約束の果て
お勝は声を震わせながら、尚も菅原に懇願した。
「・・・・・先生、酷すぎます。もう少し待って・・・・・、
もう少し、志乃が落ち着いてからでも・・・・・」
「志乃ちゃんは今、知りたがっているんじゃ、
真実を隠す方が、酷いと思わんかね?」
「先生・・・?」
志乃は眉をひそめた。
さっきから何を言っているか、私はただ、惣一朗さんを
連れてきて欲しいと言っているだけなのに!
菅原は、今度はお市を急き立て、電報を持って来させた。
そしてその小さな紙の電報を、志乃に差し出した。
志乃が目にした電報の文面には、こう書かれていた。
『 高倉惣一朗 少尉 殿
十月二十九日夕刻 栃木県足利郡吾妻村
山中にて 死亡 享年二十五歳
陸軍 第二十二隊団所属 栃木県本部 記付 』
「・・・え・・・??何、これ。え・・・?嘘よ!なんなのこれ!
さっきまでここに居たわ!惣一朗さんは生きているわ!」
志乃は信じられない文面に驚き、
そこに居るみんなに向かって叫んだ。
「どうしてこんな事をするの?ひどいわ!
惣一朗さんは死んでなんかいないわ!」
志乃は電報を突き出し、怒りをあらわに皆の前で叫びだした。
・・・・・だが、誰一人として志乃に答える者はおらず、
菅原だけが医師として、志乃を正面に見据えて静かに言った。
「・・・・・・真実じゃよ」
「嘘よ!」
志乃は声を張り上げて、拒絶した。
その眼には決して認めない意志が、ハッキリと映し出されていた。
その声に驚いたのか、突然隣の部屋から「おぎゃー」と
赤ん坊の泣き声が聞こえた。
皆がハッと驚いて隣の部屋を見た。
志乃の傍で涙ぐんでいたお市が立ち上がり、
少ししてから赤ん坊を抱いて戻ってきた。
「・・・・・二日前に、お嬢様がお産みになったお子様です」
お市は震える声で、そう言いながら志乃の目の前に
赤ん坊を連れて来た。
「見なさい、志乃ちゃん。君が産んだ子じゃ。
同じ日、惣一朗君も死の間際にいたはずじゃ。
これを奇跡と言わんで何という?」
「私と惣一朗さんの子供・・・?なんて惣一朗さんに似て、可愛い・・・・・」
志乃は目の前の小さな赤ん坊に手を伸ばそうとした。
・・・・・その時、自分でも産んだ覚えが無い事に気が付き、
はっとして手を止めた。
・・・・・私はいつ、子供を産んだの?
臨月までまだずっと先だったはずなのに?
・・・さっき惣一朗さんは男の子だって言っていたわ・・・・・。
じゃあ産まれた時に、やっぱり惣一朗さんは傍に居たはずよね?
いつ帰って来たの?なのにどうして今、居ないの?
志乃自身はまったく覚えていなかった。
覚えているのは、朝起きた時に突然の苦しさでもう駄目だと、
このまま死んでしまうんだと思っていた時に、
惣一朗が現れて自分を抱きしめて、安心させてくれた事だけだった・・・・・。
そして子供の名を告げられたのを志乃は覚えていた。
どういう事?分からない・・・・・。
ならば、子供が産まれた事と、惣一朗が死ぬ事に、
なんの関係があると言うのか。
何故『死』を認めなければならないのか。
惣一朗の死・・・・・?
先ほど自分を抱きしめた、あの惣一朗の温もりは
一体なんだと言うのか、どう説明すればいい?
みんな何を言っているの・・・・・・・・!
訳が分からない、こんな事・・・・・!
志乃はしきりに頭を振って混乱している様子だが、
誰も声を掛ける事が出来ずにいた。
菅原はがゆっくりとでも、この悲しい現実を
志乃が受け入れるのを、じっと待っていた。
呼吸を乱しながら混乱した志乃は、怯えた顔を菅原に向け、
声を震わせながら、『自分の中の真実』を語った。
「さっき・・・・・、本当に惣一朗さんは、私と一緒に居たんです。
抱きしめてくれて、これからはずっと一緒だよって・・・、
言ってくれたんです・・・・・。」
「志乃ちゃん。惣一朗君は君を想って、
心配して夢の中にまで、現れて来てくれたんじゃろうなぁ・・・・・。
それこそ奇跡なんじゃないのかね?」
「・・・・・信じて、くれないんですか?だって、
男の子だって・・・・・惣一朗さんが、教えて・・・・・」
「志乃ちゃん。あの電報にあった日付は、志乃ちゃんが意識を失って、
産めるはずのない子供が自分から産まれて来た日。
惣一朗君が亡くなった日と同じ日なんじゃよ。
第一、志乃ちゃんがまだ見てもいない赤子を、
どうして男の子だって知っているのかね?」
離れの入り口に座り込んでいた芳乃が、もはやこの場の悲しみに
耐えられなくなり、嗚咽をもらしながら母屋へと小走りに去って行った。
志乃は芳乃が去った戸口を見つめ、信じられない面持ちでそれを見送った。
「・・・・・そんな・・・、惣一朗さん、本当にもう・・・・・。
そんなことって、うそよ・・・・・・」
志乃の瞳からふいに流れた涙と一緒に、志乃は独り言のようにつぶやいた。
志乃の体には確かに惣一朗の温もりと彼の香り、
力強い腕の感触が、まだはっきりと残っていた。
惣一朗さんがもう戻ってこない?そんなの信じない、信じられない。
こんな紙一枚で私の惣一朗さんがこの世に居ないなんて、
どうして信じられるの・・・・・?
