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陸軍からの通達



 年が明けて今日は一月三日。

あと三日で惣一朗の陸軍での任期が終わる。


 志乃はこの日をどれほど待ち続けたことか。

剣術指南役に着いてからというもの、律儀な惣一朗は陸軍から戻ると

すぐに家業に励み、休日は出来るだけ河野の道場へ行く。

 いつ起きて、寝ているのかさえ分からない日もあった。


 もう志乃の為に時間を割いてくれないのではと、

子供のようにだだをこねたくなる日さえあった。


 それでも志乃が惣一朗に会いたい一心で、毎晩待っていると、

「遅くなるので寝ていて欲しい」と再三言われてしまい、

志乃の淋しさもとうとう限界にきていた。


 そんなある日の夜、惣一朗の居ない寂しさで、泣きながら眠りについた日があった。

 夜中に温もりに気が付き、ふと目を覚ますと、自分を抱くようにして

傍らで惣一朗が眠っていた。きっと志乃の泣いた顔に気付いたのだろう。


 志乃は惣一朗の顔を見るとそのまま安心して眠りについた。

 そして目覚めた朝の惣一朗は、いつにも増して優しく接してくれた。


 忙しくてそんな余裕すらないであろうに、どこまでも優しい惣一朗に

甘えてしまう自分に、志乃はいつも自己嫌悪に陥るが、

こればかりはどうしようもない。


 そんな淋しかった一年間もようやく終わり、また惣一朗の傍で

店の手伝いをしながら過ごすことが出来る嬉しさで、

志乃は惣一朗の帰りをそわそわしながら待っていると、

今日は意外にも早く帰って来た。


 だが、玄関を開けるなり惣一朗は重暗い顔をして志乃を見た。

 何事が起ったのかと、一瞬志乃の背筋が凍った。

 志乃は今までそんな顔の惣一朗を見たことが無かったからだ。


「おかえりなさい、どうしたの?何かあったの?」

「ただいま。いい話と悪い話のどちらを先に聞きたい?」

「やぶから棒に何を言い出すの?悪い話は聞きたくないわ」


「そうだよね・・・・・、給金が三倍になった」

「すごいじゃない!」


 志乃は驚いて、自分の顔の前で両手を合わせ、拝むように惣一朗を見た。

だが当の本人はため息交じりに、もう一言付け加えた。


「兵士達から嘆願書が出されたんだ」

「何の?」

今度は怪訝そうな顔で、志乃は惣一朗に聞いた。


「俺を辞めさせないで欲しいと、それで任期が半年延びた・・・・・」


 その瞬間、志乃の思考は深い奈落の底に突き落とされ、

失神した体を慌てた惣一朗に抱きかかえられた。

 志乃の絶望は計り知れなかった。もちろん惣一朗もだ。


*******************************


 その夜、陸軍からの通達を惣一朗から聞いた重蔵とお勝は、大いに喜んだ。

義両親として自分たちの婿殿がこれほどに評価され、

信頼をされているのに喜ばずにいられようか。


「けっこうな話じゃないか、もちろん引き受けるんだろう?惣一朗君」

 重蔵の言葉に、惣一朗も志乃もさすがに無言で返した。

そもそも通達がきた以上、断れる話しではないのだ。


「はじめは軍人なんて相手にならないと思っていたけど、

出入りしてくる者はみんな礼儀正しいし、そこらの安酒飲みより、

よほどマシだったわね」と、お勝も上機嫌である。


「はぁ、ですが店が気になります・・・。それにこの一年、ずっと志乃に

淋しい想いをさせているのも申し訳なくて・・・・・」


 惣一朗にとって、後者が本音なのだろう。

志乃は先ほどからうつむいたままである。


「そのくらいなんだ!わしなど一ヶ月、家を不在にしたこともざらだ!

この一年、惣一朗君は毎日帰ってきているだろう、それくらい我慢しなさい志乃!」


 普段二人に干渉しない重蔵が、珍しく志乃の態度を叱った。

志乃は急に立ち上がり、そのまま黙って母屋の居間から出て行ってしまった。

心配したお勝が重蔵をたしなめた。


「あなたいい過ぎですよ、志乃の気持ちも考えてあげて」

「そうやってお前が甘やかすからだ」

「お義父さん、すみません。僕からも言って聞かせますから、

今日の所は許してやって下さい。おやすみなさい」


「甘やかしているのは、私だけじゃないみたいですよ」

と、ふふっとお勝は笑った。


******************************

 

 惣一朗は離れの自分たちの部屋へと向かうと、案の定、志乃は縁側で泣いていた。


「志乃、すまないね。また君を泣かせてしまった」

「・・・私が子供だからいけないのよ、判っているわ。

でも、でも、嫌なの・・・・・!」


惣一朗は志乃の背中をさすって慰めた。志乃は振り向くとまるで子供の様に、

今度は惣一朗の膝の上でわんわん泣き始めた。


「どうしてみんな私から惣一朗さんを奪って行くの?他に誰でもいるのに、

どうして惣一朗さんなの?どうして?」


 本当に志乃は感情を隠さない。それが惣一朗にはとても愛おしく、

自分が必要とされている人間だと再認識させられるのだ。


 ひとしきり泣いて落ち着いた志乃は、きっと自分を呆れていると思いながら、

恐る恐る顔を上げた。

 だがそこにあったのはいつもと変わらない、優しい惣一朗の笑顔だった。


「志乃・・・ありがとう。そんなに想われて、男冥利につきるよ」

「惣一朗さん!」


 志乃は起き上がり、惣一朗の首に抱きついた。

惣一朗も強く志乃を抱きしめ、優しく髪をなでながら、志乃の耳元でささやいた。


「君だけが淋しいと思っていた?俺もずっと君に触れられなくて、

どれだけ淋しかったと思う?」


 びっくりした志乃は、驚いて惣一朗の顔を見た。

その顔は先ほどとは違って、時折見せる意地悪な顔をしていた。


***********************************


 志乃達が去った後、帳場に居たお勝は、自分も若い頃に

ずいぶん一人の寂しさを味わったことを、古い記憶から思い出していた。


 沢山の奉公人が居ようとも、重蔵に何週間も家の留守を任され、

あの孤独は本当に辛かったものだ。


 ここで志乃に子供でもいれば、あの娘の寂しさもいく分紛れるだろうと

思うのだが、家に居れば惣一朗は仕事に追われ、

ゆっくりする時間も持てないだろう・・・何かいい手立てはないものか・・・・・。

 お勝は帳簿を付けながら、思案を巡らせていた。


 そんな事を考えていた数日後、ちまたでは旅行が流行っているのを、

お勝が悪友たちから聞きつけてきた。


 そう言えば生井村での一件以来、

一度も二人を旅行に出しことが無かった事を思い出した。


 生井村から帰って来た重蔵に、割愛された話とはいえ、

肝がつぶれるような内容を聞いて、志乃を遠くに出掛けさせるのを

禁止にしていたお勝は、そろそろ解禁の頃とみた。


 昔は、旅行と言えばお伊勢参りか、近場の秩父参りが主流だったが、

それでは雰囲気が無くてつまらない。


 近ごろでは普通に旅行を楽しむ人たちが増えていた。

季節はちょうど伊豆では河津桜が咲きはじめ、

間もなく東京でも桜の便りがくる頃。

 一人ほくそ笑む母、お勝の頭にはある計画が出来上がりつつあった。


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