眼鏡の男との再会
志乃たちが結婚してから三年半が経ち、
重蔵から店を全面的に任された惣一朗は、今後の事業展開や新規顧客の開拓、新商品などをあれこれと思案し考えを巡らせていた。
明治初期の酒事情と言えば、まだ日本酒が主流であったが、
地方では『焼酎』『どぶろく』『泡盛』といった珍しい酒もあるという。
外国からはワイン、ウイスキーが輸入されるようになり、
東京での上流社会ではもっぱらワインが珍重されていた。
だが、外国人が珍しい土産品として、日本酒を割高でも購入してくれるので、地方の少量生産の酒を仕入れても在庫にならず、今のところは利益につながっていたが、果たしていつまで続くか。
『皇室御用達』の札のお陰で、一定の需要は保たれてはいたが、
大きな行事が無い限り、大金が動くことは無い。
酒は手間と時間と費用が掛かり、決して安い嗜好品ではない。
日本酒一本で世の中を渡って行くのは、今後は難しくなるだろうと、
惣一朗の庶民感覚がそう敏感に教えてくれていた。
そんな中、惣一朗は志乃や社氏の男たちのその手肌のきめが細かく
白いのを見て、酒を仕込んだ後に残る麹かすを使って、
町娘たちに石鹸の様な物を作れないかと考案していたが、
独特のあの酒の臭いをどう消すか、あれこれ試してみたがどうにも抜けない。
これでは『とうふ』を作る際にできる『おから』と同じ
価値のない副産物のままである。
惣一朗は、机に数種類の酒と酒粕、米麹やろうそくなどを並べ、
帳面に何やら書いていると志乃がお茶を持ってやって来た。
「惣一朗さん、何を書いているの?」
「君のような白い肌になれる魔法の媚薬を作ろうと思ってね。
何かいい案はないかな?」
「うーん、そうねぇ私は子供の頃から使って慣れているけど、
やっぱり問題は臭いよね。
火にかけて酒の臭いを飛ばせば、いく分違うんでしょうけど、
火事の心配もあるし・・・・・、酒粕も絞りだすのは、かなり大変よね」
惣一朗はやはりなと言う顔をして、机の正面に座り、
頬杖をついている志乃を見た。
「そこなんだよ、火事が俺も心配でね。
どこかで代わりにやってくれる店を探すしかないのかな」
「でも少量だと引き受けてくれないと思うわ。毎月決まった量を頼めるの?」
「さすが君は頭がいいね。俺より商売上手だ」
そう言うと志乃のおでこに自分頭をコツンと当てて、
惣一朗はニヤリと笑った。
志乃は真っ赤になっておでこに手を当てながら、恥ずかしそうに反論した。
「もう!茶化さないで、考えは惣一朗さんのでしょう!」
「はははっ気晴らしに甘い物でも食べに行こうか」
「本当?いいの?」
「町で女達の話しを聞くのも、仕事のうちってね」
「なぁんだ、でも一緒に出掛けられるならなんでもいいわ」
二人は早々支度を済ませて、街に出掛けて行った。
志乃と惣一朗が並んで街を歩くとよく目立つ。
わざわざ振り向いてじっと見入るものさえいた。
それくらい惣一朗はより凛々しく、志乃は大人の美しさをも兼ね添えて、見る者を魅了する程にまで成長していた。
そして志乃の艶やかな黒髪は惣一朗の希望で、結わずに下ろしていた為、街を歩くと未婚者だと思われて、惣一朗が目を離すとすぐに志乃は男たちに声を掛けられた。
それを惣一朗が追い払うのが常であった。
行き交う大勢の群衆の中から人混みをかき分けて、
メガネを掛けた男が息を弾ませてこちらへ近づいてきた。
「もしっ!お嬢さん!」
どうやら志乃に声を掛けたようだ。それに答えたのはもちろん惣一朗だった。
「何かご用でも?」
「いえ、そちらのお嬢さんに・・・・・」
その男は何やら怪しげに見え、惣一朗は警戒した。
「妻に何か?」
惣一朗はメガネの男と志乃の間に一歩割って入り、
会話をさえぎった。
「え?ああ、これは失礼しました。私は以前そちらのお嬢さんに、
あいえ、奥様に助けられましてね」
そう言うと、笑いながら帽子を脱ぎ、志乃の顔を見た。
