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オペレーション・コード;エルフ  作者: 池田 和美
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歓喜の歌



「よ~し、ついたぞ~」

 古いディーゼルエンジン特有であるカロカロというアイドリングの音をさせながら、ここまでみんなを運んできたオンボロマイクロバスが停車した。

 運転していた小柄な男は、ウインド越しに建物を見上げた。運転席のスイッチを入れると「みー」と気の抜けたブザー音と共に、車体中央部の折り戸が自動で開かれた。

「お? お?」

 窓越しに外を確認ながら期待たっぷりの声を出しているのは遊佐和紀であった。活動的な彼は青と黒のマウンテンパーカーにイージーパンツという屋外で行動するのに適した格好であった。

「やっと着いたか…」

 和紀の前の席で半ばグッタリしているのは弓原舞朝である。こちらもロングニットとロングプリントTシャツを重ねてモノトーンチェックのレギンスパンツという動きやすい格好であった。五月とはいえ山の気温はまだ冬のままなので、寒さ対策としてピーコートを持ってきてはいるが、長く揺られて気分が悪くなり、今は脱いで脇に置いてあった。

「大丈夫ですか?」

 横から近藤愛姫が心配そうに彼女に顔を覗き込んだ。さすがに舞朝の体調を考えて、ベタベタと触らないようにしていた。モデルのような体型の彼女は、サスペンダー付きショートパンツにプチハイネックのボーダープリントTシャツを合わせていた。もちろん寒さ対策に長い脚は黒いハイサイで覆い、男物の三つボタンジャケットを持参してきていた。

 心配される舞朝の顔色は、完全に青くなっていた。

「すまんなあ。気をつけて運転したつもりなんだが」

 運転手だった赤味のチェック柄のシャツにジーパン姿の青年が、さして気にしていないような口ぶりで言った。

「いや先輩のせいでは…」

 なにかフォローの一言でも返そうと思っていた所に、外へ飛び出していた和紀が帰ってきた。

「天文台とか聞いてたから、どんなに凄いトコだろうと思ってたら、なんだよこの前の合宿所じゃん」

 口では文句を言いながらも楽しそうな和紀であった。

 ここは富士五湖近傍にある清隆学園所有の合宿所である。

 舞朝たち新一年生にとっては、四月最初の週末に合宿ホームルームなる研修会で世話になったばかりの場所である。よって名古屋から東京に戻ってきたばかりの和紀にも見覚えがあった。

「今日はここに荷物を置いて、身軽になってから旧天文台にお邪魔することになっているんだ」

 車酔いが酷いため、席から立ち上がることもできない舞朝を心配した前田直巳が、愛姫のさらに向こう側から彼女を覗き込んでいた。愛姫がガールズモデルとしたらボーイズモデルと言って遜色のない彼は、ベージュのチノパンにモノトーンの細かい千鳥格子のテーラードジャケットを合わせていた。暖房の効いた車内では持ってきた緑色のコートは脱いだままだ。

「だから君も荷物を運べ」

 直巳の命令口調にも観測会への期待感の方が大きいのか、特に機嫌も悪くした風もなく、和紀は荷物を積み上げた最後部へ行って、自分のバッグに手をかけた。

「手伝うよ」

 荷物の脇に座っていた渚優輝が立ち上がった。高速を降りてからポケットから出した指輪越しに風景を見ていたが、いまはそれをダメージジーンズのポケットへしまっていた。上はもう彼のトレードマークといった感じの灰色をしたフード付きパーカーであった。

「外の空気を吸った方がいいんだぞ」

 背もたれを乗り越えるようにして小汚いライオンのヌイグルミが顔を出した。

 前の席に座った椎名叶が全身を覆うシーツ越しに心配げな視線を送ってきているのが判った。彼女はいつものシーツに包まれているために、今日のお召し物は全く判らなかった。ただシーツの裾が翻る度にダスティパステルのオリーブ色をしたハイソックスだけが見え隠れしていた。

「そうする…」

 舞朝は席から立ち上がろうとして、足元がふらついた。

「マーサさん」

 すかさず愛姫が支えようとしたが、それより先に通路にいた直巳が腕をのばしていた。

「大丈夫か? 弓原」

 声は心配げながら、どこか緩んだ顔で直巳が舞朝の顔を覗き込んだ。

「あ~、ごめんね、ナオミちゃん」

「前田さん。乙女のことは乙女におまかせください」

 すかさず立ち上がった愛姫は、舞朝の脇に体を入れて、全体で彼女を支えながら言った。もちろん直巳の手はピシャリと弾いてだ。

「おとめ?」

 直巳が不思議そうな顔になった。舞朝がそう他称されるのは納得できるが、もう一人が自称するにはいささか抵抗を感じたようだ。

「イロハ。ついたぞ」

 まず自分のバッグを肩にかけた和紀が、誰の物と区別しないでたくさんの荷物を抱えながら、いまだ着席したまま腕組みをしている久我五郎八に声をかけた。

「む?」

 体をピクリと動かして五郎八は周囲を確認した。蓬髪と言ったいいほど髪を伸ばし放題にした彼女は、今日もいつもと同じ道着姿であった。何日同じ物を着ているか心配になるが、不思議と臭いなど不潔感はまったくない。腐っても鯛というのと同じで、彼女もまた乙女なのであろう。

「これは面妖な。いつのまにか着いておる」

「寝てたのかよ」

 文句を言わないことをいいことに、優輝にも荷物を持たせながら和紀は訊いた。

「ふむ。それがしは『ちゅうおうじどうしゃどう』なる道を走っているのを見ていたと思ったのだが」

 首を捻る五郎八に、今度は運転手だった先輩が訊いた。

「つい勝負っけが出て、小石ちゃんをぶっちぎったあたりかな」

「うむ。たしかヤマト先輩が『れくさす』なる名前で呼んでいた車が、遥か後方へ消えた頃から覚えがござらん」

「れくさす?」

 先輩が目を点にした。

「小石ちゃんの車って、軽だぞ。しかもバン」

 もちろんヤマト先輩の小粋な洒落である。そう言ったヤマト先輩とアイコ先輩は、揃って天文部顧問の小石健介が運転する、その『れくさす』に乗せてもらっていた。

 清隆学園天文部は、新歓コンパを兼ねた「遠足」の時に決めた観測会を行うため、隣の県にある、かつての清隆学園天文台に遠征しに来たのだ。

 カタログ上は四人乗りの『れくさす』も、長距離運行を考えると以上の三人と、その荷物を載せたら一杯になった。

 残りの一年生と荷物は、大学の理学部に通う山奥(やまおく)槇夫(まきお)先輩にお願いし、彼所有のマイクロバスを出してもらっていた。

 彼も彼で、大学の深宇宙探査プロジェクトに一枚噛んでいて、新しい方の天文台に用があった。そこから観測しているのは、無機質な番号で呼ばれる一つの天体だ。それは深宇宙に存在し、周囲の宇宙空間に酸素が存在するようなのだ。それがどれほどの濃度で、どこまで広がっているのかを、理学部からの視点で意見するのが、山奥先輩の仕事である。

 どうせ近くの天文台に行くから、ついでに乗せていってあげるよという、後輩おもいの行動だった。

 折しも世の中はゴールデンウィーク初日。道は一般道だろうが高速だろうが混みに混んでいたが、観測会自体は星の出る夜間に行われるために、乗せてもらう部員たちは気楽な物だった。

 県境を越える頃には高速もちょっとは空いて、そこで勝ち気を出した山奥先輩が、小石の『れくさす』をぶっちぎり、その速度に比例して発生する振動と、整備など車検以外にはしたことは無いようなオンボロバスの足回りと相俟って、舞朝の不調に結びついたのであった。

 愛姫と直巳に挟まれて、舞朝は合宿所の砂利を敷き詰めた駐車場に降り立った。

「オイラはもう部屋が決まっているんだが、キミらはどうなのかな?」

 着替えなども置きっぱなしになっているのか、身軽なままでバスから出てきた山奥先輩が、誰ともなしに訊いた。

「さあ?」

 両手だけでなく肩にも脇にも荷物を一杯に抱えた和紀が首を捻って、同じくらい荷物を持った優輝を見た。

 富士の樹海に続くと言われている木々へ視線をやっていた優輝も、彼の視線に気付いて振り返ると、同じように首を捻った。

「僕に訊くなよ」

 直巳が先回りして言った。舞朝を挟んだ愛姫はいつもの通りに微笑んでいた。

「もうしばらくで向こうも到着するはずですわ。それよりマーサさんがつらそうです。あちらに」

 合宿所の正面に丸太を荒削りしたようなベンチが用意されていた。座るでもいいし、舞朝ぐらい小柄ならば横になることもできそうだ。

 愛姫の誘導で舞朝はベンチに辿り着いた。そのまま横に座った彼女の肩へぐったりと寄りかからせてもらった。

「ごめんな、アキ。重いだろ」

「そんな気遣いはご無用ですわマーサさん。わたくしとマーサさんの仲じゃないですか」

「…」

 いつもならツッコム場面だが、その元気も無いようだ。

「やっぱり、まだ車は苦手なのか?」

 合宿所正面は駐車場と違って、コンクリート製の三和土なので荷物をおろしても汚れないだろうと思ったのか、和紀は彼女のまわりに荷物を降ろして身軽になった。

「小学生の頃じゃあるまいし」

 と睨み返そうと試みるが、まったく迫力が伴っていなかった。

 その時「ぷっぷー」と間の抜けた音が聞こえてきた。見ると駐車場入り口から白いバンタイプの軽自動車が進入してくるところだった。

 運転席で丸めがねをかけた小石が苦笑いのようなものを浮かべて手を軽く振った。助手席はヤマト先輩で、二人の間からアイコ先輩の顔ものぞいていた。

 小石は軽を頭から駐車スペースに突っ込ませた。そうすればバックドアをフルオープンにして、積んできた備品の望遠鏡などを降ろすのに楽だからだ。

「荷物、手伝わないと」

 直巳が言うと、先に和紀が動いた。一年生の男子三人が近寄る頃には、小石たちも降りてきた。

「はやかったねえ」

 温かそうなドット柄のパーカートレーナにネイビー系チェックのキュロットというファッションのアイコ先輩が感心した声を出した。そのドットも一つ一つが猫の姿をしているという可愛らしい模様で、彼女らしい服装と言えた。

「あっという間に見えなくなるんだもの」

「先輩がいきなり『道ってのはなあ、オレの後ろにできるモンだぁ』って叫びだしたときはどうなることかと」

 和紀が、運転手のスイッチが入った瞬間を思い出しながら言った。

「また、あの先輩ったら」

 使い込んだスタジャンにダークグレーのソフトジーンズという格好で、たぶん自分とアイコ先輩の荷物を肩にかけたヤマト先輩が苦笑のような物を浮かべた。

「するってぇと」

「去年も遠征を手伝ってもらったことがあってね。その時もそんな感じだった」

「ちなみに、セリフまで同じでしたよ」

「望遠鏡頼んでいいかな?」

 白いダウンジャケットにこれまた白いロングパンツという、いつもの白ずくめのファッションをした小石が、自分の物と思われる荷物を持ってヤマト先輩に話しかけた。

「先生は手続きに行ってくるから」

「了解っす」

 部長の代わりに和紀が元気の良い答えを返した。

「積みっぱなしでも、いいんじゃないですか?」

 ヤマト先輩が不思議そうに聞き返した。望遠鏡は大きく鏡筒と三脚に分けて荷役用の毛布に包んで載せてきていた。

「いや、ここから別の車に乗る予定なんだ」

「あ、そうなんだ」

 ヤマト先輩が納得している間に、小石は山奥先輩のところへ行った。

「バス。ありがとうございました」

「いえいえ。こっちの予定は一週間なんで、帰りは無理だと思うんですが」

「帰りは駅まで往復して、生徒には電車で帰ってもらいますから」

「そうですか。まあ、もしかしたら暇かもしれないんで、一度は声をかけてみて下さい。駅までの往復ぐらいなら手伝えますよ」

「すみませんねえ。じゃあ様子をみて」

「気にしないで下さい。これもかわいい後輩のためですから」

 そんな会話を交わしながら二人は、そのまま一年女子が溜まっている横を抜け、合宿所正面の自動ドアをくぐっていった。

「じゃあナオミちゃんは三脚を先に、オイラが筒を運ぶから」

「ぶつけたり落としたりするなよ」

 実を言うと三脚の方が重心を安定させるために重かったりするのだが、直巳は特に和紀の意見に反対することなく、三脚を舞朝の座るベンチ脇まで運び、そこに展開した。

 後から反射式望遠鏡を持った和紀がそれを三脚へ載せて、彼が支えている間に直巳がボルトを廻して接続した。ユラユラ頼りないのはバランサーを展開していないためだ。それも手際よくネジで調整すると安定した。