だが、そこに居る母や姉、医師や奉公人達は皆同様に、
死者を憐れむ顔をして、志乃を見てすすり泣いていた。
まるで通夜のように、志乃を囲んで泣いていた。
これではまるで・・・・・本当に? ・・・・・いえ、これは夢、
きっとこっちが夢なんだわ・・・・・。
志乃は混乱した頭と、まだ朦朧とした意識の中で、
必死に先程の惣一朗の足跡をたどった。
だがだんだんぼやけていく、惣一朗の記憶に焦りを感じて、
ふと手の中の電報と、母やお市の涙ぐむ顔を見上げた。
昔、惣一朗と見合いをした時に、相手も知らずに逃げ出そうとした時の
悪ふざけとは訳が違う。
母が惣一朗を想う自分を欺くはずがない。
子供が産まれた喜ばしい日に、どうしてこんなひどい話を、
聞かされなければならないのか・・・・・。
志乃は急にハっとして、先ほどの惣一朗に
いつもと違う違和感があった事に気が付いた。
志乃はこわばった顔で大きく目を見開き、
遥か遠い栃木に居る惣一朗が、確かにここに、
自分を守るために来てくれたのだと、放心しながらも、
それだけははっきりと確信した。
・・・・・だが、それが帰って来た『生きている惣一朗』だとは
限らないのだ・・・・・。
その答えが菅原の言う、『奇跡』だと言うのなら・・・・・・・・。
(どうして?惣一朗さん・・・、戻って来るって・・・言ったじゃない・・・・・・・)
・・・・・志乃は心をどこか遠くへ彷徨わせはじめ、
その目はもう何も見えていなかった。
ただ涙だけが、細い糸のように頬を伝って流れていた。
このまま永遠に時間が止まってしまったように、
動かない志乃の抜け殻の様な姿は、
誰もが直視するには、あまりにも哀しすぎた。
その時、志乃の心に呼び掛ける様に、赤ん坊がぐずり始めた。
「ああ、よしよし・・・・・お腹が空いたのね、今お乳をあげますよ」
お市が小声で、赤ん坊を優しくあやしながら言うと、
志乃はビクリと肩を揺らし、ゆっくりと赤ん坊の方を見た。
産んだ覚えがなくとも、『お乳』の言葉で志乃の胸が張った気がした。
・・・・・自分は母親になったのか・・・・・。
それは惣一朗が志乃に残した大切な命・・・・・。
志乃自身の命よりも、大切な惣一朗が守ろうとした、
大切な自分たちの子供・・・・・。
志乃は赤ん坊に手を伸ばし、お市に支えられながら、
初めてその小さな命を抱いた。
・・・・・なんて小さくて弱い、でもなんて温かい・・・・・。
「・・・・・たいし・・・あなたの名前は、大志よ・・・・・」
志乃は絞り出すように、惣一朗がこの世の最期に、
自分に託した言葉を我が子に名づけ、
もうそれ以上は嗚咽以外、志乃は声を発する事が出来なかった。
不思議と赤ん坊も、落ち着いたように
スヤスヤと眠りについてしまった。
赤ん坊をお市に託すと、志乃は何かの糸が切れた様に
その場に崩れてしまった。
もはやどうにも抑えきれない激情と深い悲しみが志乃を覆い、
ただ泣き叫ぶしか術を知らない子供の様に、
志乃は声が枯れるまで泣き続けた。
その場にいた誰一人として、お勝すら、
志乃に掛けてあげられる慰めの言葉は、持ち合わせていなかった。
ただ一緒に泣いてやるしか、誰にも出来る事は何も無かった。
・・・・・それから幾日も、幾月も、
惣一朗が戻らぬまま、月日だけが過ぎてゆき、
やがて季節は巡り、一年が過ぎて行った・・・・・。




