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福沢諭吉の思想


 細田は震えながら惣一朗を睨み付けていた。

 恐怖からではない、怒りからだった。


 細田は階級こそ惣一朗の下だが、れっきとした軍人であり、

軍歴は惣一朗よりはるかに上だ。


 怒りに震える細田は帯刀を抜き、

あろうことか惣一朗に向かって構えた。

 だが、その手はかすかだが小刻みに震えている。


「前指揮官が負傷しなければ、

貴様のような若造が来る場所ではないわ!」

「・・・・・私も、好きで来た訳ではありません。

ですが、私が指揮官となった以上、私の指示に従ってもらいます」


 その場の異様な空気に、誰もが凍りつき、誰も止める事すら出来ずに、

兵士や農民までもが固唾を飲んで二人を見つめた。


 細田は体格からしたら、惣一朗の倍はある大男だ。

きっと一太刀で惣一朗は斬られてしまうと誰もが思った。


 そうなれば、上官殺しでこの二十二隊団は、

全員でその責めを負うことになる。

 誰かが止めねば、・・・・・誰かが!


 だがそこに割って入る勇気のある者は、一人もいなかった。

 ・・・・・いや。声を発することさえ出来ぬほど、その場は緊迫していたのだ。

 

 その膠着状態にしびれを切らしたのは、細田のほうだった。


「ダァー!」と大きな声をあげ、惣一朗に向かって突進し、

その長い刀を振り上げた。


 誰もがもう駄目だ!と思った瞬間、振り下ろした刀を

惣一朗はひらりと紙一重で交わすと、

勢いづいて踏み込んで来た細田の足を、

横から引っ掛けて転ばせてしまったのだ。


 当然、両手を上げていた細田は顔面から勢いよく地面に激突し、

起き上がった時に鼻や額から血を流していた。

 

 惣一朗は、転んだ拍子に細田が手放した刀を拾い、

うつ伏せのまま顔を上げた細田の首筋に、その刀を当てた。


 細田は自分の横に迫るその鋭い刀先と、刀面に映る自分を見て、

ふいに我に返った。


「何か言い残す事は」


 惣一朗は静かに細田に問いかけた。


「わ、私は決して、その様なつもりは・・・・・」


 国に残してきた妻子の顔でもチラついたのか、

その巨体が身震いするほど狼狽しているのが明らかに判る。


 上官に歯向かい、尚かつ刃を向けたと本部に知れれば、即厳罰。

退役だけで済む話ではない。


「細田軍曹、明日にでも他の隊に移動してもらいます」

「私の・・・、処罰は・・・・・?」


「ありません・・・」

 惣一朗はそれだけ言うと、細田の刀をその場に突き刺し、

細田にくるりと背中を向けて岡部の方を見た。


「岡部軍曹、本陣に案内してください」


 愕然としている細田を一人残し、

惣一朗は岡部に連れられ本陣の方へ消えて行った。


 惣一朗は岡部の背中にためらいがあるのを感じ取ったが、

細田のような兵士やそれを止めない、軍組織の実情をまざまざと知り、

ポツリと独り言を言った。


「・・・・・先生の抱く理想は、ここでは夢物語のようですよ・・・・・」


「何かおっしゃいましたか?」

岡部が振り向き、惣一朗に尋ねた。


「いえ、何も・・・・・」


 惣一朗は以前、福沢諭吉が唱えていた

『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず・・・』の

『学問のすすめ』の一文を思い出していた。


 あれは学問や政治を説いたものだと言う者がいるが、

惣一朗は福沢が人間は広く平等であると常々言っていたのを知っていた。


 だが、今のこの状況かに於いて、これほど遠い理想、

手の届かない思想はない。

 この悲しい現実を前にして、

惣一朗は幼い日の自分を思い出さずにはいられなかった・・・・・。


 惣一朗が去った後、その場に居合わせたすべての者たちは、

一斉に安堵のため息をもらし、先ほどの惣一朗の動きの素早さを

口々に噂した。


 そして大男で威張り散らしていた細田を、

こうもやすやすと打ち負かした惣一朗の噂は、

瞬く間に全兵士の知るところとなり、

細田の居場所は、半日にして無くなってしまった。


 翌早朝、細田は他の隊へと移動して行った。


 これで二十二隊団の将校は、惣一朗と岡部の二人だけとなった。


 少し前までは江戸時代、切腹もあった時代である。

 問題は暴動を起こす農民側や政治だけではなく、

それに対応する個々の人間の心の狭さや、

気性の荒さにもある事を、惣一朗は初日で知る事となった。



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