惣一朗は怪訝そうにメガネの男を見て、志乃に聞いてみた。
「志乃、知っている人?」
「ええっと・・・・・??」
志乃は明らかに困惑しているようだ。また変な男にからまれたか。
しかも今度はこんな中年男に・・・、と惣一朗は内心悪態をつきながら、
志乃を心配してメガネの男に視線を戻した。
男は慌てる様子もなく、むしろ愉快そうに遠慮なく志乃に詰め寄って来た。
「覚えていませんか?ほらっ泥棒から私の財布を取り返してくれた方でしょう?」
と自分の顔に指を差しで、ほらほらっと今にも志乃にくっつきそうな勢いだ。
惣一朗が引き離そうとした時、志乃が大きな声を上げた。
「あっ!あの時の警官と走ってきた方?」
志乃も男と同じ様に指を指して、お互いで驚いた顔で見つめ合った。
「そうそう!私ですよ!いや~お会い出来てよかった!」
惣一朗は尚も心配して「大丈夫?知っている人?」
と志乃にしきりに聞いているのに、そのメガネの男は完全に聞こえていないのか、すっかり上機嫌になり
「ここで会ったのも何かのご縁。どうです?近くに馴染みの店があるので、
ご一緒にお茶でもいかがですか?」
そう言って、男は惣一朗の存在を忘れた様に志乃の隣に並び、
再会を喜びながら歩き始めた。
志乃も呆気に取られ、思わず男につられて歩き出した。
惣一朗は少し不愉快になったが、この得体の知れない中年男の一歩後ろを着いて歩き、じっくり観察することにした。
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男が馳走したいと連れてきたその店は、老舗で有名な高級料亭だった。
惣一朗は店先でこのような店に入る訳にはいかないと、メガネの男と押し問答となった。
そこへ声を聞きつけた店の女将がやって来た。
「まぁ、鴻池様ではございませんか!
まぁまぁこんなところで何事でございます?それにお約束のお時間までには、
まだかなり、お早いのではありませんか?」
「おおっ女将、ちょうどよい所へ来たな。こちらの御仁が、
ええっと、高倉君だったかな?私と面識がないので、この店には入れんと言うのだよ。何とか説得してくれんか。私は喉が渇いたから、先に入っておるよ」
『鴻池』という、そのメガネの男は助かったとばかりに、女将に惣一朗たちを押し付け、自分はさっさと中に消えて行ってしまった。
妙に親しげな様子に驚いた惣一朗は、女将に『鴻池』なる人物について尋ねた。
すると女将も驚いた顔をしたが、すぐに真顔で答えた。
「今の世の中で、鴻池様のお誘いをお断わりになる方などいらっしゃいませんわ」
尚も相手が何者か分からず、惣一朗が店に入るか決めかねていると
「そんなにお疑いにならずとも、私とこの店が保証いたしますわ。
後から大金を吹っ掛けることなどいたしませんよ」とくすくすと笑い始めた。
さすがにここまで言われては、入るより仕方がない。
「惣一朗さん、ここまでおっしゃって下さっているんですもの、
大丈夫じゃないかしら」志乃は意外と乗り気なようだ。
「仕方ないね、君がそう言うなら・・・・・」
「お若いのに慎重な方ですのね。結構な事ですわ」
女将が惣一朗の草履をそろえながら微笑み、
鴻池が消えた部屋の方へと案内した。
部屋へ向かう途中、まだ鴻池の正体が分からない惣一朗は、
再度女将に尋ねると、今度は少し呆れ気味にまだ判らないのか
という顔をしながら答えてくれた。
「貿易商の偉い方ですよ」
志乃と惣一朗は顔を見合わせ、目を丸くした。
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『鴻池貿易』と言えばこの数年で急成長した世界をまたにかける貿易商で、
その勢いは今や飛ぶ鳥も落とすほどと噂され、
当然政界との繋がりもあるであろう大物が、何故志乃に?
本当にあの鴻池貿易の鴻池本人なのか?