 優輝が『れくさす』から、これらを包んできた毛布を抱えてきて、万が一にも転倒した場合を考えて三脚の下へわざと山になるように置いた。

「ごくろうさん」

 望遠鏡が落ち着いた頃に、自分の荷物を持ったまま小石が自動ドアから戻ってきた。合宿所の職員と一緒である。

「人数が少ないから、ここで簡単に入所式をやってしまおう」

 小石は自分の荷物も部員たちの荷物と同じ所に置いて、部員たちに声をかけた。部員たちが緩く整列した。グロッキーだった舞朝も愛姫に支えられて並んだ。

「はい、それでは合宿所の副所長さんからの挨拶です」

 小石に紹介されて、まだ若い職員はペコリと頭を下げた。

「みなさん、こんにちわ」

 爽やかに挨拶されて部員一同も挨拶を返した。

 女子は「こんにちわ」とちゃんと言えていたが、男子は「こんちわっす」とか「ちーっす」とか、ちょっと真面目では無かったが、まあ高校生にしては良くできた方であろう。

「高等部の天文部の遠征ということで、みなさんはこの合宿所を利用したことがあるという前提で話しますね。建物は中央の管理棟を挟んで右が男子棟、左が女子棟になっており、それぞれが異性の入棟を禁止しています。学校行事の利用ということでは無いので、今日は一般のお客さんも利用していますが、そちらの方たちにも守ってもらっていますので、宜しくお願いします。お風呂は一七時から二一時まで利用可能となっていますが…」

 そのままいつものテンプレートの説明を続けようとして副所長の言葉が濁った。視線が小石に向けられた。

「我々は旧天文台で観測会を行うので、荷物を置いて休憩したら出発します。戻ってくるのは明日、日の出頃のつもりです」

「いちおう夜食として食堂でお弁当を用意しました。後で取りに来てください。また有料ですが、コイン式のシャワー室は二十四時間利用可能となっています。場所は管理棟一階の浴場脇になっています」

「それはありがとうございます」

 合宿所側の配慮に小石は頭を下げた。

「ただ二〇時以降は施錠してしまうので、建物自体に入ることができなくなるので、忘れ物など無いように気をつけてください。開くのは毎朝六時です」

「わかりました。我々は翌朝帰所して仮眠を取り、午後にはチェックアウトするつもりです」

「そうですか、了解しました」

 副所長が一同の顔を見まわした。

「それでは宜しくお願いします」

 どこまでも高原の風のごとく爽やかな副所長に、一同は礼を返した。ここでも女子は「お願いします」と言えていたが男子は「ウィース」とか「しゃーす」とか碌な返事を返していなかった。まあ五郎八の「世話になる」という固い言い方よりはマシであったが。

「じゃあ、望遠鏡はドコに運びます?」

 直巳が小石に訊いた。

「持って上がって、また持ってくるんじゃ大変だろ。ここに置かせてもらって大丈夫ですか?」

 後半は副所長への質問になっていた。

「風が吹いたりして倒れたら大変ですよ。ロビーの隅にでも移動しておいて下さい」

「了解っす」

 副所長へ直接和紀が返答し、望遠鏡に取りついた。そのまま三脚のそれぞれの脚を和紀、直巳、小石で持ち上げると、自動ドアをくぐってすぐのロビースペースへ持ち込んだ。

 ロビーは絨毯張りだったので、三脚では逆に安定しないようだ。一緒についてきたヤマト先輩が、ロビーから外れて配布物の並べられた棚の脇に立てておけるスペースを見つけてきた。

 合宿所は三人で一部屋を利用することが基本とされていた。事前に決めておいた部屋割りは、舞朝が愛姫と叶、和紀が直巳と優輝と一緒である。五郎八とアイコ先輩、小石とヤマト先輩の二人組はちょっとだけ部屋が広く使えることになるが、観測会の後は仮眠して帰宅するだけの予定だから、あまり関係ないだろう。

「再集合はいつにする?」

 望遠鏡がロビー脇に落ち着いたのを確認し、外へ戻ってベンチ脇に積み上げられた荷物の山から、自分のバッグを拾い上げながらヤマト先輩が誰ともなしに訊いた。

「ちなみに今日の日没は一八時半頃ですよ」

 アイコ先輩が蛍光塗料の塗られた腕時計を確認して言った。

「じゃあ旧天文台までの道を考えて、一六時ぐらい?」

「いや。足の確保はしてあるんで、もう少し後でも大丈夫」

 小石が丸眼鏡の向こうから目線を送ってきながら言った。

「じゃあロビーに一七時に集合ってことで。遅刻厳禁な」

 部長の通達に、気もそぞろな一同が思い思いの答えが返ってきた。

「大丈夫ですか?」

 そんな中で一人だけ足取りが重い者がいた。舞朝だ。

 車酔いが治らない舞朝を愛姫が支えた。二人の荷物は、ほとんど手ぶらでここまで来た五郎八が運んだ。

「ちょっと横になれば楽になるから」

 すまなそうに舞朝が言った。部屋に作り付けのベッドに横になるまで愛姫の手を借りるほどだった。

「それでは失礼しまして…」

「でてけ」

 ちゃっかり同じフトンに入ろうとした愛姫は、舞朝に蹴り出された。



 再集合まで自由時間となったが、合宿所の近所は、樹海の一部じゃないかという森しかないような立地であった。自動車などの足を確保しないとコンビニにすら行くことは叶わなかった。

 その森に、自然観察道ともっともらしい名前がつけられた散歩道が開いてあり、ヤマト先輩とアイコ先輩なんかはしばしの散策を楽しんだようだ。

 舞朝が元気ならば一年生たちも、そちらを冷やかしたりしたのだろうが、彼女は到着してすぐに横になってしまった。

 愛姫はつききりで様子を見ており、残された五人はやることもなく、まだ集合時間までたっぷりと余裕があるにも関わらずロビーに雁首を揃えていた。

 ロビーには利用者のための家庭用ボードゲームが数点置いてあった。

「あっ、また角を取られた」

 緑色の盤面を睨んだまま和紀が悔しそうに言った。対戦相手は直巳である。

「君もなかなか強いな」

 応接セットのソファに乗り出して座り、自分の顎に手を当てて思案顔を崩さない直巳が、和紀の大胆な戦略を評した。

「だけど…」

 角を取られた反撃に一列をひっくり返した和紀に、余裕たっぷりの表情を見せつけた。

「僕の方がもっと強い」

 次の一手で直巳の陣地を示す白色が一気に広がった。

「あ! ああ~っ! まったまった!」

「まったなし」

「うるさいぞ、おぬしら」

 日本発のボードゲームで盛り上がっている二人に、横から五郎八が不機嫌な声で横やりを入れた。

 彼女の前には碁盤が置いてあった。ただやっているゲームは碁ではなく五目並べであるようだ。

「うん。難しい局面だから、ちょっと静かにね」

 こっちは将棋盤の前に座る優輝。なぜか優輝は指で摘んだ輪っか越しに盤面を覗き見ていた。

「…」

「ドコからでもかかってくるんだぞ」

 ちなみに対面に座っているのはシーツ姿の叶であった。正確に言うと将棋盤に向かっているのは、右手から外したカインであった。もちろん駒を動かしているのは叶の手であったが。

 さすがに碁石はシーツ越しに確認できるから問題ないとしても、将棋の駒は判別が難しいらしく、シーツをまるでマントのように背中の方へ廻して顔を出していた。それで今日の叶のお召し物が判った。ダスティパステルのオリーブカラーで統一された服だった。透かし仕様の編みニットに、襟だけ白いブラウスを重ね、シフォンリボンで襟元を引き締めていた。濃い目のブレザーと合わせて、上だけ見るとどこかお嬢さま学校の制服のようでもある。ただ下は縞レースのキュロットに単色のハイソックスであるから、まったく肩の凝る服というわけでもなかった。

 全体的に煙ったように色がついているコーディネイトなので、彼女の白い肌が一層際だって見えるファッションであった。

「これでどうか?」

「こんな感じで」

 優輝と五郎八が同時に碁石と駒を打つと、叶が間髪入れずに、ただし動作は緩慢に動き出して、次の手を打った。

「「うう~んむ」」

 二人が同時に腕組みをして唸りだした。

「あ~、やめやめ」

 根気とは一番縁遠そうな和紀が足を投げ出した。どう見ても彼の敗色は濃かった。

「…」

 すると何を思ったのか、叶はすっと細い指を伸ばして和紀の前からコマを一枚取ると、緑色の盤面にピシリと音がする程はっきりと置いた。どうやら和紀の代わりに次の手を打ってくれたらしい。

「え?」

「あ…」

 和紀と直巳が呆然としている間に、次々とコマがひっくり返されて、盤面は黒色優勢に大逆転した。

「あ! ああ~っ! まったまった!」

 今度は直巳が悲鳴を上げる番だった。

「待ったなしじゃなかったけ?」

「ぐぬぬ」

「楽しそうだね」

 男子棟の入り口から声がかけられた。一同が顔を上げると部屋で着替えたのか、黒いトレーナーに黒いストレッチパンツという服に着替えた小石がやってくるところだった。

 駐車場で着ていた白いダウンは丸めて脇に持っていた。

「もう少しで光明が差すところなのだが」

「こっちも、考え中で…」

「まて、いま答えが出る」

 三人が頭の上から湯気が出るほど考え込んでいたが、小石は三つの盤面をざっと見ると、微笑みを強くして叶に向かって肩をすくめてみせた。

「…」

 無表情でその顔を見ていた叶は、将棋盤の前に座るカインを持ち上げると、彼で顔を隠してしまった。

「後は、彼らが負けを認めるだけなんだぞ」

 カインの渋い声に、三人が視線を交わし、そして同時にガックリとうなだれた。

「くやしいが、それがしの負けだ」

「投了する」

「認めたくないが、椎名の勝ちだな」

「へっへ~」

 和紀が持っていた数枚のコマを放り投げながら立ち上がった。

「どうだ!」

「いや。僕は椎名には負けたが、君には負けたつもりはないよ」

「にゃに?」

 和紀は直巳を睨み付けた。

「あの局面まで持っていたのは、おれの実力だぜ」

「でも君は、ほとんど勝負を投げていたじゃないか」

 あくまでも冷静に直巳は言い返した。

「よし! 白黒はっきりさせようじゃないか!」

「のぞむところだ」

「というところで…」

 パンパンと手が叩かれた。音がした方に振り返ると、二年生ペアが丁度散歩から帰ってきたところのようだ。

「時間切れだね」

「ちなみに集合時間はもうすぐですよ」

「もうそんな時間か」

 直巳は左腕に捲いたゴツイ腕時計を確認した。確かに副部長の言うとおりだ。

「えーと。ハドソンさんは?」

 ロビーを見まわしたヤマト先輩が誰ともなしに訊いた。

 いつもより二人ほど人数が足りなかった。舞朝と愛姫だ。

「こりゃ置いていくしかないかな?」

「遅れました」

 部長の呟きを聞いていたようなタイミングで、女子棟から愛姫を連れた舞朝がやってきた。

「おお、よかった」

「待っていたよ、マーサ」

「おぬし大丈夫か?」

 部員たちが口々に声をかけた。

「マーサさん。ご気分がすぐれないようなのでしたら、部屋でお休みになっていれば」

 支える愛姫が、微笑みを心配げに歪めて言った。

「大丈夫だから」

 いつも抱きついているという形で愛姫に右腕を取られているが、今は右から支えられているといった風情であった。その様子から舞朝の具合が伺えた。

「しいちゃんだけルス番はイヤか?」

 和紀がその様子を見て訊いた。

「その呼び方やめろ。それに一人で寝ているなんて、あたしは恐いよ」

「その時は、わたくしがついていますから」

 愛姫が自分の胸に手を当てた。

「それに…」

 舞朝は眉を顰めて言った。

「学園のまわりで起きてる事件も、刑事さんさえ犠牲になっただろ。みんなで一緒にいた方が安心なんだ」

「まあ、そうか」

 常識的に考えて、犯人がここまで追いかけてくるとは思えないが、女子が一人で取り残されるのも精神衛生上問題があると言えた。

「じゃあ弓原、行くか?」

「はい」

 小石の念押しに舞朝ははっきりとうなずいた。

「じゃあ出発しようか。準備はいい?」

「えーと、どうやって旧天文台まで行くんですか?」

 ヤマト先輩の質問に、どこか勝ち誇った微笑みで小石は外を指差した。

「あれで行こうと思うんだ」

 丁度そこに見慣れない乗り物が到着するところだった。

「なんだ?」

 まず落ち着きのない和紀が外に出た。後からわらわらとみんなが続いた。

 そこには、荷台だけのトラックといった風情の乗り物が停められていた。荷台の前方には数本のレバーとペダルがついており、足回りはタイヤではなくゴムキャタピラとなっていた。その謎メカの運転台には、来所したときに挨拶した副所長が座っていた。

