エピローグ
梅雨に入ると、太陽の観測は、天候のせいで毎日は出来なくなった。いちおう昼休みに集合するが、いつも太陽に向けている装置の電源を入れるまでもなく、今日の観測も終了となっていた。
あちこち白いガーゼが残った手で、和紀は天文年鑑を開き、新しい用紙を挟んだクリップボードを筆箱の横に置いた。
暦から明日の観測に必要なデータを書き写していくためだ。
「意外に字が綺麗なんだよな」
向かい側に影が差したと思って顔を上げたら、舞朝であった。彼女は和紀の手元を見ながら感心した声を出した。
旧天文台の火災からは半月ぐらいたっていた。歴史ある木造建築として価値があった白い建物は、真っ黒な恐竜の化石のように焼けてしまった。あれではどのような保険鑑定人でも全焼判定であろう。保存会の人たちは、焼失を残念がっていた。だが狂った殺人鬼が放火するなんて、想定の範囲外の事であろう。
とても強い火勢だった割に、どういった自然条件が発生したのか、一瞬で火が全て消えるという唐突な終わりを迎えた火事であった。消えた現象は未だ消防署で検証中らしい。なまじっか通報を受けて向かっていた消防車から、その不思議な現象を消防官たちが目撃してしまったので、有耶無耶にすることも出来ないようだ。
何となく火が消えた原因を知っている気がする和紀は、最後に建物から一緒に避難したクラスメイトを見上げた。
「?」
高等部の制服を着た舞朝は、肩から前に回した長い三つ編みを弄りながら、不思議そうに和紀を見つめ返した。
「なんか、あたしの顔についているのか?」
「いや」
その瞳はいつもの色だった。
あの後、和紀の腕の中で気を失った彼女には、屋上から二階におりてからの記憶がほとんど無いようだった。それがもう一つに人格が現れたせいなのか否か、専門家でもない和紀には判断ができないことだった。
「いつつ」
幸い彼女は火傷の類は一切負っていなかった。全身のあちこちに引きつったような痛みがある和紀とは大違いだ。ただこうしてよく観察すると、肌が陽に焼けたような印象があるのは気のせいだろうか?
「マーサさあん」
和紀が舞朝を観察していると、横から栗毛の美少女が飛び込んできた。豊かな胸が揺れる度に、なにやらカチャカチャと硬質な音がした。
「ダメですよマーサさん。男となんて話してちゃ」
火事の翌日に、屋上で何があったのかは三人から聞いていた。まず直巳が(本人は今でも否定しているが)異次元の科学技術を応用した珍妙な発明品で自爆し、刀身がきれいなガラスのナイフで立ち向かった愛姫は、ナギサが刑事から奪っていた拳銃で撃たれたそうだ。
だが、こうして見る愛姫に異常は見られない。さては不死身…、ということではなく撃たれる前から、防弾ガラスと同じ材質で造られたナイフの一本を、懐に呑んでいたらしい。おかげで愛姫は、服に焦げ穴が開いたものの、着弾の衝撃で気絶した以外に怪我一つ負わずにすんだ。
これも着弾位置を『五分未来』で知っていたからできた芸当だろう。
その『五分未来からやって来た時間旅行者』が舞朝の腕を引っ張った。
「気をつけないと、ハゲが伝染しますよ」
「ハゲじゃないし!」
脊髄反射で叫び声が出た。そりゃ火事の中で舞朝を庇ったので、頭髪が焦げて短く刈らなければならなくなったが、高校球児のような丸刈りでもなく、少々カリアゲ気味になっただけだ。それにたとえ丸刈りだとはいえ毛根が存在している内はハゲではなくて…。
「ハゲじゃなくてボウズだし!」
その反論をジト目で見おろしていた愛姫は、残念そうな溜息をついた。
「無知って罪ですのね」
「無知ってなんだよ、無知って」
「それは、あなたの将来が…。おっと、これ以上は禁則事項でしたわ」
和紀は一瞬言葉を失った。
「それって、おれが将来ハゲになるってこと? なあ?」
そんな和紀を愛姫は含み笑いで見た後に、もう一度繰り返した。
「禁則事項ですから」
「どこに行くのかな? イロハ?」
ウガーッと和紀が怒鳴り出す直前のタイミングで、ヤマト先輩が声を上げた。
見ると竹箒を抱えた紺色の道着姿が、部室から出て行こうとしているところだった。
「止めてくださるな。武士の情けじゃ」
半分だけ振り返る彼女の前髪は、左側へ向けて斜めに失われていた。ナギサとの決闘で切られてそうなったと聞いたが、修正する気はないようだ。相も変わらず伸び放題の蓬髪で、あちこちに寝癖のようなハネすらあった。
美容院なりで整えれば、その不格好な前髪も直せて一石二鳥だと思うのだが、一丁たりともハサミを入れるつもりは無いらしい。
(まさか髪が短くなると能力が失われるとか?)
