十日後、料亭へ
今日で五日目、道場に惣一朗の姿が見られなくなってから五日が過ぎた。
志乃は十日前に惣一朗の事を母お勝に相談した翌日、
早速惣一朗について調べに出掛けてくれたお勝が言ったのは
『徴兵行きを止めさせることが出来るかもしれないが、まだ何も分からず、
詳しい人に頼んでいるから待つように』
の一言だけだった。
それからずっと待ち続けて十日間も経ってしまった・・・・・。
ここ数日、毎日学校から帰るたびに、母に何か知らせはあったかと尋ねても、
『まだ』と言われるだけの日々。
そして今日も惣一朗が稽古に現れないのは、
すでに行ってしまったからなのでは・・・・・。
そう考えただけで、心臓に針が刺さったような痛みが走り、
とうとう授業も友達との会話も、何もかも志乃の耳には
入ってこなくなってしまった。
焦りにも似た感情が全身を覆い、
座っていても何かに突き動かされているようで
志乃は居てもたってもいられなくなっていた。
志乃は毎日道場に寄っては、惣一朗の姿を求め、
見る事が出来ずに心を痛めて、沈んだ気持ちのまま一日が過ぎていた。
毎日がこんなにも長いとは、
志乃には今まで感じた事のない恐ろしい長さだった。
今日も暗い気持ちで学校の支度をしていると、急にお勝が近づいてきた。
「今日はお昼前までに早退して、できるだけ早く帰っておいで」
「惣一朗さんの事?何かわかったの?」志乃はお勝に顔を向けて、真っ先に尋ねた。
「この子は寝ても覚めても惣一朗さんのことなんだね」
「違うの?何か分ったんじゃないの?」
「まぁいろいろとね、今回骨を折ってくれたお母さんの古い友達と、お礼を兼ねてお食事をご一緒することになったのよ」
「それって、私も行かないといけないの?」志乃は落胆し、そっけなく答えた。
「当然よ、お前が行かないといけない大切な事なのよ」
志乃は、惣一朗の事ならいざ知らず、
母のお飾りの道具にされるのかとがっかりしたが、
無理なお願いをしている手前、仕方なく承諾して家を後にした。
その日も道場には惣一朗の姿はなく、張りつめていた志乃の心は、
今にも張り裂けて粉々になりそうになっていた。
それでも手の中の小筆を胸に当て、学校への道を歩き始めた。
志乃は約束通り早退届を出して、とぼとぼと暗い足取りで昼前には帰宅した。
玄関に入るなり「遅い!」と仁王立ちして
待ち構えていたお勝に一喝されて、
気持ちが沈んでいた志乃は急に驚き、訳が分からないまま
お勝にぐいぐいと手を引っ張られ、奥の間に連れて行かれた。
部屋に入ると衣紋掛けには、初めて見る綺麗な振袖と帯が掛けられていた。
「早く着替えてちょうだい。お市さん手伝ってやって」
「はい、奥様、さっお嬢様、手を挙げて下さいな」
部屋で待っていたお市に志乃はされるがまま袴を脱がされ、
あでやかな振袖を着せられて、見事な西陣織の帯が巻かれてゆく。
よく分からないまま鏡に映る自分が美しく着飾っていく姿を見ても、
何のときめきも興奮も湧き起こってこなかった。
「どこに行くの?いつの間にこんな着物を仕立てたの?
こんなにおめかししないと行けない所なの?」
「そうよ、つべこべ言ってないで、待たせては先方に失礼ですよ」
そう言う母もよく見れば、滅多に着ない外出用の着物を着ていた。
支度が終わり、外には人力車か待っていた。
「わざわざ人力車に乗るの?歩いて行けない遠いところなの?」
「近くよ、でもお前が転ぶといけないから」と母はすまして答えた。
いつもならこんな特別な外出は嬉しくて喜んでいる志乃だったが、
今、心の中は惣一朗の事で一杯の志乃には流れる景色もただ煩わしく、
気が付けばもう料亭に着いていた。
その料亭は初めて入る店だった。
外から見ても格式高く、中庭は広くいかにも高級そうな雰囲気である。
「お待ちしておりました。まだどなたもいらしておりません」
出迎えてくれた料亭の女将がお勝にそう言って、奥の座敷に案内してくれた。
「先に着いていて良かったわ。私は玄関でお客様のお迎えをするから、
志乃はここで待っていて頂戴な」
そう言うとお勝はお茶を運んできた女中と入れ違いに、
部屋から出て行ってしまった。
「今日はお日柄も宜しくて、結構でございますね」
とその女中は急に変な言い方をして、
志乃に親しげに話しかけてきた。 ・・・・・しかも満面の笑みで。
「緊張していらっしゃいます?大丈夫ですよ、何も話さずとも
周りが盛り上げて下さいますから」
と今度は心配なのか提案なのか、いつもの事のように愛想よく話し続けた。
「ここだけの話し、気に入らなければお断りになっても大丈夫ですよ。
以前にも四人お断りになった強者もいらっしゃいましたわ」
と今度は笑い出し始めた。
志乃は今、誰とも話しをしたくない気分なのだ。
なのに、聞いてもいない話を何故、延々と聞かされなければならないのか、
そもそもこの女中は何の話をしているのだろう。
「何の話を断ったんですか?」
と、なんとなく女中に聞いてみた。
「あらやだ、お嬢様は何も聞かされずにこちらへ?
