真夜中の来訪者
その細田軍曹の一件以来、時々飢えて食料を盗みに来る農民に、
惣一朗は配給される米から、わずかだがにぎり飯を与えるようになった。
時々起こる暴動に出向いた時にも、出来るだけ農民たちに危害を加えぬよう
惣一朗は兵士達に厳重に守らせた。
そして捕らえた農民たちには、惣一朗自ら、
「もう少しの辛抱だから」と政府への不満を口にする農民たちをなだめ、
またにぎり飯を持たせて帰してやっていた。
そんな惣一朗のおかしな行動を、始めのうち兵士達は都会から来た、
何も知らないただの『優男』だの『色男』だのと陰でののしった。
どうせ長くは続かないだろうと、賭けをする者さえ出る始末だったが、
気が付けば着任してすでに一ヶ月が経ち、
二か月目に入ったある夜、事件は起こった。
かがり火を焚き、夜勤をしていた兵士が突然悲鳴を上げた。
眠っていた惣一朗は本陣から飛び起き、枕元の刀を手に外へ飛び出た。
そこには季節外れの、月の輪熊が居るではないか!
今夜は新月のせいか、こんな近くまで来ていたことに
誰も気が付かなかったのだ。
今年も凶作で、農民が山中深くに入り込み、野草も採り
小動物も狩り尽くしてしまったせいか、
食べ物を求めてこんな山里まで下りてきたのか。
熊も当然人間が怖い。
驚かさなければすぐに立ち去るのだが、
まずい事に突然暗がりから現れた熊に驚いた兵士が、
かがり火のたいまつを熊に投げつけ、怒らせてしまったのだ。
一人は背中を殴られて負傷し、たいまつを投げた兵士は
耳を鋭い爪で引き裂かれ、悲鳴を上げて地面に転がり、
そこら中は血だらけだった。
惣一朗が駆けつけた時、熊は怒りで立ち上がり
両腕を頭の上に高々と上げ、威嚇の姿勢をとっていた。
その目は夜だというのに燃えたぎるようにギラギラと反射して
辺りを物色するように見まわし、
体の奥に響く雷鳴の様な低い唸り声をあげていた。
兵士達はみな怯えて持っていた長銃を撃つことさえ忘れ、
じっと身を潜めて、熊が立ち去るのを待っているようだった。
惣一朗は狙いを定め、身を低くして熊の背後から一気に突っ込み、
その長刀で熊の左腕を一刀両断に切り落とした。
熊は突然の激痛で大きな唸り声をあげ、
左側を見たがすでに惣一朗の姿はなく、振り回した右腕も
手首とひじの間で、あっと言う間に切り落とされてしまった。
バランスを崩した熊は、そのまま手前にドスンっと倒れ込み、
うずくまる姿勢をとった。
惣一朗はすかさず熊のその首の根元に、とどめの一太刀を刺し込んだ。
それからはもう熊はピクリとも動かなくなり、
見る間に辺り一面は、血の海になっていった。
兵士達は何が起こったのか訳が解らないまま、
物陰に隠れてじっと息を殺していたが、急に辺りが静まりかえり、
目が暗闇に慣れた頃、黒い塊と化した熊の横で
刀を持って立っている若武者、
惣一朗を、皆がただ唖然と見つめた。
その緊迫した静寂を破ったのは、荒い息を吐きながらも言った、
惣一朗の一言だった。
「誰が、熊をさばける者はいるか?
熊鍋用にすぐに処理してくれないか」
この緊張感のない言葉に、我に返った兵士達はわぁっ!と
大声をあげて、一斉に熊と惣一朗を囲んで集まって来た。
この一件以来、惣一朗の圧倒的な強さを見た者は、
誰も『優男』などとは言わず、それどころか
『源義経』か『佐々木小次郎』の再来かと噂する者まで出てきた。
この若い惣一朗に皆、興味津々だったが、
赴任してから惣一朗はほとんど誰とも話さず、
見回りの時以外、姿も見せる事はなかった。
何故か惣一朗はいつも無表情で、
その端整な顔がまるで能面に見えるほどであった。
きっと細田であれば『死神』・・・・・とでも言ったであろう。
あまりに謎の多い惣一朗を、兵士たちは不思議に思っていたが、
今の惣一朗は自身でも気づかぬうちに、
杉田家で過ごしていた頃の、あの『杉田惣一朗』に戻っていたのだった。




