過去の幼馴染
川で水死体があがる事はよくあった。
沢山の川と、そこから無数に引かれた堀の隙間に、
引っ掛かっていることなど日常茶飯事で、
明治になってもそれはあまり変わらなかった。
志乃は子供の頃からは橋の袂で遊んでは、
「お母さん、どざえもんさんがいるよ」と、よくお勝に教えに来ていたという。
本人は全く覚えていないらしいが。
その日、珍しく息抜きに相撲を観に行こうとお勝に誘われた志乃と惣一朗は、
両国橋の近くで若い女性の水死体を見てしまった。
死体は常に、林や池のあちこちで目にするので、
さして珍しい事でもなかったが、さすがに若い女性は気の毒に思えた。
お勝は野次馬根性丸出しに、人だかりをかき分けて見に行ってきた。
戻って来たお勝は
「驚いたわ。すごく綺麗な女の人なのよ。あんな若さなのに気の毒に。
ここからだと遊郭の人かしらね・・・・・。
でも身なりがとてもきちんとしていたから、どこかの令嬢かもしれないわ。
身投げか、殺されたのか、よく分からない感じだったわね」
志乃と惣一朗は顔を見合わせ、川岸に引きあげらればかりの遺体を、
野次馬達が珍しそうに覗き込んでいるので、
自分達も興味本位で遠くから覗いて見た。
すると惣一朗は、急に眼を見開いて動かなくなり、
そのまま硬直してしまった。
志乃は、惣一朗の様子に気付きどうしたのかと尋ねたが、
何も答えてはくれなかった。
怪訝に思った志乃は、人山で全く見えず、自分も遺体を見ようと
もっと人混みの奥に割って入ろうとした時、
惣一朗に肩を掴まれて止められてしまった。
そこに警察官が三人到着し、人だかりを避けて女性を川岸から引き揚げ、
道路まで運んで台車に乗せ始めた。
偶然にも、志乃の間近に迫った女性の顔は、すでに青白く生気は失われていたが、
昔、柳の木の下で惣一朗が助けていたあの女性に、あまりにも酷似していた。
目の前ですだれを掛けられ、警察官に引かれて通り過ぎていく台車を見て、
ひとつの芝居が終わった・・・・・。
人々は何事もなかったように散り散りに消え、いつもの日常に戻ってしまった。
お勝も当然、その中の一人だった。
「可哀想だったわね。さて、行きましょうか。どうしたの?二人共?」
だが、志乃と惣一朗は、まだ日常に戻れずにいた。
お勝がすぐに異変に気が付き、尋ねてきた。
「惣さん、顔色が悪いけど、どうしたの?若い娘さんを見て、志乃と重なったのかい?」
急にお勝に問われて我に返った惣一朗は、取り繕う様に笑って答えた。
「ええ、そんなところです。若いのに、気の毒ですね」
・・・・・そうじゃないのは、志乃には分っていた。
でも口に出したい言葉は飲み込んだ。
『本当は知り合いだったの?だから動揺しているの?』
それから三人は相撲を観戦し、久しぶりにお昼ご飯も外で食べて帰った。
その間ずっと惣一朗の心は『ここにあらず』のようだった。
気になったら、聞かずにいられない志乃は夜を待って、
離れで二人きりになった時に、両国橋で見た出来事を話題に出した。
すると惣一朗は意外にも普通に返事をしてきた。
「どうしたんだい志乃?そんなに驚くようなことじゃないだろう?
もしかしてああいう場面を見たのは初めてかい?」
「そんなことないけど、惣一朗が驚いている様に見えたから・・・、
知っている人なんじゃないかなと思って・・・・・」
すると惣一朗の眉が、かすかに動いた。
「いや、知らない人だよ。それより今日は出掛けて疲れたね。もう寝ようか」
惣一朗はいつものように優しく笑うと、枕元のランプを消して、
「お休み」と一言だけ言うと志乃に背中を向けて眠ってしまった。
いつもは志乃の方を向いて眠る惣一朗が、どうして今日に限って
背中を向けるのだろう・・・・・?
志乃はその背中に問いかけて見たかったが、『知らない』と
言い切られてしまった志乃に、これ以上問いただす勇気は出てこなかった。
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翌朝目を覚ますと、いつものことだが惣一朗はすでにおらず、
隣の布団は綺麗にたたまれていた。
志乃は身支度を終えると母屋へ行き、茶の間を覗いて見たが
惣一朗はいなかった。
それから帳場や酒蔵、家のあちこちを覗いて見たが
どこにも姿を見つけられず、出くわしたお市に惣一朗が居ないと尋ねた。
「若旦那様は早くに出掛けて行かれましたよ。ご存じなかったんですか?