「これが今回の秘密兵器『クローラー』だ」

「元々園芸用の機械なんだけどね。便利だから運搬用に使っているんだ」

 自分の手柄のように胸を張った小石の横で、副所長が説明してくれた。

「普通の車で行くと、県道を回らなきゃいけないからだいぶかかるんだけど。これなら自然観察道を通って近道ができるんだ」

「運転は?」

 もっともな質問をヤマト先輩がした。

「もちろん私がやるよ」

 答えたのが副所長だったので、ヤマト先輩が胸を撫で下ろした。その態度を一年生たちが不思議そうに見ているので、アイコ先輩が苦笑した。

「ちなみに小石ちゃんの運転は、ちょっと危なっかしいものでした」

 それでなんだか納得してしまった一同。

「ささ、はやく荷物を積みこんで。行くぞ」

 少々赤面したようにも見える小石がみんなを急かした。

「男子は望遠鏡を。女子はお弁当をお願いするよ」

 小石の指示通りに部員たちが動き出した。和紀、直巳、優輝の三人が、望遠鏡の三脚の足をそれぞれ一本ずつ持ち上げて、荷台で待ちかまえていた小石とヤマト先輩が受け取った。五人がかりとなればそんなに難しい作業でもない。

 その間に女子がビニール袋に入れてもらったお弁当箱を食堂から受け取ってきた。

 荷台に望遠鏡を立てたままにし、あとは部員が荷台に上がってしまえば準備完了である。立ったまま和紀が上から、座っている直巳と叶が下から三脚に手をかけて、望遠鏡が荷台から落ちないように支えることとした。残りは適当に車座に座ることになった。

「よし! しゅっぱーつ!」

 立ったままの和紀の号令で、甲高いエンジン音を立ててクローラーは歩くような速度で進み始めた。

 森の中の散歩道といった幅しかないが、クローラーはゆっくりと確実に地面を捉えて登っていった。ゴムキャタピラなので木の根を痛めることも少ないようだ。

「お加減はいかがですか?」

 隣に座った愛姫が舞朝を心配そうに覗き込んでいた。

「風に当たったら大分良くなった」

「そのようですね、安心いたしました」

 優しい微笑みをじっと見ていた舞朝は、決心したように口を開いた。

「なあアキ」

「はい?」

「あたしが今日の観測会に行くと、なにか悪いことが起こるんじゃないか?」

「それは…」

 口ごもる愛姫。それを見て舞朝の目がしばし泳いだ。

「昔、火事に遭ったことがあるんだ。あの時もこんな風に頭が重いような感じがしたんだ。悪いことが起きるときは、いっつもそうだ。なあ『五分未来』で判っているんだろ」

 ちょっとだけ固い表情になった愛姫は黙ってコクリとうなずいた。

「詳しいことは、わたくしの口からはなんとも…」

「ただ…」

 言い訳じみた愛姫のセリフを遮って舞朝は言った。

「今行かないと、もう会えなくなるヤツがいる気がするんだ。だから悪いことに繋がろうとも、あたしは行かなきゃいけない」

「それでこそ、わたくしのマーサさんですわ」

 愛姫は微笑みを作り直した。そして丁度観察道同士の交差点に来たクローラーの運転台を振り返った。

「そこを左にお願いします」

「?」

「一番近いラブホは、そこから道に出て左です!」

 こういう事を言うから、愛姫は余分なタンコブを作ることになるのだ。

「冗談ですから」とか小石が心配げな顔になる副所長に取りなしているのが聞こえた。

「運命論者なんだね」

 ふと気がつくと優輝が、愛姫とは反対側に座っていた。

「おかしいか?」

 体調だけでなく舞朝が眉を顰めると、優輝は顔もあわせなかった。

「運命か…」

 優輝はジーンズのポケットから『ジョセイニの指輪』を取りだして森に向けた。

「希望は悲しみにつづられているね」

「なんだ? その指輪でも悪い予兆が出ているのか?」

 なるべく軽い口調で舞朝が訊くと、優輝は肩をすくめただけで、再び指輪をポケットに戻した。

「???」

 それから何となくみんなが無口になり、クローラーに揺られているだけとなった。



「着いたぞ」

 突然視界が開けると、クローラーは旧天文台に辿り着いた。道が少し回り込むように続いており、そのせいで真っ直ぐに見通せなかったのと、建物と道の間に岩山のような溶岩があって視界を遮っていたせいだ。

 旧天文台は、木造の二階建てをした小さな建物であった。

 清隆学園が、樹海脇に所有している自然観察林の中にある丘に、ポツリと建てられていた。

 知らない者が見れば、大正時代に建てられた尋常小学校と間違えそうな、装飾が入った作りである。実際に建てられたのも戦前であり、その時は金持ちの好事家所有の天文台としてであった。戦後の財閥解体などの経緯を経て、清隆学園の所有物件となった。その後は、大学の天体観測に活躍したが、建物自体の老朽化や、観測機器の進歩について行くことができずに、引退が決定された。

 大学の研究の方は、少し離れた新天文台に引き継がれており、あとは解体を待つだけとなっていた。

 だが建築学的な視野から見れば、痛んでいるとはいえ戦前の様式を今に伝える貴重な建物である。よって、解体を惜しんだ地元の有志が保存運動を行い、その甲斐あって、この春から保存会がこの建物は管理する事になっていた。

 とは言っても保存にかかる改修などの諸経費を捻出できないでおり、今も新天文台の関連施設として清隆学園が実質管理している物件であった。

 外壁は優輝が暮らしている高等部男子寮『銅志寮』のように、よろい下見張りの壁をしており、白くペンキで塗られていた。が、さすがに人里離れた高台に建つせいか、何年にも渡る風雪により老朽化は、ペンキ程度では覆い隠せない物となっていた。

 天文台としての施設は、正面向かって左にある望遠鏡を収めた観測ドームが一番目立っているが、ドーム自体が入室することが危険なまで老朽化しており、使用されなくなってから久しかった。

 現在では正面から右側に当たる翼棟が、主に大学の天文観測関係者によって倉庫として利用されていた。

 同じ敷地には、裏手に当たる場所に、木造モルタル二階建ての詰め所が建っていた。こちらは、戦後の建築であるからまだ使用でき、研究者たちの宿泊所として使用されていた。

 現在、大学の深宇宙探査プログラムで(それでも、ここから車でしばらくかかるが)近所の新天文台に二四時間体制で詰めている研究者の寝床として、ポツポツと利用されているはずだ。

 反対側から伸びてきた舗装道路と、今まで進んできた自然観察道が直前で合流し、建物と同じくらい古びた鉄柵が敷地と森の境目を分けていた。この錆びた鉄柵も装飾過多といった風情で、槍騎兵の戦列のように尖った先を茜色に染まる空に向けていた。白い外壁とはそんなに離れて立てられておらず、レンガを組んだ柱を二つ並べて門とした正面と合わせて、建物の装飾の一部にも見えた。

 クローラーはその門の前で停車した。右側の柱に、風化で何も読めなくなった木札がかけられていた。

 舞朝が荷台から降りて木札を見上げると、かろうじて下半分の天文台という文字を読み取ることができた。

 門と建物は、小柄な舞朝の一歩分も離れていなかった。

 夕日に染められた白い外壁が、なにやら血で染めたような気がして、舞朝は建物を呆然と見上げてしまった。

 後からクローラーを降りてきた愛姫が、いつものとおり彼女の右腕に抱きついてきた。

「さあさあ」

 ヤマト先輩が、日没の迫ってきた中で部員たちを急かした。

 小石が何事かクローラーを運転してくれた副所長に話しかけていた。帰りの段取りかもしれない。

 載せたときと反対の手順で望遠鏡を降ろしている間に、お弁当の半分を入れた袋を持ったアイコ先輩が、目の前の大きな扉に手をかけた。残りの半分は五郎八が提げて彼女へ続いた。

「カギは、かかってないはずだから」

 後ろに着いてきた女子に説明しながら、副部長はノブに手をかけた。たしかにこんな森の中では不用心も何も、人がいないのだから問題なかろう。浮浪者が入り込んだとしても、研究者が頻繁に出入りはしているから、すぐに気付いて警察やら何やらに通報すればいいだけだ。それに盗まれて困る物も残っていなそうだ。

 威圧感さえある正面入口を開けると、円形のホールが二階まで吹き抜けになっていた。ホール中央には、天井の梁に取り付けられたフーコの振り子がゆらゆらと、地球の自転をコリオリ(りょく)のままに知らせていた。

 左の観測ドームへ続く大きな両開きの扉には最近の物だろうか黄色地に黒い文字で「Keep Out」と印刷されたテープが何重にも貼られており、間違っても立ち入らないように注意を喚起していた。

 円形ホールには、グルリと屋内バルコニーが巡らしてあった。もしかしたら振り子観察のためかもしれなかった。そこにがっしりとした樫で出来た階段が設けてあった。

「そっちに昔の守衛所があって、お湯が沸かせるから。望遠鏡はこっちに」

 入り口の扉を押さえたヤマト先輩が右への廊下を指差した。すぐの扉が開きっぱなしになっており、小さな何も残されていない部屋に、昭和の香りがする台所セットだけが残されていた。

 望遠鏡の三脚を一時畳んで一本の棒にして、一年生で抱えて正面の階段を上がっていく。ヤマト先輩は後ろから、ぶつけないように監督だ。

「お茶は、あとでいいかな?」

 アイコ先輩が流しにお弁当を置きながら振り返った。寒々しい部屋を覗き込むように見ていた舞朝と愛姫が首を傾げた。残り半分を持ってきた五郎八も、お弁当を置くと、蛇口に手をかけて水が出るか確認した。

「ふむ。使用されているようだ」

 錆水などでなく綺麗な透明の水流を見て五郎八が感心した声を漏らした。その横で、シーツをまた頭から被った叶がコンロのつまみを廻して着火するかを確認した。

「このヤカンを借りましょ」

 置きっぱなしになっていたアルマイト製のヤカンをアイコ先輩が持ち上げた。シンクに放り出してあったタワシで中をざっと洗って、水を張った。

 お茶葉と紙コップは、食堂のおばちゃんがお弁当と一緒に袋に入れておいてくれた。

「食べるときに、上で煎れた方がよくありません?」

 舞朝がよく判らないなりに提案した。

「それもそっか」

 言われたアイコ先輩も思い直して、ヤカンをコンロに置いただけで火を点けずに放置して、再びお弁当の袋を手に取った。

「向こうは入らないでね」

 正面ホールに出て反対側の扉が目に入ったのだろう。アイコ先輩が念を押して、階段を登り始めた。

「トイレは、今の部屋の脇にあるヤツだけ使って。他は使用禁止」

「一階だけですか?」

 舞朝の確認に副部長はうなずいた。

「他の階にもあるけど、止めておいたほうがいいわよ」

「?」

「誰も掃除してないし、水漏れするし、虫も出るし」

「げ、むしぃ?」

 舞朝の悲鳴のような答えに苦笑いで半分だけ振り返った。その様子から以前に使用して後悔する事態になったようだ。

「大丈夫ですマーサさん」

 ぐっと愛姫が拳を作った。

「いざとなったら、わたくしが受け止めて差しあげます」

「何を、どうやってだよ!」

「詳しい説明が必要ですか?」

「やめい!」

 舞朝が愛姫の腕を振り払うと、後ろから着いてくる五郎八が口を開いた。

「つまり、すかとろなる…」

「やめろって!」

「まったく」

 怒りを含んだ声が響いた。

「女の子が、そんな事を口にしちゃダメなんだぞ」

「す、すまん」

 ヌイグルミに叱られて頭を下げる道着を着た女子高生。それを見ていて舞朝は、なにか人類の尊厳が傷ついたような気がした。

 屋内バルコニーから翼棟二階の廊下に上がってすぐ横に、さらに上へと続く幅の狭い階段がのびていた。先頭を行くアイコ先輩は躊躇無くそこを登っていく。もちろん舞朝たち一年女子も続いた。