聖書だかにあるエピソードを思い出す和紀。
最後までナギサと戦っていた五郎八であったが、二挺目の拳銃を向けられた時は万事休すであった。
跳躍の能力は一日に一回しか使えないのだが、その一回は戦闘で使用してしまっていた。二回以上使用すると、体が衰弱して起き上がることも出来なくなるのだ。が、自分と友人を守るために無理を承知で使用して脱出した。
そのため彼女は三日も寝込むことになった。
しかし、そうやって拳銃の弾をすべて自分たちに撃たせて消費させたのも『五分未来』で、そうした方が良いと愛姫が判断していたからだそうだ。
「武士の情けってさあ」
ヤマト先輩が呆れた声を出した。あれから五郎八は、武者修行と称して剣道部に殴り込みへ行くことが多くなった。同じクラスの剣道部に聞いたところ、一番強いエースに戦いを挑んでは叩きのめされているらしい。その度に呼び出されて回収してくるのが、天文部の責任者であるヤマト先輩なのだ。「せめて自分で帰ってきて欲しい」とは、この前彼から聞いた一言である。
特に火事の中で鉄製のハシゴを下りるという経験をしたヤマト先輩は、両掌に火傷を負って、いまだ治療中だから苦労が多そうだ。
五郎八も鍛錬が必要なことは判っているようで、いまも抱えている竹箒は柄に鉛を仕込んだ特別製だ。それを部活中でも素振りをして筋力を鍛えるのに余念がない。一夏、剣道部のエースに揉まれたら体力もついて、自分で帰って来られるようになるかもしれない。能力だってもう少し使用回数が増えるかもしれなかった。
「さらばだ」
これから関八州を道場破りしながら渡り歩くといった風情で、結局ヤマト先輩の言うことを聞かずに出て行ってしまった。
ヤマト先輩は肩で溜息をつくと、壁の時計を見上げた。
「ちなみに平均タイムは、試合の申し込みから向こうの部長さんが携帯を取るまで、十五分というところですよ」
アイコ先輩がいつものとおり助言した。
火事で一番肉体的ダメージを受けなかったアイコ先輩だったが、あの後精神的なショックでしばらく寝込んでいた。薄情な直巳なんかは、そのまま部活どころか、学校自体を退学するのではないかと予想したほどだ。
(まあ、あんな物見ちゃうとねえ)
机に頬杖をついて、以前と同じ明るさを取り戻した彼女を見る。
火が消えた直後、裏手の方で女の悲鳴が上がった。
先に避難していたヤマト先輩とアイコ先輩は、助けが必要かと思って、砂利道を走って裏へ回った。
ハシゴの途中でギリギリまで粘って、部員たちの避難の様子を見守っていた小石と合流すると、三人してそれを見ることとなった。
旧天文台を囲っていた鉄柵に、頭から逆さに串刺しになった結木凪沙の死体を、だ。
後に現場検証した警察の見解によると、火に巻かれて叶を襲うことを諦めたナギサは、屋上へ戻った。
そこから脱出するには、外付けされた裏の階段を下りるか、隣接する詰め所の屋根に飛び移るしかない。
おそらくナギサは後者を選択し跳躍した。が、焦っていたためか、それとも踏切のタイミングで足元が崩れたか、飛距離が伸びなかった。そのままナギサは頭から落下し、むごい死に様を晒すことになった、というのだ。
ナギサに親しい人を殺された人たちから見れば、神による報いがあったと思えるほどだった。
火事にあって精神的に弱っていたところに、そんなものを目撃して、アイコ先輩が寝込んだのも無理がないと言える。なにしろ彼女は宇宙人でも未来人でもないのだから。
彼女が時間を置かずに立ち直れたのは、毎日お見舞いに行っていた男子のおかげかもしれない。
ヤマト先輩は傍らに立つアイコ先輩と顔を見合わせると、剽軽さを混ぜた仕草で肩をすくめた。
(もう大丈夫そうだな)
和紀もナギサの死に様を思い出しそうになって、思考を切り替えようとした。だがかえって脳細胞が刺激されて映像が蘇ってきてしまった。
人間ならば誰でもいつかは死を迎えることは、頭では判っていた。しかし葬式だってまだ一回しか出席したことのない和紀には、それが自分に降りかかるなんてピントが来ない話だ。ましてや右眼腔から首を通り左股の途中までを鉄の棒に突き刺さられて死ぬなんて、その痛みすら想像できない。
司法解剖で判ったことだが、心臓は鉄柵に刺さってもしばらくは動いていたそうだ。つまり今際の際に、その体を貫いた痛みを、脳はこれでもかと味わっていたことになる。
(だめだ、だめだ)
和紀は頭を振った。
舞朝を背負って、なんとかバルコニーの残骸から降りた後、もしかしたら加勢が必要かと彼女を叶にまかせて、彼も現場に駆けつけていた。
誰かが照らした懐中電灯の光の中で、ナギサの体は腕から脚から胴体までも、まだビクビクと痙攣をしていた。
