約束
ふと気が付くと、志乃はいつもの自分たちの部屋の布団の中にいた。
体が異様にだるく、頭もズキズキと傷んだ。
惣一朗の夢を見た気がした・・・。
一緒に風呂に入り、髪をとかしてもらい、食事をして、一緒に眠った・・・。
とても幸せな夢・・・・・。
志乃はハッと大きく目を見開き、一瞬動きが止まったかと思うと、
一気に布団から飛び起きた!
違う!違う!夢ではない!自分は納戸に閉じ籠っていた!
惣一朗は帰って来たのだ!
我に返った志乃は辺りを見回すと、
隣に寝ていたはずの惣一朗の姿はすでになく、
布団はきちんとたたまれており、しかも惣一朗の私物までもが、
綺麗に整理されていた。
そしていつも衣紋掛けに掛けているはずの惣一朗の軍服が、
どこにも見当たらない!
まさか・・・・・?そんな!うそよっ!
志乃は寝間着の浴衣のまま離れの部屋を飛び出し、
母屋の玄関へと駆けだした。
だが病み上がりの体は思うように動かず、足がもつれてもどかしい。
壁にからだを打ちつけながら何度も倒れ、
それでも志乃は一心に玄関に向かって走った。
『いや!いやよ!惣一朗さん!』
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「本当に志乃に黙って行ってしまうの?」
「・・・会ったら、顔を見たら別れが辛くなります。
お義母さん、志乃を頼みます」
高倉家の玄関内では重蔵とお勝、芳乃や沢山の奉公人達が、
惣一朗と別れの挨拶を交わしていた。
そして惣一朗を迎えに来た陸軍の将校が、それが済むのを黙って待っていた。
「君を誇りに思うぞ、惣一朗君」
「はい。高倉の名に恥じないように努めてまいります。お義父さん」
「惣一朗さん、ごめんなさい、ごめんなさい・・・・・」
芳乃は早朝だというのに自責の念からか、
人力車を走らせて、見送りに来ていた。
そして惣一朗に何度も頭を下げては、涙を流しながら謝罪の言葉を述べていた。
「お義姉さんのせいじゃありません。自分で決めた事です・・・」
そう自分に言い聞かせるつもりで口にしたが、
惣一朗は芳乃の顔を、まともに見る事が出来なかった。
その時、渡り廊下の向こうから、志乃が走って来るのが見えた。
よろめきながら、必死に惣一朗の元へ駆け寄ろうとするその姿に、
皆が一瞬言葉を失い、お勝は息が止まるほどの衝撃を受けた。
たまらずその場に居た全員に、外へ出るように促し、傍にいた将校にも懇願した。
「あの、少し時間を・・・。あなた、みんな、外へ・・・将校様お願いします」
皆、ぞろぞろと玄関の外へと出て行き、
中には惣一朗が一人、立たずんでいた。
ようやく志乃は玄関にたどり着き、力尽きて倒れそうな体を、
惣一朗に抱き止められた。
志乃は荒い息を整える間もないまま、惣一朗の軍服をつかみ、
激しく引っ張りながら叫んだ。
「どうして?いやよ!行かないって言ったわ!嘘つき!」
惣一朗は無言のまま、ただ志乃を強く抱きしめるだけで、
石のように動かなかった。
志乃は尚もその腕の中でもがき、軍服をわし掴みにし、
惣一朗を叩いてなじった。
「行かないで!いやよ!いやぁ!」
あれほど泣いたのに枯れる事を知らないのか、
志乃の瞳からは涙が、まるで滝のように流れ落ち、惣一朗の軍服を濡らした。
もはや志乃は抑えられない激情で、悲鳴ともつかない叫び声をあげていた。
「志乃・・・、大丈夫、死にに行くわけじゃない」
「それでもいや!そんな事分からないじゃない!お願い一人にしないで!」
「君に泣かれるのが一番つらい」
「だったら行かないで!」
「・・・・・君を愛している」
「だったら行かないでぇ!」
志乃は半狂乱になって惣一朗を責めつづけ、軍服を強く握りしめて、
決して離さないと言っているかの様に、惣一朗の胸に頭を埋めた。
惣一朗は抱きしめていた両手を、志乃の背中からほどくと、
志乃の頬を両手で包み、顔を上げさせた。
その必死な顔・・・・・。
ぼろぼろに泣き崩れた顔で、自分を一心に見つめる瞳。
志乃の変わらぬ自分への想いを受け止めた惣一朗は、
不意に口づけをした。
それは強く、息が止まるかと思うほど力強い口づけは、
志乃の動きを一瞬、鈍らせた。
瞬間、惣一朗は両手で一気に志乃を自分から突き放すと、
覚悟を決めた様に立ち上がり、志乃に背を向けた。
そして、その背中越しに一言だけ、
「行ってきます。必ず戻ってくる。待っていてくれ」
それだけ言うと、惣一朗は振り向くことなく玄関の扉を開け、
静かに閉めた。
残され、がく然とした表情をしたまま動けない志乃は、
ただうめき声をあげて、その場にうずくまってしまった。
『・・・・・行ってしまった・・・、引き留められなかった・・・。
どうして・・・・・?どうして・・・・・?』
それだけが志乃の頭の中を駆け巡り、固く閉ざされた玄関に、
もはや追いかけても、すがりついて何を言っても無駄なのだと、
拒絶された理由も分からぬまま、惣一朗の残像が木霊して、
志乃に何度もそう訴えかけているようだった・・・・・。
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高倉家の門の外では、早朝から数人の将校らが、
忙しく出入りするのを見掛けた近所の人々が、何事かと
次第に高倉家に集まり始めていた。
惣一朗が外に出た時には噂を聞きつけた群衆が、
一目、惣一朗の晴れ姿を見ようと大勢集まっていた。
惣一朗は異例ともいえる『少尉』の階級を与えられ、
その左胸と両肩にそれを示す勲章が、志乃の涙と一緒に輝いていた。
惣一朗は自身の表情を隠すかの様に、帽子を目深にかぶり馬にまたがった。
何も知らない沿道の人々の万歳三唱を受けながら、
惣一朗は無言のまま高倉家を後に出兵して行った。
・・・・・遠のく意識の中で、志乃の耳には沿道の歓声は
まるで『死』への行進曲の如く鳴り響き、
遠ざかって行く馬のひづめの音に惣一朗を想い、
志乃はそのまま気を失ってしまった・・・・・。




