってからの能面で、優輝は困惑という感情を創造するが、そんなことにはお構いなしであった。正美はカメラを起動させると、三人並んでいるソファに向かってシャッターを切った。両脇の空楽と有紀がその瞬間だけポーズを作ったりしている。
「よし、送信っと」
正美はSNSに写真をアップした。そのきっかけとなったコジローというのは、まるで男のような呼ばれ方であるが、由美子と一年間同じクラスで机を並べた少女である。
「ほして? なんで自分はこんな早うに学校に?」
とても薄く困り顔になっている優輝に、有紀が助け船を出した。
「えと。今日が寮の入寮日だからです」
「ああ。自分も留学組どすか。あたしもそうなんどすよ」
優輝はその答えで彼の不思議な服装の謎が解けた。この学校の敷地にある寮暮らしならば、このような格好で近所をうろついていても、さほど変に見られることもない。
「そうだ、ソレ」
由美子に指差されて、有紀は甘い微笑みのまま目を点にした。
「なんかナギサくんは電車の都合で、ンな時間になっちゃったンだって。松田、オマエ寮生だろ。ンとかしろ」
「藤原さん、藤原さん」
正美が横から手にしたままの携帯を振りながら会話に横入りしてきた。
「ンだよ」
面倒臭そうに応じると、正美は椅子から立ち上がって再び由美子へスマートフォンを提示した。
「コジローから」
先程の常連組女子からの返信であるらしい。彼女は由美子と親交が深かった。由美子は安っぽい液晶画面に浮かび上がっていた文章へ目を通した。
*だめでしょ! 言葉遣いに注意!(笑)*
どうやら、このスマートフォンやら高速通信が発達した現代にあっても、そのような文明の利器に頼らずに、司書室で進行している事態をリアルタイムで把握できてしまっているようだ。
「はぁ。どいつもこいつも」
由美子は頭を抱えようとした。
「まだ続きがあるよ」
正美が横から指を出して画面をスクロールさせると、由美子の目の前へスマートフォンを戻す。
*追伸 だめよ浮気は*
「これ、壊していいか?」
「や、やめてよ」
及び腰になった正美を見て、多少気分が良くなったのか、彼女はおとなしく浮かせていた腰をおろした。
「うーん」
有紀が間延びするイントネーションで腕組みをした。これで優輝の左右とも腕組みで揃ったことになる。そのぶん余計に彼が縮こまることになった。
「まだこの時間、みんな寝とる時間なんどすよ」
大仰な仕草で壁面に取り付けられた時計の方を向く。まだ六時台であった。
「寮の門限時間どすし」
当たり前のことだが、未成年の男女を預かる寮には、万が一にも間違いがあってはいけない。私生活を監督するために帰寮時間と出寮時間には制限がかかっていた。部活などで時間外活動がある場合には事前に申請しておけば緩和されるが、それにしたって朝の六時前半は早すぎである。運動会系の部活が自主練を行うにしたって、もうちょっと遅い。
「オマエはその門限時間とやらに、なンでこんなトコをうろついているンだよ」
由美子の指摘に曖昧な微笑みが返ってきた。
「そら、蛇の道は蛇と言うでしょ」
「まったく」
由美子はプリプリ怒りながら湯飲みを傾けた。
「アタシゃ仕事に取りかかるから、オマエらが相手してやってくれよ」
時計を確認したことで、やらなければならない仕事があることを思い出したらしい。由美子はまだ中身が残っている湯飲みを持って、机の方へ移動した。
「ふむ」
その背中を見送って、空楽は鼻をひとつ鳴らした。
「おかしいと思わんか?」
「?」
「なにが?」
空いたソファに座りながら、正美が代表して聞いた。
「こんな美味しいイベントに、真っ先に駆けつける奴が、一人足りないと思うのだが?」
空楽の言葉に正美がキョトンとする。
「天性の騒動屋」
有紀が言うと、それを受けて正美が訊ねる。
「ヒロシのこと?」
「こなくていい! あんなヤツ!」
