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オペレーション・コード;エルフ  作者: 池田 和美
10/16

回想・④



「ゆー兄ちゃん」

 マコトが、部屋に首だけ突っ込んできて訊ねた。

「お風呂入らないの?」

 そこは年季の入った木製の二段ベッドが、両側の壁に沿って作り付けられた八畳ほどの部屋である。床には絨毯が敷いてあったが、足音を吸収することすらできないほど擦り切れていた。

 窓際に並べられた学習机の前で、骨董品といえそうなボロイ椅子の上で、何かを摘み上げて掲げていた渚優輝は、ノロノロと振り返った。

 優輝には小学四年生までは弟がいた。その子はとても泣き虫だった。

 それから中学に上がるまでは一人っ子になった。強制的に取り上げられたからだ。

 でも、いまではたくさんの兄弟姉妹ができていた。

「今日は星の観測があるから」

 肩越しに、同じ中学校で一つ下の学年になる少女を振り返る。彼女も妹と呼んでおかしくない間柄だ。

 優輝は中学校で天文部に所属していた。そう熱心に活動する部活でもないのだが、月に一回ぐらいは校庭に望遠鏡を持ち出して観測会を行っていた。

 中学生相手の観測会であるから、そう遅い時間まで行われることは無いのだが、先に風呂を済ませてから参加すると、色々と不愉快な事があった。夏は再び汗を掻いてしまうし、冬には湯冷めして風邪をひく恐れがあるのだ。

 よって優輝は、観測会がある日は帰ってからシャワーをざっと浴びることにしていた。

 マコトの方はすでに入浴を済ませた後なのか、オカッパにしている髪の毛が湿っていた。

「なに? また試しているの?」

 優輝が何度も懲りずに挑戦している事があることを知っていたマコトは、呆れた顔を隠そうともしなかった。

 他に誰もいないことを確認すると部屋に入ってきた。

 ここで暮らしている者にとって部屋着と言っていいジャージ姿が、短くしている髪とよく似合っていた。相乗効果で活発的な彼女の性格を、全身で表現していた。

 さすがに室内とはいえ冬の冷気対策に、上に半纏を着込んでいるのも、ここでは当たり前の姿だった。

「うん、まあね」

 いまさら隠すこともできないと悟ったのか、優輝は再び右の人差し指と親指で摘んでいた輪っかを覗き込んだ。

「なんだっけ。じょ…。ジョウロの指輪だっけ?」

「『ジョセイニの指輪』」

 小学校最後の冬に浮浪者から貰った宝物である。

「本当にそんなんで、妖精さんを見ることなんて、できるのかなあ」

 マコトは断りもなく隣の椅子を引き出すと、そこに前後逆に腰をおろした。背もたれの上で腕組みをして、顎をそこに乗せた。

 いちおう規則では男子の部屋に女子が入ることは禁止のはずだったが、あまり守られていなかった。

「そうだな。きっと信じれば見られるんじゃないかな」

 ちっとも信じていない声で、指貫の輪っか越しに庭を眺めてみた。

 それを通そうが通さまいが、家庭菜園のなり損ないみたいな風景に、変化は見られなかった。

「ねえ、ゆー兄ちゃん」

「んー?」

 先程までの妹が兄を慕うような声から口調が変わった気がして、優輝は視線をマコトに戻した。

 マコトは先程ほどと姿勢を変えずに、ベタベタとやたらシールが貼られている学習机の方へ、目だけを泳がしていた。

「東京の高校に行くって、本当?」

「うん、まあね」

 優輝は『ジュセイニの指輪』を、貰い物のカーペンターパンツのポケットへ落とし込んだ。

「そっか。じゃあ離ればなれだね」

 優輝とマコトには共通点が一つだけあった。それは一緒に暮らす近親者がいないということだ。小学六年生の時の火災で祖母を失った優輝は『慈愛園』と呼ばれている孤児院で暮らすことになった。この施設は県の児童養護施設に指定されていた。創立が戦前という『慈愛園』は、もとはカソリック系の教会附属の施設だったようだ。それが時代と共に変わってきて、いまでは宗教色のまったくない施設となっていた。

 現在、小学一年から中学三年まで、男女合わせて三六人が暮らしていた。お互いが近親者と縁が薄いので、児童同士はまるで兄弟のように仲良く暮らすのが、ここでのルールだった。

 ただここに居られるのは義務教育が終了するまでと決められていた。それからは自分で人生を切り開いて行かなければならない。寮のある高校に進学するか、就職して一人暮らしをするかは、一人一人の事情によって変わった。

