回想・①
★多すぎる登場人物紹介
藤原由美子
:四月から清隆学園高等部二年生になる少女。別名『拳の魔王』。その剛腕を持ってやっぱり図書委員長をつとめている。今回は出番が少ない。
郷見弘志
:由美子の天敵ともいえる騒動屋。空楽、正美と三人で『正義の三戦士』(サンバカトリオ)と呼ばれる。今回は裏であんなことやこんなことをしている。
不破空楽
:酒と読書と居眠りをこよなく愛する図書室の常連。忍者のような体術が得意。授業サボり魔の彼も、不思議なことに無事に進級できたようだ。
権藤正美
:銀縁眼鏡をかけた成績優秀な少年。高等部美術部部長で個性が薄い三人目だったはずだが、今回出番が多いような、すくないような。
佐々木恵美子
:由美子の同級生。生徒会(裏)投票において『学園のマドンナ』として選ばれるほどの美貌を誇る。
岡花子
:図書委員会において副委員長として由美子の片腕を務める和風美人。また華道部でも活躍している。今回の出番はいつもより多め。
松田有紀
:由美子たちと同じく来年度から二年生になる少年。清隆学園高等部において少数派の他府県より受験して男子寮に入った留学組。
御門明実
:『明日のノーベル賞受賞者のそのまた候補』と目される少年。高校生にして数々の発明発見を成し遂げている。
弓原舞朝
:清隆学園高等部の新一年生。天文部において中心的な役割をしている、ごく普通の女の子。数少ない常識派として、同級生のツッコミ役に忙しい毎日。今さらの新ヒロイン登場という事態で、作者は読者を置いてきぼり。
遊佐和紀
:舞朝の幼なじみ兼クラスメイト。立ち位置は間違いなく主人公ポジション、立ち位置だけは…。残念なことに厨二病をいまいち発症していないため、ただのヤンチャボウズにしか見えない。
近藤愛姫
:雑誌で読者モデルをやれそうな程で、恵美子とガチで美を競えるくらいの美少女。そして実態は舞朝の恋人希望という変態。自称『五分未来からやって来た時間旅行者』という厨二病発症者。
椎名叶
:右手にパペットのカインを装着して、シルエットを頭から被ったシーツで隠している対人恐怖症の少女。自称『ナイハーギー』という厨二病を発症している少女。宇宙人という設定だが実は零細企業ながら社長令嬢。
前田直巳
:紺色ブレザーの制服がある清隆学園において、私服で登校するという服飾規定を守らないイケメン。自称『異次元人』という厨二病発症者。素直に意見を言えないひねくれ者だが悪い奴ではない。実家は代々続く醤油の老舗蔵元。
久我五郎八
:紺色ブレザーの制服がある清隆学園において、道着で登校するという服飾規定を守らない少女。自称『もののふ』という厨二病発症者。蓬髪に櫛も通さないほど外見に拘らない割に、おしゃれ雑誌はチェックしている模様。
ヤマト先輩
:清隆学園高等部二年生。舞朝たちが所属する天文部で部長を務める。中等部からのつきあいで舞朝たちが入部してくれそうなので、勧誘は熱心ではなさそう。
アイコ先輩
:とてもふくよかな清隆学園高等部二年生。天文部の副部長。新入生勧誘がいいかげんな部長と違って、こちらは熱心な様子。
小石健介
:天文部顧問の地学教師。いつも白ずくめのファッションをしているため、不気味がる生徒もいる。ひょうきんな丸めがねの下に隠された目つきは、意外に鋭い。
上下奈々芽
:警視庁捜査一課の敏腕女刑事。その思考は冷酷なほど人情味に欠けるが、犯罪者を許せない気持ちは強い。過去の事件で、とある人物と因縁があるためか、今回の事件では彼を疑っている。
田久保光一
:上下奈々芽とコンビを組んでいる警視庁第一課の刑事。気は優しくて力持ちというお巡りさん。
鞍馬さくら
:図書委員会に新しく所属することになった謎の少女。
ペテロ
:清隆学園の周辺で連続猟奇殺人事件を起こしていると警察が考えている殺人鬼。完全な異常者のため要注意。
ユウキ ナギサ
:清隆学園の周辺で連続猟奇殺人事件を起こしている殺人鬼。完全な異常者のため要注意。今回の真犯人。
地中海沿岸で発達した一神教の教典によると、神は七日間で世界を創ったらしい。
では人間は七日間で何を成すことが出来るのだろうか?