自分がこんな形で、死出の旅路に強制的に旅立つことになったことが、信じられないといった表情で、見開かれた左目がこちらに巡らされたような気がした。
大きなわめき声のような泣き声を上げるアイコ先輩。彼女を抱きしめて慰めるヤマト先輩。そして小石は何かの宗教儀式であるような呪文のような物をつぶやいて、地面に何か祈りの言葉を書いていた。
彼の信仰する宗教は置いておくとして…。
今度こそ気持ちを切り替えるために、和紀は視線を窓際のいつもの席へ巡らせた。一人だけ部員の輪から外れた位置に、新しいシーツを被った叶が居た。
今日も人の視線は苦手なようだ。
彼女も又、事件後は消沈していたようだ。元々がローテンションな彼女だが、さらに発言が少なくなっていたし、彼よりもつき合いが長い舞朝がそう言ったのだから間違いないだろう。
叶は右手にパペットを填めてくることをやめていた。
あれから渋い中年男性の声を出すこともない。本当にあのライオンに宇宙人が宿っていて、あの瞬間に帰還していったようだ。
友を失って落胆するのは判るが、事情を知らない大人から見れば「お気に入りのヌイグルミが火事で焼けたって? そりゃあ残念だ。早く次のヌイグルミを見つけるがいい」程度の事だろう。
(どうにかして元気づけられないかな)
和紀はシーツ姿を見つめた。その頭に手がかかった。
両手で彼の頭を掴んだ舞朝が、自分の方へ顔を強引に向かせようとしていた。
「いでで」
首の筋をちがえそうなほどの強引さだ。無理に抵抗するほどの事でもないので、素直に彼女の方へ顔を向けた。
意外なほどのドアップで、彼女が怒った顔をしていた。
「こら。ナナは見られるのが苦手なんだから」
「ちょっとだけじゃないか」
不満を示すように口を尖らせると、今度は舞朝が顔を赤くした。慌てて和紀の頭から手を離して飛び退いた。
「?」
話が分からない和紀が不思議そうな顔をしていると、マジックテープを開く音がして、金属製の筒がコメカミに押しつけられた。
「このっ、けだもの! いま、わたくしのマーサさんにキスをしようとしたでしょう!」
「冤罪だ」
務めて冷静に言いつつ和紀は、座ったまま両手を上げた。
愛姫が、彼に小型の回転式拳銃を押しつけているのだ。
「その身で、このアイリスの性能を試します?」
「あのさあ」
銃を突きつけられているというのに、緊張感なく和紀は訊いた。
「普通は銃で撃たれたら、それを嫌がる心理の方が大きくなるんじゃないの?」
「あの時、わたくしは悟ったのです」
和紀から銃口を外した愛姫は、恍惚を感じているような、どこを見ているのかハッキリしない目で、自分が握る拳銃を眺めた。
「これからは火力の時代だと!」
「はいはい、それでそのオモチャに行き着いたわけね」
「わたくしのアイリスはオモチャなどではありません!」
さっと窓の方に向けると、判ってやっているのか、それとも偶然か、叶が鉛筆を一本だけ机の上に立てたところだった。
標的を確認と同時にトリガーが絞られた。服などに引っかからないようにシェラウドで覆われたハンマーがダブルアクションで起き上がり、リバンド機構を解除しつつ雷管めがけて落ちた。銃口からは弾丸と一緒に、発砲炎の眩しい光と、硝煙が吐き出され…、無かった。
パシュと圧縮されたガスが抜ける音と共に、白くて丸いBB弾が発射されて、緩い放物線を描いて鉛筆に命中して、カタンという軽い音をさせて倒した。
いくら『五分未来からやって来た時間旅行者』でも女子高生は女子高生だった。アイリスと名付けたその拳銃は、本物の銃器ではなくエアーソフトガンなのであった。
「オモチャじゃん」
「たとえオモチャだとしても」
銃口が戻ってきた。
「この距離ならば、そうとう痛いと思うのですが?」
「わかったわかった。降参」
下ろしかけていた両腕をもう一度気張って上げた。
「それでは、次に何かありましたときに、返してもらう貸しということで」
愛姫はにんまりと微笑みを強くすると、見事なガンスピンを決めた後に後ろ腰に、ナイフケースの代わりに巻くようになったナイロン製のホルスターへ銃を収めた。大きめの蓋をしてしまえば、ただのウエストポーチに見えなくもなかった。
「ふわふわの触感…」
叶のつぶやきが聞こえてきて和紀は振り返った。窓際の席に座る姿勢は変わらず、ただシーツだけが滑り落ちて彼女の顔が露わになっていた。シーツが、まるで聖職についている女性が纏っているベールのようだ。
叶は左手で天井を指差すように高く掲げていた。その表情は静かに瞼をおろし、心の平静に務めているようにも見えた。
「それに黒いチョコレートのような触感が混じって。温かい色…」
彼女の黒い瞳が開かれて、まっすぐに和紀へ向けられた。
「うまく行かないものね」
「?」