 優輝の場合は、寮を備えた高校が迎えてくれることになり、晴れて進学コースとなったわけだ。

 そこがたまたま東京にある高校だっただけで、優輝自身は進学できれば別に北海道だろうと、沖縄だろうと構わなかった。とくに他の土地に行けることが重要だった。

「んー。遊びに来ればいいじゃないか」

 努めて明るく優輝は言った。その意を汲んだのかマコトも明るい声を出した。

「東京かぁ。ミッキーさんに会えるかなぁ」

「僕がアメリカクロネズミ嫌いなことを知っているクセに、そういうことを」

「え~。ミッキーさんだよ、ミッキーさん。世界的に愛されているんだよ」

「あの声が耳に刺さるようでダメなんだって」

「そうかなあ。じゃあドナルドさんは?」

「似たようなもんじゃん」

 いつもの掛け合いは、しかし長く続かなかった。

「遠いね」

 マコトは寂しそうにポツリと事実を口にした。ここから東京までは、中学生が気楽に往復できる距離ではなかった。

 暗い室内にポツンと座る少女の肩が、いつもより一層小さく見えた。

「…」

 そのままマコトはうるんだ瞳で優輝を見つめていた。優輝はなんと返せばいいのか見当もつかずに、泣きそうな彼女の顔を見つめていた。

「ゆー兄ちゃん」

「?」

 マコトは呼びかけておきながら何も言わず、そっぽを向いた。もしかしたら溢れてきた涙を見られたくなかったのかもしれなかった。気を取りなおすだけの時間が過ぎてから首が戻ってきた。

「なんだよ」

 しかしマコトは、まだしばらく無言だった。

「てがみ…。手紙書くから。わたし書くから…」

 やっと口を開いたと思ったら、瞳に大きな粒が溢れてきた。優輝は天井の隅へ振り向くと、いつも『ジョセイニの指輪』と一緒に入れてあるハンカチを取りだした。

 そっぽを向いたまま差し出すと、マコトも無言で受け取った。

 それでもマコトは泣き声を上げなかった。ここでは泣かないようにしようが、みんなの約束だった。親に捨てられたことを泣いていても何も進まないから、むしろ笑って過ごそうというのが園長の方針だった。

「無理だよ」

 優輝は冷たく言った。

 視界の外でマコトが体を硬くする気配があった。

「ツトム兄ちゃんだってトモミ姉ちゃんだって、いつの間にか返事が来なくなっただろ。新しい生活が始まれば、孤児院にいたことなんか忘れちゃうのさ」

 ここから巣立っていった先輩の面影を思い出してみた。卒業していく時に一人は大工になると、もう一人は定時制に通いながら住み込みのパン屋で働くと言っていた。

「そんなこと!」

 椅子を蹴ってマコトが立ち上がった。

「そんなこと…」

 ツトム兄ちゃんは最初の三ヶ月くらいは顔を見せに来ていた。トモミ姉ちゃんだって、そのぐらいは遊びに来ていたような気がした。

 今では二人とも音信不通だ。

 それでもツトム兄ちゃんはまだ仕事が忙しいからだと思えたが、トモミ姉ちゃんの方は働いていたはずのパン屋自体が潰れて無くなっていた。

 マコトはガックリとうなだれて両肩を落とした。

「だから、マコトも来年になったらこの土地を離れて、別の所でやりなおしなよ」

 贅沢を言わなければ何でも挑戦はできた。アパートを借りるとしたって『慈愛園』が保証人になってくれるはずだ。

「わたしも東京のガッコに行けるかな?」

「んー」

 優輝は首を捻った。集団生活の中で年長者は年下の面倒を見なければならない。必然的に自分だけの時間が減り、それは学習時間の減少に直結していた。優輝が東京の高校に入れたのは、向こうが受け入れに積極的だったおかげである。同じ『慈愛園』出身とはいえ、優輝が進学する予定の高校が、家族の事情が違うマコトにも門戸を開くとは限らなかった。