ごく普通の一般家庭に生まれて育っていたはずの渚優輝は、それを知っていた。
地方都市の優良企業に勤めていた父。
父とは大学で出会い恋愛結婚した母。
泣き虫で悲しいことだけでなく、嬉しいことがあっても泣き出す弟。
そして成績も運動能力も普通な自分。
慎ましいが幸せな暮らしを送っていた四人家族。
毎日が驚きの連続でめくるめく冒険の日々、なんていう生活とは対極の、今日も昨日の延長で、明日も今日の延長という、平凡ながらも幸せな生活。
それが終わったのは優輝が小学校四年生の時だった。
いつものように道で転んだだけで泣いて帰ってきた弟と家に上がると、なぜか母はおらず、居間にまだ会社で就業時間中のはずの父が座っていた。
彼の周りにはたくさんのアルコールの空き缶が転がっていた。
昼間からの飲酒。どうしたのだろうと思う間もなく、父は苛立ったように立ち上がった。
「うるさい!」
じっさい苛立っていたのだ。子供の泣き声ほど耳障りの悪い物はないのだ。
手を上げられた記憶がない温厚だった父の初めての暴力。泣き声をさらに大きくする弟。大きくなった声に刺激されて、さらに振るわれる大きな拳。
「やめてよ!」
そんなに殴られては弟が死んでしまうと思い、優輝は父の腰にしがみついた。
「邪魔をするな」
弟を庇った彼も殴られた。あまりの衝撃に畳に転がると、今度は執拗に蹴られた。
体を丸めて耐えていると、兄へ振るわれている暴力を見て、弟がまた泣き出した。矛先が移動する前に、優輝は素早く立ち上がると、弟を抱えて子供部屋に逃げ込んだ。
押し入れの布団へ抱き合いながら潜り込んで、父が追ってこないことを祈った。
豹変した父は、彼らを痛めつけるよりも飲酒の方が大事だったのか、子供部屋までやってこなかった。
薄く開けた襖で様子を窺っていると、しゃくりあげながらも泣くのをやめた弟が言った。
「パパ、どうしたのかなあ」
「きっと仕事で嫌なことがあったんだよ」
少しでも慰めようと、テレビから仕入れていた言葉を使ってみた。
「ママ、どうしたのかなあ」
「すぐに帰ってくるよ」
気安く答えた優輝だったが、母はその日は帰宅しなかった。
食事を摂ることが出来ず水道水で飢えをしのぎ、トイレは父の目を盗むように抜き足差し足で行った。躾にはそれなりに厳しい母に禁止されていたが、夜はそのまま押し入れで眠った。
翌朝、ほとんど同時に目が覚めた二人は、居間を覗き込んでみた。相変わらずアルコール類に埋もれている父。二人は音を立てて起こさないように気をつけながら家を出て、小学校に登校した。
普段は不味いと思っていた給食が美味しかったこと。優輝は初めて昨日と同じことがちゃんと繰り返される有り難みというものを知った。
学校の先生には何も言えなかった。
家に帰ると、居間で母が泣いていた。父は相変わらず大きなイビキをかいて寝ていたが、それはアルコールのせいだということが小学生でも判った。
「ママ」
自分も泣き出したいだろうに、弟が心配そうに母の顔を覗き込んだ。
器量よしとまで言えないが、同世代の女性の中ではそれなりだった顔は、左頬が醜く腫れ上がっていた。
「大丈夫?」
弟と揃って泣き出しそうになった優輝は、それでも男の子らしく母を気遣う言葉を口にできた。
「大丈夫よ、ママは。昨日はごめんなさいね」
二人揃って首を横に振った。
「パパ恐かったけど、押し入れに逃げてた」
本当は禁止されている行為だったが、母は安心したかのように表情を緩くした。
「うるせえぞ」
イビキが止んだと思った途端に父ががなり声を上げた。会話していた三人は体を硬くしたが、腕枕で横たわる父はそれ以上何も言わず、再びイビキをかきはじめた。
「ほら、部屋に行ってなさい」
母に背中を押されて優輝と弟は子供部屋に閉じこもった。
その日の夕飯は、母がオニギリを部屋に持ってきてくれた。
三日目の朝には母はまたいなくなっていた。それどころか父もいなくなっており、二人は安心して小学校へ行くことができた。
「にいちゃん、ボク帰りたくないよ」
帰り道、弟が半ベソで言った。
「今日、パパは朝からいなかったろ。きっと会社に行ったんだ。きっとまたイジメられて帰ってきて、ボクたちをぶつよ」
「そ、そしたらママと、おばあちゃんちへ行こう」
優輝の提案に弟の表情が変わった。
「それは野間のおばあちゃん?」
父方の祖母は、かつて進学校で教鞭を執っていたらしく、厳しい性格の人だった。
「いいや、柴田のおばあちゃん」
「そっか」
母と共に逃げるなら母方の祖母が暮らすところへ行くのが自然だろう。そして母の旧姓である柴田家の人々はおおらかな人物が揃っていた。
家に帰ると、二人の想像を超える物体が、居間に転がっていた。
見知らぬ若い女が縛られて畳の上に転がされていた。口には捻ったタオルが猿轡として噛ませてあった。
その女を見おろして、父は尋常じゃない嗤い声を上げていた。