どうやら話しかけられたらしいと認識し、和紀は口を開くことにした。
「一つ訊いてもいいか」
「…」
特に否定もせず、シーツの下に隠れもしないので肯定と取ることとした。
「オマイのウチって何屋?」
「それを知ってどうしようと言うの?」
質問に質問で返して叶の首が横に倒された。
「いや、宇宙じ…、『ナイハーギー』ってドコに住んでいるのかなって思って」
「こらこら」
舞朝が横から口を挟んできた。
「女に家のことをあまり訊くなよな」
それにあまり根掘り葉掘り訊くと「設定」の矛盾点が出てきてしまうかもしれない。それで今までのぬるま湯のような関係が変わってしまったら嫌だと言外に言っていた。
「お父さんは社長さん」
「え?」
意外な単語にビビる和紀。
「お母さんは、その会社の経理」
「っーと、ナナは社長令嬢なのか?」
「零細企業だけどな」
どうやら叶の家を知っているらしい舞朝が補足した。
「へえ~」
さらに好奇心が刺激された目で和紀が見ていると、それで自分が彼の視線に晒されていることに気付いた叶は、シーツをたぐり寄せて、また頭から被ってしまった。
「ほらあ」
コツンの拳で和紀の頭を小突く舞朝。
「ナナは見られるのが嫌だって言ってるだろ」
「うん、まあ、その。ごめん」
慌てて視線を手元に戻した。観測用紙への必要な書き込みは終わっていた。
「さて、片付けるか」
「そうだな」
舞朝も明るい声で部室となっている地学講義室を見まわした。
「こうして誰一人として欠けることなく無事だったんだから、お茶するぐらいはバチは当たらないよな」
その言葉を聞いて、彼女の横に居た愛姫が、微笑みを少しだけ変化させていた。
和紀はその理由を知っていた。彼自身も憶えていないのだが、どうやら天文部の一年生に、もう一人男子が居たらしい。彼も男女同数だったはずのクラスで男子だけ一人少なくて欠番があるとか、入部前の見学希望者のノートに知らない名前があったことで、そういえば誰かいたかもなと判る程度であったが。
普通とは違う天文部の四人は、彼について憶えていた。
「彼はアレだ」
最初に教えてくれたのは、やっぱり私服で部室に顔を出した直巳であった。
「他の次元からの存在を投影された者だった、ということにしておこう。それもディメンションセーリングテクニックを応用すれば簡単にできることだ。彼の目的? さすがにそればかりは推察するしかないがね。これも僕の推察だが、彼は平行世界で暮らしていた、ナギサの攻撃から逃げおおせた最初の被害者だったんじゃないかな。あまりにもナギサの酷い所業に、なにか技術的課題を突破して、他次元の我々にナギサの危険性を知らせにやって来たのではないかな」
「違います」
直巳の推察を真っ向から否定したのは愛姫だった。
「彼は違う時間軸に今でも存在するマーサさんの同級生ですわ。そちらの時間軸では、あのような惨たらしい事件は起きずに、とても平和に暮らすことができていたと思います。ただ、同時に別の時間軸に存在してしまったので、わたくしたちには不思議な存在として知覚されたのだと思いますわ」
その愛姫の意見を、大きな黒眼がちの瞳でじっと見つめて、違うという意思を示したのは叶だった。
「彼の電波は、すでに粘土草咲き乱れる海王星の衛星まで届いていたもの。宇宙を満たすエーテルで眠るヨグ=ソトスがその電波を受けて、彼の夢を見た。ただそれだけ」
「ええと、つまり?」
あまりにも斜め上な言葉に目を瞬かせていると、シーツから顔を出して纏めてくれた。
「彼は記憶の残滓」
結局判らなかった。
「そうではござらん」
つまらなそうに首を振ったのは五郎八だった。
「それがしは接続も使用できるが、それによるとこの世の無念のあまりに霊界から這い出してきた霊魂だな」
「イロハって、そういうのとは違うかと思ってた」
素直な感想に、どことなく偉そうに答えが返ってきた。
「死者との会話も能力の内だ」
(つまり、もう一人いたのは確実なんだな)
優輝は再び叶越しに外を見た。外は相変わらずの梅雨空で、夏の到来はまだ先のようだった。
「だから!」
グイッと再び首が捻られた。
「あだだ。やめろよ! しいちゃん、マジ痛いんだって」
「その呼び名を使うなって言ってるよな」
キリキリと舞朝の眉がよせられた。
「前々から不思議だった」と前置きをしてシーツの中で叶がこちらを見た。「その『しいちゃん』という呼び名の由来を知りたい」
「ナナ!」
「わたくしも知りたいですわ」
未来に起きることなら何でも知っているはずの愛姫までもが賛同した。
「簡単なことだよ」
和紀は腕を組んで言った。
「こいつ学芸会で、村人Cの役だったんだ」
…。
目を点にした愛姫が叶の方を見た。もしかしたらシーツの下で叶も目を点にしていたかもしれない。
