小筆の想い
女学校に通う様になり丸二年が経った冬、志乃は頻繁に、神保町の決まった文具店で学用品や小筆を買いに来るようになっていた。
あまりにも沢山書くので筆はすぐに駄目になり、半紙もすぐになくなり、沢山買ってもすぐに手持ちの在庫は底をついてしまう。週に一、二回は来ているので、店に入ると、すっかり顔馴染みになった店主が愛想よく出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、お嬢様。今日は何をお探しに?」
「小筆が欲しいんです。もう少し丈夫で書き易い物を」
「それでしたら先日外国製の物が何種類か入荷いたしましたよ。娘さんには少し硬いかもしれませんが、奥から出して来ましょう。少々お待ち下さい。」
そう言うと店の奥の方へと入って行った。
志乃は待っている間、いつも店先の端に置いてある「オルゴール」という音の鳴る箱を眺めるのが好きだった。
手動式のオルゴールの曲は回していても良く分からないが、その箱の装飾の美しさに心奪われ、見ていると外国への想いが募る一方だった。
いつもは店主が回してくれるのだが、今は店の奥に居るので、軒先に吊るしてある風鈴の音色をオルゴールに重ねながら、遠い異国に想いを馳せていた。
いつものようにぼんやり見とれていた志乃は、自分に近づいて来る気配に気が付かずにいると、突然背後から声を掛けられて驚いた。
「これなど使い易いですよ」
聞き覚えのない若い男性の声に、急に現実に引き戻された志乃は、慌てて店の者かと振り向き返事をしようとした瞬間、飛び込んできたその声の持ち主の顔を見て更に驚いた。
その顔は毎朝道場で剣道の稽古を垣間見ている『あの人』だったからだ。
「・・・・・・!!」
志乃は驚きのあまり瞬きも忘れ、大きな目を更に大きくして、その青年の顔をまるで赤ん坊の様に凝視してしまった。
「あの、これを・・・・・・」
青年は少し困った様な、それでいていたずらっ子の様な笑顔で突っ立ったまま固まってしまった志乃の手を優しく取ると、その手の平にそっと小筆をおいてくれた。
志乃は青年の顔から笑顔がこぼれた瞬間、自分の中で何かが弾けたような衝動を感じた。と同時に胸の鼓動も急に速くなっていくのが分かる。
今まで稽古をする、真剣な眼差ししか見た事がなかった顔が、笑った・・・・・・!
自分に何が起こったのか理解出来ず、青年の顔をただじっと見つめるだけで、志乃は言葉を忘れてしまった人形の様にただ立ちつくしてしまった。
青年は何かを言いかけ、だが「それでは」と一言だけ言い残すと、その店を後に通りに出ると、そのまま歩いて行ってしまった。
青年の声は低く、それでいて甘く優しい風鈴のような音色だった。語り口も柔らかくその声が頭から離れず、何度も繰り返し頭の中で木霊していた。
志乃はただ茫然と青年が去って行く方を見つめ続けて数分後、やっと小筆に視線が戻った時、我に返った志乃は慌てて店主に今の青年について尋ねた。すでに店主は志乃の後ろで、にこやかに立っていた。
「彼は『杉田惣一朗』さんとおっしゃって、お得意様の慶応塾で奉公をされている方なんですよ」
店主は愛想よくすんなりと答えてくれた。
何という偶然! いえ幸運かしら!! 同じ馴染みの店に来ていたとは知らず、まさか『あの人』の方から話し掛けてくれるなんて!
しかも名前まで知る機会が訪れるとは夢にも思っていなかった。
名前を知った途端、年齢や住まいなどあれこれ気になり出し、うっかり店主に
「杉田様は、そのご結婚は?」と聞いてしまった。口に出してから慌てたがもう遅い。
あれ程の好青年である。結婚していてもおかしくはない。考えないようにしていたが、あの時見た綺麗な女性の顔が志乃の瞼にちらついた。内心焦りにも似た動揺が心を駆け巡った。
「いえ、確かまだお独りだと伺いましたが」
店主のこの一言に志乃の世界は一変した。
これからも堂々と見つめて憧れても良い存在なのだ・・・・・!
それだけで志乃には幸運が舞い降りたかの如く、
『杉田惣一朗』の存在が昨日よりも身近で、遥かに大きな物となって志乃の未来を明るく照らす光の様に感じた。
店主に挨拶をし、店を後にした志乃は、まだ見ぬ外国への憧れと同じ位の存在になった『杉田惣一朗』を胸に抱き、手には手渡された小筆を握りしめ、小走りで帰っていった。