 左右の壁から圧迫感を感じた先に眺望が開けていた。

「うわあ」

 意識せずに声が出た。

 まず目に入ったのは山の稜線だった。いままさにそこへ沈まんとする太陽が、横から世界の全てを赤く染めていた。

 旧天文台の周囲には森しか無く、高台にあるという立地から木々の梢は全て目より下にあった。まるで毛足の長い緑色をした絨毯のような風景である。木の一本一本が横からの光線に影を長く引き、海の波のような情景を作り出していた。

 ちょっとだけ視界を遮っているのは観測ドームであった。全体が青色に見えるのは塗装ではなくて緑青のようだ。

 旧天文台の屋上は、かつて正面ホールから翼棟にかけて観測スペースとして整備されていた。その証拠に船の甲板のように年季が入った床には、数々の観測機器が固定されていたと思われるボルトが、赤く錆びたまま植えられていた。気をつけて歩かないと、足を取られて転倒してしまいそうになる。そんな屋上のほぼ真ん中、邪魔なボルトが少ないだろうあたりに、一年男子がえっちらおっちら運んだ望遠鏡がセットされていた。

 女子が夕陽に見とれている間に、慌てるようにバランサーを展開し、三脚の長さを調整して水平を取り、赤道儀の緯度を合わせにかかった。明るい内に面倒なことを済ましてしまい、後でゆっくりしようという作戦なのだ。

 それらは主に部長のヤマト先輩と、メカに強そうな直巳が行った。優輝は手を出したくとも何をしていいか判らない風情で、二人の手元を覗き込んでいるだけである。それを見て舞朝は、彼が中学校で使用していた望遠鏡に赤道儀が着いていなかったと言われたことを思いだした。

 もう一人の役立たずは、そんな殊勝な態度を取っていなかった。

「おお~。きれいな夕焼けだなあ」

 西側の手すりに集まった女子に混じって、和紀がのんきな声を上げていた。

 ヤマト先輩は顔を上げてチラリとこちらを見た。批難がましい表情というより、苦笑成分たっぷりの顔だった。

 三脚に装備されている水準器を覗き込んで、納得のいく位置になったのだろう、手をかけていた三脚の金具を締め上げると、赤道儀は直巳にまかせてやって来た。

「昼の観測で判ると思うけど、太陽も星だからね」

「でも、こうして見ると、明るすぎて別の物に思えます」

 いちおう相手が部長だからか、和紀の口調が変わった。

「そろそろ日没時間のはずだが…」

 ヤマト先輩が腕時計を確認した。

「あ! 一番星みーっけ!」

 のりは昭和の小学生であった。

「ちなみに一番星は、金星であることが多いんですよ」

 アイコ先輩も寄ってきた。

「金星?」

 和紀が目をキラキラさせて振り返った。

「金星って、水金地火木土天海の金星?」

「先生が習った頃は、水金地火木土天海冥だったんだがなあ」

 命令するでなし、生徒の自主性に任せて後ろで眺めているだけの小石がポツリと言った。

「ええ、そうよ。今日のあの星も、おそらく金星じゃないかな?」

「たぶんそうだろう。アルデバランがあれだと思うから。あんな位置に一等星は無いだろ」

 夕暮れの薄ら明かりとなった空をヤマト先輩は指差した。その間にも太陽の姿は稜線に隠れていき、段々と星が自己主張を始めてきた。

「牡牛座といえばヤマト。今年の学園祭の展示は何にするんですか?」

「そうだなあ~」

「去年の星座シリーズは、あまり良くなかった」

 五郎八が腕組みをして会話に入ってきた。それに反応してヤマト先輩が表情に、別の苦い物を混ぜた。

「許して欲しいなあ。時間があまりなかったんだ」

「学園祭の展示?」

 黄昏時となって表情が見えにくくなっている中でも、和紀がキョトンとしているのが判った。

「秋の文化祭に、天文部は天体写真の展示をするんだ」

 それまで黙って夕焼けを楽しんでいた舞朝が和紀に教えた。

「毎年テーマを決めて、それに沿った写真を撮るんだ。去年は黄道十二宮シリーズだった」

「じゃあ惑星シリーズってのは、どう?」

 太陽に引き摺られるように高度を下げていく金星を見ながら和紀が提案した。

「太陽系の仲間たちとか言って、惑星の写真を集めるのは?」

 沈黙が屋上を支配した。

「?」

 不思議に思って和紀が振り返ると、一同が彼の方を向いていた。

「あれ? おれ、なんかまずいこと言った?」

「いや、それいい!」

 舞朝が声をあげた。

「全部の惑星の天体写真か。けっこう面白そうだな」

「ちなみに季節を考えないと、撮り落とす星がありますよ」

 二年生二人も乗り気のようだ。

「賛成だな」

「マーサさんがそうおっしゃるなら」

「それがしにも異存はござらん」

「…」

「ナナも賛成って言っているんだな」

「まあ、僕も反対するつもりはないな」

「ボクに訊かないでくれよ」

「冥王星も仲間に入れてやってくれ」

 屋上のそこここからも賛同する意見しか上がらなかった。

「じゃあ今年の展示は、太陽系の仲間たちに決定だ」

 ヤマト先輩が決断の声を上げると、みんなが拍手をして同意を再度示した。

「さて、今年の学園祭展示が決まったところで。観測と行きますか」

 まったく暗くなった中でヤマト先輩が振り返った。あるかないかの星明かりを反射して、白目だけが確認できた。

「で? なにを見る?」

「オリオン大星雲!」

「それがしは、まかせる」

「今ならまだ昴が間に合います!」

「月見ようぜ! 月!」

「天の河を…」

「星と言ったらフォーマルハウトなんだぞ」

「いや、この時期見えないから」

「ちなみに、お薦めはカニ座星雲ですね」

「じゃ、カニ座星雲で」

 最後に発言のあったカニ座星雲案を採用すると、屋上に微妙な空気が流れた。

「あれ? みんなはカニ座星雲きらいかに?」

「きらいじゃないですよ」

 暗闇で舞朝の白けた声がした。どんな表情をしているか想像できそうな声だった。ヤマト先輩は自分の発言が引き起こした白けムードに首を捻った。

 ヤマト先輩は裸眼で天頂近くを振り仰ぎ、仲良く並んで光るカストルとポルックスを目印に、カニ座を見つけた。

 指でだいたいの位置を指差して旋回角と仰角の二つのダイヤルを回して概略位置へ向け、メインの反射式望遠鏡の脇に取り付けられたガイドスコープで、細かい調整に入った。しばらくは屈折式のそれを覗き込んでのダイヤル調整が続いた。

「おおう」

 その作業を見守っているのを飽きた和紀が、肉眼で天頂を見上げて驚きの声を漏らした。

 廃止されたとはいえ流石に天文台である。東京では見られないほどの星が目に飛び込んできた。

「天の河まで見えるなんて…」

 舞朝の感動した声が耳に入ってきた。大気の状態も安定しているのか、ほとんど瞬きもせずに星々が輝いていた。

「ああ」

 聞き慣れない声までした。声のした方を振り返ると、暗闇では白い山のように見える叶のシーツがずれていた。どうやら空に手を伸ばして実際に手が届くか届かないかを試しているようだ。そしてやっぱり星へは手が届かず、悲しそうな声を漏らしたらしい。

「さて今日のカニ座星雲ちゃんのご機嫌は?」

 本鏡の接眼レンズに取りついたヤマト先輩が、そう言いつつ口笛を吹いた。今日も何も、五七七光年先に存在する散開星団であるから、今見えている姿は日本で言う室町時代の頃の姿のはずだ。

「うん」

 カチリと赤道儀のスイッチを入れた後、パッとヤマト先輩が鏡体から離れた。いつの間にかに彼へ近寄っていた人影へ接眼レンズを譲った。シルエットだけでも、そのふくよかな体型でアイコ先輩だということが判った。

「はぁ」

 そのアイコ先輩の口から溜息が出た。青白い星が集まっている昴と違って、カニ座星雲は様々な色の星で形成されており、筒の中に置かれた宝石箱を覗き込んでいる風情があった。

「つぎおれな! つぎおれな!」

 腕を振り回している影は、声とその落ち着きの無さから和紀であろう。

「順番な」

 ヤマト先輩が宥める声がした。その時だった。

 くぐもった破裂音と同時に、見えていた星の半分が消えた。

「?」

 何が起こったのか判らずに、薄明程度に明るくなった屋上で一同が顔を見合わせた。

「なんだなんだ?」

 順番待ちをしていた和紀が、明るくなった南側の森を見ようと、そちらの手すりに近づいた。

 道を挟んだ木々が、何かの明かりを反射していた。それは夕焼けが残っていたような色であった。

「???」

 和紀に釣られるように一年生全員がそちらに集まった。その時を見計らったかのように、明るくなった原因を知らせるベルが全館で鳴り始めた。

「これって?」

 舞朝が、発生した事態がいまいち信じられず、右腕に抱き着いている愛姫の顔を見た。

 彼女はとても悲しそうな表情になっていた。

「非常ベル? 火事か?」

 直巳が、信じられないままに事実だけを口にした。

「かぁじぃ?」

 和紀が錆びて脆くなっていそうな手すりから乗り出すと、足元を覗き込んだ。

「ありゃま、本当だ」

「火事って…」

 視線がアイコ先輩に集中した。旧守衛所でお湯が沸かせるかどうか確認した時に、最後にコンロを弄ったのは彼女だったはずだ。

「わ、私? ち、ちなみに、火はかけて来ていませんよ!」

「誰もチナミを責めているわけじゃないよ」

 部長が微笑んだと思ったと同時に、先程より大きくてハッキリとした爆発音が二、三度続き、階下に填められたガラス窓を揺らした。

「わち」

 和紀の近くに黒煙が噴き上がった。煙には火の粉がだいぶ混じっていた。その爆発で回線が切れたのか、非常ベルの音が止んだ。

「まずいぞ」

 直巳が屋上を見まわしながら言った。旧守衛所は正面入口脇にあった。そして下への階段は、そこに面する正面ホールへ通じているのだ。今だって下への階段の入口が、煙の向こうに隠されようとしていた。

「大丈夫だ」

 小石が見る者に安心感を与える微笑みで言った。

「あっちにも階段があるんだ。正面がダメでもあっち…、裏がある」

「よーし」

 火事ですらイベントのように楽しんでいるのか、まるでスキップを踏んでいるような軽快さで和紀が、観測ドームとは反対側へ走り始めた。

「ボルトとか出てるから気をつけろよ」

 イタズラ坊主の弟に注意する姉のような声で舞朝が声をかけた。

「まったく火事だっていうのに、はしゃぎやがって」

「そういうマーサは落ち着いているね」

 左側から声をかけられて振り返った。寒さ対策なのかフードを被った優輝であった。

「それに、他のみんなも」

 見まわせばパニックにもならずに、ただ観測の時間が終わったかのように行動している一同がいた。ヤマト先輩と直巳は望遠鏡を畳み始めているし、他の女子も取り乱している様子は微塵もなかった。

「あたしはほら、初めてじゃないし。火事に遭うの」

「初耳だよ」と優輝は苦笑した。

「アキはどーせ『五分未来』で、この先の顛末が判っているから、慌てたくても慌てられないんだろ」

「はい」

 それでも緊張しているのか、顔色がいつもより白いような気がした。

「ナナも電波さえ受信できれば、自分ぐらい助かる方法は、自分で見つけられるしな」

 星を見るためであろうか、いつものシーツをマントのように背中へ廻した彼女が、それでも名残惜しそうに空を見上げていた。

「ナオミちゃんは、いざとなったら異空間経由で避難すればいいし」

 三脚を閉じ始めた高身長の背姿を見てから、屋上で一番落ち着いている五郎八を振り返った。

「イロハなんか、本気を出せばここから飛びおりることが出来るんじゃないか?」

「うむ。だが二階以上の降下は、週に一度と決めているがな。それ以上やると骨折のおそれがある」

 それが近所のコンビニに買い物へ行くといったレベルで、五郎八は腕組みをして答えた。

「そういうユウキはどうなんだ?」

 彼も慌てた様子を見せていなかった。

「生と死は等価値なんだ、ボクにとってはね」

 何だか寂しそうに優輝は言った。

「ここで焼かれても焼かれなくても、同じ結果が待っている。わかるかい?」

 最後の一節は舞朝の隣にいる愛姫に向けられてだった。

「手伝って!」

 なにか彼女が言おうと口を開いたとき。運んできた時と同じ状態にした望遠鏡を、直巳とヤマト先輩が抱え上げた。流石に赤道儀とバランサーがついているので、二人だと重いみたいだ。優輝はそこで初めて慌てたように、二人の元へと小走りに行ってしまった。