「もちろん、おれはその時主人公な」
胸を張る和紀に、ふくれっ面になった舞朝が、ぶうたれた声を出した。
「ほら、だから嫌だったんだ」
「わかったよ。これから名前で呼ぶことにするからさ、マーサ」
和紀の茶目っ気たっぷりのウインクに、舞朝の頬が赤くなった。
梅雨の時期には壁にも水滴が生まれているような気がするほど、学校の廊下という物は湿気が籠もるところだ。冬にはまるで外を歩いているような冷え込み方をするし、もう少し利用者に優しい作りでも問題は無いと思うが、やはり利用する人間の大多数が十代の若者だというのが、廊下の環境が悪いままの理由なのかもしれない。もちろん「若い内は贅沢するな」という教訓をその肌で感じろという教育ではなく、ただ単に経済的問題なだけの気もする。
特にC棟の廊下は、両側が特別な作をしているために、窓を設けることが難しくて、換気が悪いのだ。
どこか別の用事で出かけていた小石は地学準備室へと戻ってきた。勝手知ったる我が家と同じで、遠慮無く扉を開けて室内に入ると、そのひょろ長い背姿が揺れた。
理由は単純である。そこで生徒が待っていたからだ。
「や、やあ。どうした?」
特徴的な丸めがねを人差し指で定位置に戻しながらも、小石は戸惑った声を出した。
狭い地学準備室には腕組みをした遊佐和紀が立っていた。
「天文部でなにか問題か?」
「ええ、まあ」
いつものヤンチャな態度をどこかに落としてきたような、とても年相応の顔で彼はうなずいた。
組んだ肘を右手の指で叩いていたり、爪先がパタパタと動いていたりと、どうやら相当いらついている様子だ。
「そうか…」
眉を顰めながら無精髭などいっさい生えていない顎を撫で回しながら、小石はちょっと堅い声を出した。
「まさか天文部をやめたいなんて言うんじゃないだろうね」
「それは、これからの先生の話しによります」
「おや」
自分の顎を撫でるのをやめた小石は、両手を開いてみせた。
「顧問が気に入らないから部活をやめるって言うのかい? こりゃ先生も反省しないとなあ」
小石は和紀の前を通り、窓際に押し込むように並べてある応接セットのソファに座った。
「まあ、とりあえず座ったら」
「遠慮します」
普段の天真爛漫な顔からは想像できないほど真剣になった和紀は、小石の対面にあたるソファの脇に立った。
「で?」
両肘を自分の膝に置いた前傾姿勢で小石が訊いた。
「気に入らないことがあるのは構わないんだが、勝手に準備室へ入るのは感心しないな」
各準備室は原則的に大人が管轄する範囲であり、清掃などの雑務も基本大人たち自身が行うことになっていた。成績や授業関係の書類、また一般生徒が扱うには高価すぎると考えられた実験道具などが納められているというのが理由であった。
「それは、人殺しのための武器が置いてあるからですか?」
「は?」
想像の範囲外の言葉に、小石の体が硬くなった。ぎこちない動作で瞼を動かして、微笑みを作り直した。
「何を物騒な…」
「おれの予想では、金属製の長い板状で、片方に刃がついたような物だと思うんですが。そうですね、いわゆる鉈と言っていいような武器かな」
「鉈?」
小石は苦笑のような物に顔を変化させ、首を捻った。
「ちがったかな? そういう形なら叩くによし、裂くのによし。便利な道具だから、おれはてっきり鉈かなって」
「キミが何を言っているのか判らないよ」
そういいつつ丸めがねの位置を修正する小石。指で半ば隠されてはいたが、その鋭い眼光は一層輝きを強めていた。
「なんで、そういう突拍子もない話が出てきたのかな?」
「おれはですね、考えたんですよ」
右の人差し指をコメカミに当てた和紀は、考える顔を作って言った。
「あの火事の時って、不自然にナギサが現れたなあって。それにアイツ旧天文台の構造にも詳しかったし」
「まあ五人も殺した殺人鬼だから、下調べでもしていたんじゃないかな」
「天文部が行くのが決まってからですか? 下調べに行くにしても、そんなに時間が無かったじゃないですか。それにあんな交通の不便なところ、誰か車が運転できる人が協力してくれないかぎり、行くだけでも大変でしょ」
和紀はまっすぐと小石を見据えた。
「話は飛びまくりますが、先生がアイツの入学を推薦したんですってね」
「だから先生が彼女とグルだったと思われてもなあ。その点は警察に何度も訊かれたよ。けど、誓っていうが、先生は彼女に懐かれはしていたけど、教師と教え子の関係だったよ。それ以上でも以下でもないよ」
「なんの教師で、なんの教え子だったんですか?」
相手が絶句する様子を、ニヤリと見ながら和紀は訊いた。
