15歳の憂鬱
盗人との遭遇から四ヶ月程経った秋、入学してから間もなく一年を迎えようとしていた。学校の庭は毎日イチョウの葉で金色に覆われて、なんとも幻想的な美しさで生徒たちを魅了していたある日の事だった。
授業中、生徒たちの机を周って指導していた、女教師の赤坂先生が倒れてしまった。それも突然、座っている生徒の上にかぶさるように気絶したのだ。教室の中は騒然となり悲鳴を上げた生徒の声に気付いた隣の教室の教師もすぐに駆けつけてきた。生徒の何人かと一緒に付き添われて、すぐ赤坂先生は医務室へと運ばれて行った。
志乃は窓際の席で、ずっと庭の黄金色の敷物と、ある事に心を奪われていたせいで、悲鳴を聞くまで何が起こったのか分からず、気が付いた時は赤坂先生が運ばれて行くのを見ただけだった。
生徒のほとんどは廊下に顔を出す姿勢で、教室の入り口にお団子状態に重なり合っていた。
志乃はそんなみんなの興奮した姿を見てもあまり気にならずに、また庭のイチョウの葉と漂う空のうろこ雲に視線を戻して、先ほどと同じ事を考えていた。それは道場で見る「あの人」の事だ。
昨日も今朝も道場には現れなかったのだ。志乃が道場に通うようになって、こんなことは一度もなかった。時々、志乃自身が寝坊をして立寄れなかった事はあっても、志乃が行った時に稽古をしていなかった事は無かった。
それなのに、二日も続けていないなんて、道場を辞めてしまったのだろうか・・・・・。志乃にとってはそちらの方が一大事だった。
しばらくすると、先生に付き添って行った生徒たちが戻って来たらしく、教室内が騒がしくなった。付き添っていた一人には、いつも生徒たちをまとめている『井上達子』が居た。
我慢できないみんなは達子を取り巻き、次々に質問していたが、
達子は眉間にしわを寄せて口をへの字に結び、
周りの生徒たちを睨み付けてから
「落ち着いて、今から話すから静かにして!」
と九官鳥の様に良く通る声をあげた。
するとそれまで興奮と熱気を帯びていた教室は、嘘の様に静かになり、不気味な静寂さを取り戻した。先ほどから一人座ったままの志乃は、ふとその光景を見て、すごい才能だわと妙な感心をしていたが、また外を見てぼんやり「あの人」の事を考えていた。
達子は一呼吸ついてから冷静に話し始めた。
「皆さんには本当の事を言うわ。赤坂先生は少し血の気が薄くなって脈も弱くなっているみたいなの。それでここからが問題なのよ。これから先は決して私たち以外の人には話してはいけないわよ」
そう言うと、達子は念を押すように一人一人の顔を見て頷くのを確認し、自分も頷くと口を開いた。
「先生のお腹には赤ちゃんがいらっしゃるみたいなの」
そう言い終わるか否か、誰かが低い悲鳴を上げ、
ほとんどの生徒が口に手を当てた。急に静まり返った教室内で、
達子がまた話し始めた。
「いい?絶対に口外しては駄目よ、倒れた事も話してはいけないわ、
こんな事が外に知られたら私たちが困るのですからね、
聞いていましたか?志乃さん!」
「えっ?あっはっはい!」
突然名指しで呼ばれた志乃は、訳が分らないまま驚いて返事をした。
ぼんやり外を見ていたのを注意されてしまったのだ。
続けて達子は、生徒のみんなに向かって
「ご両親にも絶対に話さないで。赤坂先生がご自身でどうにかなさるまで、私たちは何も知らず、ここでは何も起こらなかった。いいわね!さっ、皆さん席に戻って。他の先生がいらっしゃるまで各自で自習だそうよ。」
達子の迫力に圧倒されて、みんなはただ黙って何度も頷き、中には涙ぐむ生徒までいた。達子は一通り話し終えると自分の席に着き、それを合図に他の生徒も自然に席に戻って行った。
志乃は達子の態度に少し不快を覚えたが、自分がぼんやりしていたせいだと納得し、今度は真面目に本を読んで自習した。
午後になっても代行の先生が来ないまま、結局自習で今日の授業は終わってしまった。志乃が帰り支度をしていると、達子が志乃のそばにやって来て、嫌味を言ってきた。
「志乃さん、あなたが一番心配だわ。勉強はお出来になるのにいつもうわの空で、何を考えていらっしゃるのか分からない程、幼い物言いをされるんですもの」
それには隣にいた多江が、すかさず達子に言い返した。
「ちょっと達子さん、それはかなり言い過ぎなんじゃないかしら!いくら年上だからって失礼じゃないかしら?志乃ちゃんはこう見えてとても強くて頼りになる人なのよ!」
鼻息を荒くした多江が、今にも達子に噛みつきそうな勢いだが、達子はフンッと言うと