脊髄反射で由美子が机から悲鳴のような声を上げた。ヒロシというのは、この一年ですっかり由美子の天敵のようになってしまった少年のことだ。
「連絡はしたんだろ?」
空楽の確認に正美はうなずいた。
「うん。あのメールは、グループ全体通知だったはずだよ」
「だったらイの一番に駆けつけてきそうじゃないか、あいつならば」
「あーよー」
二人の会話に怪しげな日本語で明実が入ってきた。
「そりは無理なんじゃないかな」
「なぜ?」
「あ奴は、昨日の夕方から病院に行ってるからだーよ」
「それは…」
空楽は身を乗り出した。
「新しい人体実験のためか?」
「じんたいじっけん?」
優輝がこわごわと訊ねる。彼を安心させようとしているのか、正美がどこか作ったような笑顔で説明した。
「いま話題になっているヒロシっていうのはね、郷見弘志っていう僕たちと同じクラスの男子だよ。ただ、ちょっと趣味が変わっていてね」
「変わっているで済むか?」
由美子が眉を顰めた声をあげる。正美から返却されたUSBメモリーをチェックするために、画面に向いていた頬に優輝の視線を感じて、手を休めずに付け足した。
「変な発明に、人体実験。天性の騒動屋にしてナンパな性格。とどめにあの女装癖」
「それ、どんな人物なんです?」
優輝が逆に興味が沸いてきた声になった。
「一言でいえば変態ね。ナギサくんは近づいちゃダメよ」
「はあ」
「で?」
二人の会話が終わったのを見越して、空楽は再度訊ねた。
「今度はどんな人体実験をやらかしたんだ? あいつは?」
前回は完全変形自転車の試乗だった。被験者が一目見ただけで不安な顔になるほどの、シルエットからして危なそうな形をした自転車だった。被験者が跨り、制作者である弘志が手元の遠隔スイッチを入れた途端に、人体ではあり得ない方向に被験者の身体ごと、コンパクトにそれは折りたたまれた。
それを思い出したのか、被験者役だった正美が、前方一二七度に折りたたまれそうになった右膝を撫でた。
「違うよー」
苦笑いになった明実が顔前で手を扇ぐように振った。
「検査入院だよ」
「だれの?」
「あ奴自身の」
「へー」
意外な顔をして空楽が体を起こした。
「ヒロシが入院? 拾い食いでもして腹でも壊したか?」
「いや、まあ、ほら」
明実が言いにくそうに言葉を濁した。
「どっか悪いの? 郷見のやつ?」
キーボードを叩きながら由美子は声だけで訊いた。
「うーん、まあ」
明実はどう答えていいか迷っていると、由美子が画面から顔を上げて彼を見た。
「やっぱり頭?」
「ドコが悪い、頭が悪いって。藤原さん、コントじゃあるまいし」
正美がツッコムと、由美子はわずかに視線をずらした。
「ま、あいつが悪いのは根性だけどな」
それだけ言い切ると、再び由美子は編集作業に没頭した。
「あ、そうそう」
由美子が真面目に小冊子の編集作業に取りかかっているのを見て、正美は思い出したのか、作業用のテーブルに散らかしておいたケント紙を拾い集めると、応接セットのガラステーブルに持ってきた。
「表紙用のイラストできたよ」
「どれ」
空楽がまず一枚取り上げた。
「よく描けているではないか」
「ぶははは」
明実が見た途端に噴き出したのは、彼が手に取ったのが例の似顔絵だったからである。
「そっくりだなー」
「?」
覗き込んだ他の全員も笑い出す。
「およよよよ」
「むはははは」
「ま、まさよし。きさまに、こんなさいのうがあるとは」
「笑うな!」
我慢ならなかった由美子は、机の上にあった消しゴムを手に取ると、目にも止まらない速さで一番笑っている空楽に投げつけた。
「ふんむ!」
空楽は事あるごとに、音速を超えるという小銃弾を指の間に挟んで止められると豪語していた。じっさい授業中に居眠りをしていて投げつけられたチョークを、見事そうやって受け止めるところを目撃した者が多数いた。
ガスッ