「よくも~~~してくれたな! 裏切り者め! ~~~で、~~~だろうが!」
父はなにか日本語のような物を喋っていたが、なにか専門用語が多くて小学生の優輝には理解できなかった。
喋りながら父は興奮してきたらしい。口の端から零れたヨダレが糸を引いて落ち、畳の上で表面張力のまま盛り上がって光っていた。
「これは復讐なんだ!」
そして父は右手に持っていた野球のバットを振り上げた。
「だめっ」
優輝と弟は台所の方から母に飛びつかれた。彼女の胸に抱かれた弟は判らなかっただろうが、頭に腕をまわされただけの彼は、はっきりと見てしまった。
自分の父が、その女を撲殺するところを。
異変が始まって四日目。学校には行けなかった。父に弟と二人でトイレに閉じこめられたからだ。幸い水洗トイレだったので、水を飲むことと排泄はできたが、せまい空間に二人して閉じこめられて、節々が痛くなってしまった。
壁越しに母がボソボソとした声で父と話しているような気がした。その後、まるで餅つきをしているようなペタンペタンという音が聞こえてきた。
「ママ、ぶたれてるのかなあ」
弟が泣きそうになりながら優輝に訊いた。優輝はバットで殴り殺された女を思い起こし、母が犠牲者になっていないかと心配になった。
「大丈夫だよ、大丈夫」
なにも根拠はなかったが優輝は弟を安心させるために言った。
夕方になってトイレのドアを開けたのは、心配していた母だった。その顔に新しい傷は見られず、母が無事だったことに二人は胸を撫で下ろした。
声を上げたりしないように何度も注意され、オニギリを二人で頬張った。
居間には女の死体が転がったままだった。それどころか、いつの間に増えたのか、父と同じ年代の男が横に並んで寝転がっていた。
新しい登場人物は、目を見開いたまま天井からぶる下げられた蛍光灯を瞬きもせずに見上げたままだった。
女の方の腐敗が始まっているのか、室内に蠅が飛んでいた。
その中の一匹が、男の眼球の上に止まっても、全く反応がなかった。
壁に立てかけられているバットの汚れが、昨日よりも増えている理由がそれで判った。
夜は布団で寝ることができた。
照明も消して真っ暗になった頃、子供部屋の入り口が静かに開けられる気配があった。
とうとう自分たちの番かと、寝付けなかった優輝が体を起こすと、暗い中を室内に入ってきた影が、彼に駆け寄ってきた。
柔らかい温もりで侵入者は母だと判った。
「優輝ちゃん」
とても静かな響きで母が身を起こした優輝を確認した。
「パパ寝たようだから、いまのうちに逃げなさい」
「え」
母の言い回しで優輝は一人で行けと言われているのが判った。
「そしてお巡りさんでも、先生でも。誰か大人を呼んでくるのよ」
余分な音を立てないために、優輝はうなずいて答えた。
自分が助かるためというより、母と弟を救ってくれる人間を捜しに行くというつもりで、優輝は立ち上がった。
「ごめんね。ごめんね」
母が優輝をしばらく抱きしめていたが、そっと離してうなずきかけた。優輝もうなずいて返し、玄関に向かった。
「そこで何をしている」
「!」
靴を履いていると、見送りの母のさらに後ろから声がかけられた。
「優輝! いきなさい!」
「てめえ! てめえまで、うらぎるのか!」
父が手にしたバットを振り上げるのと、その腰に母が抱きつくのが同時だった。
優輝は必死になって玄関の扉にかけられていたドアチェーンを外そうと、二人の争いに背中を向けて金具に手をかけた。
次の瞬間、脳天が爆発した。
目が覚めると昼間になっていた。優輝の体は子供部屋の真ん中に寝かされており、心配そうに弟が顔を覗き込んでいた。
頭がズキズキと痛んで、自分が父にバットで殴られたことが理解できた。殴られた箇所からは脳みそが流れ出しているような感覚が続いていたが、正確には小さな裂傷から血がほんの少し滲んでいただけだった。
まるでインフルエンザに罹った時のように、手足の節々が痛んだ。母がそうしてくれたのか、頭の下の氷枕がとても気持ちがよかった。
体を動かすのが億劫だったが、泣き虫の弟を安心させようと表情を作った。
優輝が目を醒ましたのには理由があった。
昨夜、彼が殴られた玄関の方向から、にわかに争う声が聞こえてくるのだ。
「ウチのタカコがこちらに来ているはずなんです」
聞いたことのない嗄れた声がする。
「ですからお父さん」
応対しているのは父であるようだ。こんな事態を引き起こしてから、初めてまともな声になっていた。
おそらくタカコというのは居間で自然の法則に沿って腐敗しているあの女のことだろう。押し問答の内容からすると、父は会社から色々と理由をつけて彼女をここまで連れてきたらしい。
嗄れた声の主は女の父親らしい。いなくなった娘を捜して、自力でここまでやってきたようだ。
「とにかく、上がらせてもらいますよ」
老人特有の頑固強い態度に、父が返した小さな舌打ちが聞こえた。
二人分の足音が移動する。
「こ、これはっ!」
