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陸軍からの訪問者


 結婚してもうすぐ四年半、その年の暮れも押し迫ったある日、

惣一朗はいつものように河野の道場へ稽古の指導に出向いていた。

そこへ見知らぬ男性が尋ねてきた。


「兄者!このえさんという方がお見えです」


惣一朗は弟子との打ち合いをしながら用件を尋ねると、『杉田』に会いたいと言う。


『杉田』・・・・・今さら聞いても何も感じない名だが、面倒事ならご免だ・・・・・。


 打ち合いを止め、珍しく渋い顔をした惣一朗は、道場の玄関へと向かった。

 そこに立っていたのはきちんとしたジャガード織のスーツを着た青年で、歳は惣一朗より五、六歳上だろうか。


「初めまして、私は近重と申します」

「初めまして、私は高倉と申します。ここの師範代理を務めております。

杉田さんにどのようなご用件でしょうか?」


「はい、以前こちらの道場に杉田さんか通われていたと伺い、

大そう剣術の腕が達ち、慶応塾で学ばれて、学問にも精通されているとか。

ぜひその方にお会いしたくこちらに参った次第です」


・・・・・随分と自分を持ち上げて、しかも尾ひれが付きすぎだ・・・、

惣一朗は内心、苦笑した。


「杉田さんは随分前に道場をお辞めになって、

今は何処に居るかはこちらでは解りません」


 そう言うと近重と名乗る青年は、明らかに落胆した表情を浮かべて

玄関に立ち尽くしてしたまま、しばらく無言になってしまった。


 少し気になった惣一朗は訳を尋ねたが、近重はためらいがちに口を開いたが、やはり話そうとはしなかった。

惣一朗は上手に近重から訳を聞き出そうと、話し続けた。


「もしかしたら道場の誰かが、杉田さんの居所を知っているかもしれません。

消息が分かればお知らせしましょうか?」


 その言葉を聞き、途端に近重は明るい表情になり、

ポケットから名刺を取り出した。

 そこには『陸軍』の文字が書かれていた。


「・・・近重さんは陸軍の方ですか?」

「はい、兵士の教育補佐をしております」


「杉田さんが見つかった場合、何の用件と説明すればよろしいですか?」

「はい!ぜひ兵士達の剣術指南役として

ご指導をお願いしたいとお伝えください!」


 と滑舌よく言い切ってから、それが機密事項だったらしく

近重は慌てて自分の口に手を当て、今の話は一切他言無用でと、

何度も惣一朗に念を押して帰って行った。


 惣一朗はさすがに腰が抜けて、暫く玄関の框から立ち上がれずにいた。

そこへ外出から戻った河野が惣一朗の顔を見て驚き、何事かと聞いてきた。

惣一朗は今しがたの出来事を、河野に説明しながらも、自分でも半信半疑のままだった。


「なんと・・・すごい話だ!君の名声もとうとう陸軍にまで轟いたか!