まあ言うだけならば誰でも宇宙大統領になれる見本みたいなものだ。ただ合成ゴム製であるはずの消しゴムが、硬度において遥かに優っているはずの空楽の頭蓋骨に突き刺さっているように見えたのは、目の錯覚であろう。
消しゴムを挟み止めることに失敗した人差し指と中指を、まるでピースサインのように突き出したまま、空楽の上体はソファの向こう側へ崩れ落ちた。
「いや、でも」
必死に笑いをこらえながら有紀が言った。
「どれもよお書けていますよ。表紙はこの中から選んだら?」
「んまあ、これは選外だとしてなー」
助け船を出すように明実も、手にした似顔絵を振りつつ言った。
「どれもラクガキがしてあるじゃない」
由美子がきつい目線で睨み付ける。正美は全員の視線が集まって、あきらかに動揺した。
「えっと、作品は全てのパーツが組み合わさって成り立っているから、いまさら消すなんてことは…」
「わざわざ窓に人がいる理由がわからない」
由美子の一刀両断に、正美は彼女を振り返った。
「いや、人物対比でスケール感を出しているんだけど…」
段々と彼のセリフが先細りになっていった。由美子は相変わらず編集作業に目も手も忙しいようだが、その背後から沸き上がる存在感のような物が正美を圧倒しているのだ。
「正美」
いつの間にか復活していた空楽がチョイチョイと手招きをする。
「印刷段階で差し替えるという手もあるぞ」
「おお!」
「ンなことをしたら、わかっているわね?」
アリの足音ほどの囁き声で交わされた会話だったはずなのに、由美子が声だけで釘を刺してきた。どんな地獄耳なのだろうか。きっと彼女は悪口ならば月の裏側で交わされた内容でも聞きつけるに違いない。間に存在する宇宙空間が真空で、音を伝播させないのにも関わらずに、だ。
「おはよー」
二人して震え上がっていると、司書室の入り口がまた開かれて、新たな登場人物が入室してきた。
「あ、おはよ」
「おはよう」
入室してきたのは頬の高さで髪を切りそろえた青い黒髪と、卵の殻のような白い肌のコントラストが印象的な、高等部の制服を身につけた少女であった。
「おはよ、おねえさん」
わざわざ由美子の横で、着てきたコートを脱ぎつつ朝の挨拶を繰り返す。その日本人形のように細い肢体を、紺色の制服越しに眺めた彼女は、いつの間にか上昇していた室温に気がついて、座った状態でコートを脱いだ。
「おはよ、ハナちゃん」
「で?」
目をキラキラさせながらハナちゃんと呼ばれた少女が質問した。
「おねえさんの新しいカレシってドコ?」
ガタッと音をさせて由美子はキーボードに突っ伏した。その間にも彼女は室内を見まわして、応接セットに見慣れない少年がいるのを発見した。
空楽が仏頂面ながらも手招きをして彼女を誘う。彼女は由美子が着いている席の隣に荷物を置くと、スキップを踏みそうな軽やかさでやってきた。
「おはようございます。みなさん」
「おー」
「おはよ」
「うむ」
「お、おはようございます」
「紹介しよう」
人見知りする態度の優輝に、空楽が彼女を掌で指し示しながら口を開いた。
「彼女が当清隆学園高等部図書委員会副委員長の岡花子嬢だ。みんなはハナちゃんと親しみを込めて呼んでいる」
「は、はあ。よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げる優輝に静かな微笑みを向け、花子は言った。
「新年度からはどうなるか判らないけど、こちらこそよろしくね。お茶、冷めちゃったんじゃない?」
「さすがハナちゃん。気配りが行き届いてるぅ」
正美が冷やかすように言いつつも、みんなの茶器をお盆の上に集める。
「やはり女子がやってくると、部屋の中が華やかになるな」
偉そうに、また腕組みをした空楽が言い放つ。
「あれ。藤原はんもオナゴどすやろ」
有紀のセリフに空楽がズバリと答えた。
「ヤツの場合は分類が違うのだ」
ズパン!