「マコトはバカだからなぁ」

「そんなことないもん」

 年相応に膨れっ面をしてみせるマコト。ドスンと椅子に音を立てて尻を落とした。そのいつもと同じ表情に、もう大丈夫だと感じることができた。

 そう油断したのがいけなかった。

「今日は、私もついていこうかな」

「? なにに?」

「観測会。やるんでしょ?」

「だって、天文部じゃないよね」

「でも同じガッコでしょ」

 マコトに、いつもの元気な表情が戻ったことで安心してしまった優輝は、彼女の髪を指差した。

「せめて髪の毛を乾かしてから来なよ。風邪ひくぜ」

「そっか」

 マコトは自分の髪を、自分の視界に入れるように一房摘み上げた。

「じゃあドライヤーの順番が来るまで待って」

 集団生活であるから色々な制約がある。ドライヤーだって全員で一台しか使えない。そうしないとブレーカーが落ちるのだ。

「待てない」

 立ち上がりながら優輝は告げた。自分の二段ベッドにハンガーでかけておいた灰色のパーカーに袖を通す。

「校庭のド真ん中でやっているから」

「も、もう行くの? 早いんじゃない?」

「ああ。場所取りが大事なんだ」

 マコトに言い訳をしつつ廊下へ逃げ出そうとした。その途端、追いかけるように立ち上がったマコトにパーカーの袖を掴まれてしまった。

「ゆー兄ちゃん…。その後…、時間があるかな」

 そう言って、今度は耳まで真っ赤になった。

「門限に遅れると、下の者に示しがつかないよ」

 お気楽に言い放って、マコトの手を振り払った。まだ何か言いたそうなマコトを部屋に残して身を翻した。

 先程、彼女が指摘したとおり、観測会の待ち合わせ時間には相当早かった。だが、このままマコトと部屋にいても、碌なことにならない予感があった。

(慕ってくれるのはいいけどさ…)

 優輝は上がり口へ向かいながら、パーカーのフードを被って表情を隠した。そうでないと、きっと泣きそうになっている顔を誰かに見られると思ったからだ。

(…犯罪者の息子と一緒にいたって、損するばかりだよ)

 大きな分類で選別すれば、自分が加害者側の人間だという自覚があった。

(マコトには、もっといい男がいるんじゃないかな)

 いちおう第三者の目でマコトを見てみれば、孤児院で年下の世話に慣れているから面倒見がいいし、なにより優しい。器量だって、そりゃあテレビや雑誌の表紙を飾っているモデルと比べたら劣るが、田舎という環境からすれば、結構いい方だ。週末ごとにデートを重ねる相手としてだけでなく、将来のお嫁さんとしても申し分ないだろう。

 ふと自分の横に立っている彼女を想像してしまった。男子として小柄な自分であるが、彼女だって女子の中では小柄な方で、二人並ぶとお似合いのカップルに見えるような気がした。

(だけどさ…)

 今のところ四人中四人とも死亡しているという、自分の家族になった者の末路を知っている身としては、気軽く異性を求めてはいけない気がした。それに彼を引き取らせたくないという祖母の嫉妬に似た感情で、母方の実家はどこかへ引っ越してしまって音信不通だ。柴田の家は、優輝が孤児になった今でも消息は知らせてこなかった。彼と関わりを持った人間が不幸になる率は、現実の統計として高かった。

(僕はこの先一人で生きていかなければならない。不幸になる人間は一人でも少ない方がいい)

 そうした後ろ向きの考えに浸りながら、優輝は慈愛園の正面から脇へ回り込んだ。

(今も、はっきりと断ればよかったんだ)

 しかし他人とのふれあいを人間はどうしても求めてしまうものだった。

「僕はマコトを諦めなければいけない」

 周囲に誰もいないことを確認してから、口に出して言ってみた。決意が固まって少しは気が楽になった気がした。

 それからそこにある置き場から、代々受け継がれてきた自転車を引っ張り出した。新しい物を買う財政的余裕が少ないために、一般の家庭から、もう乗らない自転車を譲り受けた物だ。

 優輝が使うようになるまで、ここから巣立っていった者たちが愛用してきたママチャリである。

 ハンドルは微妙に歪み、傷や汚れは適当なペンキをベタベタ塗って隠したせいで、前衛的な芸術作品風な様相である。しかし歩くのには遠すぎて、かつ送迎バスの範囲からは外れているという微妙な距離がある中学校まで、毎日の通学の友である。

 これも歪んでしまって、ただ差すだけでは解錠されないカギを、いつものようにこじって乗れるようにした。

 跨って出発準備が終わって、足をペダルにかけて漕ぎ出す前に、はたと気がついた。

(どうしよう)

 こんな時間から中学校へ行っても、望遠鏡の準備を手伝わされるだけだ。優輝もいちおう三年生だから、そういった煩雑な事は下級生が行い、関わらなくていいことになっていた。

(うん。僕が行って準備を手伝ってしまったら、後輩たちがセッティングの練習する機会を奪ってしまうじゃないか)

 と心の中で自分の良心に言い訳すると、ハンドルを中学校とは違う方向に向けて走り出した。

 こんな田舎だってコンビニぐらいはある。幅だけは幹線道路並みにある市道に、主に自動車で来る客を見込んだ大手チェーン店が、『慈愛園』から自転車で行ける範囲にあった。

 いちおう国道から高速への抜け道的な位置にあるコンビニであるが、その道自体がなるべく人家にぶつからないように、後から山側へ作られた道なので、周囲には田畑しか存在しなかった。夜間に行くとなると、まったくの暗闇の中にぼうっと店舗だけきらびやかな照明のせいで、浮かび上がって見えるほどだ。