「アイツに襲われて頭カチ割られた刑事さんに聞きましたよ。警察は『ペテロ』とかいう別の殺人鬼を捜していたって。手口って言うんですか? それが似ているから、すっかりそいつの犯行だと思っていたと。でも結果論ですが、それは違った。今回、清隆学園の周りで行われた連続殺人事件はアイツがやった。そのことは、アイツの部屋から出てきた殺人日記や、持っていたスマホのデータで確実です。でも、その方法をどうやって覚えたかは判らなかった。警察は模倣犯がでないように『ペテロ』に関する事は報道規制していたというのに、その手口はあまりにも似ていた」
「偶然という事もあるだろう」
小石がなんとか切り返そうとした。
「それか、以前の犯罪も彼女が行った可能性も…」
「殺人日記には、これで何人殺したかまで書かれていたそうですよ。それなのに前の犯罪までアイツですか?」
発言は許さないとばかりに和紀は言葉を被せた。
「おかしいなと思って、ちょっと調べてみました。そうしたら判ったんですが、この学校にはアイツのような生徒が集められているんですね。とくに二年生には『人喰い』までいるそうじゃないですか。他の学校なら考えられない」
「それは学園の理事会の方針が、優秀でありながら問題を抱えている生徒の受け入れに前向きなだけで…」
「みんな、先生の推薦を受けているんですよね」
再び声を被せて黙らせた。
「たくさんの先生が推薦した中の一票だよ」
短い反論。
「連続猟奇事件を起こす人間の心理なんか、おれじゃ窺い知れませんけど『ペテロ』は後継者を求めていたんじゃないですか? そのために、全国各地から過去に色々あったけど、成績は優秀な者を集めている進学校という、後継者探しに有利なココに『ペテロ』は目を着けた。先程の刑事さんが教えてくれましたよ『ペテロ』の事件には、『ペテロ』がやったと判るハッキリとした特徴があるって」
覆い被さるように和紀の上体が傾けられた。
「第一に都内では事件を起こさない。これは自分が住んでいる近くで犯罪を重ねると、足がつきやすいからじゃないかって言ってました」
和紀の脳裏に、頭に痛々しいほど白い包帯を巻いた厳つい男と、会談した時のことが蘇ってきた。彼はしきりに「同僚が言ってたんだけどね」と言い訳のように言っていた。
「今回のアイツも、清隆学園の敷地では人を襲わなかったという類似性がありますけど、事件は都内で起こしてました。これって教え子自身が猟奇殺人をするのがやめられなくて、先生に言われたことを中途半端に守ったせいじゃないですか」
肩をすくめただけの小石を見おろして和紀は続けた。
「第二に殺し方。『ペテロ』は被害者を撲殺した後に、ふとどきな行いをするそうですが、アイツもそうしていた。まあアイツがおかしくなった原因である、アイツの親父さんも同じ手口だったらしいんで、どっちが原点かはもう判らないけど」
小石は丸めがねの位置が変わらないように右手で押さえたままになった。
「第三に死体の飾り方。アイツはキリストだかの最後の言葉を書き添えてたそうだけど『ペテロ』も短い言葉を添えるらしいじゃないですか」
和紀は唾を飲み込んだ。
「あの時おれ、先生がつぶやいていた事を聞いちゃったんだよね。『Domine,quo vadis?』って。これって十二使徒であるペテロが、ローマから逃げだそうとした時に、自身の前に現れたキリストへ問うた言葉ですよね。そして殺人者の『ペテロ』の名の由来は、この言葉が必ず死体に添えられているからだそうで…」
「例えばだが」
やられたからやり返すといった感じで、今度は小石が和紀に言葉を被せて黙らせた。
「その後継者として彼女を育てている殺人者が、先生だとしてだよ」仮定と言うことを強調してから「なぜ先生は彼女を旧天文台に呼ばなきゃいけなかったのかな?」
「そらあ始末するためでしょ」
あっけらかんと和紀が言った。
「さっき言ったとおり『ペテロ』は、都内での犯行を避けるというルールを自分に課していた。でも出来の悪い教え子は、自分の周りで始めてしまった。このままじゃいずれ教え子は警察に捕まり、芋づる的に自分にまで捜査の手が伸びてくるかもしれない。よって自分のルールに則って、わざわざ餌であるおれたちを山梨県での観察会に連れ出したんでしょ。おれの記憶が確かなら、旧天文台って言いだしたのは、先生だったはずだ。そして先生は、企んだとおりに教え子を始末した。おれたちがいる前で何らかの物証を残すわけにもいかなかったから、例の文句は口頭で死体に添えられた。地面に書いてたのも同じ詩文かな?」
「それじゃあ先生が彼女を殺したって言うのかい? あれは跳び損なったゆえの事故だったんじゃないのかい」
