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諏訪の思惑

   


 その知らせは突然やって来た。

 惣一朗の退役はすでに今月末と決まっていた。


 偶然、剣の腕とその指導力を見込まれ、剣術指南役の陸軍の補佐として

一年間の約束が半年延期になり、兵士の指導を任されたに過ぎない役職。


 それも今月で終わり、やっと元の生活に戻れるはずだった。


 惣一朗はその日、いつものように早朝の兵舎で木刀の手入れをしていた。

そこへなんの前触れもなく、初めて諏訪がやって来た。


「惣一朗君、お早う。もうすぐ指南役も終わりだそうだね」

「お義兄さん?どうしたんですか?こんなところに」

「君に会って欲しい人がいてね、ちょっといいかな・・・」


 諏訪に、なかば強引に連れて行かれた先には、内閣府があった。

 惣一朗は入った事のない聖域、諏訪はここの役人である。

 門の前には守衛が両側に立ち、諏訪に向かって重々しく敬礼をした。


 朝だと言うのにこの建物は、来るものを拒むかのような威圧感をもって

そこに建っていた。


 重い扉を開けて中に入ると見事な調度品がいくつも並べられており、

絵画が所狭しと掲げられていた。


 広間には絨毯が敷かれていたが、ひんやりとした空気が漂い、

全く人の気配がしない。

 多くの官僚や護衛兵たちが居るはずだが、どこかで息をひそめているのか、

どこにも人影は見当たらず、ただ壁だけが延々と続いていた。


 この息苦しさ…、朝だと言うのにまるで墓場だ・・・・・。


 惣一朗は、ブーツの踵の音だけが異様に響く廊下を歩きながらそう思った。


 どれくらい歩いただろう・・・階段を何段か上がり、連れて行かれた先にある

重厚な扉の奥に、白髪の初老の男性が一人、座っていた。

 傍らには秘書らしき男が控えていた。


 座っている初老の男性は小柄だが、知的な印象を受けた。

だがまったく見覚えのない、知らない顔だった。


「君が諏訪君の言っていた青年かね?」


 ゆったりとだが、重みのある口調で、その人物は話しかけて来た。

「はい、彼なら十分に指揮官としても、また農民たちを説得できる

可能性を持っており、閣下のお役に立つと思われます」


 突然連れて行かれた場所で、急に自分の処遇について

話し出された惣一朗は困惑した。

その人物はそれを察したのか惣一朗の方を向き、短く聞いた。


「君は庶子の出だそうだね」


 惣一朗はその言葉に背筋が凍り、その場に釘付けになってしまった。


 あまりにも突然、自分の素性を諏訪の前で暴かれ、

惣一朗は返事よりも先に動揺して諏訪の方を見た。

 だが、諏訪は何事もない顔をして驚いた様子もなく、

その初老の人物を真っ直ぐ見ていた。


 惣一朗は視線を目の前の初老の人物に戻し、狼狽した心を落ち着かせ

「はい」と短く返事をした。


「構わん。有能であればすぐに階級を与え、手続きは後回しで良い」


 それだけ言うとその人物は下がれという意味だろうか、

手を上下に振った。諏訪は踵を返して扉の方を向き掛けたが、

惣一朗は嫌な胸騒ぎを覚えとっさに目の前の初老の人物に


「あの、何のお話しでしょうか?」

とだけ、かろうじて言う事ができた。


 その人物は机に両肘をつき、指を組んで

自分の顔をそこに埋める様にして静かに言った。


「・・・猶予は余りない。いい返事を期待している」


 それは丁寧だがとても威圧的で、

有無を言わさぬとすでに言っている様だった。


 惣一朗は諏訪と秘書らしき人物に促され、部屋の外に出された。

困惑している惣一朗に、諏訪は順を追って説明し始めた。


********************************


 明治初期、文明開化で賑わっていたいのは、東京や大阪などの

一部の大都市だけで、未だ他の地方都市は幕末の荒廃から立ち直れず、

貧しい暮らしをしていた。


 明治新政府の改革は余りにも性急で、国民生活の実情を無視し、

地租改正条例や徴兵制を公布し、経済的にも行き詰まっていた。


 また、新政府に不満を持つ士族のこぜり合いが九州方面では尚も続いており、

常に政局は不安定であった。


 そんな中、明治十四年の政変で、大隈重信派は破れ、

後の内閣総理大臣となる伊藤博文率いる岩倉具視、井上毅らからなる派閥が台頭し、

諏訪はもと大隅派の若手の一員であった。


 今は伊藤派に属する為に、一官僚が忠誠を見せるには、

確固たる証拠を示す必要があった。・・・・・・要するに派閥争いである。


 折しも当時、度重なる増税と不況にあえぐ農民の百姓一揆が

各地で頻繁に起こり、日本社会の経済構造を根元から激しい勢いで

変えようとしていた。

 