「なるほど~」
花子は、正美が渡してくれたお盆を受け取りながら、納得したようにうなずいた。
「なんで不破くんのオデコから消しゴムが生えているのかと思ったら、そういう理由だったのね」
額から生えているようになっている消しゴムが二つになった空楽は、ソファの上でひっくり返っていた。
「もう、みんなも来る頃だよ」
由美子の横を通り過ぎながら花子が告げた。
「もう、そんな時間?」
壁の時計を仰ぎ見る。まだ通常の始業時間とは言い難い時間であったが、蔵書整理を委員たちにやらせる立場の由美子にはやることがいっぱいあった。もちろん副委員長の花子がそれを補佐する。
「今日は何番台だっけ?」
「一〇〇の残りと、二〇〇が全部」
モバイルを閉じながら確認する。花子は由美子の湯飲みも、飲み頃のお茶に交換しながら、今日の蔵書整理を行う範囲を告げた。
「それで最後?」
彼女の好意を受け入れて、由美子はお茶に口をつけながら確認した。
「うん。そのはず」
花子は応接セットにお盆を置き、自分が使っている机に戻ってきた。
「新しい本は昨日運び込んでおいたし、他の棚に紛れ込んでいた本も、あっちに出してあるし、今日は早く終わりそう」
司書室と図書室を区切っている壁には、学校司書が図書室内を監視できるように大きな窓が作られていた。その硝子越しに雑誌コーナーを見る。
本来ならば窓際の雑誌ラックと、座り心地のよい一人用ソファが並んでいる区画は、一時的に家具がカウンター側に寄せられ、工事現場で使うような大きいブルーシートが広げられていた。
図書分類ごとの本棚からそこへ本を抜き出して来て山積みにし、とりあえず清掃作業を施した後、間違って混じっていた本は抜き取り、本来なら並んでいるはずの正しい順番に整理する。それだけではない、蔵書目録などと比べて紛失などのチェックも行ってから本棚に戻さなければならない。
春休みの間中、一日一分類程度の遅いペースで進められてきた作業である。残りの本棚を片付け、間違って置かれていた本を本来あるべき棚に戻せば終わるはずである。
蔵書の多さから人海戦術が唯一の有効的な手段ではあるが、いくら由美子が睨みを効かそうとも、春休みに真面目に仕事をやりにくる図書委員の数は決して多くはない。
さらに、手伝うところか、こうして遊びに来ている連中もいるわけで…。
「ハナちゃん、ハナちゃん」
二人して「やっとここまで来られたわね」という空気でお茶を飲んでいたのに、その雰囲気をぶち壊すように後ろから正美が声をかけた。
途端に由美子は口がへの字になったが、おとなしく優しい花子は、付き合いよく微笑みさえ浮かべて振り返った。
「どうしたの?」
「藤原さんと作っている小冊子だけど、表紙のイラストを描いて来たんだ。ハナちゃんにも見てもらって、ドレがいいか選んでもらおうと思って」
「へ~、よく描けてるわ」
花子は湯飲みを机に置き、まだイラストに目を通す前から正美の絵を褒め始めた。まあ彼が美術部の部長である事も、また彼の絵の腕前も、この一年間で把握していることなのだから、幾分見切り発車の褒め言葉にも間違いがなかった。
ケント紙を何気なく受け取り、めくった手が止まった。
(ひきっ)
花子の瓜実型の頬が硬直すると、薄く形の良い唇が変形した。慌てたように紙束を正美に返却すると、顔の下半分を手で覆って隠してそっぽを向いた。
「わ、(プッ)わたし、(ププッ)ちょっとのどが、か、(プッ)かわいて」
まるで熱病に襲われたかのように、ヨロヨロと司書室の出入り口へと向かう。
「ちょ、ちょっと(プッ)みずを(ププッ)みずのんでくるね」
そのまま感極まったように廊下へと駆けだしていった。
「?」
不思議そうに見送る一同。開けっ放しになった司書室と廊下を隔てる扉の向こうから、早春の冷気が流れ込んでくる。
「~~~~~!!!」
遠く誰もまだ登校していない校舎の方から、絹を裂くような悲鳴にも似た音声が響いてきた。