養父として鼻が高いよ」

 河野は冗談交じりに満更でもない顔で惣一朗を見た。


「やめて下さい、冗談になりません。

だいたいあんな連中に剣術の何が分かるんですか!」

「そうかね?認められているだけでも名誉な事じゃないか?」


 大人になった惣一朗は昔と違い、怒りの感情を表に出さなくなっていたのだが、明らかに不愉快そうにしているのを見て、河野は不思議に思って尋ねた。


 だが惣一朗は「失礼します」とだけ言い残し、

今日の稽古を早々に切り上げると高倉家に戻って行った。

 彼にとって陸軍、それに所属する憲兵には決して忘れられない

恨みがある事を、河野は知らなかったのだ。


 高倉家に戻ると志乃がいつものように玄関先に出迎えてくれた。

「お帰りなさい!」


 昼間に道場で会ったばかりだと言うのに、嬉しそうな志乃の笑顔を見ると

憂鬱だった気分も嘘のように和み、疲れも吹き飛ぶ。


 剣道でしか発散できなかった『負』の感情も、志乃と夫婦になってからは

『まぁいいか』と受け流せるようになっている自分に、惣一朗は満足していた。


 結婚などするものか。・・・・・そう決めていた少年時代。

その時には存在すら気がつかなかった心の安らぎを、

今は全身で感じている。

 体は忙しくとも、杉田家に居た時には味わえなかった充実感がここにはある。


 惣一朗は毎日、高倉家の玄関を開けるたびにそれを感じていた。


 ********************************


 惣一朗は近重の話を志乃や義両親には話さず、それから一週間が過ぎていった。


 そしてまた、惣一朗が道場で稽古をつけていると、今度は近重と一緒に、

以前慶応塾の門下生だった後藤が尋ねてきた。


 後藤とはさして親しくもなく、出来の悪い後藤が解らないところを、

こっそり惣一朗に教えてもらいに来る・・・・・、そんな間柄だった。


 後藤がいる事で、自分が杉田だと知れたと察した惣一朗だが、

何食わぬ顔をして玄関で二人を出迎えた。

 先に挨拶をしてきたのは満面の笑みをした後藤だった。


「やぁ杉田君!久し振りだね!後藤だよ、覚えているかい?」

「こんにちは」

「こんにちは、先日は失礼いたしました、近重です」

「相変わらず不愛想だなぁ、まぁそこが君らしいけどね」


 門下生だった頃と変わらず、馴れ馴れしい笑いをしながら、

後藤は惣一朗に話しかけてきた。

 惣一朗はいかにも不愉快そうな顔を後藤に向け、黙っていた。


 そんな惣一朗の態度に構わず、近重は後藤の一歩前に出て、

惣一朗に迫る勢いで話し始めてきた。


「あなたが杉田さんだったのですね!後藤さんから伺いました!」

「いえ、それは捨てた名で、私は高倉です」

「高倉でもなんでもいい!私はあなたを捜していたのです!」


 鬼気迫るとはこのことか、近重の迫力に一瞬気圧されたが、

先日の話なら断るつもりでいたので、惣一朗はいかにも不愛想に答えた。


「先日のお話しでしたら、杉田はもう死んだものと諦めて下さい」

「では条件を聞きましょう!」

「は?・・・何のですか?」


 唐突過ぎる近重の質問に、惣一朗は眉をひそめて、露骨に嫌な顔をして尋ねた。


「剣術指南役になる代わりに陸軍が支払う条件です。

もとより給金は一般兵の二倍と決めておりました。

他にお望みのものがあればおっしゃってください」


「・・・お金は自分で稼ぎますので、必要ありません」

「では他に何を?」


 近重の勢いは止まる事を知らないのか、いよいよ惣一朗に飛び掛かる勢いで話し続けていると、騒ぎを聞きつけて河野が玄関にやって来た。


「失礼します。私はここの道場主の河野と申します。

そして惣一朗の義父にあたります」

「これは失礼いたしました。父君であられましたか。

私は陸軍の近重と申します」


「お話は惣一朗から伺っております。こんなところで話す内容ではありません。

どうぞ中へお上りください」

 惣一朗は門前払いを決めていただけに、驚いて河野を見たが、河野は


「二度も追い返す訳にはいかないだろう。ちゃんと話をしないと」と苦笑した。

 二人は遠慮なくとばかりに座敷の奥へと入って行った。


*********************************


「陸軍からの、たっての依頼で高倉殿に剣術指南役になって頂きたいのです」


 奥の座敷で四人は、不機嫌そうな惣一朗、怪訝そうな河野、

楽しそうな後藤、そして真剣な面持ちの近重が、向かい合わせて座っていた。


 単刀直入に本題に入る近重に、黙ったままの惣一朗に代って、河野が近重に尋ねた。

「なぜ民間人の惣一朗にそのような大役を頼まれるのか、訳をお聞かせ願えますか?」


「はい、陸軍内にも派閥があります。

それと腕の達つ士族が、先の幕末の戦で大勢亡くなってしまったのも

理由の一つですが、何より今の軍は農民からなる民間集団の色が濃く、

生粋の士族の指導者はほとんどおりません。

士族はほとんどが警察隊に取られていますから・・・・・。

まれに、その方たちの指導を頂いても厳しすぎるのか、皆すぐに根を上げて

辞めてしまう者が多く、人が育たないのです」


 近重はよほど切羽詰まっているのか、そんな内部の恥までぶちまけ

困り顔で話したかと思うと、急に机に身を乗り出し、

今度は目の前の惣一朗に向かって切々と語りだした。


「聞けばあなたは人望もあり、人柄も温厚で道場の弟子達にも好かれていると

聞き及んでおります。また、かの福沢先生の元で長年助手をされていた

大変優秀な方だとも!どの派閥にも属さず、人望のある方を捜して・・・・・、

杉、いえ高倉さん、あなたにたどり着きました!