お嬢様におっしゃって行かないなんて珍しいですね。
寝坊ばかりしているからじゃありませんか?」
お市にからかわれた志乃は、苦笑しながら「そうかも」と言い、
家の外に出た。
通りには沢山の人が忙しそうに行き来していた。
行き交う人々を見ていると、次第に志乃はひどい孤独感に襲われた。
もしかしたら、もう惣一朗は戻って来ないかもしれない。
理由は判らないが、何故だか無性にそんな気がした志乃は、
その場にしゃがみ込み、嗚咽を漏らしながら泣き出してしまった。
しばらくして、家の前で泣きじゃくる志乃に気が付いて、
遠くから駆けてきたのは惣一朗だった。
「どうした志乃?何があった?」
「そ、惣一朗さん、惣一朗さん・・・・・うあ~ん」
また泣き出した志乃に訳が分らない惣一朗は、
周囲の視線を集めながら、急いで志乃を家の裏口に連れて行き、
勝手口の中に入れた。
「どうしたの?なんで道の真ん中で泣いていたんだい?」
「だって、起きたら惣一朗さんが居なくなっていて、
もう帰って来ないんじゃないかって、・・・・・、
そう・・・・・思ったら、急に、悲しくなって・・・・・」
「え?なんだって?どうやったらそんな考えになるんだよ。
いつまで経っても子供みたいな事を・・・・・。
まったく人騒がせだな、君は」
少し呆れたように言う惣一朗に、見上げた志乃の目は、
真剣に訴えかける様に、惣一朗をじっと見つめていた。
惣一朗は観念したようにため息をつくと
「・・・・・わかったよ。昨日のことだね。君が思った通り、
死んだ女性とは知り合いだよ。
今その事で、今朝から警察所まで出掛けていたんだよ」
志乃の瞳にまたみるみる涙が溢れ出し、零れ落ちる寸前を
慌てた惣一朗の手拭いで優しく抑えられた。
「勘違いしないでくれよ。彼女とは昔の幼馴染で、
君が気に病むようなことは何一つない。だから泣かないでくれ、
志乃。俺が信じられないのかい?」
・・・・・だったら始めからそう言ってくれればいいのに!
泣きすぎてまともに声が出ない志乃は、しゃくり上げた声で、
頷くしか出来なかった。
もちろん信じているから余計に悲しかったのだ。
「昨日はすまない、動揺してしまって・・・・・。
やっぱり俺の様子がおかしいのに気が付いたのかい?
俺もまだまだ修行不足だな」
「ち、違う、見た、昔・・・・・神田、川で、あの人を、
助け、・・・・・男を、投げてた。」
志乃はしゃくり上げながら、途切れ途切れに昔、
惣一朗があの女性を助けた所を見たと説明した。
すると惣一朗も思い出したように「ああ・・・、あの時の・・・・・」と言って、
納得したようだった。
「確かに。君はよく神保町に通っていたんだったね、
見られていても不思議じゃないか」
ふふと笑う惣一朗は、何か懐かしいものを思い出したように
口元を緩めたが、その目はとても悲しそうに見えた。
ようやく落ち着いた志乃は、惣一朗がどうして昨日、
自分に嘘をついたのか問いただした。
それには惣一朗は少し口をにごした。
「彼女は、俺が小さい頃に近所に住んでいた人でね。
俺が東京に出てからすっかり忘れていたけれど、五、六年前かな。
偶然、浅草で再会したんだ。聞けば彼女も俺が東京に出てすぐに
借金の型に売られていたそうだよ。まだたった十一歳だったのに・・・・・」
志乃もそういった話しは、何度か聞いて知っていたが、
十一歳で身売りされるとは知らず、さすがに衝撃を受けたようだった。
「驚いたかい?」
志乃の驚愕の顔を見て、申し訳なさそうな顔をした惣一朗が
話すのをためらい、志乃の手をとった。
「世の中、色んな事情を抱えている人が居るんだ。
だからあまり、君には話したくなかったんだよ」
「ううん、聞くわ。聞きたい、教えて」
「うん、ここを飛ばすと話が続かないからね。俺が再会した時、
すでに見受けされていて、どこか知らないけど呉服屋の妾に収まっていたよ。
始めは優しかった男も、たびたび暴力を振るう様になり、
怖くてよく逃げては捕まっていたって言ってたな。
確か志乃が見た時のは、二回目に会った時じゃないかな。
その後、嫌がる彼女を家に送り届けたよ」
「どうして?可哀相じゃない、殴られるのに帰すなんて!」
「志乃。他に彼女に行くあてなんてあるのかい?俺に何かできるとでも?