そして優輝は、昨日自分の脳天から聞こえてきた音を耳にした。
こうして居間に新しい住人が増えた。優輝も傷の症状が悪化して動かなくなったら、あそこに加えられることになることは明白だった。
ヒタヒタという死神の足音を聞いたような気がした。掌と足の裏がなぜか熱っぽかった。
六日目。玄関の呼び鈴が鳴らされた。
子供部屋に寝かされていた優輝は、おぼろげながら助けが来たと思った。
これで自分は手当を受けて、母も弟も、おかしくなった父から解放される。
(いや、でも…)
優輝は忘れていなかった。三人目のオジサンは、外から訊ねてきて殴られたんだった。一人二人が来ただけでは、居間に寝転がる住人が増えるだけに思われた。
「渚さん~」
呼び鈴だけでは反応が無いとみるや、妙に間延びする声でドアが叩かれた。
「いらっしゃいますよね、渚さん」
玄関から離れている子供部屋でも、外に複数の気配が感じ取られた。これならば一人ぐらい犠牲になっても、他の人が父を取り押さえてくれるかもしれない。それに相手が大人数なら父自身が諦めて、こんな馬鹿げたことをやめて降参するかもしれなかった。
「渚さーん」
ドンドンと耳やかましくドアが叩かれ、チャイムが鳴らされた。中にいる人間が苛立って出てくることを誘っているようにも思えた。
「あなた、なにを」
「うるせえ」
父と母が音を立てないように、もみ合っている気配が伝わってきた。
(ああ、またママがぶたれるのかなあ)
はっきりとしない頭で考えていると、脇で膝を抱えていた弟がポロポロと涙を零し始めた。ここ数日で泣き声を押し殺すことを憶えたのか、唇をきつく噛んで静かに泣いていた。そうでないと父の暴力が向けられることを学んだのだ。
「そこで、みてろ」
ドンと突き放す音がした後、誰かが転ぶ音が続いた。母が何事かしようとした父に振り切られたらしい。
「渚さん?」
室内の物音に気がついたのか、訊ねてきた相手の声が変わった。
「ど、どちらさま?」
父は猫なで声を出した。子供部屋でも判るほどの気配だ、口で取り繕って追い返せるなら、そうしたいのだろう。
「そこの交番の者ですがね? ちょっとお話しが」
「話しなんか無い!」
交番と聞いて父の声が固くなった。
「いやあ、聞いていただかないと。イワクラタカコさんと、そのお父さん。それにヒロコウジヤスオさんについてなんですがね」
「知らない!」
「いやあ、見ていただかなきゃいけない物がありましてね。ここを開けるわけにはいきませんか?」
「見る必要などない!」
「いやあ、渚さんには必要がなくても、こちらにはありましてね。一目でいいからお願いしますよ」
どこまでも柔らかい物腰をした中年男性の声に根負けしたのか、ドアチェ-ンをかける音の後に、ノブが回されるガチャリという音がした。
「いやあ、すいませんね」
先程までとは違って、もっとはっきりと相手の声が聞こえた。
(お巡りさんなら助けてくれる)
もう少しで自由が手に入りそうだった。泣いていた弟もそれが判るのか、泣くのをやめて玄関の気配に耳をそばだてていた。
「これ、裁判所が発行した家宅捜索令状ってやつです。もちろん強制的にこのドアを壊すこともできますが、面倒ですし。せっかくの玄関を壊すこともないですよね。どうか素直に開けてくれませんか」
「どいつもこいつも敵ばっかりだ!」
父の叫びと同時に爆発音がした。すぐに「ぎゃ」という短い悲鳴。子供がイタズラで使う爆竹のような音が連続して響き渡り、家の前に集まっていた気配がこけつまろびつ逃げ回る足音が聞こえてきた。
「殺してやる! ころしてやるあ!」
さらに二回ほど破裂音が続いた。
完全に裏返った父の声が急にクリアに聞こえ、優輝は体を硬くした。不自由にしか動かない瞼を開けようとしたが、左しか大きく開かなかった。
ドアを開けて子供部屋に飛び込んできたのは母だった。母は迷わず座っている弟に抱きついた。弟は訳も分からずに泣くのも忘れて動揺しているだけだ。
「ど、どうしたの?」
「パパが、パパが」
興奮状態で動悸が収まらないのか、母は何度も繰り返していた。
音だけを聞いていた優輝は、どこか他人事のように感じられた。おかげで、玄関でいま何が起きたのかを察することができた。
優輝の父は狩猟に興味があった。財産がそれなりにあり、会社での評判もよく、町で彼を悪く言う人間はいなかった。よって猟銃の所持に問題なしとされて、自宅に二丁の散弾銃が置いてあった。
実際の狩猟には仕事が多忙なため、年に一回ほどしか出かけられなかったようだが、銃の手入れは怠らなかった。
そしていま、その努力が人間に対する凶器として活かされるときが来たのだ。
犯罪者が銃を所持している可能性はあるだろう。銃の所持者が犯罪者になる可能性は考慮されているのだろうか。なにせおかしくなるまでの父は、非の打ち所のない善良な市民だったのだ。そんな男がいきなり銃を乱射するとは想定外だったに違いない。