「なにごとか?」
心配そうに扉を見る空楽に、正美は感心したように手にしたイラストを見おろした。
「いや、こんなにハナちゃんにも受けるとは思わなかったなぁ」
正美が見ていたのは、例のカリカチュアした由美子の似顔絵であった。どうやら本人の前で笑うことが失礼だと思って、トイレの個室へでも駆け込んだらしい。
「そもそも、オマエがこんな絵をかくのが悪いンだろ」
由美子の拳が炸裂し、正美は作業用テーブルの下まで飛んでいった。床に撒き散らかされたイラストを丁寧に拾い集めると、由美子はすべての原因となった一枚に手をかけた。
「あ、藤原さん。なにを…」
「こうするに決まってンでしょ」
テーブルの下からやっと這いだしてきた正美に見せつけるようにして、由美子はその一枚を破った。一枚が二枚になるどころではない。二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六、三十二、六十四、百二十八、二百五十六、五百十二、千…・・・。紙吹雪になってしまった。
「ああっ、ひどい」
「ひどいのはどっちだよ。人を笑い物にして」
バッとちょっと早めの桜吹雪のようにまき散らす。そして他の表紙用イラストを掲げると、正美に訊いた。
「他のもこうすっか?」
正美は音速を超える勢いで首を横に振った。
「そ。じゃ、そこ片付けといてね」
紙吹雪で汚れた床を指差してから自分の机へ行き、とりあえず正美の作品を置く。この中で表紙に使えそうな物は無いが、別の物を描かせる時間も無さそうだ。本人が風景を描いたつもりのどれかを、後で修正させることになろう。
「なあ、恐ろしいだろう」
空楽は純真な新入生に教えを授けていた。
「あんな横暴な藤原さんのことを、我らは『拳の魔王』と呼んでおる」
「なンか言ったか?」
ギロリと睨み付けると応接セットの方が静かになった。代わりといっては何だがどこか遠くから複数の話し声が近づいてくる。話している内容や、声からして花子が先程言った「みんな」というやつだろう。
一〇人に足りない人数の男女が図書室の方の入り口から顔を出した。由美子は今日の作業を打ち合わせるために、司書室から出て行った。
からかう相手がいなくなってしまうと、自然と部屋が静かになった。それを待ちかねていたのか、ソファでお茶とカリントウを嗜んでいた有紀が口を開いた。
「優輝はんは、今日の受付時間知っています?」
「はい」
真横からの質問に、被った帽子に表情を隠して優輝が答えた。
「たしか一〇時からだったと」
「う~ん」
有紀は壁の時計を見上げると、さして問題にしていないような声を出した。
「先に上がって、荷物の整理とか始めます? 荷物は昨日届いとるはずどすから」
「大丈夫でしょうか?」
不安げに無表情を曇らせる優輝に、こちらも甘い微笑みを続ける有紀が告げた。
「このガッコはすきな校風どすから、そう片肘はらなくても大丈夫どすよ。先輩方も優しい人ばかりどすし、寮監のオバチャンもええ人どすよ。さすがにやくたいかけっぱなしやと嫌われてしまうでしょうけど、大抵のことは大目にみてくれますよ」
「はあ」
有紀の怪しげな方言と、顔に維持されている微笑みに毒気が抜かれたのか、優輝が目をパチクリと瞬かせた。
「それに」
有紀が人差し指を立てる。
「そろそろ朝飯の時間どす」
朝飯という単語を聞いた途端に、空腹を感じ始めるというのもおかしな話しだが、始発電車でやってきた優輝も、確かになにも口にしてはいなかったため、グウと腹の虫が鳴った。
「それいいな」
半ベソで床を箒で掃いていたはずの正美も反応した。
「久しぶりに寮のご飯食べるのも」
「おや。権藤はんは飯抜きどすか?」
「徹夜でイラスト仕上げて、藤原さんに見せに来たから」
正美はチャッチャと掃除道具を片付けると、表紙用イラストを入れてきた大判のファイルをリュックへとしまいこんだ。
「おいよー」
