15歳の秘め事
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志乃が自分を取り戻したのは、それから数刻経ってからだろうか。
通りすがりの老人に「娘さんどうしなさった」と声を掛けられた。
我に返った志乃は、小箱を握る手の感覚が無くなっている事に気が付いた。
志乃は帰るとすぐに自分の部屋に閉じ籠り、机に向かって本を広げた。
帰って来た時の志乃の形相に驚いたお市が心配して母のお勝を呼んだ。お勝は志乃の部屋に柿を持って様子を見にきたが、志乃は窓際に置いてある机に向かい、母の方には振り向かずに「ありがとう」と言って、そのまま本を読んでいるようだった。
母はいつもと変わらない娘の本への熱中ぶりに、特に気にすることなく、近くの棚に柿を置いて部屋から出て行ってしまった。
本を広げてはいたが、活字など目に入っていなかった。志乃の頭の中はひどく混乱していた。
あれは一体何だったのか。自分は何を見たのか・・・・・。
もし「あの人」なら、一緒に居たのは・・・・・・誰?
そもそも志乃は、今日の今まで、「あの人」の事を何も知らない事に、ようやく気が付いた。
名前も齢も住んでいる場所も、声さえまともに聞いたことが無い相手・・・・・。
それなのに、相手の女性を『誰?』なんて聞く権利は志乃にはない。
考えただけで急に胸が苦しくて息が詰まりそうになった。
志乃は自分を落ち着かせようと自分の胸に手を当て、机に頭を乗せて深呼吸をしてみた。息を吸えば吸うほど胸の苦しさは痛みに変わり、刺されるような感覚が襲ってきた。
驚いた志乃は初めての痛さに部屋を飛び出し、母のいる帳場に飛び込んで行った。突然入って来た娘に驚いた母のお勝は、珍しく弾いていたそろばんを間違えてしまった。焦った様子の志乃を見て、お勝は
「どうしたんだい?血相を変えて?」と怪訝そうに志乃を見た。志乃は何と言っていいのか分からず、口ごもっているうちに、胸の痛みが消えていることに気が付いた。
「あのね、さっきまで胸がすごく痛かったの・・・・・・。
でもお母さんの顔を見たら急に治ったわ・・・。なんだったのかしら・・・」
「胸?まさか結核じゃないだろうね?咳は出るの?口の中で血の味がするかい?」
お勝は急いで立ち上がり、志乃のおでこに手を当てた。志乃は母を押しのけて首を振り、
「そういうのではないと思うの」と言って、「考え事をしていたら急に胸が痛くなったの」と付け加えた。
お勝は志乃の顔をしげしげと見つめ「心配事かい?」と尋ねてきた。
心配事と言えば、心配事だ。
「心と体はつながっているんだよ。人ってのは不思議なものでね、心配や不安な事があると、突然声が出なくなったり、歩けなくなる人もいるんだよ。私なんてお前の事を考えると心配で胸が痛くなるなんて、しょっちゅうだよ」
そう言うと、笑って背中をなでてくれた。
「何かあったのなら話してごらん。学校でまた年上の生徒に嫌味でも言われたのかい?」
母のお勝は皮肉屋だが、いつも志乃に優しく接してくれる一番の良き理解者だった。日々成長する娘を気遣いつつ、毎日心配しながら学校に送り出していた。
志乃は些細な事まで何でも母に話していたが、「あの人」の事だけは、誰にも言わず自分だけの秘密にしていた。そう、大切な宝物のように・・・・・・。
「うん・・・、色々あったけど、治ったからもう大丈夫かな。えへへっ、心配かけてごめんなさい。お仕事の邪魔しちゃった」
「いいのよ、もうすぐ夕飯の時間でしょう。一区切りつけるつもりだったから」
そう言うとお勝は帳面をしまい始めた。
志乃も自分がまだ袴姿だった事に気が付き、部屋に戻ると着替えて茶の間に行き、夕食を頂いた。今日は大好きな秋刀魚の塩焼きに、お市の作ったぶり大根は絶妙な味付けでとても美味しかった。
お腹が満たされると、人間は幸せな気持ちになるものだ。もちろん志乃も例外ではない。
夕食を済ませて部屋に戻った志乃は、布団に潜り込みランプの灯りの下で本を広げていた。