「あの時、避難していたヤマト先輩とアイコ先輩が、ナギサの悲鳴を聞いたのは正面入口の前だった。それから反時計回りで翼棟の端の方へ走って、死体を発見することになったんだけど、先生と合流したのは、その途中だそうですね。三人が屋上から降りたハシゴはドームの裏側についていたから、先生が時計回りで翼棟の方向から来ていたということになります。でも、それって遠回りになりませんか? おれが考えたのは、先生はギリギリまでハシゴに留まっており、ホールでの出来事もハシゴから窓越しに見ていた。そして屋上へアイツが逃げたことを知ると、これ幸いとハシゴを登って屋上に戻った。あの亀裂をどうやって越えたかはまだ分からないけど、一緒に逃げようとか何とか言って、アイツと一緒に屋上の端まで行った」
「男と女が屋上で二人きりになって、片方が落ちて鉄柵に刺さって死んだ。疑いは落ちなかった男にかかった」
小石は、感情が消えた声で言った。
「まあ鉄柵に刺さったのは偶然かもしれないけど、あの高さからだったら頭から落ちれば助からない。そして出来の悪い教え子を片付けることができた先生は、崩れかけた裏の階段を伝って地面へ降りた。あの階段、一人が一回だけなら残骸を伝って下りることは、できそうでしたからね。そうして地面におりた犯罪者は、犯行現場からなるべく距離を取ろうとしたが、その途中でやってきた先輩方に出くわしてしまった」
和紀はパンと手を叩いてから広げて見せた。これで彼の仮説はお終いという合図のつもりであろう。
小石は咳払いをすると、屈んでいた腰をのばして真っ直ぐに和紀を見た。
「たしかに面白い仮説だけど、穴も幾つかあるね。まあ、変な風に言いふらさなければ、先生は怒るつもりはないけれど」
「別に小石ちゃんが犯人だなんて言っちゃないですよ。あくまで可能性の問題です」
和紀も自分の説に無理があるのが判っているのか、肩を一回だけすくめた。
「まあその穴も、偶然が先生に味方したと考えたら可能でもあるけどね」
いい頭脳合戦でしたと評せんばかりの小石。
「それだって、証拠の一つも提示できないんじゃ、意味はないね」
「証拠なら、いまさっき、できたんですよ」
ニヤリと和紀が笑った。
「?」
「先生、さっき結木凪沙のことを『五人も殺した殺人鬼』って言ったんですよ」
「そうだったかな?」
「なんでアイツの被害者が五人だって知っているんですか?」
和紀は指折り数え始めた。
「入学式直前に女子中学生。次は幼稚園で殺されたOL。ネットに動画がアップされた女子高生。そして大怪我をした刑事さんと一緒に襲われたもう一人の刑事さん。ここらで起きた事件の死亡者は四人じゃないですか。五人目の、そして最初にアイツが殺人を犯した地方都市での男子中学生の事件は、警察は他県だったこともあり『ペテロ』の仕業だと思っていて、アイツの殺人ノートから知ったばっかりなんですよ。マスコミにだって、まだ発表してない」
沈黙が地学準備室に訪れた。
「ええと、言い間違いか聞き間違いじゃないか?」
「再生してみます?」
和紀は懐から会話録音のアプリを作動させているスマートフォンを取りだして振ってみせた。
「じゃあ先生の勘違いかもな」
小石が微笑みを取り戻して言った。
小石は窓の外を確認し、廊下へ続く扉を見、そしてスチール製の扉のついた棚へ目を走らせた。
そのどこにも異常を発見しなかった彼は、言いにくそうに訊ねた。
「まさか、それだけで先生が犯人ですって訴え出すつもりはないよね?」
「もちろんですよ」和紀は、スポーツ愛好者のみが出せる爽やかさでうなずいた。「ただ、これ以上おれたちに危害を加えるっていう存在が居るんだったら、こちらも全力で戦うつもりがあると言いに来たんです。先生にとっておれたちは何ですか? 敵ですか? 味方ですか?」
小石はふうと大きく息をつくと、丸眼鏡を押し上げながら言った。
「今も君たちは先生の教え子だよ」
その言葉を睨んで聞いていた和紀は、教材などが散らかしてある部屋で唯一施錠してある棚を指差した。
「で? そこにしまってあるのは鉈なんですか?」
「望遠鏡だよ」
丸めがねに隠された鋭い目が光った。
「高価い望遠鏡の部品だ。人が地上にいながらにして、遠く天界まで見通せるような望遠鏡の、ね。なんなら見せようか?」
小石はソファから立ち上がると、白いスラックスのポケットから鍵束を取りだした。
「ええ、お願いします」
和紀は狭い室内で小石に道を譲った。
「ちなみに、私たちにも見ていますから」
突然、地学講義室と繋がっている扉の方から声がかかって、小石は真剣な表情で振り返った。そこには天文部のほとんどのメンバーが顔を揃えていた。
「…」
交差する視線。するといつもの爬虫類的な笑みを取り戻した小石は、鍵束をクルクルと回した。
「そうだった望遠鏡は火事で焼けてしまったんだっけね。無い物は見せられないか」
