思いがけない知らせ
惣一朗が出兵してから一ヶ月近くが経ち、
志乃は毎日のように泣き続け、泣くのを止めたかと思うと、
いつも惣一朗が座っていた縁側の椅子に座り、
魂が抜けた様にぼんやりと座り、庭を眺める日が続いた。
心配した母がいくら食事を勧めても、わずかに口にしては吐き、
志乃の体は日に日に衰弱していく一方だった。
そんな中、志乃の元へ一通の手紙が届いた。
・・・・・惣一朗からだった。
持ってきたお市が傍らで見守る中、
志乃は震える手で手紙を開いた。そこには・・・。
『元気になったかい?
また泣いてお母さん達を困らせてはいないだろうね?
君は泣き虫だから。
食事はちゃんと食べるんだよ。
赴任先が決まった。
栃木県足利郡吾妻村の二十二隊団だ。
暫くここに駐屯することになるだろう。
また手紙を書きます。
志乃、六年目の結婚記念日を一緒に出来なくて済まない、
帰ったら祝おう。
惣一朗 拝 』
志乃はまた涙が溢れたが、構わずその手紙を何度も何度も読み返した。
惣一朗は生きている、無事なのだ!
遠くに居ても、こうして志乃を見守っているような内容に、
志乃は微笑みさえ浮かべ手紙を胸に抱き、
はるか遠い栃木に居る惣一朗を想った。
惣一朗さん・・・、ああ・・・・・会いたい・・・・。
栃木県は以前、蒸気船で行ったところだ。
行けない距離ではない。
もしかすると父の重蔵に頼めば、栃木方面の取引先に
一緒に連れて行ってもらえるかもしれない。
そう思うと急に希望が見え始め、力が湧いてきた気がした。
そうよ!こんなに弱っていたら、長旅には耐えられないわ!
志乃は気弱になっていた自分を奮い立たせ、
隣で涙ぐむお市に頼み、食事を用意してもらった。
だがしばらく何も食べていなかったせいか、
何を食べても気持ちが悪くなり、すぐに吐き出してしまった。
元気になったはずの志乃の異変に、真っ先に気が付いたのは
母のお勝だった。
もしやと思い、すぐに掛かり付けの菅原医師を呼んで
志乃を診てもらった。
菅原医師は数々の病人を救ってきた、政界財界にも通じた名医であり、
芳乃の出産の折にも大変世話になった、高倉家の古い知人であった。
志乃を診察し終えた菅原医師は、少し困った顔で軽い鼻息を吐き、
だか顎鬚をなでながら嬉しそうに言った。
「だいぶ体は弱っておるが大丈夫じゃろう。母子ともに元気じゃよ」
菅原の言葉を受けて思わずお勝が叫んだ。
「やっぱり!」
どういう意味か解らない顔をしている志乃に、
母は大声を張り上げてまくし立てた。
「志乃!お前、お腹に子供がいるのよ!惣さんの子よ!
もうっお前って子は、いつまでも心配ばかりさせて・・・・・」
あまりにも唐突する言葉に、声を詰まらせている志乃に、菅原医師は
「志乃ちゃん、気が付いていなかったのかね?
もう四ヶ月は過ぎとるんじゃないか?全然食べとらんのだろう?
腹が目立たなくとも月のモノはずっときていなかったはずだよ」
言われてみて、そう言えば・・・・・と、思い出すくらい、
志乃は自分の事にまったく無頓着になっていた。
そんな志乃を見ながら菅原は笑って言った。
「変わっとらんなぁ志乃ちゃんは。
昔からしっかりしとるのかと思えば、どこか一本抜けとるしのう。
わははははっ!いやぁめでたい!
ようやく高倉家の初孫の誕生ですな、お勝さん!」
「ああ志乃!惣さんが、お前が淋しがらないようにって、こうして!
泣いている場合じゃないのよ!母親になるのよ!