玄関のすぐ外で、大きな悲鳴のような声が長く続いていた。どうやら最初に言葉を交わしたお巡りさんが撃たれたようだ。
「こっちにゃバクダンがあるんだぞ!」
父が玄関の外に向かって怒鳴り声を上げていた。
「ぜんぶ、吹き飛ばすぞコノヤロウ!」
父は目に入る人影に向かって銃を乱射して声を裏返していた。それに重なって重傷者の唸り声。きっと扉の影で倒れているのだろう。そうでなければとどめの一撃を撃ち込まれているはずだ。
弟は母の腕の中でとうとう泣き声を漏らしてしまった。
無理もない。助けが来たと思った途端に、その助けが倒されてしまったのだ。
希望を持たないのが絶望ではない。希望を潰されるのが絶望なのだ。
お巡りさんがやってこなければ生まれなかった絶望に、弟は押しつぶされそうになっていた。
(しかも、最悪じゃないのかな)
小学生ながら優輝は他人事のように分析を続けていた。
(お巡りさんだって鉄砲を持っているんだから、テレビみたいにバンバン撃ち合いになるかも)
テレビの中で演じられているお話の中でアクションシーンとしてなら、優輝も男の子だから銃撃戦に興味はある。しかし実際に巻き込まれるとなると話しは別だ。
(バクダン?)
父の怒鳴り声に首を捻る。そんなものがウチにあったと思えない。突然変わってしまった父は、暴力を振るう以外は呑んだくれて寝ていることが多かった。もし父が爆弾を作れるとしても、そんな暇は無かったと思えた。
(きっと、突撃してこないように嘘を言っているんだな)
もちろん小学生の優輝が判るぐらいだから、家を取り巻いているはずのお巡りさんたちに判らないわけがない。だが彼らには父がどの程度この事態を想定して準備していたかの情報はなかったし、また父以外何人の人間が(生きて)屋内にいるのかが判らなかった。
新しいサイレンの音が複数近づいてきた。一番多いのはパトカー。次に聞こえたのは消防車。最後は救急車だった。
お巡りさんの増援を運んで来るパトカーと、玄関前で倒れている人がいる状況での救急車は判ったが、消防車は判らなかった。
もしかして散弾銃の音をガス爆発と聞き間違えたのかもしれない。
「ちかづいたら、うちころーす!」
父は怒鳴りながら散弾銃を振り回しているようだった。かなり遠くから電気で増幅された声が聞こえてきた。
「渚さん、落ち着きなさい。そんなことをしても無意味ですよ」
「うるさいぐあ!」
何度目かの発砲音。そして暴力的に途絶える声。どうやら車両に搭載されたスピーカで話しかけてきたらしいが、散弾銃が命中して故障したらしい。
「みなごろしにするぞ!」
「あーおちついて、おちついて」
電気で増幅された声が、先程とは別の方向から響いてきた。どうやらパトカーが一台壊されたので、もっと離れた位置からの説得に切り替えたらしい。
「オマワリはちかよるんじゃねえ!」
スピーカに対抗するつもりか、父が声を一層張り上げた。普段から怒鳴りなどしなかった物静かな声帯が、酒に焼かれてからの酷使に、すぐに掠れ声になった。
家の周囲がザワザワと風の強い日によくある気配に包まれた。
「うるあ」
なんだか判らない怒鳴り声の後、父は足音をわざと立てて移動を開始した。段々と大きくなる具合から、開けっ放しの子供部屋の扉に向かってきているのがわかった。
バタンと父は子供部屋の扉をけっ飛ばした。入り口に仁王立ちに立つその姿は、優輝にとって恐怖するに値する姿をしていた。
髪はボサボサ、無精髭は生え放題。着たままなので垢に汚れた服はヨレヨレで、返り血の飛沫があちこちで臙脂色に変色していた。
口からは泡を吹き、それが涎となって首元まで滴っていた。右脇には普通の家ならば置いていないはずの散弾銃がしっかりと挟まれていた。
(撃たれる)
優輝は確信した。
子供の優輝ならば指が同時に三本は入れられそうな銃口が母に向けられた。
「おい。あっちへ行け」
「あ、あっち」
母は万が一撃たれても体を盾にして弟だけは守ろうと、彼を強く抱きしめていた。
「テレビの部屋に行け!」
「は、はい」
二人はガクガクと足を振るわせながら子供部屋から出て行った。次に銃口は寝かされている優輝に向けられた。
「…」
優輝はもう生きることを諦め、体から力を抜いた。弛緩した息子の体を見て、父は銃口をずらした。
どうやらバットで殴った頭の傷で、すでに死んだと思ったらしい。
父は子供部屋のブラインドを下ろして出て行った。
優輝はそのままの姿勢でしばらく我慢していた。もし父が戻ってきてもまだ死体と思わせておけば脱出の機会が生まれるかもしれない。
いま健康な状態だったら窓から飛び出して行くことが可能だが、どこまで体が動くか自信がなかった。
手足はあいかわらず熱病に罹ったかのように節々が痛んで、熱っぽかった。頭もズキズキと痛んで、能動的に何かやろうという気力を奪っていく。そして傷口からはダラダラと脳みそが流れ出す感覚が続いていた。(正確には、ただ血が薄く滲んでいただけであったが)