「どういう意味だ?」

 いまの会話が謎かけだったとばかりに、解説を愛姫に求める舞朝。しかし愛姫は首を横に振るだけだった。

「ありゃ?」

 目が点になった声が聞こえてきた。和紀は、外付けの階段と思われる取りかかりの所で、下を見て声を上げていた。

「どうした」

 すぐに他の部員たちも追いついた。和紀を真似て階段を見おろすと、状況が判った。

 階段は地面へ直接降りられるような外付けの物だった。地面から二階まではまだ形を保っていたが、残念ながらそこから上の屋上までは、冬季の雪害のせいか段がことごとく破損していた。割れたり外れたりしている踏み板の間から二階の踊り場が見える程だ。その二階の踊り場にしたって、くたびれているのが一目瞭然で、ここからそこへ飛びおりても、強度がその衝撃に耐えられるか保障できない状態であった。むしろ誰か一人がそれを試した瞬間に、階段全体が崩れてしまうと思われた。

 裏の階段は、同じ二階建ての詰め所との間に建っていた。詰め所の外廊下に何人かのジャージ姿をした研究員が、何事が起きたのかと、こちらを見物しているのが目に入った。その内の一人が警察か消防に通報しているのだろう、スマートフォンを耳に当てて何事かを喋っていた。

 下に向かうのをやめ、水平方向ならば、その詰め所の赤いトタン屋根へ飛び移れる可能性がありそうだった。だが、その距離を考えると、男子はいいとして果たして女子の何人がそうできるか、そんな微妙な距離が両棟を隔てていた。

「さて、これが前門の虎、後門の狼という奴か?」

 それでもまだ余裕を失わずに、舞朝は思ったことを口にした。

「そうだ、もう一つ。観測ドームの方に地面までのハシゴがあったはずだ」

 小石が黒煙と火の粉が上がる向こう側を見た。

「元は外壁の手入れ用だから、ドーム内が崩れそうでも関係ないはずだ」

 泣きそうな顔になっているアイコ先輩が、みんなを見まわした。望遠鏡を三人がかりで担いでくるヤマト先輩は、まだ後ろだ。

「それしか下へ行けないんでしょ」

 舞朝が決断した。他の部員もうなずき、もう星が見えなくなるほどは明るくなった元いた場所へ戻り始めた。

「どした?」

 行ったと思ったら帰ってきたので、ヤマト先輩が不思議そうな声を出した。

「向こうの階段は崩れているんです」

「観測ドームのハシゴを使おう」

 アイコ先輩と小石が同時に口を開いた。そこから必要な情報を聞き取ったヤマト先輩はギョッとした声を上げた。

「じゃあ望遠鏡は?」

「とりあえず逃げるのが先だろう。ハシゴじゃそれを降ろすことは無理じゃないかな。端に置いておけば、もしかすると焼けないかもしれない」

 小石の提案に、ヤマト先輩は首を後ろに捻った。運ぶ事に手を貸している直巳が深々とうなずいた。せめてもの可能性にかけようと、裏側の外壁に沿った場所に望遠鏡を置き、男子三人も身軽になった。

 ここから観測ドームに取りつくには、見間違いがないほど火災中である階段脇を通り、屋上を区切っている手すりに設けられた枠をくぐって行かなければならない。

 ハシゴの場所を憶えている小石が先頭で、腰を抜かしそうなアイコ先輩の手を引いたヤマト先輩が後に続いた。舞朝と愛姫の後ろからシーツをマントのままにした叶と、まだ遊び気分の顔をしている和紀が続き、ちょっと遅れて優輝がいた。殿は直巳と五郎八だ。

 ちょうど舞朝が階下への階段脇を通ろうとした時だった。いきなり愛姫にぐいっと引っ張られて、無様にたたらを踏んでしまった。

「ああっ」

 火事の熱で炙られたせいか、突然目の前でガラガラと音を立てて観測ドームが崩れた。ドームが据わっていた円形のターレットは、それが火山の噴火口だったとばかりに、巨大な火柱を上げた。

 観測ドームを構成していた部材が地面へと落下した衝撃で、グラグラと旧天文台の建物自体が地震のように揺れた。

 みんな、あまりの揺れに立っていられなく、その場にしゃがみ込んだ。ターレットから噴き上がった火炎の熱に炙られて、まっすぐ顔を上げることもできない。

「大丈夫か!」

 ゴウゴウと唸るような火勢の中から、滅多に聞くことのない小石の真面目な声がした。

「だいじょう…ぶ?」

 顔を上げてそう答えようとした舞朝の言葉が途切れた。

 旧天文台の建物は、ドーム側の崩壊の余波で、円形をしたターレットと翼棟側との間に、大きな亀裂が生まれていた。もちろんその亀裂からも悪魔の舌のような赤い火炎が湧き出ていた。

 これではハシゴのある向こう側に行けない。

 小石たち三人は、かろうじて崩壊を免れたドーム棟外壁に、火に炙られながらしがみついていた。遅かれ早かれそこでは火に飲み込まれてしまいそうだが、目当てのハシゴは近くにあったようで、まずアイコ先輩に一段目だけ見えるソレの手すりを握らせた。

 そして災厄はやってきた。


 She come to kill Me

 She come to kill Me

 She come to kill Me

 It’s true that

 I said three time


 このパニックの中でも、はっきりとそう誰かが唱えているのが聞こえた。

 舞朝は声のした方を振り向いた。後ろには優輝がいた。声はそのさらに後ろ、今では煙突のような勢いで煙を吐き出している階下への階段から聞こえてきていた。

 そこから黒いパーカーフードにブラックジーンズを身につけた小柄な人影が現れた。煙を避けるためかフードを目深に被り、肩にはなぜかバットケースを提げていた。

「だれ?」

 この災害の最中に現れるなんて、同じように逃げ遅れた研究員かとも思った。

「いやだなあ、クラスメイトの顔を忘れちゃったの?」

 フードから覗く顔の下半分が嗤った。

「下がってください、マーサさん」

 愛姫が、後ろ腰に隠した硬質の鞘から、ガラスでできたナイフを抜いて、逆手に構えた。

「きみは!」

 火柱の近くで小石が何かを言った。どうやら新しく現れた人物に気がついたようだ。

 その小柄な人物は、ゆっくりと黒いフードをおろした。

「セキネ?」

 なぜこんな所に、天文部ではなくソフトボール部所属のクラスメイトがいるのだろうと訝しむ声が出た。

「違うでしょ。ボクの名前をちゃんと呼んでよ」

「名前?」

(セキネの名前?)

 舞朝の脳裏に、彼女の呼び名が流れていった。

(ラビット・セキネ、バニー、ウサギ…、その前はUSAだったはず。なぜUSAになったかというと、名前の音節からだ。たしか苗字の母音にUが含まれていて、名前の最後が「サ」だったから…)

 舞朝は、市立公園にあるプラネタリウムへ行く前に調べた、クラス名簿を思い出していた。一年三組の女子は、五一番から始まる出席番号を割り振られていた。五一番の池谷さんから始まって、弓原舞朝は六六番。そして一つ前の六五番は…。

「ボクの名前だよ。いやだなあ忘れちゃったの? ボクの名前は結木(ゆうき)凪沙(なぎさ)。ソフトボール部に所属する、可愛い殺人鬼さ」

 そう言いつつユウキナギサは肩のバットケースから金属バットを取りだした。それは妙に歪んでいて、火災の炎に照らされた表面には、黒ずんだ血痕がこびりついていた。

「そ、その殺人鬼があたしたちに何の用だ」

 火炎に炙られているだけでなく汗が噴き出してきた。

「いやだなあ、キミを食べるためじゃないか」

 金属の筒先が舞朝に向けられた。

「食べる? あたしをか?」

「まあ一般的に言う食べるのと、ボクが言う食べるの意味は違うんだけどね。警察なんかに言わせると頭部へ打撃を与え、その衝撃で昏倒させているうちに、鋭利な刃物で腹部を切開する、と。なんか無粋な言い方だよね」

「それって…」

 視界に入る優輝の背姿で思い付いたことがあった。

「学園の周囲で起きている猟奇殺人の…」

「そうボクだよ」

 あっけらかんと嗤うナギサの目に、色欲以外の欲望が見て取れて、舞朝は身震いをした。

「ああやって食材を加工することによって、霊的エネルギーを取り込むのさ。こう鼻からすーっと吸い込む感じにさ。咀嚼したりするのは美しくないからね」

「まったく理解不能なんだが」

「それは寂しいな」

 火炎を映しているだけでなく熱を帯びた瞳が閉じられた。

「人を食べるのを教えてくれたのは、ボクの父親なんだ。なぜか或る日から、彼は近くに住んでいる者を食べ始めてね。あ、こっちの食べるは実際に口で咀嚼して飲み込み消化器官を使用する、無粋な食べる方だよ。近所の取り締まりが厳しくなって、食べるための狩りが出来なくなったとき、ボクも彼の食材になるところだったのさ。もう少しで食べられるという時に、母親が身を挺して庇ってくれてねぇ。だから今ではボクの方が食べる側に回ることができた、というわけなんだよ」

「…るんだ!」

 遠くから声が飛んできた。ナギサは大きく崩れた観測ドームの方へ目を向けた。そこでは最後に残った小石が、ハシゴの手すりを掴んでこちらに何事かを叫んでいた。火勢が強くて内容がほとんど聞き取れなかった。

 ナギサは彼へトロンとした目を向けると、返事のような物を口にした。

「大丈夫よ『先生』。お腹いっぱい食べたらちゃんとあなたの所へ戻りますからね」

 その声が届いたとも思えないのだが、心配げな表情のまま小石はハシゴを下り始めた。あれ以上留まることは火の勢いから考えて無理であろう。

「つまりだ」

 舞朝の視界に青い道着が入ってきた。五郎八が二人の間に身を入れて、彼女の視界から隠してくれたのだ。

「そなたは、マーサの命を狙っているということなのだな」

 懐から愛用の裁ちバサミを取り出すと、愛姫と同じように逆手に構えた。

「冗談じゃないね、まったく。食べるために人を襲うなんて、未開の土人じゃあるまいし。いったいこの次元の人間はどうなっているのやら」

 反対側から緑色のコートも視界に入ってきた。直巳が自信たっぷりに左の手首を揉みほぐしていた。

「さあマーサさん。わたくしたちにまかせて、ここから避難を」

 横の愛姫が、ナギサの脇にある階段を示した。

「遊佐さんと渚さんには、マーサさんとナナさんを任せますよ」

「おい、おまえはどうするんだ」

 舞朝の問いに、いつもの微笑みを取り戻した愛姫は言った。

「とりあえず道を切り開きます。その後、時間稼ぎをして適当に逃げ出しますわ」

「時間稼ぎはいいが」

 直巳が半分だけ振り返って言った。とても自信にあふれた表情だった。

「あれを倒してしまってもいいんだろ?」

「前田さん」

 にこやかに愛姫は言った。

「それ死亡フラグですわ」

「…」

 直巳がなんとも言えない顔になっていると、五郎八が敵に向かって踏み出した。

「よし! いけ!」

 それが狩りの邪魔をする動物といった目で五郎八を見ていたナギサは、金属バットを振り被ってそれを迎撃した。

 運動神経がいい五郎八はそれを受けることなく難なく交わすと、手にした裁ちバサミを一閃させた。

 鋭い切っ先を避けるために後ろへ跳ぶナギサ。間を置かずに連続攻撃で畳みかける五郎八に、愛姫も続いた。

「さあ行って下さい」

「弓原を頼んだぞ」

 凹んでいた気持ちを取り戻したのか、直巳も二人の少女へ加勢しに行った。

 ナギサが後ろへ後ろへと攻撃を避けたために、階段へ取りつくには、もう邪魔者はいなかった。

「待っているからな!」

 階段を下りしなに仲間へ声をかけた。その肩を優輝がそっと押した。



 今や旧天文台の屋上は戦場となっていた。

 同時に左右から攻撃されることを嫌がったナギサは、翼棟の端へと大きく間合いを取っていた。

「さすがに三人がかりでは、きつかろう」

 五郎八がナギサに話しかけた。

「まさか武士道から、一対一で戦おうなんて言うんじゃないだろうな?」

 直巳がとんでもないという調子で口を挟んだ。

「いや。無益な戦いを避けるのも『もののふ』たる者の取る道。殺人鬼とやら、降伏する気は無いか?」

「なんで?」

 三日月状に口を開いて凍った嗤いを浮かべるナギサが、不思議そうに訊いた。

「よゆーで勝てるのに?」

 その余裕綽々の態度が気に触ったのか、五郎八は黙って裁ちバサミで斬りかかった。同時に左右から動こうとした二人には、ナギサから何かを投げつけられて出鼻を挫かれてしまった。