 まだ夕方なので、自転車で行く分には障害は全くなかった。これが夜だと暗すぎて、道と平行して流れている用水路に落ちる危険があるから困ったものだ。優輝自身も何度か落ちかけたことがあった。

 旧道沿いの家並みから外れて農地の中を走行していく。視界を遮るものはほとんど無いので、すぐに白くて四角い店舗の裏側が目に入った。

 走りながら見ていると、ペダルを漕いでも漕いでもなかなか大きくならないので気が滅入ってしまう。優輝は道の周囲に目を逸らすことにした。

 たんぼ。

 はたけ。

 あと小さな丘がポツリポツリとあって、たまに赤い鳥居が小さく見えた。

 優輝が幼い頃と何も変わらない風景がそこにあった。ただ夕やみが迫っているせいで、いつもの殺風景な色遣いとは違った味わいのある物に変わっていた。

 孤児院とはいえ小遣いぐらいは少し出る。その消費は大抵、今向かっているコンビニで行われるので、優輝にとっても勝手知った道だった。

 うんざりする直線を抜けると、広めの市道と丁字交差点になっており、右折すればもうすぐだ。

 コンビニの駐車場は色々な車で一杯だった。

 都市間輸送を担っている大型トラックが猛獣の唸り声のようなアイドリングしていた。ドライバーたちがこの駐車場で時間を調整し、高速料金が安くなる夜間に走り出すのが常だった。

 店の目の前にある普通車用スペースも埋まっていた。ただこちらは買い物を終えるとすぐに出ていく。たいがい普通車は高速方面へ、軽自動車は集落の方へと向かった。

 店の外には、トラックドライバーたちのために、大きめのゴミ箱が店の外に並べられていた。

 マナーが悪いのか、それとも量が多すぎるのか、少々周囲にまで溢れており、あるかないかの残飯をスズメたちがイタズラするようにつついていた。自転車が近づいてくる気配に、パッと散ったと思ったが、通り過ぎるとすぐに舞い戻ってきた。

 ゴミ箱のさらにその脇に、とりあえず設けてあるといった風情の自転車置き場へママチャリをとめた。

 カギをかけて店内に向かった。お気楽なチャイムと条件反射だけで言う店員の「いらっしゃいませ」と、一瞬息がつまるようなモワアッとした暖房が優輝を出迎えた。

 カウンターにできている客の列へ視線を流して、めざすは雑誌コーナーだ。

 といっても曜日が悪すぎた。今日発売のマンガ雑誌は無いはずだ。そして立ち読み常習犯の優輝にとって、今週発売された雑誌は既読である。

 マンガ雑誌でなく二つか三つの写真誌が発売日であるが、下着姿のモデルが体をくねらせている表紙で判るとおり、未成年が昼間から立ち読みに挑戦できる種類の物ではなかった。

 もう読んでしまったが、時間つぶしに他の方法は持ち合わせていなかった。

 立ち読み専用になっている感じの、一番上のページがよれたマンガ雑誌の一冊を手にした。

 そっと氷水を背中に流されたような気がした。

「?」

 こんな寒い季節に、悪趣味なイタズラだなと考えかけて、自分がパーカーのフードを被ったままなのに気がついた。これでは襟足から流し込むことなど物理的に無理ではないか。

 不思議に思って振り返ると、いつもの店内であった。

 いや、トイレの前に背の高い人物が立って、優輝の方を見ていた。上から下まで黒い服に身を包み、剽軽なほどの丸めがねで顔の半分を隠していた。

 まるで電信柱のような細い体格から、男であることは間違いない。彼は優輝と目を合わせるとニヤリと嗤った。

 再び背中に冷たい物を感じた優輝は、ブルブルと大きく身震いして、その感覚を振り払った。

(なんなんだ? この男?)

 いちおう優輝は地元では有名人の部類に入る。なにせ実の父親は殺人犯で、警官まで殺した上で一家心中までやった男だ。その次に世話になった祖母は地元の名士だった。しかし彼女も、不審火から家ごと焼かれて死亡した。