惣さんの為にも子供の分までしっかり食べなさい!」
お勝は怒っているのか喜んでいるのか、
言いたい放題並べて嬉し泣きをしていた。
「赤ちゃん・・・、惣一朗さんと私の・・・・・」
志乃はまったく目立たない自分のお腹に手を当て、
まだなんの実感も湧かなかったが、とても不思議な気持ちになった。
・・・・・二月に産まれた芳乃の次女の百日祝いに、
惣一朗と一緒に行った時の事をふと思い出した。
・・・・・白くて小さくてかわいい女の子だった。
その赤ちゃんに芳乃がお乳をあげているのを、
長女が嬉しそうに横から眺めていた。
・・・・・まるで遠い昔、芳乃と志乃がそうであったような光景だった。
いつか志乃と惣一朗にもそんな幸せな日が来るのだと、
帰り道に二人で語り合ったのを思い出しながら、
志乃はしばらくぼんやりとしていた。
事情を知らない菅原医師は、そんな志乃を見て微笑み、
お勝に栄養の付くものを毎日欠かさず食べさせることを指示し、
何より毎日を穏やかに過ごすように言って帰って行った。
思いがけない知らせに、重蔵も店の奉公人達も皆大喜びし、
惣一朗が居なくなってから火が消えた様な店にも、やっと活気が戻った。
そして吉報は、遠路を数日置きに高倉家に、
志乃を訪ねに来ていた芳乃にも伝えられた。
芳乃が何度訪ねて来ようとも、決して会おうとしない志乃だったが、
子供が授かった事で許したわけではないが、姉の気持ちも少し・・・・・
ほんの少しだけ分かる気がした。
夫の為にそうまでして、私に恨まれると分かっていて・・・・・
お姉さん・・・・・。
諏訪は許す気にはなれなかったが、
芳乃の痛々しいほどの志乃への気遣いは、遠目から見ても哀れなほどだった。
その芳乃が、そっと離れの扉を開けてその入り口に立ち、
志乃に向かって声を掛けた。
「志乃ちゃん・・・。赤ちゃん、授かったのね。
・・・・・私が言えた義理じゃないけれど、本当に良かったわ、おめでとう」
志乃は返事を返すことなく、縁側に置かれた『惣一朗の椅子』に座り、
入り口とは反対の庭の方を向いていた。
芳乃はそんな志乃を見て、いたたまれずに小さな声で言った。
「それじゃあ・・・、また来るわね。赤ちゃんの分も体をいたわってね・・・・・」
「・・・・・待ってお姉さん」
志乃は振り向き、惣一朗がいつも志乃にするように、
芳乃に手招きをした。
芳乃はハッと顔をあげて小走りに志乃に近づき、
その膝にすがるようにしゃがむと、わあっと泣き崩れてしまった。
志乃がこんな子供みたいな姉を見たのは産まれて初めてで、
志乃は動揺を隠せなかった。
いつも優雅な物腰で、その仕草の全てに憧れた、五歳違いの姉・・・・・。
自慢の姉がこんな姿で泣くなんて・・・・・。
「ごめんなさい・・・・・、志乃ちゃん、ごめんなさい・・・・・」
芳乃はその美しい顔が歪むほどに泣き、
ひたすら謝罪の言葉を繰り返しながら、志乃に頭を下げ続けた。
姉も苦しんでいたのだ・・・。
やはり私は、まだ子供なのかもしれない・・・・・。
「お姉さん。私、お義兄さんは許せないけど、お姉さんは恨んでないわ。
私もお姉さんと同じ立場だったら、同じことを言ったかもしれないもの・・・・・」
「志乃ちゃん、そんな・・・・・そんな事・・・・・」
「もう謝らないで。私達、二人きりの姉妹じゃない。
これからもずっと、ね」
「・・・・・ありがとう志乃ちゃん、ありがとう・・・・・」
芳乃の手を取った志乃は少し驚いた。
あれほど美しかった姉の手は、ガサガサしていて、
志乃の知っている手ではとうになくなっていたのだ。
目の前に居る芳乃も、どれ程の苦労と辛さを味わってきたのか、
自分だけが何も知らなかったのだと、
改めて思い知らされた日でもあった・・・・・。




