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短編

春を待つ

作者: 雪野 葵



 病院の廊下の窓から、桜の蕾が見えた。

 ほのかに染まるだけの蕾。すこしだけ春の訪れを感じた。

 白い廊下を歩いていると、病院の独特な清潔感ある匂いがした。その匂いが、胸の奥をざわざわさせた。

 そっと病室の扉を開ける。

 真っ白なベッドの中で、父が寝ていた。

 穏やかに寝息を立てながら、時折寝返りを打とうし、顔をしかめる。きっと、体が痛むのだろう。

 ここ数週間程度の入院生活なのに、もともと色白な肌はより青白くなっていた。

 布団からはみ出た足首に触れるとひんやりと冷たかった。

 ほぼ寝たきりの生活で、足首はひどく浮腫んでいた。

 「ああ…、来ていたのか」

 父の声掠れていた。多分、食事以外の時は、寝ていることが多いのだろう。

 「うん」

 父が目を覚ますと、母は傍に駆け寄り、父の体を起こした。

 いつも日に焼けていた腕は、いつの間にか母よりも細く白くなっていた。

 「ご飯は食べられたの?」

 「まあ、少しは。やっぱり味が違うんだよね」

 そう言って、父は苦笑いをする。

 「そうなの。きっと、薬のせいね…」

 抗がん剤治療を繰り返すと、味覚が変わってしまう。

 どんな食べ物も苦みを感じてしまい、食事が進まなくなる。

 きっと食欲も湧かないのだろう。

 「でも、なぜかコーラだけは同じ味なんだよな。不思議だ」

 そう言って、私に笑いかけた。

 「お茶以外にジュースとか色々と買っておいたから、棚の上に置いておくわね」

 母が大きな鞄から飲み物や着替えの服を取り出し、しまい始める。

 「大学はどうだった?一人暮らし、ちゃんとできそうか?」

 父は、今年の春から隣県で一人暮らしを始める私を心配していた。

 「大丈夫。寮の様子も見てきたし」

 「体調崩しやすいんだから、無理するなよ」

 その言葉をそっくりそのまま返そうか。

 人の心配をする前に自分の心配をしてよ、と心の中で言い返す。

 「大丈夫だって。寮母さんもいるし、いざとなったら何でもできるよ」

 私が言うと、母も続けて言う。

 「そうよ、女の子からって何も出来ない訳じゃないのよ。一人暮らしの学生も多いから大丈夫」

 そう父に言いながら、母は棚の中に着替えをしまえ終えると、今度は洗濯物を袋に入れ始める。

 「いやいや、女の子だからだろう」

 父は、顔をしかめた。

 「お父さん、心配しすぎよ」と、母は少しあきれた様子で笑った。

 「入学式が終わったら、また来るから」

 そう言って、私も笑った。

 「そうか。気をつけていっておいで」

 「うん、じゃあ、またね」

 そう言って、私と母は病室を後にした。

 私と母の2人だけの帰り道。

 「ねぇ、わかっているよね。もう少し、お父さんに優しくしなさいね」

 静かに諭すように、母が言う。

 母は、父に対する素っ気ない態度が気に食わないのだろう。

 「わかってるよ」

 淡々と返事をする私を、溜息をつき、冷めた目で見る母。

 「あの子にも、少しは来てもらわないとね…」

 妹のことを言っているのだろう。

 受験を控えている妹に強くは言わないものの、母の心のどこかではなにか思うことがあるのだと思う。

 でも、この時の私には、まだ父の余命について何も知らされてなかった。

 そもそも、私も妹も病名さえ知らなかった。

 周りの大人は分かってるくせに、何も言わなかった。

 ただ、私たち子どものことをかわいそうな目で見ていた。

 それは、私たちが子どもだから…?