「念のための忠告よ。大丈夫ならいいのよ、さようなら。」
達子は一方的にそう言うと、志乃の返事を一言も聞かぬまま、取り巻き達とすまし顔で教室を出て行ってしまった。
「何よ、何よ、あれ!本当に頭にきちゃう!」
多江が達子への怒りで悪態をついていると、聞いていた友人の一人が
「お父様が蘭学者だといつも自慢しているでしょう。達子さんも脈が診れるくらい、医学の知識がおありだから、自分も先生きどりなんじゃないかしら。でも、だからってあれはいい過ぎよね」
「やっぱりそう思うわよね?この前の試験で志乃ちゃんに負けたのが悔しくて、さっきもわざと名指して恥をかかせたのよ!」
「私、気にしていないから、もう帰りましょうよ」
「あっ待って志乃ちゃん、置いて行かないで!」
志乃はそう言って多江に笑いかけ、先に教室を出ていった。慌てて多江は本が入った風呂敷包みを持って志乃を追いかけてきた。あの盗人の騒動以来、多江は志乃と一緒に帰りたがった。
お抱え用心棒とでも思っているのだろうか。
多江は先ほどの達子がまだ癪に障るのか、また話題にしてきた。
「志乃ちゃんはあんな言い方されて頭にこないの?」
「えっ?うーん、頭にこない事もないけど『うわの空』は当たっているし『幼い』のもその通りだから仕方ないのかなぁって。家族にも同じ様な事をいつも言われているから・・・」
えへへっ、と笑う志乃を見て、多江は何度もパチパチと瞬きをしたあと、突然大声で笑いだしてしまった。女の子が出すにははばかれる程大きな声に、道行く人も驚いて振り返って行った。慌てて多江は自分の口をふさぐも、堪え切れずにまだ可笑しな声を出して笑っている。
志乃は訳が分らず、ただ多江の笑いが収まるのを、呆気に取られながら待っていると、多江が涙目で嬉しそうに言ってきた。
「志乃ちゃんって、もしかしてそうなのかなぁ〜って思っていたんだけれど、筋金入りの鈍感でしょう。でも、うん、その方が志乃ちゃんらしくていい!天は二物を与えずって言うでしょう。志乃ちゃんは頭も良くてこんなに可愛くて、その上完璧な性格だったら私なんて友達になってもらえないもの。鈍さはこのくらいの方がいいのよ、志乃ちゃんは!」
褒めているのかけなしているのかよく判らない多江は、笑いながら志乃の腕に絡みついてご機嫌な様子だ。
「私って鈍感なの?どういうところが?よくお母さんやお姉さんにも言われるの。自分ではよく判らなくて困っていたのよ。ねぇ教えて多江ちゃん!」
「だーめ、教えられない。これだけはっ!」
必死に問い詰める志乃に、多江は笑い転げながら小走りに逃げてしまった。そんな二人の無邪気なやりとりは、神田町辺りまで続いた。
ひとしきり笑った後、多江が急に真面目な顔で、つぶやいてきた。
「赤坂先生・・・・・・。確かご結婚されていないのよね」
「それがどうしたの?」
「分からない?これが知れたら私たちへの規律も、今よりもっと厳しくなるに違いないわ。うちのなんかお父さんすごく厳しいから、この話しを知ったら、私は退学させられるかもしれないわ」
「どうして?私たちには関係ないじゃない!私たちが知らないだけで、近々赤坂先生だってご結婚なさるのかもしれないじゃない」
「志乃ちゃん考えてもみて。例えそうでも、先生はまだ『先生』をしている聖職者なのよ。裁縫の教師でも、先生は先生。私たちはその人から教わっているの。女が学問なんて生意気だって言う男どももまだ大勢いるのに、こんなことが知れたら、私たちも同じように見られるに決まっているわ。先生なのに、結婚前に『はらんだ』なんて、ふしだらだわ・・・!」
「多江ちゃん、それはいい過ぎよ。そんな言い方ひどいと思う」
普段物事をのんびり受け止めている志乃には、多江の言葉は衝撃的だった。志乃は珍しく真顔で多江に反論した。だが、そんな志乃を見ても多江は動じる事もなく、更に話をつづけた。
「志乃ちゃん、明治になったからってまだまだ江戸の時と、私たちへの扱いは何も変わっていないのよ。結局、結婚しないと女は一人で生きてもいけないし、自立した生活なんて夢のまた夢よ。少しでも自分を安全なところに置いておかないと、変な噂が流れたら結婚も出来なくなって、親に厄介者扱いされるだけだわ」
多江は意外にも、世間というものをよく理解し、彼女にとって学校は、あくまで教養として通っている現実主義者であることを、志乃は初めて知った。