「まあ、そういうことにしておきましょうか」
和紀は肩をすくめた。緊張して掻いていた冷や汗をそっと拭いながら、ゆっくりと仲間たちの方へ歩き出した。
渡り廊下の先。梅雨でシトシトと何もかもが湿っている世界の中で、その屋根の下から清隆学園高等部男子寮『銅志寮』を見上げる小さな影があった。
腰まであるような長い髪を一本の三つ編みにしている、どこのクラスにでも一人ぐらいはいそうな美少女。弓原舞朝である。
彼女は不思議そうな顔をして、薄い水色に塗られた『銅志寮』の外壁を見上げていた。
「あらあ?」
立ちすくんでいる彼女を、『銅志寮』から出てきた者が見つけた。
「あなたは確か、橋本ンとこの…」
なぜか男子寮である『銅志寮』から出てきたのは、制服姿の気の強そうな瞳が印象的な女子だった。
「あ、先輩。こんにちは」
その女子、図書委員会委員長藤原由美子を見知っていた舞朝は丁寧に頭を下げて挨拶した。
「あに? あなたも男子寮に用事?」
大きめの封筒だけ持った由美子は、彼女のところへ歩み寄ると同じように『銅志寮』を振り返った。
「いえ。用事っていうほどのものでは…。先輩は?」
「あたしはコレよ」
と言いつつ封筒を指で弾いて見せた。
「寮生の一人に頼んでおいた会報のイラストを取りに来たのよ」
女子が唯一入ることができることになっている面会室で、〆切りを守れなかったイラストレイターが、泣きながらも先程までかかって仕上げた作品である。
「じゃあ寮内のことは判るんですか?」
「ん? まあ、ちょっとは」
「二階の十三号室って、今は誰が入っているんです?」
「二階に十三号室なんて無いわよ」
即答されて舞朝は絶句した。
「部屋割りが寮監のところに貼りだしてあるけど、下から上まで各階十二号室までしか無いみたい」
さっきまで、イラストが完成を待っている間、暇だったのでそれを眺めていたのだから間違いない。
「なんかあったの?」
少なからぬショックを受けたように見える後輩を気遣って由美子は優しく訊いた。
「いえ。きっとあたしの憶え違いです」
舞朝は長い毛先を揺らしながら校舎の方へ振り返った。雑木林の中をトタン屋根付きのコンクリート通路が伸びている。
「そう? なンなら訊いてきてやろうか?」
「いいんです」
「そ」
由美子は委員会が月刊で出している会報に、回収したイラストを間に合わせるために、渡り廊下を歩き始めた。
とくに用事が無かった舞朝も釣られるように歩き出した。
「天文部ってさ」
空間から切り取れるような湿気で重い空気を嫌がったのか、由美子は舞朝に話しかけた。
「夜に観測会やるんでしょ」
「今月は無理そうですけど」
チラリと厚い雲を見上げる。
「そうだね。でも今度やるときは教えて。あたしも参加したいかも」
「いいですよ。一般生徒の参加も受け付けていますから」
参加者が多ければ楽しいし、さらに天文部が活動しているという証拠にもなって、それが学園側に認められれば部活動の予算アップにも繋がる。
「あれ? 見学者かな? こんな時期にめずらしいな」
由美子が、向こうから歩いてくる一団に気がついた。
一人は、学園の事務局で働いている事務員のお姉さんである。色々な手続きの時にお世話になるので、大概の生徒は顔を見知っていた。
もう一人のスーツを着た男性は、見たことのない人物だった。おそらく二人の間を歩く髪の短い女子の保護者ではないだろうか。
真ん中を歩く見慣れない制服を身につけた女子は、緊張からかとても硬い顔をしていた。
地方出身らしい化粧気もない純朴そうな女の子であるが、その右頬に醜い傷痕がついているのが気の毒に成る程だった。二人はこれから男子寮に隣接する女子寮を見学するらしい三人に道を譲った。丁寧に頭を下げあいながらすれ違う双方。
距離が近かったため向こうの会話が耳に入ってきた。
「マコト。本当にこちらを受験するのか?」
どうやら少女とは顔立ちが似ていないが、スーツの男性はやはり保護者のようだ。
「はい」
はっきりと意思の強い答えが返された。
「ゆー兄ちゃんが来ようとして、来れなかった学校ですから。私がゆー兄ちゃんの代わりに通って、ゆー兄ちゃんの代わりに卒業します」
どうやら兄弟が亡くなったらしい。そういえば舞朝が籍を置く一年三組には、上京前に亡くなった男子が一人いたとかで、空席が一つあった。
《好きってことさ》
道を譲った位置から、その見学者の少女に重ねて、見知らぬ誰かの聞き慣れない言葉を幻聴した気がして、舞朝はしばらく小さな背中を見送っていた。
「どうしたの?」
由美子に声をかけられて我に返った。
「なんでもありません」
きっとそれは季節が起こした幻だったのだろう。舞朝は日常へ戻るために歩き出した。
おしまい




