お勝とお絹
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呉服店の奉公人に連れて行かれたそこは、芝新綱町の下町に位置する所だった。
「あちらの路地の奥に入って行かれました」
お勝は店の者に十分に駄賃を渡し、このことは他言無用にと念を押して帰らせた。
お勝は暫くその家のある方を見つめて考えあぐねていた。
こんなところにあの青年が?なんだか信じられない・・・・・。
その方向には江戸時代から続く暮らしに余裕のない者が住む、いわゆる長屋が今もひしめいていた。
確かに青年は自分を貧乏庶民と言ってはいたが、そうは見えぬ程、知的で物腰も武家の出と言っても誰も疑わぬほどだった。
お勝はこの状況をなんとか整理しようと頭を抱えていると、洗濯場から下町の女達の声が聞こえてきた。お勝はこれだとひらめいた。
お勝は元々農民出身、稲作の出来具合を見に村を訪れた重蔵に見初められて嫁いできたのがなれ初めであった。そんなお勝に下町の女達と会話をするのはそう難しい事ではない。
お勝は女達に近づき、世間話から打ち解けた頃合いを見計らって、杉田惣一朗の話しを切り出した。すると女達からは、次々と湯水のように色んな話が湧いてきた。
「ああ、杉田さんとこの長男だね、いい男だよね」
「あれを鳶が鷹を産むって言うんだね」
「違うよ、鳶が鷹を育てているんだよ」
「違いない!あはははははっ!」
女達は杉田家の話しを面白可笑しく話したが、急に一人が寂しそうにつぶやいた。
「でも、もうすぐ惣ちゃんは徴兵に出されるって話だね、親が志願して無理やり出すなんて、聞いたこともない。なんて可哀想な子だろう・・・・・!」
お勝は内心(やっぱり!惣一朗で間違いなかった)と喜んだ半面、
『出される』と言う言葉に疑問を抱いた。
それから沢山の女達が代わる代わる杉田の妻の悪口を言い始めた。
「あそこの母親は継母でね、自分の子供より出来のいい長男を疎んじているのさ、ひがみってやつだよ」
「本当、気の毒にうちに娘でも居れば、所帯を持たせてやるんだけどね」
「無理だよ、もう何人も娘達が惣一朗さんに断られたって泣いていたじゃないか」
「そういえばあの子、子供の時から絶対結婚するもんかって言っていたしね、仕方ないよ」
「そりゃあんな母親に育てられたら、誰だって女を嫌になるさね・・・・・・」
「誰か良い人と巡り会えれば救われるのに、あんないい子…可哀想だよ・・・・・・」
皆が口々に惣一朗を哀れみ、また称賛するのを聞き、先ほど自分に親切にしてくれたのは本心からである事を確証したお勝は、益々惣一朗に興味が湧いてきた。
「いつ惣一朗さんは徴兵に行かれるんですか?」とお勝は女達に尋ねた。
「確か来月にはせいせいするって、母親が言って言たかね」と一人の女が教えてくれた。
来月まで?ならあと二週間しかない!これは急を要しないと手遅れになる!内心お勝は焦った。
お勝は女達に礼を言うと、今度は慶応塾の方向へ歩き出した。
夫の重蔵が尊敬し、志乃も影響を受けた偉大な福沢先生なら、自身の塾で下人として働いていた青年に、何とか知恵を絞って下さるのでは・・・・・・、お勝はその一心で道を急いでいた。
ちょうど隣町に差しかった時、遠くからお勝を呼ぶ懐かしい声を耳にした。
「お勝さんじゃない?こんな処で会うなんて、何年ぶりかしら!」
遠くから手を振るその陽気な声の中年女性は、驚いたことに数年前に近所に住んでいたが、突然引っ越してしまった上村絹だった。絹はお勝が嫁入りした際に唯一田舎者扱いせずに、対等に接してくれたお勝の気の置けない友人の一人だった。
「お絹さん?まぁ久し振りじゃない!全然変わっていないのね!」
「うふふっ、そうね、独りになって気楽に暮らしているせいかしら」
と上機嫌で答えた。だがお勝の機嫌はその逆で、この焦る気持ちとは裏腹に今日はなんて色々な人と出会う忙しい日だろうと、内心うめいていた。
「突然居なくなるんですもの、びっくりしたわ、息子さん夫婦と何かあったの?」
「前に話したでしょ、嫁がね。いちいちうるさくて…夫が生きていたらこんなに肩身の狭い思いをしなくても済んだんでしょうけれど。でも、出て来て正解よ!今は夫が残してくれた別宅でのんびりと暮らしているし、ふふっ、いい人も出来たのよ」
と絹は小指を立てて片目をつぶって見せた。なるほど、それで本当に若々しいのか。
「お絹さん、ご免なさい、今日はとても急いでいて、その、またゆっくり会いましょうよ」とお勝はお絹と別れようと、また慶応塾への道を目指したが、
「私はいつでも暇だから一緒に付き合うわ」とお絹はお勝を離さなかった。
お勝は観念して塾に着くまでならばと、動転している自分の頭の整理も兼ねて、今しがたの惣一朗の事情と娘の志乃の事をお絹に語った。するとお絹は夢見がちな仕草をして
「純愛だわね~若いっていいわねぇ」とからかうように言って笑った。
「本人達には重大事なんだから、あまりからかわないで」とお勝も笑った。
するとお絹は突然お勝の行く手を遮り、さらにからかうようにお勝の顔を見て言った。
「お勝さん、あなた今日私に出会えて幸運だったわよ!なにも塾にいくことないわ。いい手があるのよ、私に任せて!どこかの茶屋にでも入って、じっくりと話の続きを聞かせてちょうだいな」
お絹はニコニコと笑ってお勝の手を引いて行った。まるで謎かけでもされている気分になったが、歩きながらお勝は思い出した。
お絹は自分の息子達を以前、徴兵制から免除させた経験者だったことを。




