表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/61

そして、別れの夜


 志乃が納戸に閉じこもってから三日目の夕方、

疲れ切った表情を浮かべた惣一朗が、高倉家の玄関を開けた。


 玄関の戸を開けるなり、お市が悲鳴にも似た声をあげてお勝を呼び、

すぐにお勝が血相を変えて部屋から飛び出して、

玄関に立つ惣一朗にしがみついて叫んだ。


「惣さん!ああっ帰って来てくれてよかった!

もうどうしたらいいのかと・・・!」

「どうしたんですか?何かあったんですか?」


「志乃がもう、三日も納戸に閉じこもったまま、出てこないの!」


 いつも毅然としたお勝が、明らかに動揺し取り乱しているのを見て、

ただならぬ事態が起こったことを直感した惣一朗は、お勝に尋ねた。


「・・・志乃は、知ってしまったんですか?・・・お義母さんも・・・?」


「・・・ええ。三日前、惣さんが出かけた後に芳乃が来て・・・、

話を聞かれてしまったの・・・」

「・・・・・そうですか・・・・・」


 一瞬、険しい表情を浮かべた惣一朗を見たお勝は、

ためらいがちに申し訳なさそうに惣一朗に謝ったが、惣一朗はすぐに、

何事もない素振りをして笑って返した。


 惣一朗は納戸の前に行き、いつもの様に優しい声で志乃に話しかけた。


「ただいま、志乃。遅くなったね。出て来て顔を見せて」


 返事がないまましばらくの沈黙のあと、

「カタン」とゆっくり閂の外れる音がした。


 惣一朗がそっと扉を開けると、入れ口近くにうつ伏せに倒れている

志乃を見付けた。

 惣一朗は急いで志乃を抱き起し、何度も呼び掛けるも、

うめき声は上げるが、志乃の意識ははっきりしない様子だった。


 季節は初夏、納戸に閉じこもっていた志乃は、

軽い脱水症を起こしているようだった。


「志乃!志乃!」


 惣一朗は必死に志乃に呼び掛け続けた。

やがて志乃はうっすらと目を開き、惣一朗の顔に、弱々しく手を伸ばした。


「そう・・・いち・・・ろ・・・さん」


うっすらと開かれた瞳が、真っ赤に染まっているの見え、

惣一朗の胸を熱く締めつけた。


「志乃・・・!」


 惣一朗は志乃を強く抱きしめ、そのまま抱き上げた。

 軽い・・・・・。


 三日も飲まず食わずで、自分を待ち続けていたのか・・・・・。


 そう思っただけで惣一朗は、このまま志乃を連れて、

逃げてしまいたい衝動に駆られたが、それを必死で抑え、

志乃を自分達の部屋へと運び、二人きりにしてほしいとお勝に頼んだ。


そして志乃を抱えたまま、一さじずつ彼女の口に水を含ませ、

志乃が目を覚ますのを待った。


 朦朧とした意識の中、志乃はようやく目を開き、惣一朗を見た。

 いつもと変わらない優しい眼差しを向けて、自分を覗き込むように見ていた。


(これは夢?まぼろしだろうか・・・。でも温かい・・・)