どうか助けると思って、二年、いや一年でも構いません。

皆がまとまるまでお願いできないでしょうか!」


 近重は一気に幕くしたててそう言うと、惣一朗に頭を下げた。

 河野はその姿に感動したのか胸を打たれた様子だったが、

当の惣一朗にはまったく響いていなかった。

 それどころか陸軍もいい加減だな・・・・・と、内心呆れていた。


 そもそも塾の下働きだった自分が、いつ助手に昇格したんだ後藤!と、

近重の横に座っている後藤を、惣一朗は般若の形相で、無言でにらみ続けていた。

 当然、後藤は素知らぬふりをして、成り行きを見ているようだった。


「近重さん、頭を上げて下さい。惣一朗をそれほど高く評価して下さり

感謝に堪えません。しかし彼はすでに造り酒屋の婿として、

日々多忙を極める身、その合間にこうして私の道場も手伝っているのです。

そのような身で剣術指南役など、到底務まりません。

どうか他の方を探していただけないでしょうか・・・・・」


 河野はさすが大人らしい、近重の面子もつぶさずに

惣一朗の無理な事情を説明し、上手な断り方をした。

 だが近重は予想外の事を、ニマリと笑って口にした。


「造り酒屋ですか?それはいい!

では陸軍の酒の注文は全て高倉さんから頂くとしましょう!

あと、兵士たちの専属酒店の看板もお付けいたしましょう!」


 惣一朗も河野も、ただ同席していた後藤も、

唐突な近重の提案に呆気に取られた。

先に我に返った惣一朗が驚いて初めて口を開いた。


「陸軍に酒?兵士が酒を飲むのですか?」

「もちろんです。祝賀行事、兵士の婚礼、祝い事、大臣の就任時にも

陸軍の名前で利用します。どうです?いい話でしょう?」


 嬉しそうに身を乗り出して、惣一朗に話し掛ける近重に、釣られるように惣一朗は

「それはそうですが、時間が・・・・・」

 とうっかり期待をさせる返事をしてしまった。


「では一日六時間とし、週に五回ではどうですか?」

「それでは訓練にならないのでは?」

 とたじろぎながらもまた返答をしてしまった。


「大丈夫です。兵士は他にも隊列、射撃、一般教育とやる事は多いので、

剣術は交代制で学ばせますので心配無用です」

 と近重はしめたとばかりに、まくし立ててきた。


 すでに近重の頭の中には訓練表が出来上がっているらしく、

惣一朗は気付かぬうちに近重の術中にはまる一歩手前にきていた。


「少し、・・・少し考えさせてください」


「もちろんです。いい返事を待っています!」

そう言った近重は、すでに満面の笑みだ。


 そこへ余計なお世話の後藤が、またしても余計な言葉を浴びせてきた。

「すごいじゃないか杉田君!おっと高倉君!

陸軍の剣術指南役でもすごいのに、陸軍御用達の看板までもらっては、

断る理由はないよ!店の売り上げも一気にもうなぎ昇りだよ!」


「今日すぐにとは決められない話ですので、まずは高倉の当主と

相談させてください。返事はそれからという事で・・・・・」

慌てた河野が、その場の異様な盛り上がりを必死で制した。


 近重も手応えを感じたのか、満足した様子でまた改めてと言い残し、

後藤と共に帰って行った。


 河野が玄関まで見送り、部屋に残った惣一朗の元に戻ると、

まだ茫然としている惣一朗に河野は心配そうに声を掛けた。


「いやはや・・・まさかこんな展開になるとは。商人なら喜ぶべきだが、

剣術指南役付きではね。君の体が持つまい・・・。

断るにしても念のため、高倉の旦那様に相談してからの方がいいだろう」


 ・・・・・惣一朗は断るつもりが、脳裏に『酒』の販売先がちらつき、

とんだ思案をする羽目になってしまった。


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