それに引き換え志乃は、夢ばかり見ている自分に改めて気が付き、先ほど達子に『幼い』と言われたのが、今になって少し、心に棘が刺さったような嫌な気分を覚えた。
その後は多江と何を話したのか、あまり覚えていないまま、いつもの分かれ道で別れ、それぞれの家へと向かった。志乃は今日の出来事をよく思い出し、自分なりに考えてみたが、赤坂先生がそれ程悪い事をしたのか、志乃にはよく判らなかった。
高倉家の玄関の戸を開けようとした時、志乃は後ろから聞きなれた声で呼び止められ、振り向くと、志乃が幼い頃より高倉家に奉公しているお市が、買い出しに出ていたのか夕食のみそ汁の具に使うらしい沢山の豆腐が入ったざるを持って、にこやかに立っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。今日も学校でお励みになられましたか?」
「あ・・・、ただいまお市さん。今日は、その・・・・・」
志乃はいつも帰るとすぐに、母やお市を捕まえては学校や街での出来事をあれこれ話していたので、今日もいつもの様にお市が尋ねたに過ぎなかった。だが嘘が苦手な志乃は、途端に顔が引きつってしまい、何を話していいのか分からずにおどおどしてしまった。
その様子にすぐに気が付いたお市がさらに尋ねてきた。
「どうなさいましたお嬢様?学校で何かおありになりましたか?」
何でもないと志乃は必死の作り笑いでその場をしのいだが、こんな時、多江や達子ならどう切り抜けるのだろうと、志乃は自分の部屋で悶々としていた。
夕食の席で、お市に志乃の様子を聞いた母のお勝も、心配して志乃に何かあったのかと尋ねてきたが、少し体調が悪いだけだと志乃は答えて、早々に食事を済ますと、茶の間を退散した。これ以上追及されたらきっと自分は話してしまうだろう。
翌朝、なかなか寝付けずにいたせいで寝坊した志乃は、道場に立ち寄る時間を失い、後ろ髪を引かれる想いで学校へと急いで登校した。
志乃が学校に到着した時には、すでにほとんどの生徒が席について先生が来るのを待っているようだった。昨日とは違い、静かな教室で緊張感が漂う中、教頭と赤坂先生が教室に入って来た。そして赤坂先生は教壇の前に来て生徒たちに一礼をすると静かに話し始めた。
「・・・・・・誠に、勝手ながら・・・、本日を以て私は教職を辞する事になりました。皆さまが立派な淑女として本校をご卒業するまで、見守ってまいりたいと願っておりましたが、私の力・・・及ばず、申し訳ございません。どうか、皆さまが将来、この日本国を照らす女性の手本となりますよう、陰ながら見守っております。あなた達は私の誇りです。これからも・・・これからも学業に・・・・・!」
ここまで震える声でなんとか言うと、堪えていたものが溢れでてしまい、教壇の上につっぷして泣き崩れてしまった。それを見ていた生徒の何人かももらい泣きを始め、教室内は泣き声としゃくり上げる声とでしばらく重い空気に包まれてしまった。
見かねた教頭が赤坂先生に近寄り、その肩に手を掛けようとした時、達子が突然立ち上がった。
「赤坂先生、今までありがとうございました。先生の教えを私達は一生忘れません。私たちは先生を見習い、淑女として規律を守り、必ず全員卒業いたします。今までお世話になりました」
達子の秘密めいた含みを帯びた別れの言葉は、うつむいていた赤坂先生の耳にどう届いたのか、顔をあげた赤坂先生は泣くのを止めて、こわばった表情で達子を見た。
二人の視線が絡みあうのを見た志乃は、見えない糸がピンと張った様な、妙な緊張感が教室内を覆っているに気が付いて、志乃は自然と鳥肌が立った。だが次の瞬間、いつもすましている達子の顔からは、見た事がない満面の笑顔が浮かび、達子はおもむろに拍手を始めた。 別れの拍手だ。
それにつられて、他の生徒たちも勢いよく拍手を始め、教室内は先生の感謝とお別れの雰囲気でいっぱいになった。戸惑う赤坂先生は、今度こそ教頭に促されて教室を出て行ったが、入って来た時と同じ、うつむいたままだった。
だが教頭には生徒に慕われ、惜しまれつつも退職する、立派な女性の姿として映ったのだろう。達子の演出は計算された効果があった。
教頭に、今日も自習をする様にと言われたが、生徒たちはそれどころではない。それぞれ気の合う友達同士で集まって、先ほどの話しを始めた。とりわけ達子の席には大勢の生徒たちが集まり、達子の素晴らしい別れの言葉と機転を褒め合っていた。
だが皆が素直に達子を感心している者ばかりではなかった。達子の言い方は意地が悪かった、脅しているようで先生が可哀想だと、話しているのが志乃の耳にも聞こえてきた。