「惣一朗さん・・・」

「そうだよ」

「惣一朗さん・・・行かないで・・・・・」

「どこにも行かないよ」

「これは夢?・・・また消えて・・・居なくなってしまうの?」

「夢なんかじゃないよ。ほら、触ってごらん」


 そのまぼろしのような惣一朗は、志乃の問いに全て返事をし、

全てを否定し、ずっとここに居ると何度も繰り返し答えてくれた。


 意識のはっきりしない、志乃との途切れ途切れの会話が、

数十分は続いただろうか。

 よほど泣いたのか、目の下は腫れ、頬には涙の痕がシワのように残り痛々しい。

 髪の毛も涙で所々が塊になっていた。


 呼吸が安定した様子を見て、惣一朗はまた志乃を抱き上げると、

風呂に連れて行き一緒に入り、彼女を洗ってあげた。


 志乃の長い黒髪が、湯船の中で花のように広がってゆく・・・・・。


 惣一朗にもたれたまま、志乃はそれをぼんやりと見つめ、

そのまま身を委ねていた。


 風呂から上がると、惣一朗は志乃に浴衣を着せて髪を拭き、

いつも志乃が使っている琥珀の櫛を取ると、

その一本一本を愛おしむように、優しくとかし始めた。


 そして一緒に置いてあったハサミで髪のひと房を切り取り、

そっと部屋の隅に隠した。


「綺麗な髪だね・・・」

そう言うと、惣一朗はまた優しく髪をとかし続けた。


 風呂から戻ると、部屋には二人分の夕食の膳が用意されてあった。


「一緒に食べようか」

 そう言って惣一朗が縁側に膳を運んだ。

「私、何も食べたくない・・・・・」


 志乃はぼんやりと部屋の片隅に立ったまま、

ようやくまともに返事を返した。


「俺は腹が減ったな、一緒に食べてくれないの?おいで、志乃」


 惣一朗は縁側であぐらをかき、志乃に向かって微笑みながら手招きをした。

志乃はその言葉に逆らう事が出来ぬ人形の様に、フラフラと近づき、

惣一朗の隣に座った。


「じゃあ・・・・・、少しだけ・・・・・」


 膳の中にはお市特製の、大根の煮物が添えられてあった。

 志乃の為に食べやすく、柔らかい物を用意していたのだろう。

 惣一朗の隣に座った志乃は、その小鉢に入った煮物を見つめながら、

ポツリと言った。


「大根の煮物・・・。これを見るとあの夜を思い出すわ・・・・・」

「どんな夜?」

惣一朗は何気ないつもりで聞いてみた。


「惣一朗さんが徴兵されると、神保町の文具店主から聞いた日、

布団の中で泣き続けて、気が付いたら夜中になっていて・・・・・、

お腹が空いて台所に行ったら、・・・・・この大根の煮物と、

にぎり飯が置いてあったの」


 感情なく淡々と話す志乃を横で見ながら、惣一朗はゆっくりと、

それでいて優しい口調で答えた。


「そうか・・・、君にとって思い出の料理なんだね」


 そう言われた途端、志乃の瞳はみるみる涙で溢れ、

顔を手で覆いながら叫んだ。


「こんな思い出なんかいや!いらない!思い出したくない!」


 志乃はわぁっ!と縁側にうつ伏して、苦しそうにまた泣き出してしまった。


 惣一朗は慌てて志乃の背中をさすりながら、なきじゃくる志乃に、

必死で思いつく限りの言葉を掛けて慰め続けた。


「ごめん、俺が悪かった。そんなつもりで言ったんじゃない!

志乃、大丈夫だよ!悪い思い出なんかじゃないだろう?

そのお陰で俺は君と結婚できたんだろう?」


 惣一朗の言葉に、少し我に返った志乃は顔を上げて、

惣一朗の顔を見つめた。


「・・・・・明日も一緒にいてくれる?」

「大丈夫、仕事は片づけてきたよ」

「本当?どこにも行かない?」

「行かないよ、君のそばにいるよ」

「本当に?惣一朗さん・・・」


 惣一朗は志乃を抱きしめ、彼女が落ちつくまで、ずっとそうしてあげた。

 

 それから志乃は片時も惣一朗から離れようとせず、

また、惣一朗もそれを拒まなかった。


 その夜、疲れ果てた志乃の体は、まるで泥のように横たわり、

惣一朗の腕にしがみついたまま深い眠りについていた。


 惣一朗は自分の体を二つに分けて、なぜ半身をここに置いていけないのかと、

志乃の寝顔を見つめながら、そのやつれた頬をなで、

一晩中自分自身を呪い続けた。


・・・・・そして、朝は無情にもやってきてしまった。

 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