ガラステーブルの反対側からも素っ頓狂な声が上がった。
「俺らも研究所にいたから、朝飯食ってねぇだよ」
これで腹ぺこが四人。自然とソファに座る残りの一人に視線が集中した。いつの間にか腕組みをしたまま目を閉じていた空楽が、黙って左手を挙げる。
「決まりどすな」
有紀が腰を上げてみんなを誘った。座っていてもそれなりの肩幅があって、隣に座っていた優輝が縮こまっていたが、こうして立ち上がると身長もそれなりに高く、綿の入った半纏の上からも引き締まった肉体が察せられるほどの偉丈夫であった。
「で、でも」
それに抗議するように優輝がソファから彼を見上げた。とても威圧感を感じさせる。それが判っているのか、有紀の顔からは甘い微笑みは消えていなかった。
「こんなに員数外の人間が押しかけても…」
「寮で三どんしてくれるオバチャンはスゴイどすよ」
甘い微笑みからハッキリとした笑顔に切り替えて有紀が言った。
「このくらいの人数なら、なんとかツジツマあわせてくれるんどす。それに後輩が先輩の誘い断るのはいけへんことどすよ」
「はあ」
気を呑まれた返事を優輝がしていると、眠たげに眼を開いた空楽が、左手を挙げたまま尋ねた。
「酒はつかんのか?」
「朝からどすか? それに寮での飲酒はご法度どす」
「ふむ残念。だが腹が減っては、戦はできんからな」
空楽も腰をあげた。
「そうと決まれば善は急げどす」
有紀が促すように再び笑顔を作り直した。由美子にはあまり近づくなと言われていた人たちであるが、目的地は同じであるし、なにしろ食欲という物は「人間の」というより「動物の」基本的な欲求である。誘われた優輝も腰を上げた。
「あねさん、この子を寮に案内してますね」
有紀が、開けっぱなしになっていた図書室との境にある扉から、そう大きくない声で呼びかけた。するとパタパタと足音をさせて、後から来た生徒たちと打ち合わせしていた由美子が戻ってきた。
「松田くん、よろしくね。新入生だからってイジめちゃダメよ」
まるで転入生を気にする保母さんである。
「ナギサくんも、ガッコ始まって困ったことがあったら、図書室を訪ねに来てね」
「お世話になりました」
キャスケットを被ったままであったが、優輝は由美子へ丁寧に頭を下げた。
「そないなら、いきましょう」
有紀を先頭に五人は廊下に出た。有紀の横には混血児であるらしい明実が並んだ。この白衣を羽織った少年も、その血筋のなせる業か身長が高かった。その代わりといっては何だが、太さの方はまったく無くてヒョロヒョロとしている。二人の後ろに優輝が続き、その後ろに空楽と、正美が並んだ。肩からリュックを提げた正美はどちらかというと平均身長であったが、空楽は有紀と同じかそれ以上に筋肉質で、さらにとても真っ直ぐな姿勢をしていた。
中性的で身長が低めの優輝から見ると、電信柱に囲まれて連行されている気分になってくる。
すると廊下の向こうから大分消耗した様子で花子が歩いてきた。どこかで存分に笑いこけて疲れたようだ。
「あれ? 帰っちゃうの?」
「飯をよー、ごちそうになろうと思っての」
明実がいいかげんな日本語で答えた。
「あ、そうなんだ。じゃ、またね」
気軽く手を振る花子の正面に、空楽が立った。
「ハナちゃん…」
その真剣な眼差しに、何事だろうと花子が目をパチクリとさせた。まるで過ちを犯した過去を懺悔するような口調で空楽は告げた。
「カリントウは残しておいてくれ」
「はいはい」
いつもの調子の空楽に、花子もいつもの笑顔になった。
花子と別れた五人は、階段を一階に降りた。階段の脇にある非常口周辺は複数の靴が放置されていて、臨時の生徒昇降口となっていた。
どうやら蔵書整理のために集まった図書委員たちもココで靴を履き替えたらしい。優輝も自分の靴をその中から見つけて履き替えた。
「スリッパ…」