 直巳は体を傾けて避けたが、愛姫は手にしたナイフでソレを弾いた。

「鉛筆?」

 床に落ちたソレを見て直巳が呟いた。それはよく尖らせた鉛筆であった。確かに学生が持っていても不審がられることは少ないし、安いので投擲して回収できなくても惜しくはない。その鋭い先で、目などの急所を狙えるなら武器と成りうる。

 二人が動けなかったので、ナギサにかかったのは五郎八だけとなった。握った裁ちバサミで浅い切り傷を負わせて継戦意欲を削ぐ作戦だ。彼女愛用の裁ちバサミの切っ先が届く遥か前に、しかし金属バットで迎撃されてしまった。丸い金属バットの筒先が裁ちバサミを握る左手首にめり込んでいた。

「ぐっ」

 歪む五郎八。その顔を愉快そうに覗き込むナギサ。しかし次の瞬間、五郎八の顔がしてやったりという物に変わった。

「しゅっ」

 まるでケーキの蝋燭を消すように細くした息を抜く音がした。五郎八の影に隠れていた愛姫が、突っ込んできたのだ。ナイフで鉛筆を弾いた分体勢を立て直すのが早かったのだ。その手には火事の様子を照らし出す透明なナイフが握られていた。

「ふ」

 しかしナギサは動揺することなく身を沈めると、華麗なほどの前回し蹴りを放ち、二人同時に吹き飛ばした。

「ぐ」「う」

 二人は木製の床へ呻きながら転がった。追撃させないように二人の前に直巳が立った。

「ここは僕にまかせてくれたまえ」

 そしてゴツイ腕時計を捲いた左腕を差しあげた。

「この僕特製のエレクトロマグネテックパルスアクセラレーターがあれば、僕に敵う者などいない!」

「はい?」

 ナギサが拍子抜けをした声を漏らした。

「この加速器を使えば、相対的かつ量子的に、僕の体は秒速三〇キロで行動することが可能になるのだ。その速さから繰り出される攻撃を、受け避けることが出来うる者がいるだろうか。いや! そんな者は存在しない!」

 音速がだいたい秒速〇、三キロであるから、マッハで言うと一〇〇である。小学生の考えた「ぼくがかんがえたさいきょうちょうじん」のような話である。

「僕の科学力の前に平伏したまえ!」

 直巳は決めゼリフらしいことを言い捨てると、右の人差し指を腕時計のベゼルにあった輪にかけ、思いっきり引っ張った。糸のように細い鋼線が引き出され、まるでエンジンを空吹かしするような音が響き渡ると、直巳の体が七色に光った。

 そして直巳は、硬直した。

「「「?」」」

 敵味方問わず三人の少女たちが訝しんだ。

 直巳は左拳を突き上げたキメポーズのままで動かなかった。もしや。あまりの速さに残像が! という話でも無さそうだ。

 段々と彼の顔に脂汗のようなものが浮かんできたが、火事の熱で炙られているせいではあるまい。

「しまった…」

「「「?」」」

「地球の公転慣性と釣り合って、動けないっ」

 太陽から地球の距離の平均は一億四千九百五十七万六千九百六十キロであるから、これを半径とし、二倍に円周率をかけると円周である九億三千九百八十一万九千七百四十キロという数字がもとめられる。この公転軌道を、地球は一年で進むことになる。つまりこの距離を三百六十五日で割ると、一日で二百六十万キロの速さで宇宙空間をぶっ飛んでいることになり、一時間あたり、一分あたりと計算して行くと、秒速がだいたい三〇キロ/秒となる。直巳の腕時計が本物だとして、この地球が持つ公転エネルギーと釣り合ってしまったということらしい。

(計算が違ったらゴメン)

 ナギサは肩をつかって溜息をつくと、金属バットを両手で握った。

 一歩踏み込んで、踏み切りながらのフルスイング。それはまるで一九七七年九月三日午後七時十分頃、対ヤクルトスワローズ戦の三回裏一死、第二打席フルカウントからの六球目、鈴木康二朗が投げたド真ん中へのシュートをライトスタンドへ放り込んだ王貞治のような、華麗な一本足打法であった。

 その金属の筒は見事に直巳の腹へ食いこんだ。

「げええ」

 情けない声と共にヨダレのような胃液のような物を口から零しながら、直巳は屋上に倒れた。とても痛いのかゴロゴロと左右に転がり回っていた。

 その様子からすると硬直の方は解けたようだ。

「はあ」

 ナギサが叩き伏せた直巳を見ている隙に、溜息のような物をつきながら、愛姫が横から斬りかかった。

 ナギサはその攻撃を油断無く予想していたようで、ひょいと避けると再び得物を振るった。

 その円を描く軌道がガチンという音で止められた。愛姫の脇に滑り込んできた五郎八が、裁ちバサミを中心に体全体でその攻撃を受け止めたのだ。

 間合いの差から有利を演出していた金属バットも、押さえ込まれてしまえば意味が無い。攻撃手段が無くなったナギサの懐に、愛姫が潜り込む勢いで接近した。喉元にナイフを突きつければ、ぐうの音も出まい。

「!」

 しかし息を呑んだのは愛姫の方だった。

 未練無く金属バットから手を離すと、ナギサは自分の後ろ腰、パーカーの裾あたりに手を入れて、次の武器を抜き放った。

 眼前に立てたナイフでその攻撃を弾く愛姫。

 再び双方は距離を取った。

 ナギサが構えているのは、家庭用にしては大きい肉包丁であった。何人もの被害者の腹腔を切り裂いた、ナギサの牙である。

「っ!」

 五郎八は、眉間にぬるりとした感触を感じた。敵が刃物を持ち出して、緊張のあまり自分が汗を掻いたのだと思い、目に入る前に手で拭った。

 だが、それは汗ではなかった。

 愛姫への迎撃として、振られた肉包丁の軌道を避けたと思っていたが、その攻撃の鋭さに、皮一枚ほど額を切られたようだ。

 そこに至って五郎八は、自分の視界がいつもより明るくなっていることに気がついた。

 彼女の左前髪が斜めに失われているのだ。空中に舞っている髪の毛を落とすなんて、鋭さを感じさせるには充分であった。

「アキどの」

 自分の血を手に見た五郎八は仲間に呼びかけた。視線をやっただけで愛姫は、彼女が何を言いたいのか判ってうなずいた。

 肉包丁を構えた事により、彼女たちの戦闘力は等しくなったとも思えた。ただ数で言えば二対一。「戦争は数だよ兄貴」という言葉のとおり、数が多い方が有利に決まっている。

 よって今度はナギサが先に動いた。再び左腕が高速で動くと、二人を尖らせた鉛筆が襲った。

 それらの飛び道具を五郎八は裁ちバサミで弾き、愛姫は大きく体を泳がせて避けた。

 五郎八はそのまま真っ直ぐナギサに迫った。ナギサも、今まで振るっていた金属バットと違い、間合いに差がない肉包丁が武器になったためか、無闇に振り回さずにギリギリまで動かなかった。

「はっ!」

「じぇい!」

 お互いが駆け寄り、二人の気迫がぶつかる!

 五郎八は裁ちバサミに円軌道を与え、ナギサは最短距離で真っ直ぐ肉包丁を突きだした。

 余分な動きがある分、五郎八の攻撃が届く前に肉包丁の切っ先が五郎八の道着に吸い込まれるように突かれ…、なかった。

「?!」

 新たな血が与えられることに喜ぶように、オレンジ色の火炎を反射していた肉包丁は、だがしかし空を突いていた。その直前まで何の兆候もなかったのだが、突然五郎八の体が消えてしまったのだ。

 伸びきったナギサの右手に鋭い痛みが走った。

 五郎八の体に隠れるように走り込んでいた愛姫が、手にしたナイフで、攻撃を外されて伸びきったナギサの腕、その手の甲を斬りつけたのだ。

 痛みで肉包丁まで手放してしまうナギサ。牽制で鉛筆をメクラ撃ちしながら間合いを取りなおした。

「ふう」

 愛姫から距離を取ったと思った時に、背後から溜息が聞こえたと感じて、振り返った顔面に拳が炸裂した。

 どんな体術でも不可能と思えるが、いつの間にかナギサの背後に五郎八が現れていた。まるで瞬間移動したような唐突さだった。

「このような苦戦をするならば、最初から能力を使用しておけばよかった」

 振り抜いた拳を眺めながら、五郎八が肩で息をしつつ言った。

「そんな…、まさか?」

 ぶん殴られて屋上に這いつくばる形となったナギサが、その位置から殴られた頬を押さえて、殴った五郎八を見上げた。

「いつの間に、回り込んだ?」

「それがし、自分に能力が無いと申したことは、一度も無かろう」

 初めて敵に攻撃を当てた事に満足感があるのか、五郎八は余裕のある瞳で見おろした。左手で持つ裁ちバサミを、ふとした調子で手放して見せた。

 裁ちバサミは重力に逆らって、そのまま宙に留まり続けた。

「本物の『超能力者』?」

「『もののふ』と言っておるだろう」

 反撃が無いことから鉛筆の方も、もう残りは無いのだろう。床に落とした二つの武器からも距離がある。

「さて、いちおうだが。もう一度降伏勧告といきたいのだが?」

「なんで?」

 三日月状に口を開いて凍った嗤いを浮かべるナギサが、不思議そうに訊いた。

「よゆーで勝てるのに?」

 すっと立ち上がると、今度はジーンズの腹側へ手を差し入れた。そしてパーカーの中から黒い物を取り出すと、何でもない作業をするようにスイッチを絞った。

「イロハさん!」

 同時に横から愛姫が五郎八に抱きついてきた。


 パン! パン! パン! パン! パン!


 目の前で起きたことを理解できなかった五郎八は、愛姫の細い腰に手を回して受け止めた。

「これは…」

 腕の中でぐったりとする愛姫。友人に何が起きたのかが判らない五郎八。しかし顔を上げて敵を見た瞬間に理解した。

 ユウキナギサが、黒い拳銃を握っていた。

「こんな無粋な物を使うのは嫌いなんだけど、負けるのはもっと嫌いなんでね」

「なぜ短筒など」

「あ? これ? ほら刑事さんを食べた事があったでしょ。その時ついでに、もらっちゃったんだ」

「ぐ、卑怯な」

 愛姫を丁寧に屋上へおろしながら五郎八はナギサを睨み付けた。

「一人に三人がかりというのも充分卑怯だと思うけど?」

「降伏勧告はし申した」

「だって、よゆーなんだもん」

 ナギサの手元を睨んでいた五郎八は苦虫を噛みつぶしたような声になっていた。

「しかし、もう弾はござらんようだな」

「ん? まあね」

「では」

 五郎八は床に転がる金属バットに視線を移した。金属バットは床から浮き上がると、まるで見えない誰かがそこから投げたようにナギサを襲った。

「おっと! 色んな芸を憶えているんだなあ」

「芸ではござらん」

 反対側からは肉包丁が突っ込んできた。しかしナギサは余裕で体をかわして避けた。

「さあ、自らの武器で傷つきたくなければ、降参するがいい」

「残念だな」

 ナギサは屋上へ拳銃を投げ捨てた。

「もう一挺あるんだ」



 屋上から二階へ続く狭い階段を下りた舞朝たちだったが、困難に襲われていた。

「これじゃあ下りられない」

 正面ホールの屋内バルコニーまで、息をするのにも苦しい熱気の中を、腕で顔を庇って辿り着いたが、そこで足が止まってしまった。

 円形の正面ホールにあった樫の階段は、半分以上焼け落ちていた。

 ホールの中に赤いポリタンクが横倒しになっているのが見えた。アレは望遠鏡を運び込んだ時に見ていない。舞朝たちの退路を断つために、ナギサが灯油か何かをぶちまけたことが容易に想像できた。

「裏の階段へ行こう」

 和紀が提案した。屋上から見たときは、まだ二階から地面までは使用に耐えうる外観をしていた。いまなら間に合うかもしれない。

 上への階段の位置へ戻り、二階の廊下を見通してみた。

 一階から炙られて、煙と水蒸気が廊下の上半分に充満している。そして燃え方に差があるのか、壁から火炎が出ている箇所もあれば、床からチロチロと顔を覗かせている火もあった。