志乃は赤坂先生がどう感じたか、それが一番気掛かりで仕方が無かった。とても教育熱心で、志乃もあんな女性になりたいと思っていた先生だけに、幸せになってほしいと願うばかりだった。
帰り際、多江がいつものように一緒に帰ろうと誘ってきたが、
今日は寄って行きたいところがあるからと、志乃は両手合わせて断った。
「もしかして前に言っていた、神保町の文具店?」
「当たり!」
「先週も行ったのに、また行くの?今度は何を買うの?」
「今日は帳面と半紙だけど、他に新しい文具が入ってないかなぁと思って」
「先週も半紙を買いに行くって言わなかった?もう無くなったの?」
「半紙なんてすぐに無くなるわ、神保町のお店は安いのよ。
それにいつも品揃えが良くて、小筆はいつもそこで買っているの」
「志乃ちゃんは本当に勉強熱心よねぇ。
将来は先生にでもなるの?じゃあまた明日ね」
学校の門の前で、多江は志乃に手を振って自分の家の方へと帰って行った。志乃は神保町に向かって歩き出した。
文具店は自宅近くの日本橋付近に何軒かあるが、神保町付近は私塾や学校が多いのもあり、街自体が学生で賑わった活気のある雰囲気が志乃の心を惹き付けてやまなかった。あの町に居ると自分が商人の娘ではなく、一人の人間として何か出来る様な、そんな期待を抱かせてくれる街だった。
学校を出てほどなくすると、橋が見えてきた。すると橋の反対側の柳の木の下で、艶やかな着物を着た女性がうつむき加減で柳にもたれる様に立っているのが見えた。遠目にも目立つ着物は、柄から見てかなり上等なのが分かった。行き交う人もチラチラと女性を見ているのが判る。
橋を渡り始めた志乃は、女性がもしや泣いているのかと思い当たった。どうりで視線を集めている訳だ・・・、こんな日中の大来で人目もはばからず身なりの良い女性が泣いていれば人目も引くだろう。
志乃は少し気になって、女性の元に近寄ろうと足元を見ずに小走りをした途端、橋板の間に草履の先を引っ掛けて前のめりに転んでしまった。
「いっ痛たたっ。もうっそそっかしいんだから、私は」
一人言をぶつくさとつぶやきながら、落とした風呂敷から飛び出した筆の入った小箱を拾い、先ほどの女性の方を見た。
するといつの間にか二人の中年男に絡まれているではないか。周りには数人の野次馬が立っているが、誰も女性を助けようとしない。それどころかいい見世物の様に笑って見ている者までいた。
早く助けてあげないと!そう思った時、人混みをかき分けて若い男性が一人、三人の間に割って入って来た。
泣いていた女性を無理やり連れて行こうとしていた中年男の手を、飛び込んできた男性が払いのけ、それを見てもう一人の男が殴りかかろうとしたが、若い男はひらりと交わし、そのまま中年男の伸ばした腕を後ろ手にねじあげて、中年男は体ごと柳に打ちつけられてしまった。
その間、女性の手をつかんでいた男も応戦しようと若い男性に飛び掛かってきたが、若い男性は背中で受け止めた格好で男を担ぐと、そのまま勢いよく神田川に放り込んでしまった。
大きな水音がした途端、周囲から大歓声が聞こえた。女性を心配するよりも、ケンカの方に関心が大きかったようだ。
志乃は小箱を握りしめたまま、その一瞬の出来事が信じられずに、橋のたもとで茫然としたまま座り込んでいた。周りにいた通行人たちからも歓声が上り、騒動があった二人の方に人々が移動して行くのがわかった。
助けられた女性は当然男性に抱きついている、絵になる光景だ。橋の下の川岸からは、投げ飛ばされた男が悪態をついていた。野次馬達は、その男に勝手な言葉をなげつけて面白がっていた。
志乃は立ち上がって袴の汚れを落とすと、興味本位で自分も橋を渡って近づいて行った。
その時、女性を助けた若い男の後ろ姿に、どこかで見覚えがある事に気が付いた。誰だったか、柳が邪魔してよく見えないが、ちらりと見えた女性はとても綺麗な顔立ちの若い人だった。
もう少しのところで、顔がはっきりと分る位置まで志乃が近づいた時に、周囲の人だかりが気になったのか、若い男女は志乃とは反対の浅草方向へ立ち去ってしまった。
その時に一瞬、周囲をぐるりと見渡した男の人の顔を見た。
ほんの一瞬、一瞬過ぎて見間違えたかどうかも分からない・・・・・。
消えてしまった後ろ姿に、もはや確かめようもなかったが、似ていた。
いつも道場で見つめている・・・「あの人」に。