優輝は自分の温もりが残るスリッパを取り上げた。他の先輩たちはどうしているのだろうと見てみれば、正美はあの大きなリュックから靴袋を取りだして、脱いだ上靴を収納していた。寮生の有紀はというと履いているのは上靴とも下足ともとれる運動靴であり、替える必要は無さそうだった。不思議なのは空楽で、手ぶらの割にはいつの間にか上履きからスニーカに交換されていた。履き替える前の靴がどこから現れたのか、また履いていた上履きがどこに消えたのか確認できなかった。
「そんじゃーよーぅ」
白衣の裾をなびかせながら明実が手を出した。
「俺らは靴、昇降口だからーよ。ついでに返してくるよー」
「さき、行ってていいか?」
なぜか偉そうに空楽が訊ねると、明実は大して気にしていないように言った。
「すぐに追いつくだーよ」
「あ、あの…」
遠慮気味に優輝が履いていたスリッパを差し出すと、重ねて気にするなというように明実が笑顔を作った。
「じゃあ、あとでーの」
明実はそのまま教室が並ぶ校舎の方へ歩き出した。
「こっちどすよ」
有紀が校舎の外周に位置する両開きの鉄扉に手をかけた。そこから外へ出られるようになっているらしい。
扉のすぐは裏口として利用されているらしく、年季の入った木製の下駄箱が一つ置いてあるコンクリート製の三和土であった。用務員の手による物らしいだいぶペンキの剥げたスノコが敷いてある。
そのままコンクリート製の床はトタン屋根と共に、幅を幾分か減じて北へ延びていた。
「寮には渡り廊下で行けるようになっているんだ」
正美が優輝の後ろから説明した。
ほぼ校舎と向かい合わせに大きな建物が建っていた。
「あっちは体育館ね。水道を挟んで建っているのが格技棟」
入り口までは便利がいいように、渡り廊下が分岐して通じていた。その分岐を挟んで建っている小振りな二階建てに、正美の器用そうな指が向けられた。
「かくぎとう?」
聞き慣れない単語に優輝が首をわずかに傾げた。
「あれ? 受験要項に書いてあったでしょ。ウチのガッコ、柔道か剣道かどちらか必修だよ」
「ちなみに俺とユキちゃんは剣道だ」
空楽が正美の横から口を挟んだ。
「そういえば柔道を選択しているのって、他にいたっけ?」
自身は柔道選択である正美が首を捻った。
「他にはツカチンぐらいじゃないか?」
「そうかもね」
「余計なお世話やけど、体育の更衣室は格技棟の二階にありますから、新学期から迷わないようにね」
有紀が親切に教えてくれた。
「先輩は、やっぱり剣道部なんですか?」
優輝は先に立って歩く広い肩幅の少年に訊いた。
「あたしは帰宅部ですよ。ま、寮生活そやし帰寮部かな?」
「でも手に…」
優輝の目線が有紀の左手に注がれた。そこには特徴的なタコが小指と薬指の付け根にできていた。竹刀を握る人によくできる特徴の一つだ。それに気がついた有紀は、恥ずかしそうに右手で左手をさすった。
「うちの剣道部はレベルが高いから。そういう自分は何部が希望どすか?」
「そうですねぇ」
優輝は目を細めてトタン屋根から、すっかり夜が明けた青空へ視線を彷徨わせた。
「中学の時は天文部でした」
「ほう。星が好きどすか?」
「いえ、深夜に徘徊していても怒られないので。コンビニでマンガを立ち読みするのが主な活動内容でした」
「あ~。寮にもいてますな、夜に抜け出してコンビニ行く人。あとで抜け出し方、おせてあげましょう」
「よろしくお願いします」
そんな話しをしながら渡り廊下を北上すると、右手にテニスコートが、左手に八角形をした建物が見えてくる。
「あれが講堂ね。入学式とか式典はだいたいあそこでやるんだ」
気のいい正美が新たな建物を解説してくれる。
「毎回一人か二人、体育館のほうに行っちゃって入学式を遅刻しちゃうんだ」
「俺は道に迷わなかったぞ」
空楽が偉そうに口を挟んだ。
「ただ寝過ごしただけだ」
結局、遅刻はしたらしい。