 そのどちらの事件でも生き残った彼の存在は、疫病神とほぼ同じ物として扱われていた。

 よってスキャンダルをセンセーショナルに書き立てるゴシップ誌の記者なんかが、忘れた頃に訊ねてくることがあった。

 だが目を合わせたこの不気味な男はそういった人種でもなさそうだった。

「先生」

 店内のどこからか声がした。優輝のところからは棚のせいで見えなかったが、この男には女のツレが(しかも声の調子からだいぶ若いようだ)いたようだ。

「ええ」

 穏やかな声で男は応えた。だが、不気味なことに視線は優輝に固定されていてまったく動かなかった。

「先生。鳥が飛ぶよ。鳥が飛ぶよ。鳥が飛んじゃうよ」

「三回言ってはダメだよ」

 優しい声で男は語った。

「三回言うと、現実になっちゃうからね」

 その時、駐車場で激しくクラクションが鳴らされ、ゴミ箱に集まっていたスズメたちが驚いて空へ飛び立った。

「???」

 見れば駐車場から飛び出した自家用車と、道を走ってきたトラックが出会い頭にぶつかりそうになり、お互いにクラクションを鳴らしあったようだ。

 遠くからドライバー同士の怒鳴り声も聞こえてきた。自家用車の運転手は、頭から健康に悪い液体でも被ったようなサイケな彩りをした髪の若い男であった。上半身をドアウインドから乗り出して、日本語になっていないような事を喚き散らしていた。対するトラックの方はほとんど禿げ上がった老人だったが、こちらも血圧が上がりすぎたような怒鳴り声をぶち捲いていた。

 だがトラックは積み荷が急ぎだったのか、すぐにハンドルを切って自家用車をよけると、最後っ屁のようにクラクションを鳴らして走り去った。それをバカにされたと受け取ったのか、頭の悪そうな若者は、窓から上半身を引っ込めると、余分にアクセルを吹かせてトラックを追跡して行った。

 どこか追いついたところで傷害事件にならなければいいが。目撃した誰もがそう思えた交通トラブルであった。

 騒ぎの方が移動していったので、店内にいつもの調子が戻ってきた。

 優輝は再び自分を見つめてきた男に振り返った。

「?」

 もうそこには誰にもいなかった。気がつけば背中を流れていた冷たい感覚も無くなっていた。

 不思議に思って店内を振り返っても、あれだけの身長なのだから棚越しに発見することは可能だと思われたが、どこにも見つけることができなかった。



 天文部の観測会はいつもの通りに終了した。

 天文部唯一というより、この中学校で一つだけの望遠鏡を代わり番こに覗く他は、顧問が教えてくれる一等星を眺めるだけの時間。

 今日筒先が向けられたのはオリオン大星雲だった。

 安い望遠鏡であるから目の覚めるような映像が見られるわけではないが、それでも肉眼よりは遥かにマシな星空を見ることが出来た。ただ赤道儀が無いので、地球の自転に従って円い視野からどんどんと外れていってしまうのが残念であった。

(マコト、来なかったな)

 集団から外れた位置に立って優輝は校庭を見まわした。

 望遠鏡の所に二、三人。顧問の周りに残り全部が集まっていた。大学で天文学が専攻だったらしい顧問は、オリオン座のベテルギウスが爆発して超新星になるかもしれないという話をしていた。

 優輝の中学校では、生徒は必ず部活動に参加することとされていた。天文部を選んだ理由は、夜にコンビニへ行く口実が欲しかっただけで、それ以上でも以下でもない。彼がクラスだけでなく学校全体から厄介者扱いされているのは自覚しているとおりで、いまも離れて立っている彼に話しかけてくる者はいなかった。

 そりゃあ優輝だって思春期の男の子である。夜に二人きりになろうと女の子から言われて、胸がときめかないわけがない。ただ自分の立場というものを痛いほど知っているから、相手を思って距離を置きたいと思っているだけだ。

(本当に痛いものなあ)

 全国広しといえども、こう短期間に爆発と火災に巻き込まれて火傷を負った者は、本職の消防士以外ではいないのではないかと思われた。二回も負った火傷のせいで、たまに本当の痛みを感じるときがあった。とくに右の掌は、最初の爆発のときにライターが焼け付いたせいなのか、いまだに醜い痕が残っていた。痕と言えば頭の傷もそうだ。こちらも何度も殴られた上に火に炙られたものだから、髪で隠していないと周囲が引くほど醜い痕となっていた。

 優輝がパーカーのフードを被りっぱなしなのは、寒さ対策だけでなくそういった理由も存在したからだ。

「さって~」

 顧問がいつもの口癖を繰り返した。

「そろそろ、おしまいにしようじゃないか」

「先生、もうちょっと」

 優輝は振り返った。先程のコンビニで聞いた声に似ていたような気がしたからだ。だが、そこには天文部の女子に囲まれて、妙ににやけた態度の顧問がいるだけだった。

「さって~。片付けるのを手伝ってくれないか」

 片付けると言ったって、三脚にのせたままの望遠鏡を昇降口の端に寄せておくだけだ。分解して所定の位置へしまうのは明日の朝に登校してきてからとなる。

 赤道儀もついていない安物の望遠鏡であるから、口径だってそんなに太い物ではない。ゆえに重さだって顧問ともう一人男子が手を貸せば、ここから昇降口まで楽に運ぶことができるはずだ。なにせ去年まで手を貸していたのは、優輝だったのだから。優輝が三年生になってからは、今年入部した男子がその役を担っていた。またこの男子も柔道部がお似合いという外見なのに、何を考えてか天文部に入ってきた男子だった。優輝は彼の入部動機が、彼と一緒に入部した二人の女子のどちらかにあると考えていた。