 後に日本を揺るがす事となる、東海大一揆や秩父事件がそれである。


 その為、大勢の憲兵や警官隊が暴動の鎮圧に各地へと駆り出されていた。

 だが、一度ついた不満や怒りの炎は鎮火することなく各地に拡散し、

とうとうフランスリオンの生糸取引所の大暴落により、

国内最大の繊維工場であった群馬県にある富岡製糸所までもが、

その大暴落の煽りをまともに受けて、そこで働く大勢の人々の生活を

一気に困窮へと落とし、結果的に地獄の様な大混乱を招く事となってしまったのは、

惣一朗も知っていた。


 惣一朗が剣術指南役として抜擢されたのも、そんな混沌とした時代故であった。

そして今、諏訪はその農民たちの鎮圧に、

惣一朗に将校として行って欲しいと言うのだ!


 惣一朗は耳を疑った、兵士でもない自分にもとより務まる訳がない。

 だが諏訪はほんの少しの間だけで、惣一朗がそこに居てくれるだけで、

元は大隅派だった自分が、今は伊藤派であると示す事が出来ると言う。


 親戚である惣一朗が居るだけで信用させられるのだと

繰り返し説明してきた。

 そして将校は決して前線には出る事は無く、危険はないと何度も念を押してきた。


・・・だが、先ほど諏訪の前であの人物は、惣一朗を『庶子』と呼んだ・・・・・。


 惣一朗はその言葉がどうしても頭から離れず、

この諏訪であれば、きっと汚いものでも見るように自分を見たであろうに、

それが全く意に介さずに話し続けている。


 もう惣一朗には諏訪の話はほとんど聞こえていなかった、

ただその目の奥にある真実を注意深く探ってみたが、

諏訪は用件だけ言い終えると「頼むよ」と少し疲れた様に言い残し、

再び内閣府の暗闇の中に消えて行った。


 今、自分に何が起こっているのか、惣一朗自身、何一つ理解が出来ぬまま、

初夏の太陽の下で一人ただずんでいた・・・・・。


**********************************


 一日の仕事が終わり、帰路を歩いていた惣一朗は、

今朝の悪夢のような出来事を、志乃や重蔵に話すべきがどうか悩んでいた。


 きっと将校としての地位を与えられると知れば、義父は喜ぶだろう・・・・・。


 断れば自分の出生が、世間に知れるかもしれない。

 そうなれば高倉家に迷惑がかかる。いや、諏訪も姻戚関係である以上、

そのような愚行はすまい。だが断るにしてもどうしたものか・・・。


 政界に疎い惣一朗では、悩むには限界があった。


 重い足取りで家路へと着いた惣一朗は、玄関の扉をためらいながら開けた。

 すると玄関の音を聞きつけて、パタパタと志乃の足音が近づいて来た。


「お帰りなさい!早かったのね」


 ああ、志乃・・・・・。

この愛おしい笑顔。


 鎮圧に行けば、ほんの少しの間では済まないだろう。

 半年・・・、いや一年は戻れないかもしれない。

 しかも人を殺すかもしれない場所に行くなど・・・・・。


 今や鴻池との取引も順調に進み、店の取引先も増えつつある矢先に、

危険を冒してまで、自分が行く必要があるのだろうか。

ましてやこの志乃を残して行くなど、惣一朗には到底考えられなかった。

 

 惣一朗の浮かない顔色に、すぐに気が付いた志乃は、

心配そうに声を掛けてきた。


「なんでもないよ。今日は暑かったから、少し疲れただけさ」

「そうね、急に暑くなってきたから。先に汗を流してきたら?お風呂湧いているわよ」

「たまには一緒に入ろうか」

「え?やだ、惣一朗さん・・・。でも、ふふっいいわ」


 そう言うと志乃は少し恥ずかしそうにしながらも、

嬉しそうに惣一朗の上着を受け取り、着替えを取りに離れへと向かった。


 志乃は本当に可愛い・・・。

 たとえ自分の素性が高倉の両親に知れたとしても、

きっと義両親は自分を受け入れてくれる。

 なぜか惣一朗はそれを確信していた。


 やはり明日、諏訪の元へ行き、兵士の訓練も受けていない一般人の自分に

務まる訳がないと、どうとでも言って納得してもらうしかない。


 何より自分は高倉の跡取り婿としての責任がある。

 ここを決して離れるわけにはいかないのだ。


 惣一朗は隣で眠る妻の寝顔を見つめながら、

きっぱりと断る決心をして眠りについた。



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