 私たちが大人だったら、もっと早く本当のことを言ってくれたのだろうか。

 日に日に細くなっていく体。

 気だるげな表情。

 手術で胸に取り付けたペースメーカー。

 なんとなく父の命が残り僅かなんだと知った。

 だから、私は、現実から目を背けることもできた。


 4月になり、私は隣の県の大学に入った。

 慌ただしく、入学式を終え、お見舞いに行った。

 その時には、もう、父は話すことすら出来ないほど衰弱していた。

 体の痛みに必死に耐え、低い声で唸るだけだった。

 唸り声が霞んで聞こえ、呼吸は不規則に繰り返されていた。

 「今夜が峠でしょう」

 と、病院の先生から伝えられた。

 その日の晩は、私と母が病院に泊まり込んだ。

 大人ふたりが、病室の狭いソファに寝転がる。

 浅い眠りを繰り返し、朝を迎えた。

 ふと目を開けると、母は隣にいなかった。時計の針は、4時を指していた。視線をずらすと、病院のベッドで寝ている父の手を取り、背中をさする母の姿があった。

 父は、呻き声と共に、痛みに耐える。

 そんな父に何もしてあげられず、ただ背中をさすりながら声をかける。

 そうして、母は、たくさんの思い出話を話す。

 父の耳に声が届いているのかもわからずに。

 何度も父に「今日も生きてくれていてありがとう。お父さんといられて、幸せだったよ」と言った。

 まるで、最期の別れのようだった。

 母は、分かっていたのかもしれない。今日でお別れだということに。

 窓から差し込むきらめく朝日に包まれ、母の背中が震えているのがわかった。

 わたしは、その姿を見ながら、人は最期になれば、どんな過去でも美化されるのだと思った。

 それの気持ちとは反対に、父は愛されていたんだなって思えた。

 母は、父に対して、悪口ばかり言っていて、幸せそうに見えなかった。

 それに、生きている時の父は、孤独で、いつも怒っているだけだったから。

 いつ息が止まってもおかしくない不規則な呼吸。

 あぁ、どうか夢でありますように。

 醒めない悪夢が続いているみたいだった。

 息を引き取る寸前、「お父さん!」と呼んだ私と妹の声が父に届いたのか、本当に一瞬だけ深く息を吸い込む呼吸の音が聞こえた。

 心臓がどくんっと跳ね上がり、もがいているみたいだった。

 “人の最期は目が見えなくても、動けなくなっても、声だけは聞こえるのよ”