たまにいらっしゃいましてね。この間もそれで大騒ぎになって・・・・・」
「だから何の話しですか?」
志乃はもうその謎めいた会話にうんざりしていた。
「お見合いですよ」
「・・・・・・・・・・・・!」
志乃はきっとかなりまぬけな顔をして女中を見たのだろう。
女中は当たったという顔をしながらすぐにかすかに笑い、
その後に同情めいた顔をして小声で言った。
「ああやっぱり、内緒で連れて来られたのですね。
お可哀相に。でも断れるのですから悲観することはありませんわ、
それにお会いしたら、案外良い方かもしれませんよ」
「あっあの、誰が来るんですか・・・・・!」
「確か、河野様と上村様と聞いております」
女中は志乃の険しい顔つきに不安を感じ、
くれぐれも皆の前で泣かぬようにと釘を刺し、
両家に角がたつからと念を押して心配そうに部屋を出て行った。
(河野?上村?どちらも知らない名前・・・・・それより、見合いだなんて・・・・・。
お母さん、一体どういうつもり・・・・・?)
志乃は自分に惣一朗を忘れさせるため、あの母が一芝居打ったとは
到底思えなかったが、あの女中の話しは筋が通っている気がした。
確かにこの状況、自分のこの着飾り様・・・・・。
まさか本当に・・・・・?
(どうしよう、このままここに居たらお見合いをさせられてしまう!
・・・・・逃げなきゃ!)
志乃本来の性格が動き出した。
そっと縁側に出て、辺りに誰も居ないことを確認した志乃は、
足袋のまま着物の裾を持ち上げて、
広い庭園の方へ急いで歩き出した。
身を低くしてこそこそと歩く姿はどう見ても怪しいが、
そんな事を気にしている余裕はない。
『とにかくこのまま外へ出て、家に帰る』の
『逃げる』の文字しか頭にない志乃は、その庭園に居る人影に、
まったく気がつかずに通り過ぎようとしていた。
「慌ててどちらへ行かれるのですか?」
(見つかった!)
突然背後から声を掛けられた志乃は、ビクンと肩を揺らし、
驚いてその場に立ち尽くしてしまった。
きっと庭師だろうか。志乃は焦る鼓動を押さえつつ、
深呼吸をしてから覚悟を決めた様に勢いよく振り向き、
素早くお辞儀をしたまま言いきった。
「すみません!見なかったことにして下さい!」
そして声のした方を恐る恐る見上げた。
その先に立っていたのは、あれほど会いたかった惣一朗、その人だった。
「・・・・・!惣一朗さん!」
「そうです、志乃さん」
そう言って一度だけ見た優しい笑顔をたたえて、静かに立っていた。
「どうして私の名前を?いえ、そんな事よりどうしてここに・・・・・!」
志乃は自分でも驚くほど、自然に惣一朗に駆け寄り、
その袖のたもとを握りしめた。
大きな瞳はすでに涙で一杯になってしまい、
惣一朗はそんな志乃に手拭いを渡した。
自分の涙に驚いた志乃は、恥ずかしそうに手拭いを受け取り、
必死に涙をぬぐうが、いくらふいても涙は止まらず、
惣一朗が心配そうに見守っていた。
そんなぎこちないけれど、柔らかな雰囲気を壊したのは、
お勝の大きな声だった。
「志乃!部屋に居ないと思ったらそんなところで!
あら、惣一朗さんも一緒だったの?ちょうど良かったわ。
まぁ志乃!あなた足袋のままで・・・・・なんてまぁ行儀の悪い!」
矢継ぎ早にお勝は志乃にまくし立てていたが、
その声は志乃の耳にはまったく聞こえていなかった。
惣一朗はおもむろに足袋のままの志乃をひょいと抱きかかえ、
元の部屋まで運んでくれたからだ。
志乃は恥ずかしいやら訳が分からないやらで、
志乃の頭の思考は爆発寸前になっていた。
縁側に降ろされた志乃は真っ赤になりながらお礼を言うと、
すでに部屋の中には河野と上村が揃って座っていた。
・・・・・どちらも何処かで見覚えがあった。
「申し訳ございません。早々にお見苦しいところをお見せして、
何せご覧の通りのお転婆な娘でございまして・・・・・、
お恥ずかしゅうございます」
「あなたが志乃さんですね、なるほど実に素敵なお嬢さんだ」
河野は満足げに笑っていたが、
志乃の顔は今にも火が吹き出しそうになっていた。
そして何事もなかったように、惣一朗は河野の隣の席に座った。
続いて河野の隣に座っていた、上村という女性が嬉しそうに志乃に話しかけてきた。
「志乃ちゃん、私よ、向かいに住んでいた絹おばさんよ、覚えている?」
「あっ・・・・・!」
志乃は幼い頃、よくお菓子をくれたおばさんの事を思い出した。
「おっおばさんがどうして?お母さんが言って居た古い友人って
おばさんのことなの?あ、あの、これはどういう事でしょうか?」
志乃はやっと一番聞きたかった質問をいう事ができた。
その質問にお絹が答えた。
「あらやだ、お勝さんから何も聞いていないの?
相変わらず意地悪なお母さんねぇ」
お絹はくすくす笑いながら、今度は優しい声で、あり得ない話をし始めた。
「惣一朗さんと志乃ちゃんのお見合いよ。
私と河野先生はその立会人になのよ」
志乃は聞き違いをしたのかと自分の耳を疑った。