四人は、まるで要塞のような鋼鉄製の扉に行き着いた。とは言っても年中開けっぱなしで、閉められるとしたら大火災が発生した時の延焼防止のためだろうと言われていた。もっとも手入れなどされていないのは一目瞭然なので、いざというときにそうできるのか些かの不安がつきまとう。
鋼鉄製の扉をくぐると、あの高等部校舎を包囲している刑務所のように高い壁の外側である。
「はわ」
そこには雑木林が広がっていた。古き武蔵野の自然を残してあると言えば情緒深いのだが、単に土地を遊ばしてあるだけとも言える。その雑木林の中を渡り廊下は一直線に伸びていた。ただ足元に敷いてあったスノコは、ここまで面倒は見きれないのか無くなっており、コンクリートの上を直に歩いていかなければならない。
やがて木々の梢に隠されていたように、二棟の木造建築が目に入ってくる。向かって右側は薄桃色のペンキで、左側は水色がかったペンキで、それぞれ化粧されていた。
「あれが男子寮どす」
水色の方の木造建築を指差して有紀が言った。よろい下見張りの壁をしたなかなか風格のある建物である。渡り廊下を挟んだ女子寮とは同じ造りであるようだ。
渡り廊下自体は、そこでも分岐して大きく西へ向かっていた。まだまだ先があるようだ。
(どこまで続いているんだろう)
森の中へ消えていく渡り廊下を見ていると、優輝の考えが判ったのか正美が教えてくれた。
「この先はね。旧校舎とか、倉庫とか、大学の管理になるけど記念図書館とかがあって、最後は中等部の校舎に繋がっているんだ」
「旧校舎?」
優輝がスイッチを入れたように瞬いた。
「ま、科学部が怪しげな実験とか、カップルが逢い引きとかに使っていたが、な。昨年、老朽化で倒壊した」
「老朽化で倒壊ぃ~」
空楽の説明に正美がツッコミを入れる。
「あれって、どう考えてもヒロシと御門のせいだよね」
「老朽化だ。そういうことになっておる」
空楽は言い切った。
「ま、いいか。ナギサくんは用事がなければ行かない方がいいよ」
取り敢えず納得することにしたらしい正美が、造り笑いで優輝に向いた。
「な、なぜです?」
優輝が聞き返すと、突然、正美の声と雰囲気が変わった。
「夜な夜な、首と両腕を無くした学ラン姿の幽霊が歩き回っているらしいよぉ~」
「ああー。どこの学校にもあるヤツですよね。三年三組には居ない者がいるとか、屋上から戻るときには左足から入らないと呪われるとか」
優輝は怪談を信じない質なのか、能面のような表情に細波も立たなかった。
「ちょ」
つまらなそうに正美は口を尖らせた。
「まあ、古さだけはここら辺では一番みたいだから、そないな話しも多いどすやろ」
有紀が目を細めて笑って言った。その表情はまるで巨大なチェシャ猫のようでもあった。
寮は男女ともに渡り廊下を挟んでいる面が正面入り口のようであった。そこからさらに北側に、小さいながらも手入れが行き届いた洋式の庭園風の景色が広がっており、低い垣根と鉄筋を曲げて作った藤棚兼用のアーチが外からの訪問者が使う入り口となっていた。
「さてと、コホン」
有紀は改まって咳払いなんかをして優輝に向き直った。
「おいでやす銅志寮に。これから同じ寮生として仲良うやっていきましょう」
「こちらからも、よろしくお願いします」
優輝がキャスケットごと頭を下げると、腕組みをした空楽がうんうんとうなずき返した。
「俺からもよろしくだな」
「不破はんは寮生ではおまへんどすやろ」
有紀が甘い微笑みの中に苦笑いのような成分を混ぜる。
「慣れへん生活に加えて、色々とやることが多くて大変かと思いますが。入学式まで、あと一週間ほどしかないので、頑張ってね」
「はい」
しかし優輝は人間が一週間で出来ることを父から教わっていた。それだけの時間があれば、小学生から見たら全世界とでも言えるべき物を失うことができるのだ。
たとえそれが、真面目に働いていた男が小心者の女を娶り、生まれた二人の男の子たちと囲んでテレビを見ながらわいわいと夕食を食べる、日本では当たり前に転がっている手垢のついたような幸せでも、だ。