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訪ねてきた 芳乃



 翌朝、珍しく重蔵が朝食の席にいた。

惣一朗は遅番の出勤だったので、四人揃っての食事は久しぶりである。


「惣一朗君、久しぶりだね、指南役の方はどうだね?」

「はい、今月で任期も終わり、やっと本腰を入れて家業に励めます」

「そうか、それは何より・・・・・。

後でわしの書斎に来てくれんか、少し話がある」

「はい」


「あら、珍しいわね。内緒話し?」

からかうように、お勝が重蔵に向かって言った。


 早々に食事を済ませた惣一朗は、重蔵の書斎へと向かった。

数十分後、これまで見た事もない硬い表情をした惣一朗が

書斎から出て行くのを、お勝は見逃さなかった。


 ただ事でない雰囲気に、すぐさまお勝は重蔵の書斎に入り、

惣一朗に何を言ったのか問いただしてみたが、

重蔵もまた険しい表情をしたまま、何も答えてはくれない。


 急いで玄関の方へ向かったが、

惣一朗はすでに陸軍へ出勤してしまった後だった。


 お勝は心穏やかではなかったが、惣一朗の帰りを待つよりほかはなかった。


 だがその日の夕方、何の前触れもなく志乃の姉、

芳乃が高倉家を訪ねて来た。


 嫁ぎ先は人力車で片道一時間もかかる為、

特別な集まりがある時以外は、滅多に実家に顔を見せる事が無い。

 なのにどうしたことかこんな時間に、

しかも子供たちも連れずに青い顔をしてやって来たのだ。


 家に入るなり「志乃は?」と聞いて来た。

 隣町に使いに出掛けていると話すと、芳乃は途端に安堵した表情をした。


  お勝はすぐに、今朝の重蔵と惣一朗に、何か関わりがあるのかと直感した。

 そしてそれは残酷なまでに、的中した。


*********************************


 芳乃は部屋に入るなり、わっと泣き出しながら、

諏訪の置かれている立場を話し始めた。


 芳乃がこの様に、赤裸々に感情を表にして話をするところなど、

母ですら見た事がない。それ程に、事態は切迫しているようだった。


 聞けば諏訪は一官僚ながらその手腕を買われ、

以前は大隈重信の派閥に属していたが、明治十四年の政変でその立場が一変し、

今は首の皮一枚でやっと繋がっている状態らしい。


 それを覆し、今や内閣を牛耳る伊藤博文らの信頼を得るためには、

各地で多発する暴動や一揆を鎮め、

政府内を安定される案を講じるのが、一番の功績につながる。


だが、諏訪は根っからの役人。

 政策を打ち出せと言われても何も手立てもなく、

さりとて地方に赴いてもなんの役にも立たない。


 岩倉具視や井上らの一派に、諏訪がもはや大隅派では無い事を証明せよ、

態度で示せと迫られ、あろうことか

親戚であり剣術指南役をしていた惣一朗の名を挙げ、

将校として鎮圧に出すとすでに約束してしまったというのだ!


 何と言う馬鹿げた話!何と言う身勝手な話だろう!


 お勝は諏訪に対して怒りをあらわにし、

知りうる限りの悪口雑言を並べ立てた。


 芳乃はそれでもなんとか惣一朗を鎮圧に出兵させて欲しいと

泣きながら哀願し、危険な場所には配属させないから、

ただそこに居てくれるだけでいいと、何度もお勝に頭を下げた。


 芳乃とて可愛い自分の娘だ。

 その頼みなら何でも聞いてやりたい。だがこればかりは事情が違う。


 一歩間違えれば死と隣り合わせの危険なところに

大切な高倉の跡取りを、志乃の大切な夫を送り出せる訳がない。


 お勝は芳乃と夢中で話しをしていて気が付かなかった。

居間の戸口に立つ人影に・・・・・。


 かすかな物音に驚いてたお勝は、戸口の方を振り向いた。

お勝は思わず生唾を飲み込み、そこに立つ志乃を見た。


 その顔は今朝がた見た惣一朗と同じく硬直し、

その顔面は蒼白していた・・・・・。


 お勝はとっさに立ち上がったが、言葉が出てこなかった。

芳乃も驚き、泣き止んで志乃を見た。

 志乃は黙ったまま、幽霊のように立っていた。


「・・・・・志乃、いつから、そこに?」

「・・・・・お姉さん、それ、本気で言っているの・・・・・?」

「志乃ちゃん・・・・・、ごめんなさい、ごめんなさい・・・・・」


 芳乃はただ泣き伏せて、志乃に謝り続けた。

お勝は慌てて志乃を安心させようとまくし立てた。


「大丈夫よ!志乃!行かせない!惣さんは絶対行かせないから!」

「当たり前よ!惣一朗さんは兵士じゃないよ?政治?そんなの知らない!

勝手に利用しないで!何でもかんでも押し付けないで!」


 志乃は狂ったように叫ぶと、扉を激しく閉めて離れに向かって走り出し、

納戸に閉じこもって中から閂をかけてしまった。


 慌てて追いかけた母や芳乃、お市たちが扉を叩くが、

いくら呼んでも、納戸からはなんの返事も返ってこなかった。



  ・・・・・閉じこもった志乃は、今さっき聞いた話の全てが信じられず、

ただ、愕然としていた・・・・・。


 あの優しい姉が!芳乃が!自分の夫の為に

惣一朗を暴動の渦中に放り出そうとするなんて!


 兵士でもないのに、ただの商人だというのに、

諏訪の保身の為だけに、惣一朗を危険な目にあわせようとするなんて!


 志乃は放心しながら夕暮れが差し込む納戸で、

芳乃の言葉を思い出し、身震いしていた。


『将校になったら家の誉れ、名誉・・・・・政治的立場・・・・・』


 そんな甘言まで使って、惣一朗を行かせようとした先ほどの姉は、

まるで見た事もない恐ろしい魔物に見えた。


 だいだい惣一朗はそんな事、一言も言っていなかった。

いつも通り一緒に眠り、朝を迎えて食事をし、

今月で指南役も終わると言って出勤して行った。


 そして今日もいつもの様に帰ってくる・・・・・、はずだった。


 だが惣一朗は帰ってこなかった。


 夕刻、高倉家に陸軍の使いの者が来て、

『二、三日、所用で兵舎に泊りになるので、帰れないが心配しないで欲しい』

と惣一朗の手紙を預かってきたのだ。


 お勝は納戸の前で、その手紙を読み上げて志乃に聞かせた。

 だが志乃からは何の返事も無く、

内側の閂もかけたまま出てこようとしなかった。


 そして初夏の暑さの中、志乃が閉じこもったまま三日が過ぎた夕方、

惣一朗が高倉家に帰って来た。



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