簡単に人助けの安請け負いが出来る程、俺にはなんの力も無いんだよ」
「ただ」と付け加えた惣一朗は、悲しそうに視線を落とし、
つぶやくように言った。
「その時、いつかこんな日が来るんじゃないかと、わかっていた気がする。
その時、もう一度だけ会いたいと言われたけど、
俺は約束の場所には行かなかった。それ以上関わりたく無かったからだ。
昨日まですっかり忘れていたのに、彼女の死に顔を見て、
どこかで後悔している自分に気がついて、さすがに目覚めが悪くてね。
線香の一本でも上げに行こうかと、警察所を尋ねに行ってきたのさ」
「そうだったんだ・・・・・、一言、言ってくれればいいのに。
それにしても惣一朗さんが『関わりたくない』なんて思う事もあるのね、
いつも人の為にこんなに一生懸命なのに・・・・・」
「誰にでもするわけないだろう。俺が守れるのはせいぜい一人分、
君だけで精一杯だよ」
そう言って苦笑する惣一朗は、いつもの惣一朗の顔になっていた。
「それで、お線香は上げてきたの?」
「遺体はもう無かったよ。誰に引き取られたのかも教えてもらえなかった。
きっと表沙汰にしたくない、呉服屋の男の手がまわったんだろう。
命を自分で絶ったのが、もしくは男に、か・・・・・。
あれからずいぶん経ったから、今はどうなっているのか分からないしな・・・・・」
「彼女は幸せだったのかしら・・・・・」
「さあ、どうだったのかな。そんな時もあったと、思いたいな・・・・・」
志乃はふと、惣一朗の幼い頃の話を聞いたことが無い事に気が付いて、
何気なく尋ねてみた。
「惣一朗さん、東京に出てきたって言ったわよね。
小さい頃は別の所に住んでいたの?いつから慶応塾で働いていたの?」
志乃の質問に一瞬、惣一朗の顔が硬直したように見えたのは気のせいだろうか。
惣一朗は微笑むと「田舎だよ」と短く答えた。志乃はそのまま質問した。
「ねぇ、惣一朗さんの子供の頃の話を聞かせて。
いつも私の話ばかりで、今まで一度も聞いたことが無いわ。
ご両親の話も今度してくれるって言ったきりよ」
「聞いてもつまらない話だよ」
何故か惣一朗は笑うだけで話をしようとしない。
「・・・・・もしかして、子供の時の話しはしたくないの?惣一朗さん」
「察しがいいね・・・・・。勘弁してもらえるかな。
君に話せるほどいい思い出じゃないんだ」
志乃はうーんと悩んでから、また惣一朗に聞いてみた。
「私の気分が悪くなるのを遠慮しているなら、
そんなのまったく必要ないんだから!私は惣一朗さんの全て、
丸ごと全部が好きなの。だから知りたいの」
いきなり目の前の志乃に、真顔で言われた惣一朗は、
今までの暗い気持ちが一気に吹き飛ぶほど、驚いて志乃を見た。
さすがは志乃。かなわないな・・・・・。
「ありがとう、志乃。でも今はまだ、もう少しだけ時間をくれないか。
いつか話せる日が来るまで待っていて欲しい、・・・・・駄目かな」
そう言うと、惣一朗は志乃の頬を両手でつつむと、ひょっとこ顔にした。
突然、惣一朗にふざけられて真っ赤になった志乃は、たじろいだ。
「ひどいわ、惣一朗さん!いつもそうやってごまかして!」
「ごまかしていないさ、君が可愛いいからつい・・・・・」
一枚上手の惣一朗に微笑まれたら、もう何も言えない志乃は、
プンっと頬を膨らませて赤面しながら、母屋に行ってしまった。
残された惣一朗は一人笑いながら、志乃の後ろ姿を見つめていたが、
ふと笑うのをやめて空を仰いだ。
いつか、志乃に自分の過去を話せる日が来るのだろうか・・・・・。
その時志乃は何を思うのだろう・・・・・。
ふと、今日の仕事を思い出した惣一朗は、またいつもの日常を
取り戻すように、自分も母屋に戻り、今日の段取りに取かかった。
気が付けば志乃と結婚して、すでに四年の年月が経っていた。