家の中も外もシーンとして、あらゆる気配が父に通じてしまうような雰囲気だった。
(いまは待つしかない)
そう判断した優輝は、ゆっくりと手の指を動かしてみた。右手は素直に動くが、左手がうまくいかない。瞼も片方だけ動かせることを考えると、体の半分が動かなくなっている可能性があった。
(これは確かめてみないと)
優輝は、今度はゆっくりと膝を動かそうとしてみた。これも右足はゆっくりと言うことを聞くが、左が動かない。まるで野間のおばあちゃんに怒られて、長い間正座をさせられた時みたいだ。
優輝が自分の体を確認していると、突然犬の吠え声がした。裏の家で飼っている柴犬だ。いつも近所の中学生に蹴られているためか、飼い主だろうと誰であろうと人間が近づくと吼えかかる臆病な性格になっている犬だった。
「ちかづくなっていったろお」
父が子供部屋に飛んできて、ブラインドから銃口だけを差し出すと、ろくに確認もせずに外へ散弾銃を撃ちまくった。
「こっちには百万発も弾があるんだぞ! みなごろしだ!」
(百万発って、小学生じゃあるまいし)
小学生の優輝は心の中で父のセリフにツッコミを入れてしまった。だが裏から近づこうとしたお巡りさんに気を取られて、優輝の先程とは違うポーズには気がつかなかったようだ。
(待てば、必ず)
優輝はそのままでは固まっていく間接を静かにほぐすことに専念した、その努力が報われることを祈って。
子供部屋に寝かされたまま、優輝は死んだふりを続けていた。
他の人間は、泣き虫の弟さえ居間に集められていた。
散弾銃を片手に怒鳴り散らしている父は、あれから数発、お巡りさんに向けて撃っていた。弾が当たったかどうかなんかよりも、撃つ度に静寂がやってくるのが面白かった。これが他人事であったらより楽しかったかもしれない。
気がつくと家の周囲にはザワザワとした人の気配があり、父が散弾銃を撃つ、すぐに耳が痛くなるほどの静寂。そしてまた気がつくとザワザワとしている、の繰り返しだ。
優輝の傷は、痛みは酷くなることも、収まることもなかった。おかげで意識を失うこともできずに横になっているせいで、暇なのだ。どこかでこの事件を楽しんでいる精神状態は、そんなところが主な原因だ。
時々思い出したようにゆっくりと音を立てないように手足を屈伸させてほぐすのを忘れない。反撃なんか一つも考えていない。母と弟と一緒に逃げ出すときに、足手まといにならないようになるためだ。
ブンブンと飛行機の音がたくさん聞こえてきた。どうやらテレビが事件を知って、生中継を始めたらしい。狂ったように怒鳴っていた父も、静かになると居間のテレビをつけたようだ。
「犯人は家族の他、三人の男女を人質に取って…」
「警察の対応に、市民団体が抗議の声を…」
「道に横たわるナガクテ巡査部長の反応が見られなく…」
「容疑者には会社の不正経理に関わった疑いが…」
おそらくテレビのリモコンを握りしめているのは父であろう。次から次へとチャンネルを変えて、音だけのめまぐるしさに別の頭痛がしてきそうだ。
父は画面上にお巡りさんが映ると興奮するらしく、画面で知っただいたいの方向に見当をつけると、最寄りの窓へ駆け寄り、手にした散弾銃を時には撃ち、時にはちらつかせていた。
これでは公共の電波をつかった監視カメラである。しかも裏の犬も父に協力するかのように、人間が近づくだけで吼えて知らせていた。
お巡りさんが突撃してくることも無さそうだが、父がこれ以上なにかしでかすこともなさそうだ。
(長くなりそうだなあ)
優輝が溜息のような息を漏らすと、家の電話が鳴った。
三回鳴るまでに、いつもなら母が受話器を取るはずだが、鳴らしっぱなしだ。
(まさか…)
優輝は母が居間で撃たれたのではないかと心配になった。
「で、でんわ…」
居間から電話のベルに遠慮したように聞こえたか細い母の声で、それが杞憂だったことが判った。
「…」
声はしなかったのだが、仕草か何かで許可を出したような雰囲気があった。電話が鳴りやみ、恐る恐る出す母の声がした。
「もしもし渚ですが…、はい、はい」
「だれだ」
そのまま誰かと話し始めたのが気にくわなかったのか、なにか物を落としたときのような音がした後に、小さな悲鳴がした。父が母から暴力的に受話器を奪ったことが察せられた。
「おまわりか? こっちにはヒトジチがいるんだぞ! 人質だ!」
がなるので会話の内容が筒抜けだ。お巡りさんが電話を通じて父を説得しようとしているようだ。
「いいか、よく聞け。会社の事はオレじゃねえ、濡れ衣だ! そうだ! ヌ・レ・ギ・ヌ! だ!」
なにやら耳をそばだてている様子がした後に、再びの怒鳴り声。
「わかってねえ! テレビでヌレギヌだって言え! そうじゃないと一人ずつ殺すぞ!」
(もう三人も殺しちゃってるのに、どうするんだろ)
優輝はしばらく考えて、恐ろしい結論に至った。