 真っ暗な校庭に複数の懐中電灯が点され、望遠鏡が照らされた。その不自由な光の中で顧問がざっと望遠鏡に異常がないかを点検し、三脚の根元に手をかけた。反対側からいま優輝が考えていた男子が手を貸した。

 二人でえっちらおっちら運ぶのを、周囲の女子が懐中電灯で照らしてやりながら移動する。集団で昇降口へ移動していくのにつきあうように、優輝も距離を取ったまま後に続いた。

 田舎の中学とはいえ、校庭に障害物が有るわけがない。無事に望遠鏡は昇降口の隅へと寄せられた。

「さって~」

 顧問が頭数で全員が揃っているかを確認した。

「みんな気をつけて帰るんだぞ」

「は~い」

 そこは純朴な田舎の中学生である。みんな素直に返事をして帰る方向ごとに集団を作ると、三々五々校門に向けて歩いていった。

 優輝も返事だけはみんなと合わせたが、一緒に歩いてくれる者などおらず、ポケットへ手を突っ込むと、寒さに負けないように肩をそびやかして校門に向かった。

 殆どの者が校門の外に自分の自転車をとめていた。いつもは通学バスを使う生徒も、この時間では送迎を頼むのは無理だ。歩きなのは一番近い男子と、一番遠い女子である。男子の方はこのまま歩いて帰宅するが、女子は顧問の車で送ってもらうことになっていた。

「?」

 優輝は、少し離れたところから、後輩たちが自転車の準備をするのを眺めていた。自分が疫病神の様に嫌われているのは自覚がある。その自分が、慌てて自転車に取りついても、彼に近づきもしたくない後輩たちの帰る準備を邪魔するだけだと分かっているからだ。

 離れたところから見ていたので、気がつくことができた。

 顧問が車を回してくるまで待たなければいけない女子と、彼女につきあってお喋りに興じる女子グループの自転車はいいとして、自分が使っているママチャリの他に、もう一台自転車がとめられていた。それは見覚えのある自転車であった。

「マコトのだ」

 それの意味することはただ一つである。彼女は『慈愛園』から校門まではやってきたということだ。

 だが周囲には天文部の女子しか残されていなかった。それも顧問が車でやってきたので解散するところだ。

 日本は狭いと言われているが、過疎が進んだこんな田舎では、それぞれの施設同士の間隔が無意味に広かった。コンビニは集落から離れた市道沿いだし、図書館や市民サロンなんかを備えた文化会館なんかは、反対側の田んぼのド真ん中に建っていた。

 さすがに過疎が起きる前から存在する中学校は、集落に近いところに立地していた。が、今度は少子化の影響で、歩いてこられる範囲に住んでいる生徒が絶滅危惧種なほどだ。

 だいたい自治体を運営している大人は、みんな車での利用を考えて計画を立てていた。そんな環境で子供たちは生活するのに、自転車は必要な物だった。強者に至っては無免許で原付を乗り回すほどの距離感なのだ。だからこの自転車がここにあるということは(自転車が一人で勝手に来たのではなければ)マコトが近くにいるということである。

 カギをポケットに戻して周囲を確認した。

 まだ残っている優輝を不気味そうに見た女子たちが、顧問に別れの挨拶をして自転車を漕ぎ出した。

「さって~。誰がまだ帰ろうとしないのかな?」

 送っていく女子を後部座席に座らせた顧問が、運転席から顔を覗かせた。優輝は最敬礼をして別れの挨拶とした。

「渚も気をつけて帰るんだぞ~」

 プップーと軽くクラクションを鳴らして顧問の車も走り去った。

 防犯灯が点る校門前に取り残された一人と二台。

(公園かな?)

