突然の「徴兵制度」
今日も剣道の朝稽古に励む、『杉田惣一朗』を一目見てから女学校へと向かう志乃。
季節は巡り、入学してから二年半が過ぎ、志乃はすでに十六歳、まさに花の盛りを迎えていた。
志乃は酒蔵の娘だけあって、母の言いつけで毎日米麹を使って体を洗い、酒を数滴入れた水で髪をとかしていた。こうする事でただでさえ白い肌は一層白くなり、髪も艶やかさと美しさを保つ秘訣として高倉家で代々継承されてきたのだ。
五歳違いの志乃の姉、芳乃もこうして色白の透き通る肌と艶やかな黒髪を得て、年頃になった折に数ある縁談の中から、父重蔵が決めた男に嫁がせた。
相手は内閣府に努める官僚、それは父重蔵の商いに於いて大いに役に立った。だがそれは幼かった志乃の眼には政略結婚にしか見えなかった。
元より志乃の母、お勝は美人で、姉妹はお勝似。姉が先に嫁いでしまった為、高倉家を継ぐのは必然的に志乃となってしまった。
志乃も子供ながら姉が嫁いだ時に漠然とそれを解ってはいたが、それでも夢を抱くことを諦めたくはなかった。姉の様に好きでもない男と家の為に結婚させられるくらいなら、また家出して、いっそ外国船に密航してでも、自分の人生を生きたいと願っていた少女だった。
だが成長するにつれ、それがいかに夢物語なのかも分るようになっていた。叶わない夢でも、いつか姉と同じ道を歩くことになっても、今は諦めたくはなかった。だからこそ余計に学問を熱心に学び、薙刀も男に負けたい一心で懸命に打ち込んだ。
だがそんな志乃の心中をよそに、日増しに美しく成長する志乃の婿養子には一体誰がなるのかと、町内ではもっぱらの噂話になっていた。隣町にも噂が広がり、志乃を一目見ようと、わざわざお忍びでやって来た呉服屋の若旦那までいたほどだ。
しかし、おいそれと志乃に求婚する勇気ある若者が居ないのも、また事実であった。以前、高倉家に盗人が入った際に警察の到着より早く、志乃と奉公人達とで取り押さえた話は町内では知らない者が居ない程、あまりにも有名な話しだった。
そんな町の噂も当の本人の耳には一向に届かず、志乃は相変わらず道場と女学校を往復する充実した日々を送っていた。
時折り、神保町の文具店に立ち寄っては、杉田惣一朗との再会に胸を高鳴らせるが、何故かあれ以来、一度も文具店で会う事は無かった。
慶応塾に行けば会えるのだろうが、いくら福沢諭吉が『男女平等論』を主張していても女がおいそれと近よっていい場所ではない。
そんなある日、いつもの文具店で店主に慶応塾の話を聞き、それとなく惣一朗の事を尋ねてみた。すると予想もしない言葉が返ってきた。
「ああ、杉田さんなら塾をお辞めになると先日挨拶に来られて、何でも徴兵制で行く事になったとおっしゃっていましたよ」
と店主は何気ない会話の様に話した。
当時の日本は徴兵制度を法律として国民に課しており、それを免れるには養子縁組をするか、徴兵制度自体のない北海道などの地方に移住するしかなかった。
『徴兵・・・・・。』…そんな事、考えてもみなかった・・・・・。
一瞬志乃の視界は暗闇に閉ざされ、心臓をわし掴みにされたかに思える程の衝撃が走り、体はその場に縫い付けられたかの様に動けなくなってしまった。
まだたった十六歳の少女には、徴兵に行く事は二度と会えない事を意味するも同じだったからだ。
未だ名前以外はほとんど何も知らない青年だが、あの時の笑顔が忘れられない、竹刀を握る真剣な眼差しが目に浮かぶ・・・・・。
店主との会話のほんの数秒にも満たない間、全身を駆け巡った喪失感は、姉が嫁いだ日の孤独を志乃に思い起こさせた。
志乃の強張った表情の異変に気付いた店主が心配そうに志乃に声を掛けてきた。志乃はぎこちない挨拶で交わすのが精一杯で店をでてから、その後どうやって家に帰ったのかまったく覚えていないまま、気が付けば自分の家の前に立っていた。