惣一朗は益々訳が分からなくなり、軽く理解の範中を超えてしまった。
案内された部屋には、すでに鴻池が座って茶を飲んでいた。
「遅かったね、先に失礼して頂いていましたよ」
「いえ、こちらこそお待たせしました」
惣一朗は鴻池の目的がさっぱり分からず、座っていても落ち着かなかった。
「ところであの後、泥棒は捕まったんですか?」
志乃だけは事情を知っているせいか、普通に会話をし始めた。
「それが逃げられました。でも金はあなたのお陰で取り戻せたので、
まったく問題ないですよ。それより、あの時やっとの事で銀行から、
会社の運転資金を借りる事が出来た矢先に、銀行を出た途端、
あのこそ泥に金を奪われたんですよ。あの時はもう、目の前が真っ暗になりましたね!」
当時の経緯を惣一朗にも解るように、身振り手振りで大げさに鴻池は語って聞かせた。つまり、今の会社の準備金を志乃が泥棒から取り返したという訳らしい。
「あの時志乃さんはすぐに立ち去ってしまい、お礼をしようにも分からず、東京女子模範学校の生徒さんとまでは分かりましたが、なる程、結婚されていたなら学校にいらっしゃらないはずだ」
と大声で笑い出した。
「ご主人!高倉さん!あなたは実に素晴らしい女性を妻になさいましたな!私の息子に妻子が居なければ、すぐに求婚させていたところでしたよ」
とまた大声で笑った。
有難い褒め言葉のつもりなのだろうが、惣一朗には冗談には聞こえず、
まったく面白くもない話である。
「では会社はご無事で?よかったですわ」
「ええ、お陰様で順調ですよ。全てはあの時、志乃さんに救われたお陰です。
だからずっとお礼がしたくて、あなたを捜していたのですよ。
今日はお会い出来て本当に良かっだ。
私に出来る事があればおっしゃってください。
大抵の事ならお力になれると思いますよ」
そう言いを終わったメガネの奥の瞳は、急に鋭く光った気がした。
惣一朗が圧倒されていると、では遠慮なくとばかりに、志乃が話し始めた。
「先ほど女将さんから鴻池様が『あの鴻池貿易』の方だと伺ったのですが、
失礼ですが本当ですか?」と聞いた。
「ええ、本当ですよ。小さな会社ですがね、私は社長をしております」
鴻池は普通に答え、志乃の隣に座っていた惣一朗は、
背中に冷汗が流れるのを感じた。
志乃は思い切って実家が造り酒屋で皇室御用達である事、
現在新しい事業を考案している事の全てを、惣一朗を交えて軽食を頂きながら談話した。
鴻池はうんうんとただ耳を傾けて頷き、料理をパクパクと旨そうに食べ、
箸を進めていた。すると突然箸を置き、「面白いね」とつぶやき、
何やら独り言をブツブツ言い始めた。
志乃と惣一朗は顔を見合わせ、しばらく様子を伺った。
「外国には女性が顔に塗る『化粧水』というものがあるそうですよ。
日本にも古くから柑橘系の皮を、肌に塗る習慣があるでしょう?
それと同じように、日本酒で作ってみるのも面白いかもしれないね」
「本当ですか?商品として可能なんですか?」
惣一朗は、鴻池の突然の奇抜なアイデアに、身を乗り出して尋ねた。
「製造先なら当てはある。販売先は、そうだね・・・。
外国も視野に入れてはどうかな?日本製品は高く売れるよ」
と含み笑いをした。惣一朗は鴻池の規模の大きさに圧倒されて、
すぐに頭の整理がついていけずにいたが、隣に座る志乃は大はしゃぎだ。
「はははっ志乃さんのその美しい肌を見れば、
効果があるのは間違いないんでしょうな」
鴻池はまた、上機嫌で笑い出した。
惣一朗は大抵の人間とはうまく合わせられるのだが、
どうもこの鴻池という狸おやじとは、根本的に反りが合わない気がした。
志乃が褒められるのは嬉しいが、さすがに中年男にまで色目を付けられるのは気分のいいものではない。
そんな惣一朗の心中をよそに、志乃は無邪気に喜んでいる。
鴻池はスーツのポケットから名刺を取り出し、
「明日にでもここに来なさい」と言って惣一朗に渡した。
そして詳しい事は秘書に話しを通しておくとも。
それからゆっくりしていくようにと告げると、鴻池は志乃と惣一朗を残し、
一人で部屋を出て行ってしまった。
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暫くすると、廊下の遠くの方から先ほど女将の声が聞こえてきた。
その後から鴻池の声と、知らない男との話し声が聞こえてきた。
元々、この店で待ち合わせをしていたらしい。
志乃と惣一朗は静かに障子貼りのふすまを開け、廊下を歩いて別室へと入って行く鴻池に並んで歩く男の姿を見た。
なんとその人物は伊藤博文の右腕と称される『岩倉具視』だった。
二人は驚いてふすまを閉め、その場に座り込み、同時に大きなため息をついた。
「すごい人だったのね。びっくりしたわ・・・私、急にドキドキしてきたわ」
「びっくりなのは君だよ、志乃!」
「どうして?」
きょとんとした顔で志乃は惣一朗の顔を見た。
「本当に、君って人は、どこまで俺を驚かせば気が済むんだ!」
志乃は突然、惣一朗に抱きしめられて、慌てて真っ赤になっていた。
惣一朗は笑いながら、世の中、どこに縁が落ちているのか分からないものだと、この有難い出会いと愛おしい妻に感謝した。
ついで、先ほど鴻池を投げ飛ばさずにいて良かったと、自分自身の胸をなでおろしていた。