(つまり見せしめで殺されるのは、ボクってことか)
居間に転がっている三人はとっくに動かなくなっている。父が望むリアクションを取ることは永久に無いだろう。その点、半殺しである優輝ならばお巡りさんが動揺するだろう。なにしろ子供だ。テレビ中継の最中に子供が殺されるなんて、お巡りさんの面目丸つぶれだ。
優輝は単語だけはテレビで仕入れていた知識で、そこまで思考を巡らせた。
(それとも…)
思い直す。父から見て自分はもう死んだ者になっているかもしれない。そうしたら殺されるのは母か弟かのどちらかだ。
一瞬ホッとした自分に嫌悪感が湧いてくる。子供として保身を考えることは当たり前のことかもしれなかったが、男としての何かがそれを許さなかった。
(動けるかな)
手足が動くことは判っていた。優輝は思い切って立ち上がることにした。
目を開いて立ち上がろうと力を込める。だがやはり体の左側は動かなかった。顔も右側が誰かの手で下に引っ張られているように、半分だけ垂れ下がっている感覚がある。
右眼は見えず、しっかり閉まらない口の右側から涎が垂れた。
「あ…、あー、あー」
声が出るか何回か練習してみる。口が閉じないので赤ちゃんのような音節しか出そうもなかった。
「あいならあさああ」
なにか音節のような物を漏らしながら立ち上がってみようと試みた。まず腰から上体を起こし、それから右足だけで踏ん張ってみた。
右手を床につき、左脚は腰の関節から先が、体についているかどうか判らないほどボウッとしているので、木の棒になったと思いこむことにする。
「らんららあああ」
とりあえず意味不明のまま唸り声を上げていると、さっそく受話器を放りだして父がやってきた。
「なんだ、まだ死んじゃなかったのか」
とても冷たい目で見おろされる。いまにも散弾銃から火花が飛び出して、体に衝撃がやってくるかと優輝は身構えた。
「おえおえうらあなああ」
「うるせえぞ」
父は散弾銃をフルスイングした。今度は顔の左側が爆発したように感じられた。
再び暗転。
次に気がつくと、あたりは真っ暗になっていた。優輝のよく開かない目を開けようと努力した。体は俯せになっており、息がしにくくて苦しかった。
頭の痛みはもっと凄いことになっていた。本当は両手で抱えて転げ回りたいのだが、体の左側だけでなく、手足の指一本も動かなかった。
せまい視界を左眼だけで見まわした。
どうやら優輝が転がされているのは子供部屋から居間に変わっているようだ。すぐそばに女の人の髪の毛だけが見えた。
まさか母かと思って焦ったが、髪の毛の色が違った。反対側になにやらペットリとはりつく冷たい何かもあった。ちょっとだけ動いてくれた首を巡らし(といっても一センチぐらい)目が痛くなるような視界の隅に入れてみる。白髪頭で後から来た男の方だということがわかった。
優輝は今度こそ死んだとされて、他の死体とひとまとめにされているようだ。
撃たれなかったのは弾の節約だったのだろうか? 優輝には判断がつかないことだった。
「あなた、トイレに行きたいって…」
頭の上のほうから母の声がした。
「なんだ? クソか?」
それに答えたのはだいぶ疲れた声の父。この暗さがケガのせいでの錯覚でなければ、一日中お巡りさんに囲まれていたのだろう。疲れるのも当たり前だと言える。
「連れて行っても…」
「ああ、そこらへんにされても面倒だからな」
そんな会話が交わされている間、優輝は右側の女の脇に落ちているポーチに目が行った。ポーチの蓋は開いており、乱暴に投げ捨てられたのか中身が畳にはみ出していた。
口紅にライターとタバコ、そしてスマートフォン。
着信ありという意味だろうか、キラキラとイルミネーションが灯っている。
優輝はそれが手に取れないか試してみることにした。
命令には右手だけ応えてくれそうだった。ただその右手だって錘が括り付けられているような感覚がした。他の肢体にはまったく感覚が残っていない。優輝は体中の力を集めるつもりで、ジリジリと手を動かした。
(あと、もうちょっと…)
その途端に怒鳴り声が響いた。
「てめえ! なにかってなことを!」
「ああ、あんた! あんた!」
「ぎゃーっ」
ここのところ聞き慣れてしまった、ボコボコと肉が叩かれる音が響いた。優輝は手に集中しながらも、頭の別の領域でなにが起きたのか考えた。
母がトイレの窓から弟を逃がそうとしたのではないか? 他に父が逆上しそうな事を思いつかなかった。
ドンと何かが優輝にぶつかってきた。その温もりから母の体だということが判った。
「ママ!」
弟の温もりが続いた。下敷きにされた優輝は息ができなくなった。
ただその反動で、のばした右手がポーチに届いた。
「てめえら! うらぎりやがって! おれにはみかたはいないんだな!」
父が喚き散らすと、ジャボジャボという音がして、優輝の体が濡れていくのが判った。
冬のストーブで嗅いだ記憶がある臭いが鼻を刺した。
(石油だ!)