 屋上で端まで行ったときよりも、突き当たりが遥か遠くに感じられた。

「ここを突破するのか?」

 舞朝が和紀を振り返った。

「他に道はないだろ」

 ゴウゴウと聞こえる火勢に負けじと、和紀が怒鳴り声を上げた。

「ナナ!」

 振り返ったついでに叶を見ると、マントのように羽織ったシーツのそこここに火が点いていた。どうやら薄い布地が火の粉を浴びたせいのようだ。

 慌てて舞朝は叶のシーツを叩いて消した。遅れて気がついた和紀と優輝も続いた。

「あついんだぞ」

 右手のカインがぐったりとした声を出す。この竈の中のような条件で、さらにパペットを填めていれば、右手は汗だらけに違いない。

「突破するぞ」

 和紀が慎重に進み始めた。

 梁や柱が焼けて、見た目より床には強度が残っていないようだ。

「ナナ」

 舞朝が叶の手を引いた。殿(しんがり)は優輝である。

「まあ後ろから最初に襲われるのは、ボクらしいよね」

「そういう意味じゃないんだぞ」

「お? ここ柔らかいぞ? 気をつけろ!」

 和紀が床を足で探って進む。煙を吸わないようにするのが火事での避難の原則だから、四人とも体を折って進んだ。

 和紀の誘導は確実だった。

 まったく異常が見られない場所が、じつは一階から焼かれて床板が薄くなっていたり、もう火が顔を出している割れ目の脇が意外にも体重を支えたりもした。

 舞朝は一部屋だけ覗いてみた。煙のこもった部屋には紙がつまったダンボール箱が積み上げられており、そのどれもが火を噴いていた。

「嫌な予感がするんだが」

 舞朝が煙を吸い込まないように気を付けて口を開いた。

「二階にもガスが引かれているって事はないよなあ」

「まさかあ」

 和紀が不安そうに半分だけ振り返り、肩越しに舞朝を見おろした。もしガス管が二階にあったら、この火勢で爆発するかもしれない。

 その時だった。ふいにバキバキと木の割れる音が派手にすると、壁を破って何かが廊下に突きだしてきた。

「あぶねえ」

 とっさに飛び退る和紀。後ろをよく確認してなかったせいで、叶にぶつかってしまった。

「…」

「いたいんだぞ」

 二人分の批難が出た。

「なんじゃこりゃ」

 壁を破って出てきたのは、ニューヨークにあるという自由の女神像であった。正確に言うとそれを模した張り子のようであるが、芯は鉄材を使用しているようだ。

 よく再現された外観には、すでにあちこち火が点いていて、とてもじゃないが触ることはできそうもない。

 なにかのイベントで使用された像が、何の因果かココに放り込まれていたようだ。火事で重みに耐えられなくなった床が抜け、大きく傾いて壁を突き破ったようだ。

「ちっ」

 屈んで女神の脇の下をくぐろうとしたが、体を構成していた色んな部材がバラバラと降っていて出来そうにもなかった。

 さらに松明を掲げる右腕を伝って、天井へと延焼して行く。これではここを抜けることは出来そうもない。

 和紀は憎々しげに自由の女神と、今まできた道を見比べた。

「窓から飛びおりるか?」

「部屋に入ること自体が危険じゃないかな」

 優輝が近くのドアを覗いた。その部屋は天井まで火が回っていた。そんな部屋で床が抜けたら確実に助からないだろう。

「小石ちゃんたちが使ったハシゴは?」

 長い三つ編みに火が移らないように抱きかかえながら舞朝は訊いた。

「行ってみないと判らないな」

「問題は、ホールを通れるかという事だな」

 優輝が不安そうに口を挟んだ。

「それも行ってみないと判らないな」

 和紀は、もう一度自由の女神を見てからうなずいた。

「どっちにしろ、ココにいたんじゃ焼け死んじゃうぜ。行ってみよう」

 狭い廊下で和紀と優輝が場所を代わった。再び和紀が先頭に立ち、女子二人を挟んで優輝が殿についた。

 進むにつれて段々と煙が少なくなってきた。延焼が進み、床や壁だけでなく天井すらも真っ赤に燃え上がっていた。

「ナナ、危ないから脱げ」

 舞朝が、わずかな上昇気流を受けて広がる叶のシーツに手をかけた。先程叩いて火を消した以外の箇所も焦げてきていた。

「…」

 叶は抵抗することなくシーツを剥ぎ取られた。舞朝はたくして丸めて、彼女に差し出した。

「こうやって持ってれば、まだ安全じゃないかな」

「ありがとう」

 叶が短く礼を言って受け取った。カインを填めた右ではなく、左脇にそれを抱え込んだ。

「くう」

 ホール直前で廊下の半分は焼け落ちていた。火元と思われる旧守衛室が上から丸見えであった。崩れ落ちた建材と火勢から、そこへ落下したら致命的に思えた。廊下は、反対側の壁際がぎりぎり焼け残っていた。

「一人ずつだ」

 和紀が火に照らされて明るい中でみんなの顔を見た。

「まず、おれが行く」

 和紀は背中を焼け崩れた側に向け、壁板に爪を立てて無いよりはマシ程度に手がかりを得ると、足で探りながら渡り始めた。

 火元に近い割に、残っている廊下は体重を支えるだけの強度が残っていた。

 最後の一メートルは、幅が一〇センチも残されていない。ここら辺が屋上で行く手を阻んだ亀裂の真下にあたった。

 和紀はジャンプし、真ん中あたりで一回ステップを右足だけ踏んで、屋内バルコニーの手すりに向かって跳んだ。

 正面ホールは先程覗いたよりも延焼が進んでいた。階段は全く焼け落ち、円形のバルコニーもいつ火勢に巻かれて崩れるか判らない。

 ホール中央で、忘れられたモニュメントのように下がっていた巨大なフリコすらも、途中で千切れて錘が落下していた。

 バルコニーからホールを確認してから和紀は振り返った。

「よし、来い」

 次に渡ったのは舞朝だった。なるべく火を見ないように、壁ばかり向いてにじり寄ってきた。

「そこからドーンと!」

 和紀に声をかけられて舞朝は床を蹴った。勢いよくバルコニーへ飛び込んできた舞朝を、和紀の厚い胸が受け止めた。

「ひひゃい」

 医者に運動は禁止されていると言っている割に引き締まった胸筋であった。そこで鼻をうった舞朝が、両手で顔を押さえた。

「つぎ!」

 舞朝を比較的安全そうな場所で放した和紀が声をかけた。その声を待つまでもなく叶が、シーツを床へ捨てると左手とカインで壁にしがみつきつつ歩き出していた。

「そうそう」

 下方から照らされた叶の無表情な顔には、いっさい恐怖を感じている様子はなかった。それよりも中性的な顔立ちが、オレンジ色に染まって見とれるほど美しさを感じさせた。

「さ、手を」

 和紀が手を伸ばした。その手をカインが掴んだ。

「助かったんだぞ」

 残された優輝は、屋上への階段を見上げていた。

「どうした?」

 和紀の呼びかけに、優輝は今そこで目が覚めたといった風情で振り返った。

「いま、なんか音が」

「音がなんだって?」

 和紀が聞き返した。火事の現場だから、火の噴き上がる音や建材が崩れる音、なにかが破裂する音に、熱に耐えられなくなったガラスが割れる音など、静寂とは無縁の状態なのだ。

「いや」

 思い直したのか優輝は半ば崩れた廊下に踏み出した。他の三人とは違って壁に向くことなく、和紀に正対したまま歩いてきた。

 最後の一メートルは、立ち幅跳びの要領で跳んできた。

 再び集合した仲間を和紀は見まわした。壁沿いに円く造られた屋内バルコニーにも、だいぶ火が回ってきていた。

「またオイラが先に行くから、ちょっと待っていてくれ」

 和紀は、正面側よりはまだ焼けていない奥側を通って観測ドーム側へ向かった。

 足で探りつつ、普通に歩くより少し遅い速度で回り込んでいった。

「だいぶ歩けそうだぞ」

 いつ崩れるか判らない床と、向かっている観測ドームの二階入り口を見比べながら和紀が声を上げた。

「一人ずつなら普通に歩けるな」

 その言葉通りに和紀は観測ドーム入口まで辿り着いた。

「よし」

 一階と同じように「Keep Out」と印刷されたテープが何重にも貼られている両開きの扉の前でガッツポーズをして見せた。

「一人ずつ…、危ない!」

 和紀が三人の背後を指差した。

「?」

 舞朝が振り返ると赤い視界の中に黒い人影が立っていた。


 She come to kill Me

 She come to kill Me

 She come to kill Me

 It’s true that

 I said three time


 先程と同じ呪文が聞こえてきた。

 そこに黒いフードを被ったユウキナギサが立っていた。屋上の時間稼ぎも、もう終わりらしい。右手に金属バットを提げて、大胆不敵に嗤っていた。

 なんの予備動作もなく焼け崩れた廊下を飛び越し、そのジャンプで得られた重力加速度を加えて、金属バットを振り下ろした。

「きゃ」

 短く悲鳴を上げて舞朝が首をすくめて硬直した。その肩を優輝が抱くと、横飛びに跳んでナギサの攻撃から逃げ出した。

 空を切った筒先が、ついでとばかりに屋内バルコニーの手すりを破壊した。

「やろお」

 和紀が走って戻ろうと踵を返した。優輝は舞朝を床から立たせ、彼女を守る様にしてナギサに正対した。

「な、なんだ? やるのか? 相手になるんだぞ!」

 モニュモニュと叶の右手でカインが可愛い腕を動かしていた。もしかしたらシャドーボクシングをしていたのかもしれない。叶自体は、驚きのあまり腰を抜かしたのか、床へへたりこんでいた。

「ふん」

 今は興味が無いとばかりに叶の前を通り過ぎ、優輝に支えられながら立つ舞朝に歩み寄ってきた。

「しいちゃん!」

 走っていた和紀が、火勢で弱くなっていたバルコニーの床を踏み抜いてしまった。彼は手をついて、空中に踊り出してしまった右脚を、床から引き抜かならねばならなくなった。

 その和紀の失敗がいけなかったのだろうか? 踏み抜いた衝撃が建材越しに微震となって、舞朝と優輝が肩を寄せるあたりにまで伝わってきた。

 ガタンという何かが倒れる音と、木が荷重に耐えかねて爆ぜるピシピシという音が聞こえてきた。目に見えて二人のいる辺りのバルコニーが、燃え盛るホールに向けて傾き始めた。

「マーサ!」

 やっと足を抜いた和紀が、今度は彼女の名前を呼んだ。

 自分の目の前で、二人の乗ったバルコニーが火の海へと崩れていった。

「きゃああああ」

 女の子らしい悲鳴を上げる舞朝の腰を抱き上げると、優輝が崩れゆく建材を踏み切った。和紀が呆然と見ている前で、舞朝を抱いた優輝は横へ、ホールの中心へと跳んでいた。もちろん反対側のバルコニーまで跳べるほど、人間は器用にできていなかった。そのまま放物線を描いて下へ落ちるかと思われた矢先、ギシギシという音と共に二人の落下が止まった。

 不思議なことに、二人の体が優輝の右腕を基点にユラユラと空中で揺れていた。よく見ればその仕掛けは簡単であった。正面ホールにあったフーコの振り子を吊り下げていた鋼線に飛びついたのだ。しかし強度があっても鋼線はあまりにも細かった。

「ぐううっ」

 二人分の体重がかかった優輝の右手に、鋼線が食い込んで血が噴き出した。

「ユウキ!」

 彼の顔を見上げた舞朝の頬へ、ポタポタとその血飛沫がたれてきた。

「これは持ちそうもないね」

 右手を見上げて、どこかしら他人事のように優輝は言った。そして舞朝を見おろすと、いつもの昆虫類的な微笑みを浮かべた。

「このためにボクはここまで来たんだね」

「なにを…、ユウキ? おまえが何を言っているのかわかんないぞ…。ユウキ?」

 ふといま自分を抱き上げてくれている人物が、このまま宙に消えていくようなイメージを得た舞朝が、悲鳴のような声で訊いた。優輝は哀しそうな顔になった。

「遺言だよ」

「マーサ!」

 バルコニーから和紀が再び声をかけた。彼の位置を確認した優輝は、体を揺らし始めた。最初はただその場で揺れているだけであったが、段々とブランコの要領で振り幅が大きくなっていった。