玄関に入り見慣れた土間の框に座り込んだ途端、志乃の内にこらえていたものが堰を切った様に溢れ出てきた。
志乃の帰宅の気配に気付き、玄関に顔を出した母のお勝は、志乃を見て驚いて駆け寄ってきた。
自分の娘が目を見開いたまま、無言で大粒の涙を流している。
まるで真珠が落ちるようにポタポタとこぼしているではないか。
心はどこかへ置き忘れた・・・・・、まるでそんな顔をして。
「何かあったの?何かされたの?」
母はそれが一番気掛かりだった。嫁入り前の娘に何かあったのではと、母は志乃の着衣をぐるりと見渡したが乱れた所もなく、襲われた様子もない。では一体何があったのか。
「お母さん・・・私・・・私・・・・・」
志乃はもはや心の中を話す余裕すらない程にひたすら泣きじゃくり始めた。お勝はこんな娘を今まで見た事が無かったが、今は話せる状態ではないのだけは分かった。
「さぁ、何があったか知らないけれど、部屋で少しお休み」
お勝は志乃の肩を抱き、部屋へと促した。まだ夕方だが母は布団を敷きそのまま志乃を寝かせた。志乃は布団を掛けられると中に潜り込み、今度は大きな声を上げて泣き出した。
お勝はそっと部屋の扉を閉め、しばらく扉の外で様子を伺っていたが、泣き止む気配がないので、ひとまずその場から離れた。
思春期の志乃のこと、学校で友達と喧嘩でもしたのかと、何も知らぬお勝は、一晩眠れば落ち着くだろうと安易に考えていた。
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泣きつかれて眠ってしまった志乃は、夜中に目を覚ました。
自分が外着のまま布団に入って居ることに、しばらく状況がつかめずにいた。
泣きすぎて頭が割れるように痛い。だが直ぐに思い出して自分の勉強机から西陣織の笛袋を取り出した。中には以前、惣一朗から渡された小筆が入っていた。
志乃は同じ物を二本買い、こちらを大切に、そうお守りとしていつも机に仕舞っていたのだ。
惣一朗さんが徴兵に行ってしまう・・・・・。
先ほどの文具店の店主との話を思い出し、あれほど泣いたのに、またその瞳は涙が溢れてこぼれ落ちそうになった。その時、お腹の虫が鳴った。
どんな辛い時でお腹は空くものだ。それも食べ盛りなのだから仕方がない。
志乃は涙をぬぐい、奉公人に気付かれないように、そっと台所へ向かった。そこには握り飯と大根の煮物が置いてあり、一緒に手紙も添えられてあった。
『志乃へ お腹が空いたら食べなさい』
お母さん・・・・・。
大根は味が染みていて、冷めていても美味しい。この味は台所を任せている奉公人のお市の味付けだ。まだ肌寒い季節だが、大根はとても温かく感じられて、少し元気が出てきた。
わたし、みんなに心配を掛けてしまったんだわ・・・・・・。
握り飯を一口食べるごとに、何故これほど胸が痛むのか、悲しいのか、それまではどうしてあれほど幸せな気持ちでいられたのか・・・・・・。
あれこれ考えてみたが、ぼんやりした頭ではこれと言って言い当てられる答えは見つけられなかった。
その時、台所の物音に気が付いた母お勝がはんてんを羽織ってやって来た。
「気分はどう?お腹空いたでしょう?」と何事もない素振りで話し掛けてきた。
「おお寒い、今、火を起こすから」と母は板間の囲炉裏に火を入れてくれた。
「お母さん、心配を掛けてごめんなさい」と、志乃は素直に謝った。
元来、裏表のないこの娘は今まで何でも母に相談し、学校での出来事もしつこいくらいに話していた。 ・・・・・・惣一朗の事以外は。
「いいのよ、学校で嫌な事でもあったんでしょう?」
「違うの、学校は楽しいわ、何もない・・・・・・」
志乃はそれだけ言うと、またしばらくの間、黙りこくってしまった。