 孤児院を出てくるときの会話を思い出しながら、優輝は中学校の近くにある市営公園を振り返った。市長だか市議だかの実績作りか、はたまた余った地方交付金を消化するためなのか、中学校に隣接する土地に、田舎にしては立派な公園が整備されていた。

 色つきのアスファルトで舗装されたジョギングコースは、運動部が走り込みに使用するのに丁度よいらしく、放課後には運動着姿の部員が何周もするのを見ることができた。その時間以外は杖代わりにカートを押す婆さんたちが、徘徊していると表現するのが適当な様子で通りかかるだけだ。

 公園の中央には小高い丘が造成されていた。そこから小川を模した水路がチョロチョロと蛇行して、噴水のある大きな池に向かって流れていた。これなんかは夏場に幼児が水遊びするのに最適な施設であると思われるが、肝心の幼児の方が少子化で見かけることが稀になっていた。水路にしたって夜間には水を循環させるポンプの電気代節約のためか、涸れ沢となっているはずだ。

 そんな公園の中に優輝は分け入って行った。交付金の浪費が目的だったからか、雑草などの手入れがおざなりで、何かの廃墟と言われても不思議じゃないような場所となっている。とくに夜間である今は超常的な何かと対面しそうな雰囲気であった。

 さすがに、そこかしこに立っている照明で点っていない物は無いようで、足元には不自由しそうもなかった。

「さって~」

 天文部顧問の口癖を真似てみた。足元には困らないと言っても遠くまで見通せる程ではないし、遊具や生け垣、花見のために植えたと勘ぐれる桜やら何やらで、一目で公園を見わたすことはできなかった。

(行き違いになっても、僕の自転車を見つければ待っていてくれるかな?)

 見通せないなりに周囲を確認した。

(まさか、今頃。マコトも僕を探していたりして)

 取り敢えずジョギングコースを歩き出しながら優輝は、ポケットの中に入れっぱなしになっている宝物を玩んだ。

(お互いがお互いの自転車を見て行き違いとか、どんなコントだよ)

 右手の方に光の塊があった。公衆便所である。

(あそこということもあるな)

 観測会が行われる夜間は、当然といえばそうなのだが、校舎内は立ち入りが禁止されていた。もし催すことがあったらココを使用することとなっていた。と言っても「汚い」とか「臭い」とか女子には不評であった。そこら辺で片付けてしまう男子にはあまり興味が薄い話だ。

「?」

 こんな夜中に人影を見たような気がして、呻き声のような物を漏らしてしまった。

 行く先に決めた公衆便所の近く、優輝の肩までの高さがある植え込みの辺りに、誰かが立っていたような気がした。まったく知らない人物ではなさそうだが、誰と指摘することは難しかった。

 ポケットの中で宝物を指先でひっくり返したときに思い出した。

(コンビニにいた不気味な男だ)

 はっきりと見えたわけではないが、なぜか確信があった。余所者が自分のテリトリーをうろついている現実に、急に焦りのような物が湧いてきた。

 夜に徘徊する男と、現在行方不明な妹分。春には高校生になる優輝が焦燥を感じてもおかしくはなかった。

(まてまて)

 と心の否定したい部分がブレーキをかけた。

(まだそうと決まったわけではない。それに、あの男も女のツレが居たようだし)

 しかし、いつの間にかに早足となっていた彼は、そこに誰かが居ると確信が持てないまま、公衆便所へと急いだ。

 蛍光灯の明かりが網膜に痛いほど刺さってきた。

 無愛想なコンクリート造りの公衆便所は、手入れが悪い証拠に、離れていても大分きつい臭いがした。滅多に外的要因で表情を変えないようになっていた優輝ですら、眉を顰めて、それから臭いをなるべく感じなくていいように、口から息をした程だ。

 その暴力的な光圧が生身で感じられるような施設を背中に、公園の中を見まわしてみた。

 状況はまったく変わらない。見えたと思った不気味な男も、マコトも、それ以外の動物すら視界に入らなかった。

「マコト?」

 大声を出して夜の静寂を破るのが恐くて、小さな声で建物内に話しかけてみた。返答も物音も何もなかった。

「マコトー?」

 声をかけながら女子の方に入り込んだ。これで出くわしたらマコトに大声で悲鳴を上げられるかもしれないが、いつまでも行き違いになるよりはましだった。

 三つあった個室のどれもが扉が開けっ放しになっていた。

 こんな過疎の村で可能性が低いが、第三者に目撃されて痴漢と誤解される前に出て、いちおう男子の方も確認した。

 服に臭いが染みこんでしまったかもしれない。それぐらいがここでの探索の結果だった。

「さってー」

 公衆便所から距離を取りつつ、顧問の真似をもう一回してみた。

(マコトがココを使用して、ジョギングコースの向こう側を通って校門のところに戻ったのかもしれない。今頃は向こうも途方に暮れていたりして)

 なにせ校門の所からでも、観測会が終わっていることぐらいは判るはずだ。

(フリダシに戻ってみよう。それで自転車があっても無くても帰ってしまおう)

