志乃と多江
季節は秋に移ろうとしていた。
惣一朗から四通目の手紙が届いた。
志乃も惣一朗に、もう何通も手紙を送っていた。
もちろん子供が授かった事を知らせて。
だが、どの文面にも子供のことに触れられておらず、
志乃の体をいたわる事ばかりだった。
そして今日、届いた手紙には
『志乃 栃木は寒くなったよ。もうすぐ東京も紅葉だね。
まだ怒っているの?ずっと泣いているの?
どんな顔でも君に会いたい。
本部に打診はしているがまだ交代の将校が来ない。
いつ戻れるか分らないが、もう少し待っていて欲しい。
惣一朗 拝 』
おかしい・・・・・。
もしかしたら私の手紙は惣一朗に届いていないのでは・・・・・。
不安が志乃を覆い、目の前を暗くさせる。
だがこうして手紙が届くのだ。
惣一朗は生きて無事でいるのは間違いない。
何もなければ何でもない任務だと芳乃は言っていた。
『何もない』とは暴動や一揆を指すのだろうが、都会育ちの志乃には、
それがどういうものかまったく想像出来ず、不安だけが心を締め付けた。
町中で暴動の噂は聞くようになったが、不満をもった農民が、
大勢で押し寄せて攻めてくる・・・・・?
その矛先は軍服を着た人間、惣一朗に向けられる・・・・・!
そう考えただけでも恐ろしかった。
町のケンカでも、血を流して争っている人を警官たちが止めていたり、
殺人事件もたまに起こる。
それが農民の集団で襲ってくるって事・・・・・?どうしよう怖い・・・・・!
神様、どうか惣一朗さんを守って下さい!
志乃は安定期に入ってから、度々神田明神にお参りしては、
惣一朗の無事を祈願していた。
そして産まれてくる子供の無事を願っていた。
手を合わせていると、お腹の子が少し動いたのが分った。
『この子もきっとお祈りしてくれているのね、優しい子・・・・・。』
ここに惣一朗が居れば、きっとお腹に耳をあて、
毎日子供に話し掛けているに違いない。
そんなことを考えながら鳥居を出ると、
懐かしい声と共に笑顔の女性が近づいて来た。
「志乃ちゃんじゃない?うわぁ懐かしい、全然変わらないわねぇ!」
見覚えがあるのだが、誰だったろう?
それは女学校時代、仲良しだった友人の『多江』だった。
びっくりするほど丸くなった顔では、一目で分かり様がなかった。
久々に再会した二人は喜び合い、境内の近くの長椅子に腰かけて、
懐かしさで語り合った。
多江はもう三人の母親だと言う。いつの間に・・・・・。
「志乃ちゃんは私達の中で一番にお嫁に行ったのに、今が初産なの?」
驚く多江に、少し恥ずかしそうに志乃は答えた。
「ええ、ずっと二人でいたくて・・・・・」
「うわぁー!羨ましい、熱々なのねぇ!確に素敵な人だものね。
えっと惣一朗さん?だったかしら?」
多江に惣一朗の名を呼ばれた途端、志乃の胸がズキンと傷んだ。
「いいなぁ、うちなんてハゲてて小太りよ。
でも優しい性格なのは負けてないわ」
「多江ちゃんも幸せそうね」
「ふふっ、お互いにね」
二人は顔を見合わせて笑い出し、十代の女学生時代に戻った気分になった。
友達っていいなぁ・・・・・。
ずっと惣一朗しか見ていなかった自分に、志乃は改めて気がついた。
・・・・・なぜ、何もかも忘れてしまっていたんだろう。
本が好きで外国に憧れていた自分・・・・・。
惣一朗が居ないだけで何も手に着かず、無為に過ごしている日々。
涙と一緒に色んなものを、
大切なものまで一緒に、流してしまった気持ちになった・・・・・。
久し振りの多江との再会で、少し昔の自分を取り戻した志乃は、
ふと思い出した。
『君は君のままでいてほしい』
・・・・・何度か惣一朗に言われた言葉を。
志乃は『自分らしい』とは何だったか、多江に聞こうとした時、
多江が思い出したように聞いてきた。
「志乃ちゃんの旦那様はお婿に入って、
志乃ちゃんの家を継いでいるんでしょう?」
「ええ、お義父さんの跡を継いで、お店を切り盛りしてくれているわ」
「じゃあお酒には詳しいんでしょう?
うちの旦那にお土産を買っていこうかしら。
惣一朗さんにお薦めの物を選んでもらえる?」
「えっと、今は栃木県に仕事に行っていて、まだしばらくは帰れないの」
志乃は言葉に詰まり、つい惣一朗が居ないことを話してしまった。
「栃木?そんな危ない所に?」
多江は驚いて志乃に向かって言った。
「危ない?危ないってどういうこと?」
「だって役人を爆破しようと襲ったって!
県庁を襲撃したって聞いたわよ!」
世にいう加波山事件である。
この時は栃木県庁の落成式に出席予定の、
政府高官を狙った未遂事件で終わったが、
農民が爆薬を作ったと言う事実は、世間に大きな衝撃を与えた。
その噂は各地に広まり
一気に反政府の勢いが高まったのは言うまでもなかった・・・・・。
「知らない・・・!そんな話・・・。誰も、そんな事・・・・・」
「志乃ちゃん?大丈夫?」
硬直した志乃の顔は見る見る蒼白になり、
口に手を当て次第に震えはじめた。
その目は何を見ているのか、瞬きもせず大きく見開いた瞳は
神社の池の、さらに遥か遠くを見ている様だった。
志乃の様子が急におかしくなり、
多江は妊娠特有の不安症状かと思ったが、あまりにも動揺し
興奮し出した志乃を見て、とても一人にしてはおけず、
志乃に付き添って高倉家まで肩を貸して送って行った。
まさか酒造屋の婿が、陸軍の、それも将校になって
鎮圧に赴いているなどと思いもしない多江は、
高倉家の玄関に入るなり倒れてしまった志乃を見て、
慌てて母のお勝に、神社での自分たちの会話をかいつまんで説明した。
するとお勝までもが青ざめた。
ただ事でない雰囲気に多江は戸惑ったが、
早々にお礼を言われて閉め出されてしまい、結局何も聞けなかった。
多江の中に残る、以前の志乃の印象は、明るく活発な性格だった。
どう見ても様子がおかしい事に多江は疑問に思いながらも、
なにも聞くことが出来ぬまま高倉家を後にした。




