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約束 


 ふと気が付くと、志乃はいつもの自分たちの部屋の布団の中にいた。

体が異様にだるく、頭もズキズキと傷んだ。


 惣一朗の夢を見た気がした・・・。

一緒に風呂に入り、髪をとかしてもらい、食事をして、一緒に眠った・・・。

とても幸せな夢・・・・・。 


 志乃はハッと大きく目を見開き、一瞬動きが止まったかと思うと、

一気に布団から飛び起きた!


違う!違う!夢ではない!自分は納戸に閉じ籠っていた!

惣一朗は帰って来たのだ!


 我に返った志乃は辺りを見回すと、

隣に寝ていたはずの惣一朗の姿はすでになく、

布団はきちんとたたまれており、しかも惣一朗の私物までもが、

綺麗に整理されていた。


 そしていつも衣紋掛けに掛けているはずの惣一朗の軍服が、

どこにも見当たらない!


まさか・・・・・?そんな!うそよっ!


 志乃は寝間着の浴衣のまま離れの部屋を飛び出し、

母屋の玄関へと駆けだした。


だが病み上がりの体は思うように動かず、足がもつれてもどかしい。

 壁にからだを打ちつけながら何度も倒れ、

それでも志乃は一心に玄関に向かって走った。


『いや!いやよ!惣一朗さん!』


***************************


「本当に志乃に黙って行ってしまうの?」


「・・・会ったら、顔を見たら別れが辛くなります。

お義母さん、志乃を頼みます」


 高倉家の玄関内では重蔵とお勝、芳乃や沢山の奉公人達が、

惣一朗と別れの挨拶を交わしていた。

そして惣一朗を迎えに来た陸軍の将校が、それが済むのを黙って待っていた。


「君を誇りに思うぞ、惣一朗君」

「はい。高倉の名に恥じないように努めてまいります。お義父さん」


「惣一朗さん、ごめんなさい、ごめんなさい・・・・・」


 芳乃は早朝だというのに自責の念からか、

人力車を走らせて、見送りに来ていた。

 そして惣一朗に何度も頭を下げては、涙を流しながら謝罪の言葉を述べていた。


「お義姉さんのせいじゃありません。自分で決めた事です・・・」


 そう自分に言い聞かせるつもりで口にしたが、

惣一朗は芳乃の顔を、まともに見る事が出来なかった。



 その時、渡り廊下の向こうから、志乃が走って来るのが見えた。


 よろめきながら、必死に惣一朗の元へ駆け寄ろうとするその姿に、

皆が一瞬言葉を失い、お勝は息が止まるほどの衝撃を受けた。

 たまらずその場に居た全員に、外へ出るように促し、傍にいた将校にも懇願した。


「あの、少し時間を・・・。あなた、みんな、外へ・・・将校様お願いします」


 皆、ぞろぞろと玄関の外へと出て行き、

中には惣一朗が一人、立たずんでいた。


 ようやく志乃は玄関にたどり着き、力尽きて倒れそうな体を、

惣一朗に抱き止められた。


 志乃は荒い息を整える間もないまま、惣一朗の軍服をつかみ、

激しく引っ張りながら叫んだ。


「どうして?いやよ!行かないって言ったわ!嘘つき!」


 惣一朗は無言のまま、ただ志乃を強く抱きしめるだけで、

石のように動かなかった。


 志乃は尚もその腕の中でもがき、軍服をわし掴みにし、

惣一朗を叩いてなじった。


「行かないで!いやよ!いやぁ!」


 あれほど泣いたのに枯れる事を知らないのか、

志乃の瞳からは涙が、まるで滝のように流れ落ち、惣一朗の軍服を濡らした。


もはや志乃は抑えられない激情で、悲鳴ともつかない叫び声をあげていた。


「志乃・・・、大丈夫、死にに行くわけじゃない」

「それでもいや!そんな事分からないじゃない!お願い一人にしないで!」

「君に泣かれるのが一番つらい」

「だったら行かないで!」


「・・・・・君を愛している」

「だったら行かないでぇ!」


 志乃は半狂乱になって惣一朗を責めつづけ、軍服を強く握りしめて、

決して離さないと言っているかの様に、惣一朗の胸に頭を埋めた。


 惣一朗は抱きしめていた両手を、志乃の背中からほどくと、

志乃の頬を両手で包み、顔を上げさせた。


 その必死な顔・・・・・。

 ぼろぼろに泣き崩れた顔で、自分を一心に見つめる瞳。


 志乃の変わらぬ自分への想いを受け止めた惣一朗は、

不意に口づけをした。


 それは強く、息が止まるかと思うほど力強い口づけは、

志乃の動きを一瞬、鈍らせた。


 瞬間、惣一朗は両手で一気に志乃を自分から突き放すと、

覚悟を決めた様に立ち上がり、志乃に背を向けた。


そして、その背中越しに一言だけ、


「行ってきます。必ず戻ってくる。待っていてくれ」


 それだけ言うと、惣一朗は振り向くことなく玄関の扉を開け、

静かに閉めた。


 残され、がく然とした表情をしたまま動けない志乃は、

ただうめき声をあげて、その場にうずくまってしまった。


『・・・・・行ってしまった・・・、引き留められなかった・・・。

 どうして・・・・・?どうして・・・・・?』


 それだけが志乃の頭の中を駆け巡り、固く閉ざされた玄関に、

もはや追いかけても、すがりついて何を言っても無駄なのだと、

拒絶された理由も分からぬまま、惣一朗の残像が木霊して、

志乃に何度もそう訴えかけているようだった・・・・・。


*****************************

 

 高倉家の門の外では、早朝から数人の将校らが、

忙しく出入りするのを見掛けた近所の人々が、何事かと

次第に高倉家に集まり始めていた。


 惣一朗が外に出た時には噂を聞きつけた群衆が、

一目、惣一朗の晴れ姿を見ようと大勢集まっていた。


 惣一朗は異例ともいえる『少尉』の階級を与えられ、

その左胸と両肩にそれを示す勲章が、志乃の涙と一緒に輝いていた。


 惣一朗は自身の表情を隠すかの様に、帽子を目深にかぶり馬にまたがった。


 何も知らない沿道の人々の万歳三唱を受けながら、

惣一朗は無言のまま高倉家を後に出兵して行った。


・・・・・遠のく意識の中で、志乃の耳には沿道の歓声は

まるで『死』への行進曲の如く鳴り響き、

遠ざかって行く馬のひづめの音に惣一朗を想い、

志乃はそのまま気を失ってしまった・・・・・。

      


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