 よく考えれば、マコトに時間を取って、なにを期待するというのだろう。まさかこんな自分も、青春の一ページってやつを味わうことができると思っていたのだろうか。自分に貼られた疫病神の(レッテル)を忘れてはいけない。その時はいいかもしれないが、自分ではなく相手が不幸になってしまう身の上なのだ。

(僕は求めてはいけない)

 マコトの涙を思い出しながら優輝は自分に言い聞かせた。

(まさか告白を望んでいた? それとも、それ以上の肉体的なこと? バカ言っちゃいけない。マコトを傷つけるだけだ。それに、もしかしたら「ずっと言えなかったんだが、テメエの足が臭いんだよ」とかいう別の告白だったかもしれないし)

 そうだそうだとうなずきながら、足を公園の出入口へ向けた。マコトに会ってはいけないと、今まで歩いていたジョギングコースではなく道や生け垣を半ば無視して最短の直線コースを取った。

「僕はマコトを諦めなければいけない」

 口に出して言ってみた。決意が固まっていくのが自分で判った。音節にして当の本人に聞かれてしまう可能性もあったが、逆にそれも好都合かもしれなかった。

 雑草だらけの造成された人工の丘を一つ超えた。

 その時、水音がしたような気がした。

 この先に作られている水路のような量ではなく、もっと少ない蛇口を締め切らなかった時のような、雫が落ちる音。

 中を確認してきたはずの公衆便所を振り返った。記憶では男女とも水が出しっぱなしという事は無かったはずだ。確認に戻るかどうか優輝は躊躇した。

(まあ出しっぱなしとしても、払いは役場だろうからな)

 納税とはほど遠い身分なので気軽に考えてみた。他にこのような水音を立てるとすれば、園内に数カ所設置されている水飲み場ぐらいなものだ。

 ちょっと回れば、その内の一つぐらいは見に行くこともできるが、いまはマコトと二人きりになる危険性を避ける方が先だった。

「僕はマコトを諦めなければいけない」

 もう一度口にしてみた。泣きたくなったが、涙は出なかった。

 無性に彼女と話がしたかった。話をしたら、この決意が崩れるのは判っていたから、会いたくなかった。

 丘を下り、再び植え込みが重なるエリアへ分け入った。

 だが、不思議なことに、先程から感じている水音が段々と大きくなってきているような気がした。優輝の記憶では、ここから出入口まで、水路を除いて水に関係する物は無いはずである。

(まあ、気のせいだろ)

 気軽に考えて次の植え込みを回り込んだ。

 そこは植え込みの中を散歩道が横断しているところだった。背が高い水銀灯の光が、まるで舞台を照らすスポットライトのように差し込んでいた。

 そこにあった物を見て、優輝の足が止まった。


 いちめんのちだまり。


「え?」

 手入れなんて碌にされない植え込みに寄りかかるようにして、誰かが座っていた。その人物に覆い被さるように、黒い小柄な人影が立っていた。

 そして周りの地面には梅雨時の水たまりよりも大きな、急ごしらえの赤い池が広がっていた。

 優輝の気配に、小柄な人影は振り返ったようだ。だが向こうも優輝のようにフードのある服を着ており、表情は確認できなかった。

 それに、優輝はそちらの人物を見ていなかったということもあった。

「マコ…ト?」

 足を投げ出して座っているように見える人物は、乱れたショートカットで呆けたような表情を半分隠していた。

 右膝にハートのツギアテがあるジーンズは、確かに彼女のお気に入りの服。

 しかし上半身はズタズタに切り裂かれて、肉色の腸が腹腔からまるで別の生き物のように這い出し始めていた。おそらく腹膜が破られたことにより、腹圧で押し出されてきているのだろう。

 そこまで観察して、優輝の視界が赤く染まっていった。

 見る物全てが赤くなり、その色が濃くなり過ぎて黒くなった所で、優輝は考えることをやめた。


 向かい合うフードの人物が、緩慢な動作で振り返った。

 水銀灯の光が降り注ぐ中で、向こうの姿は逆光になり、詳しく見ることはできなかった。

 ただその手に握られている物だけは、光を反射して正体が判った。

“彼女が殺しに来る”

 地へ何かが滴る包丁。

 片方の人影が走り出し、もう片方が追いかけた。

“彼女が殺しに来る”

 風と植え込みを掻き分けるザザザという音。

“彼女が殺しに来る”

 放物線を表現するかのように、音だけが暗い公園内を回り込んでいった。

“ボクが三度言ったことは本当だ”

 そして衝撃音。

 続いて何かが裂ける音。

 さらに熟れた果実を握りつぶしたような音。

 しかし周囲は夜の公園。

 なにが起きたのか誰にも判らなかった。

 誰にも判らなかった。

 当事者たちにも…。




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