もちろん小学生の優輝ですら父の意図が読めた。
ヤケになった父は、火をつけて全てを終わらせようとしているのだ。すでに四人も殺したし(いや三人だが、きっと優輝も死んだと思ってる)お巡りさんに取り囲まれているし、母や弟まで見捨てて逃げようとしたのだ。
「おわりだ! おわりだ! これだ! これだ!」
「やめて!」
母の叫び声と共に、視界が真っ白になり、ガラスが割れる音が立て続けに響いた。
「うぐらあ! なんだおまえは! なんだおまえは! しね! しね!」
父が散弾銃を撃つ音。たくさんの足音。母の叫び声。弟の泣き声。お巡りさんの突入だ。
「ぎゃ」
何人もの悲鳴が交差する。どうやら父は窓から飛び込んできたお巡りさんを片端から撃ち倒しているらしい。
そして、背中に冷たい氷のような物が流れる感触がした。父の殺気がこちらに向けられたのだ。
「おまえもしねええ!!」
母が弟を抱きしめる感触。
(せめてもの反撃だ!)
優輝は右手が届いた物を握りしめた。
そして世界が炎に包まれた。
遠くでサイレンの音が続いている。
誰かが砂利道を歩いているような足音。
広くなった空間を感じさせる風が肌を撫でる。
「ひでえ」
「ああ、まったく」
どこからか知らない人たちの声が聞こえる。
「結局、突入班で無傷だったのは、いないらしいぞ」
「まあチョッキを着ていても、まともに撃たれちゃな」
「本人は家族と心中できて、幸せかもしれんが…、つきあわされる身にもなれってんだ」
「ああ、まったくだ。静かに首でも括ってくれた方がマシだな」
「ガソリンに散弾銃。バカかこいつは」
「いや、キの字さ。みんな殺しちまって」
身を屈める雰囲気。
「犠牲者はこれだけか?」
「ああ。本人、奥さん、子供たち。会社の二人に、女の父親。警官も入れれば全部で七人か。どうせ裁判やっても死刑だったな」
「おい」
遠くから第三の声。
「突入班が撃たれた場所の特定をするから、手を貸せ」
「おいっす」
「死体は、まとめて鑑識が検死するから」
(解剖されちゃう! まだボクは生きているのに!)
優輝は必死になって体を動かした。何かを握ったままだった右手だけが動き、誰かの足を掴んだ。
「うわ! 動いた!」
「ばか! 生きてるんだよ!」
ドヤドヤと人が集まってきて、優輝の体の上に被さっていた何か黒い物をどけてくれた。
「明かりをよこせ」
「サーチライトをこっちに!」
暴力的な明るい光を向けられて、優輝の瞳から涙が零れた。
「泣かなくていいんだぞ」
「おーい! こっちだ!」
まったくの逆光の中で、黒い影になった大人たちが右往左往していた。
しかし、優輝はそんな物を見ちゃいなかった。
現場検証のためにつけられたサーチライトで、自分の体の上に被さっていたのが、誰かの死体だということが判った。
楽に酸素が入るようになった体勢で瞳を巡らせると、彼の体に被さっていた者の顔が、こちらを茫然とした表情で見下ろしていた。
正確には優輝の体の上からその者をどかしたお巡りさんが支えているのだが、彼には相手が不思議そうな表情で、彼へ瞳を向けているように感じられた。
それは「どうして、あなただけ生き残ったの」と言いたげな顔をした母の死体だった。