母もそれ以上は何も聞かず、沸いたお湯で茶を入れ始めた。
それからしばらくして、
「あのね・・・・・・」と、志乃は少しづつ、惣一朗の事を母に話し始めた。
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「その杉田惣一朗さんが徴兵されるから、あんなに泣いていたのかい?」
「うん、見る事も叶わないと思ったら・・・・・・」
そう言うと、堪えていた涙をまた拭き、これまで抱えていた胸の内を全て母に語った。
「そんなに素敵な御仁なの?」
「うん、見ているだけで幸せな気持ちになれるし、毎日頑張ろうと思えるの」
お勝は内心とても驚いていた。外国と本にしか全く興味が無いと思っていた子が、
いつの間に『恋』をしていたのだろうと。
しかも志乃自身、それに気付いていない様子なのだ。
そこはまだ幼いのか、母は娘の心の成長に愛おしさと寂しさの入り混じった感慨深いものを感じ、すぐにでも抱きしめてあげたい気持ちになったが、ここは堪えて話を続けた。
「徴兵先は身内にしか分からないし、いつ戻るとも知れないしね・・・・・・。
それで、志乃はどうしたいの?」
「え?どうしたい?」
今度は志乃が驚いた。自分が何かできるなど、考えてもいなかったからだ。
志乃はしばらく無言で考えてから、母に向かって正座し直し、真っ直ぐ目を見て言った。
「惣一朗さんが徴兵されずに済む方法があるなら、私何でもする!
でも何をしていいのか全然分らない・・・でも、お父さんなら、行かないで済む方法を知っているなら、お願い!お母さん!子供のわがままなのは良く分かっているわ、
でも、でも、今惣一朗さんが居なくなったら私、わたしは・・・・・・!」
志乃は必死でそこまで言うと、またわっと泣き出してしまった。
お勝にも覚えがあった・・・。遠い昔、まだ重蔵と結婚する前の儚い恋。志乃を見ていると古い鏡を見ているように自分と重なり、お勝の胸も痛んだ。
「分かったわ、志乃。まずは杉田惣一朗さんについて調べてみましょう。うちには男の子が居ないから、徴兵制の事は私も詳しくないのよ。明日にでも道場に行って様子を見て来るわ。話の続きはそれからね」
母は常に志乃に大きな勇気を与えてくれる。
父の重蔵の大反対の中、女学校の後押しをしてくれたのも母であった。
志乃は大きな瞳を更に大きくして母の言葉にうなずいた。
「ありがとう、お母さん!」
志乃のその顔は泣き腫れてひどいものだったが、その瞳は先ほどとは違い生き生きとして、まるで囲炉裏の火が燃え移っているように輝いていた。
「そうと決まれば、もうひと眠りしようかね、明日も学校でしょう」
志乃は申し訳なさそうに母に謝った。母とて父の重蔵と同様に店を切り盛りし、沢山の奉公人達を束ねる多忙な毎日を送っているというのに、自分の為にその大事な時間を割いてくれるというのだから。
志乃は改めて、自分がいかにのん気に毎日を過ごしていたのかを痛感した。
お勝は囲炉裏の火を消し、二人は台所を後にした。志乃は自分の胸の内を話せた満足感と少しの希望を抱いて、すぐに眠りに落ちてしまった。
翌朝、散々泣いた志乃のまぶたはまだ腫れていたが、今日も元気いっぱい女学校へと向かった。そしていつもの様に道場に立ち寄り、遠目から惣一朗を眺めていた。
いつ徴兵に行くんだろう、もし明日だったら・・・・・・。不安が志乃の心を締め付ける。
志乃は惣一朗から渡された小筆をギュッと握りしめながら、また涙が溢れそうになるのを堪えて、祈るように晴れた青空を見上げた。
泣いてばかりじゃダメ、私らしくないわ!お母さんを信じよう。今はそれしか、まだ何も分からないじゃない!
そう自分に言い聞かせて頭を振りながら、志乃はいつものように学校へと歩き出した。