特に読むわけではない、昔から本を広げていると何故か心が落ち着くからだ。
志乃は冷静に、自分自身に問い掛けてみた。
今日で三日間、「あの人」を見ていない。
それだけでこんなにも落ち着かず、学校でも何も集中できなかった。
そして今日「あの人」かもしれないと思っただけで、こんなにも動揺してしまった自分に驚いた。
赤坂先生の事の方が本当なら衝撃的な事件なのかもしれない。
でも志乃の頭は「あの人」はどうしたのかでいっぱいだった。
こんなことなら、このままもう道場に通わない方がいいのかもしれないとも思った。せっかく学校に通っているのに、全然授業に身が入らない自分に正直いらだちを覚え、このままでは本当に困った事になるかもしれない。
どうせ、何も知らない赤の他人、このまま忘れてしまえばいいだけのこと・・・・・・。そう思った途端、志乃の脳裏に何故か稽古に励む「あの人」の姿が浮かんだ。
何度も見た、竹刀を握る凛々しい構え。心の奥を射抜くような鋭い眼差し。
すり足で相手に詰め寄っていても、けして体が揺れない足運びはとても美しかった。
「あの人」はいつも雨戸近くで稽古をしているので、額から飛び散る汗が光に反射して、志乃には「あの人」が輝いている様に見えた。
忘れようと思えば思うほど、鮮明に思い出すあの姿は、すでに志乃の瞼に焼き付いていた。
「・・・・・・忘れるなんて、出来ない・・・・・・。」
志乃の胸はまたチクリと痛みが走り、今日で何度目かの息苦しさが襲った。
元々深く考えるより『思い立ったが吉日』の志乃にとって、この数日は今まで経験したことが無いほど悩ましい出来事の連続だった。
思慮深いお嬢様ではない志乃に、自分を見つめて深く考えろと言う方が土台無理な話なのだ。
忘れようと思ってもこんなに胸が傷むのなら、無理に忘れる必要もないのかな・・・・・・。
そう思い当たった頃、昨日あまり寝ていなかったのが幸いしたのか、志乃はすでに眠りの中に落ちていた。
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翌日、いつも通り早朝から家を出た志乃は、いつものように学校の前に道場に向かった。もし、今日見る事が出来なかったら、今日で四日目。あの人は「道場を辞めた」と諦めて、志乃はもう二度と道場に通うのを止めようと心に決めていた。
いつもの脇道を抜けて行くと、竹刀の打ち合う音がはっきりと聞こえてきた。
竹林を進んでいくと次第に掛け声も聞こえてきた。
歩いていると何処からか太鼓か鼓のなる音がする・・・!と思ったら、志乃の心臓の鼓動が耳まで届く程、激しく打ちつけていた。
いつになく自分が緊張しているのだと分った。
こんなことは志乃にとって初めてだった。
初めて過ぎて、息の吸い方も分からなくなって咳込んでしまった。
いつも覗いている垣根から、そっと道場を見てみた。普段は雨戸近くにいるはずの「あの人」は・・・・・・、居ない?
不安が心を過ぎる。どうしよう・・・・・!
そう思った時、「遅くなりました」とかすかな声と共に、「あの人」が道場に入って来た。居た!今日は来たんだわ!
その瞬間、志乃の中で何かがパッと弾けて、心が満たされていくのが分った。自分の体がこんなにも喜んでいる。嬉しい!
たった一目見るだけで、こんなにも幸せな気持ちになれるのなら、無理に忘れなくてもいいのだと、この瞬間、幼い志乃はそう心に決めることにした。
名前なんて知らなくてもいい。あの女の人が誰でもいい。
自分にとって「あの人」が、こんなにも心を奮い立たせて幸せな気持ちをくれる。
自分にとって大切な存在でいてくれるだけで十分なのだと、小さな胸に手を当てて、神様にお礼とお願いをした。
神様、ここにお導き下さりありがとうございます。そしていつまでも、いつまで、こうして「あの人」を見ていられますように・・・・・・。
そして今日も元気になった志乃は女学校への道に戻って行った。




