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惣一朗とお勝



 志乃が登校してから、今日の仕事の段取りを奉公人達に伝え、何とか時間を作ったお勝は急いで道場へと向かった。ちょうど、朝稽古を終えた門下生達が続々と出てきていた。


(大変!杉田さんはもう帰られたかしら!)


慌てたお勝は年甲斐もなく小走りをしたせいで案の定、見事に転んでしまった。

「あいたたたた…」

そこへ心配そうに近寄って来た青年が、親切にお勝を起き上がらせてくれた。


「大丈夫ですか?」

「はい、ありがとうございます・・・・・・」


お勝が見た足元には袴、(まさか?)と見上げた胴着には『杉田』と名前が縫い付けられていた。そしてその顔を見据えた。志乃の言っていた通り、凛々しい顔の青年であった。


(間違いない!杉田惣一朗!間に合った!)


 お勝は驚きと嬉しさのあまり興奮して立つのを忘れていると、尚も心配してか惣一朗はしきりにお勝の足の具合を尋ねてきた。


「お怪我されましたか?立てますか?」

お勝は我に返り、とっさに惣一朗に頼み事をした。


「あの、実は少々困っておりまして、お願いしてもよろしいでしょうか・・・・・・」

「何でしょう?私でお役に立てますか?」


 見知らぬ中年女性からの突然の頼み事に、嫌な顔もせずに惣一朗は用件を聞いてくれた。


「実は新橋の田口呉服店へ行きたいのですが、途中で道に迷ってしまいうろうろしているうちに、転んでしまいました」

お勝は素知らぬ振りをして、いつも行っている馴染みの店の名前を挙げた。

「ああ、そこでしたら存じています。私の家の帰り道ですから、一緒に参りましょう」


惣一朗は見知らぬお勝の頼みを快諾し、道案内まで申し出てくれた。

(なんて感じのいい青年だろう・・・・・・)

お勝は感心し、一歩下がって惣一朗の後ろを続いて歩いた。


「この辺りは初めてですか?」と惣一朗が気さくに話しかけてくれた。

「ええ、幼い頃に少し住んでいましたが、すっかり変わってしまって」


 お勝には庭同然の町だったが、この機会に少しでもこの青年の事を知ろうと話しかけた。

「あなた様は、元はお武家様のご子息ですか?」


 余りにも唐突な質問に、驚いた顔で振り向いた惣一朗は目を丸くした。真顔で驚いているので怒り出すのかと思ったら、急に笑い出し始めた。


「ははははっ!そう見えますか?それは光栄ですが、残念ながらただの貧乏庶民ですよ」

そう言って、まだ肩で笑いを堪えながら再び歩き出した。


「まぁ、堂々としていらっしゃるからてっきり…、では先ほどの道場で教えていらっしゃるのでしょうか?」

「いえ、私も門下生の一人です。…が、それもあと少し・・・・・」

そう言いかけて、惣一朗の顔から急に笑顔が消えて、黙ってしまった。


「何かあったのですか?私でよかったらお話しください。」

 お勝は年上の図々しさで、あえて不躾な質問を投げかけてみた。

「いえ、何も。ただ、訳あって暫くこの道場に通えなくなるのが残念で」

「どうして通えなくなるのですか?」

「…しばらく、遠くに行くことになりまして」


それだけ言うと、後は何も聞いてくれるなと背中が言っている様に見え、さすがにお勝もそれ以上の会話を続けることをやめた。

「あの角を曲がれば呉服店が見えますよ」


一時間近くは歩いただろうか、途中何度もお勝の足を気遣い、休み休み歩いてくれた。

青年の足ならば三十分ほどで着く距離であろうに。


「どうもご親切にありがとうございました。どうかお名前を」

「名乗る名はありません。では帰りはお気をつけて」


 それだけ言うと惣一朗は微笑み、その場を後にした。

 お勝は急いで呉服店に駆け込み、そこに居た奉公人の一人に惣一朗の後を追いかける様に頼み、急いで店から行かせた。

そこへ何事かと店の奥から、店主の田口がやって来た。


「おや?珍しいお客様だ。ご多忙な方が、こんな朝早くからいらっしゃるとは」

「お早うございます。田口の旦那様。訳あって、店の若い者を私の使いに行かせてもらいました、お忙しいのにあいすみません。」

「いえいえ、高倉の奥様の御用ならどうぞご遠慮なく!」


 以前、ここの呉服店に姉の芳乃の婚礼衣装をあつらえてもらい、高倉家は古からの常連客であった。田口は呉服店主らしく話術が上手く、お勝もうっかり上等な着物を何着も買ってしまった事がある。口数の少ない夫の重蔵とは雲泥の差だ。

今朝も商売人らしい、愛想のいい声で田口が話しかけてきた。


「高倉の旦那様は相変わらずご多忙で?」

「ええ、ほとんど家にはおりませんわ」

「商売繁盛!結構な事ですな、ささっ、お茶の用意が出来ました、どうぞ中へ」

「ありがとうございます。先ほどの若い衆が戻りましたら、また一緒に出掛けさせてくださいな。ではお邪魔いたします」

「ええ、それは構いませんが…どうしたんです?朝からそんなに慌てたご様子で、何かあったのですか?」

「いえね、ちょっと野暮用で・・・・・・」


 そう言い掛けて、お勝は急に自分のしている事がおかしく思えてきて笑い出してしまった。田口は訳が分からないといった顔でお勝を見ながら


「何やら嬉しそうですね、何か良い事でもおありになったのですか?まさかとうとう芳乃様にお子様が?初孫でも?」

「え?孫ですって?」

「初孫の産着は、間違いなく田口様にお願いしますわ。でも生憎その知らせも無くて、寂しいいかぎりでしてね。いつになったらおばあちゃんになれるのやら」

と、お勝は田口相手にぼやきながら、久しぶりに他愛もない会話を楽しんでお茶を頂いていると、まもなくして先ほど後を追わせた奉公人が戻って来た。

 お勝は田口にお礼を言い、奉公人を連れ立って、田口呉服店の暖簾越しに田口に向かってほくそ笑んだ。

「良い事があったら真っ先にお知らせ致しますわ」



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