 優輝は舞朝に安心させるような顔を向けてから、和紀に向かって大きく頷いてみせた。

「そしてキミは死すべき存在ではない」

「やめろ! ユウキ!」

 優輝が何をしようとしているのを察した舞朝が、悲鳴のような声を上げた。それが合図だったかのように、体を揺らした振幅の頂点で、優輝は和紀に向かって、抱いていた舞朝を放り投げた。

 爪を立てて振り切られないように抵抗していた舞朝だったが、慣性と優輝の腕力が合わさったものには逆らえなかった。

 再び舞朝の体が放物線を描くと、今度は一人だけで飛んで、和紀に抱きとめられた。その宙を飛んでいる刹那の時間に、そっと優輝の声が彼女の耳に滑り込んできた。

「ありがとう。キミに逢えて嬉しかったよ」

 和紀の腕の中で振り返った舞朝は、もうどこにも優輝の姿を見つけることはできなかった。どこに彼が行ったのかを訊こうと、舞朝は和紀を腕の中から見上げた。

 彼はまったく違う方向を向いていた。

「ナナ!」

 和紀が声を張り上げた。

 叶は足をもつらせながら、反対側のバルコニーを右へ左へと逃げていた。

 舞朝に空中へ逃げられてしまった腹いせに、ナギサが彼女を金属バットで追い回しているのだ。

 カインが精一杯の威嚇か「しゃー」とか猫のような声を上げて、短くて丸い腕を張っているが、屁の突っ張りにもならない。

 だいぶ焼け崩れてはいても、元は円形のバルコニーである。一箇所が通行止めになっても、反対側を回ればいずれ目的地にはつけるはずだ。

 しかし火炎は無情にも少女の退路を断った。

 もう少しで観測ドームに辿り着くというタイミングで、叶の前でバルコニーが焼け崩れてしまった。

 そこから階下の火の海を見て呆然と立ちすくむ叶。後ろから迫るナギサは愉しそうだ。

 叶は一つ溜息をつくと、猫背気味だった背中をしゃんと伸ばして、ナギサに体ごと振り向いた。

「どうした? 逃げないのか?」

 もうちょっとこのゲームが続けられるようにという配慮か、わざと手すり側に空間を作ってナギサは立ち止まった。

「まったく、つまらない」

 下衆の愉悦を味わっているナギサに、冷や水を浴びせかけるような冷静な言葉だった。

「なんだ? もう諦めちゃうのかな?」

「はあ。本当につまらない」

 半分以上相手の言葉を聞いていない態度で椎名叶は、カインを右手から外した。手の中で彼を振り向かせると、見つめ合った。

「せっかく仲良くなれたと思ったのに」

「キミとは仲良くなった記憶はないんだけど?」

「あなたじゃないわ」

 話しかけられたと思ったナギサが、否定されて目を白黒させた。

「せっかくカイン…、Cain the THUGgery HAndpuppetとは仲良くなれたのに」

「仕方ないんだぞ。このままでは君に危害が及ぶし、それにそろそろ帰る頃合いかもしれないんだぞ」

 とカインが答えると、ピョンと自力で叶の手の中から床へと飛びおりた。

 まさか動くはずのないヌイグルミが動き出すのを見て、一瞬なんのトリックかと思ったが、ナギサは屋上で戦った五郎八を思い出した。

「キミも、もしかして超能力者なのかい?」

「いいえ私は『ナイハーギー』。『ナイハーゴの葬送歌』という星の生まれの者よ」

 そしてブレザーの内ポケットから生徒手帳のような物を取り出すと、片手だけでページを開いた。どうやらそこにある詩文を確認するようだ。

 そして叶は謳った。


「Ph’nglui mglw’nath

 Cthugha!

 Fomalhaut n’gha-ghaa

 naf’l thagn!

 Ia! Cthugha!」


 詩文の詠唱が終わると同時に、カインは無数の炎を従える生ける炎の柱と化した。膨大な火炎が天井を撃ち抜き夜空へ立ち上がり、床を貫通して地面まで焦がした。

「ぎゃああああああ」

 突然、数万度の熱で炙られたナギサは、露出した皮膚を瞬時に火傷した。とくに露出面積の大きい顔面は、相手の変化を見て取った時には火ぶくれができていた。これ以上焼かれないように頭部を両腕で庇うと、たまらずバルコニーを逆に走った。

「なんだあれ…」

 突然カインが輝いたと思ったら沸き上がった火柱に、和紀が息を呑んだ。

「さんざん自分で言ってたろ。フォーマルハウトから来た宇宙人だって」

 舞朝が説明を試みた。

「あれが本当の姿ってやつさ」

「マジか!」

 火柱のあまりの熱量に、向こう側のバルコニーどころか外壁まで瞬時に炭化し、粒子と化して消え去った。火事だけで炙られていた時よりも遥かに高い熱を感じた二人も、無意識に腕で体をかばって数歩下がったほどだ。

 輝く柱のそばで椎名叶は床に立ったままで、立場が逆転して逃げる側になったナギサを目で追っていた。ナギサの腕にはまだ金属バットがあったが、もはやそれは握られているのではなく、あまりの熱量に掌の肌へ焼き付いているだけだった。色々な局面で頼もしい味方となったその金属製の筒も、屋内で逃げるとなると邪魔になる存在だった。

 屋内バルコニーを廊下の位置まで逃げると、壁に筒先がひっかかって動きを阻害した。

 走ってきた勢いのまま、それでも無理に逃げようとしたので、金属バットはナギサの皮膚を剥がしながら床へと落ちた。

「ぎゃ」

 人間の触覚が集中する部分の肌を剥がされ、痛みに悲鳴をあげて、手を組み合わせるようにして庇った。一瞬だけ立ち止まると、いままで活躍してくれた得物を見おろしたが、ソレと痛みを感じる部分を見比べると、屈辱感が湧いてきたのか唇を噛みしめた。

 超常的で圧倒的な存在を振り返ると、ナギサは芝居がかった風に両腕を広げた。

「O Freunde」

 熱い空気を胸一杯に吸い込むと、火事の騒音に負けない声量で、今度はナギサが歌った。

「nicht diese Toene!

 sondern lasst uns

 angenehmere anstimmen,

 und freudenvollere!」

 そしてナギサは、落とした武器をもう拾おうとはせずに、二階の廊下へ向き直った。そこは延焼が進んでろくに床が残っていなかった。屋上への階段の上り口だけが、まだ火が回っていないのか黒く四角く存在していた。

 ナギサは後ろを確認せずに一歩だけ下がると、そこまでの無謀とも思える距離を跳んだ。さすがに女子ソフトボール部で鍛えていた肉体である。子鹿が渓流をはねるほどの印象で、彼女はその黒い闇へと消えていった。

 一方、火柱の反対側にいた椎名叶は、まだバルコニーの床に立っていた。だがその床は、もうどことも接続しておらず、彼女の周囲だけが木製の円盤のごとく浮遊していた。それ以外の壁も天井も屋根すらも消失しているため、舞朝と和紀の方から、炎の照り返しに染まる森の上に立っているようにも見えた。

 火柱のまわりを、あたかも惑星の周囲を公転する衛星のごとく周回していた特に青白い炎が、ふいっと軌道を外れて椎名叶の方へやってきた。

 彼女の足元近くで滞空すると、しゅるしゅるとコマのように回り始めた。どうなるのだろうと見ている内に、青白い炎は自らの形を遠心力で変え、いま椎名叶が立っている物と同じような大きさの円盤となった。

 それを見おろしていた彼女は、それが炎でできている不可思議な存在だというのに、なんの躊躇もなくその新たな円盤に踏み出した。

 今まで乗っていた床の焼け残りは、氷が昇華するような印象で、その位置で焼失した。

 椎名叶を乗せた円盤は、ゆっくりと確実に高度を下げていた。そこから椎名叶は火柱を見上げていた。まるで少年のような印象の顔立ちは、濡れていた。

 とても悲しげな表情で、両方の目からは涙が溢れだしているのだ。

 愛おしい者にそうするように、椎名叶は両腕を火柱に向けて差し出した。しかし彼女を乗せた円盤が着地すると同時に、火柱は下の方から虚空へ溶け込むように透明な存在へと変わっていった。

 どこまでも続いているような火柱の全てが見えなくなると、火災現場に居るというのに、気温が下がったような印象があった。

 いまや世界の全てが燃えていた。

 壁も天井も、床さえも火が回ってもう逃げ場がない。道を挟んだ森にすら火は燃え移り始めていた。

 自分の服が煙を上げ始めたのを見て、和紀は舞朝を見おろした。彼女は抱きとめて以来ずっと彼の腕の中にいた。

「ごめんよ」

「なんで謝るんだよ」

 目を閉じた舞朝は、顔を和紀の胸に埋めた。

「いや男として、女の子は守ってやらなきゃいけないのに」

 和紀も舞朝の背中に回した腕に力をこめた。

「姉妹して火事で死ぬなんて、嫌だろ」

「もちろんそうだけど…」

 しばらく考えてから、ついでのように言った。

「こうしてもらえたから、結構幸せ」

「なんじゃそりゃ」

 彼女の顔を覗き込もうとして腕を緩めると、向こうはそれを防ごうというのか、余計に顔を彼の腕に埋めた。

 髪の毛の燃える独特な臭いがしてきた。

 和紀は、視界に入る彼女の長い三つ編みが焦げもしていないので、自分に火が点いたことを自覚した。

「神さまっ」

 再び和紀は彼女に覆い被さるように腕に力を込めた。

 数秒だけかもしれないが、せめて少しでも彼女が焼かれる時を遅らせようと、蟷螂の斧のような抵抗であった。

 その時だった。

 突然、ドンと胸を突かれて、不覚にも和紀は咳き込んでしまった。彼女は彼に背を向け、フラリといった様子でバルコニーの端に立った。

「マーサ! 危ないぞ!」

「マーサ?」

 不思議そうに和紀を振り向いた。

 火炎に炙られたのか、彼女の結った髪を綴じるリボンと髪ゴムが切れた。すると髪自体に意識があるような勢いで、三つ編みが解けていった。

「オマイは…」

 力強く見開いた彼女の瞳が常人のソレと大きく違い、血のような赤い色をしていた。和紀の記憶にある光景とそれは同じ色をしていた。

 彼は知っていた。かつて幼なじみに双子の妹がいたことを。小学生の時に二人で火事に遭い逃げ遅れ、一人は体を焼かれ、一人は頭を焼かれた。そのままでは二つの命が失われるという時、医療関係者は脳が無事だった姉の焼けた体に、無傷だった妹の臓器を移植した。

 そして姉は生き残り、妹は亡くなった。

 それからである、不思議なことが起きるようになったのは。髪を結んでいる時は間違いなく舞朝の意思で動いていた。が、夜に髪を解いて寝ていると彼女とは別の人格が現れて、町を徘徊するようになった。精神科で言うところの同一性障害というやつかもしれない。しかし、舞朝のもう一つの人格は、和紀など親しい子供だけには超自然的な能力を見せることがあった。相手の思っていることが言葉を交わさずに理解できたり、気に入らない物には火を点けることすら出来た。

「久しぶりだな、舞夕(まゆう)

 髪を結んでいる彼女と、解いている彼女は二人で一人であった。和紀たち子供たちはいつの頃か髪を解いた彼女のことを、舞夕と彼女の妹の名前で呼んでいた。

「ええ、久しぶりね。カズキ」

「お願いがあるマーユ。おれは別にいいが、オマイのねえちゃんだけでも助けてやってくれ」

 いま初めて周囲の状況を目にするような顔で見まわした。

「困っているようね」

「ああ困っているんだ」

「わかったわ。助けてあげる」

 彼女はパンと手を一回だけ叩いた。それだけで世界が暗転した。昔の忍者ものの映画であったような安い合成のように、その一瞬で火の消えた舞台に移動したような唐突さだった。

 あれだけ猛け狂っていた炎が一瞬で消滅していた。

 火がすべて消えてしまうと光源は全くなかった。それまで火に炙られていて明るさには不自由していなかったので、瞳孔による修正がまったく効かずに、何も見えなくなってしまった。遠くからサイレンの音が聞こえてくるような気がする。そしてそれよりも近い場所で女の悲鳴がした。もしかしたらナギサがまだどこかで暴れているのかもしれないが、それを確認する手段はまったくなかった。

 いまは鼻を摘まれても判らないような暗闇で立ちすくんでいるばかりだ。

 その暗闇の中から舞夕の声だけがした。

「おねえちゃんのこと、よろしく頼むわね」

「ああ」

 和紀がうなずくと、腕の中に温もりが戻ってきた。

 細い肩で彼女が帰ってきたことが判った。

「それと、さっきは庇ってくれてありがとう」

 そっと何かが唇に触れた気がした。



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