 そう母が教えてくれた。

 だから、母も何も答えない父に向かって語りかけていた。父に届くと信じながら。

 父の体中に回ったモルヒネは、癌の激痛は緩和してくれる。同時に、父の意識も奪っていく。そうして、父の面影さえも。

 見開いたままの淡黄色の目。どこにも焦点が合うことなく、天井を仰いだままだった。

 あぁ、私の知っている父はどこに行ったのだろうか。

 ふくよかで、あたたかい父の手は。

 私たちを見守る優しい父の瞳は。

 私たちの名前を呼ぶ父の声は。

 一体、どこに行ってしまったのだろうか。

 目の前で横たわる父が、ただの抜け殻のように思えた。

 周りの大人たちが涙を浮かべ、父に最期の別れを告げる。

 いろんな感情が鬩ぎ合う病室。

 感情を表に出す周囲の人間とは裏腹に、私と妹は冷静だったと思う。

 私の世界から少しずつ音が消え、ただ静かな、呼吸が聞こえる。だんだんと、心電図の波が跳ねる力が弱くなる。

 腸から肝臓へ、転移を繰り返し、父の体を蝕んだ癌。

 延命治療はしなかった。

 祖父の長い延命治療の際に、母が、祖父を早く楽にさせてあげたいと、つらい思いのまま長生きさせたくないと思ったからだ。

 だから、私も父に長生きを望んでいなかった。

 私たちが大人になるまで、そばにいてくれるとは思っていなかった。

 そう分かっているはずだった。覚悟はしていたんだ。

 でも、出来ることなら、私が20歳の誕生日を迎え、喧嘩ばかりしてた妹と仲直りしてからがよかった。

 せめて、その手で抱きしめ、頭を撫でてもらえたという感触を残して欲しかった。

 最後に、もう1度だけ、父の声で名前を呼んで欲しかった。

 私たちは大事にされてる、愛されている実感が欲しかった。

 でも、そんな私の身勝手な願いは叶わず、父はそのまま病院のベッドで息を引き取った。

 駆けつけた主治医が手際よく確認を行う。

 主治医は腕時計を見て、「4月12日16時36分、死亡を確認しました。最期まで頑張りましたね」と言った。

 周囲の大人が涙を流し、悲しみに包まれている中、私は涙を流せなかった。

 まだ、目の前のことが信じられなかったのもある。

 これは私の父じゃないと、現実逃避をしていたのかもしれない。

 ふらりと病室から抜け出した。

 病院の外に出て、満開の桜を見上げた。

 夕暮れ時のあたたくて、眩しい光と共に花びらが舞う。

 次第に視界が揺れて、目頭が熱く、鼻がつんとした。

 生温いものが頬を伝う。周りに誰も居なくなって、初めて泣いた。

 何もかも嫌になってしまった。

 最期を分かっていた母、感情を表に出す周囲の人間、父なのかと疑うくらい変わり果てた姿、そして、何も感じることが出来なかった自分。

 全てが、嫌で嫌で仕方がなかった。

 誰でもいい。家族以外なら。

 そう思って、震える手で、一番親しかった友人に電話をかけた。

 言葉にすると改めて悲しみが襲いかかる。それでも、伝えた。

 後から思うと、私は一人でいたいと思いながらも、誰かにそばにいて欲しかったのだと思う。

 その後は、泣く暇もなかった。

 目まぐるしく忙しい時間を過ごし、通夜と告別式が執り行われた。

 本当にあっという間だった。

 火葬場に運ばれ、棺の中の父を見た時も、最期の別れなのに何も感じなかった。

 「眠っているようね…」

 棺の中にいる父の顔を見て、母は言った。

 「最後の別れをして」

 そう言った母の言葉に対して、私はただの義務のようにしか感じていなかった。

 父の顔を見たくなかった。

 これで最後なのかという実感もなく、呆然としていた。

 悲しいと感じなければならない、そう思うほど、何をどうしていいのかわからなくなる。

 本当は、何も感じないようにしていただけなのかもしれない。

 これ以上、自分が傷つかないように。

 棺の中にいる父は、目を閉じて、とても穏やかな表情をしていた。

 誰にも気づかれないように、そっと息をしているみたいだった。

 痩せこけた頬は、冷たく、固く感じられた。

 父は、寝ているだけなんじゃないかとさえ思う。

 棺が火葬炉の中に運ばれ、重々しい扉が閉まる。

 その瞬間、この世とあの世の線引きをされたかのようだった。

 扉の向こうは、きっと別世界なのだろう。

 だから、遺骨を骨壷に納める時も、他人の骨のような気がしてならなかった。

 父は、あの扉の向こうで生きている。

 そう思えてならなかった。


 父がなくなって、二年目の春が来た。

 大学生活や一人暮らしにも慣れてきた私は、時折、理由のわからない孤独感や寂しさに襲われる。

 まだ、父が居なくなったという実感がなく、どこか遠いところにふらりと出かけたぐらいにしか思っていないこともある。

 頭の中ではわかってる。

 父は最後まで生きようとしていたこと、父の最期を見届けたことを。

 それでも、信じられない私に、父は不思議な夢を見せてくれたのだと思う。

 それは、父が亡くなってから初めて夢だった。

 緑に囲まれた場所。辺りは明るく、暖かく光に照らされ、春を感じさせるようだった。

 周りには父と私以外誰もいない。

 心地よい風が吹いていた。

 そして、父はわたしの方を向き、言った。

 「これから会えなくなるところに行く。少し長い旅に出るんだ。すぐには会えないけれど、また会えるから。その時まで待っていて」

 生きていた時と同じように、優しく心地よい声でそっと。

 その表情は、穏やかでいつもより優しげだった。

 私はただ、「うん」と頷いて、私に背を向けて歩き出す父の後ろ姿を見ていた。

 こんなにも父の背中は大きくて、広かったんだなって思った。

 そして、目が覚めた時には、涙と一緒に感情が溢れ出して止まらなかった。

 あぁ、きっとこれが父との約束なんだなって思った。

 父の姿をもう見ることは出来ない。

 でも、父は想い出の中で生きていて、いつもどこかで見守ってくれている。

 だから、私は生きていきたいって思う。

 父の仕事に対して真面目すぎるところ、自分の体調が悪化するまで黙っていたこと、娘たちの誕生日を手帳に書き残してくれていたこと、母との結婚記念日を祝おうとしてくれたこと、病名を最後まで娘たちに明かさなかったこと、その全てが私たちを愛してくれていた証だと信じたい。


 そして、もしも、私が生きて生きて、また会えた時には、その手でその声で、撫でて褒めてくれますか。

 きっと、普段叱ることで精一杯で、なかなか子どもを褒めることができない父は、頭をぐしゃぐしゃに撫でてくるかもしれない。

 でも、それが父の愛情なのでしょう。




最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


より良い文章になるように、書き直していくと思いますが、よろしくお願いします。

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