鰻屋の高嶋屋
牛鍋屋での騒動から二ヶ月近くが経った日曜日、
志乃と惣一朗は近所の日本橋近くで、諏訪と連れ立って歩く
芳乃とバッタリ会った。
「あっ!お姉さんだわ!」
「あら志乃ちゃんじゃない、惣一朗さんも一緒なのね」
「こんにちは諏訪様。先日はお忙しい中、遠いところまで
ありがとうございました」
「あ、いや、ゴホンッ元気そうだね、惣一朗君も。
・・・・・お義父さんたちはお変わりなく?」
「はい、今日も忙しくしておいでです」
「ところで、どうしてこんな所にお姉さん達が居るの?」
志乃が不思議に思い、二人に尋ねると芳乃が嬉しそうに
諏訪の方を見ながら、微笑んで言った。
「急に高嶋屋の鰻が食べたくなって、わがままを言って
連れてきてもらったのよ」
諏訪家からここまでは人力車で片道一時間はかかる。
その為、芳乃も実家の高倉にはめったに顔を出さないというのに、
鰻の為に、わさわざこんな遠いところまで・・・・・?半信半疑の志乃は
「お義兄さん優しいんですね、お姉さんの為に・・・・・。
帰りはうちに寄って行きますよね?」
諏訪はもちろん、そのつもりでいただけに、志乃のふいを突かれた質問に、
返答に詰まってすぐに言葉が出てこなかった。それに気が付いた芳乃が
「志乃ちゃんたちはお昼まだかしら?よかったら一緒にどう?ねぇあなた」
「私は構わないが」
と諏訪は芳乃の提案をすんなり承諾した。
そんな事とは気が付かない志乃は無邪気に喜んだ。
「本当?嬉しい!惣一朗さんいい?」
「もちろん、お邪魔でなければご一緒させて下さい」
「たまには賑やかでいいわね」
そうして四人は高嶋屋の暖簾をくぐり、二階の座敷へと案内された。
職人が生きた鰻の頭を釘で刺し、上手に二枚に下ろしている。
その横では串に刺さった鰻が蒲焼きのたれ壺に浸され、
七輪の上で焼かれていた。煙を上げながら香ばしい匂いと、
うまそうな香りを店中に漂わせ、その香りがなんとも食欲をそそる。
二階にまで漂うその香りに志乃はすっかり浮かれていたが、
うな重を待つ間、芳乃は先日の一件を惣一郎に詫びた。
「惣一朗さん、この間は本当にご免なさいね。悪気はなかったのよ。
少しお酒に酔ってしまって・・・・・」
「よさないか芳乃、酒の席での事だ、蒸し返すな」
「でもあなた・・・・・」
「いいんですお義姉さん、承知しています。私も気にしていませんから」
「それ、惣一朗君の方が良く判っている。男同士の話に口を挟むな」
まるで惣一朗が加勢してくれたかの様に、いつもの偉そうな口調になった。
志乃はこれのどこが好きあっているんだろうと、
やはり惣一朗の見解に、些かどころか全く納得できなかった。
あの日を思い出して気分が悪くなりそうなところに、
美味しそうな香りと共に重箱が運ばれてきた。
「やったわ!久しぶりのうな重!しかも高嶋屋のよ!」
と嬉しそうにはしゃぐ志乃に
「はしたないわよ、志乃ちゃん」
と母と同じ言葉で芳乃がたしなめた。
「ご馳走を前にして、正気でいられませんよ」
すかさず惣一朗が志乃の助太刀に入ると、
芳乃が肩をすくめながらくすくすと笑い
「本当にあなた達は仲がいいのねぇ」
と微笑んで言った。芳乃の言葉に惣一朗が答えた。
「お義姉さん達こそ、仲がいいじありませんか」
「ブッッ!」
「あなた?大丈夫ですか?」
途端、肝吸いを飲もうとしていた諏訪が不意打ちを食らったのか、
椀の汁を吹きこぼしてしまった。
先に動いたのは芳乃の方で、さっと取り出した手拭いで
諏訪の顔や手を甲斐甲斐しく拭きはじめた。
それを横目で見ながら、遠慮なくうな重を食べる惣一朗がもう一言、
「ほら、仲がいい」
「ゴボッ!熱くてむせただけだ、この山椒はしみるな」
とぼやきながら諏訪も構わず重箱を持ち上げ、勢いよく食べ始めた。
諏訪はまだうな重を食べていなかったはずなのに、
いつ山椒をかけたんだろうと、志乃は不思議に思いながら、
やはり官僚は変な事を言うんだなと妙に納得し、
構わず目の前のご馳走を頂くことにした。
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若いだけあって四人はあっという間に完食し、早々に店を後にした。
その日はあちこちで『市場』が開かれていた。
魚屋をはじめ食料品、雑貨や食器、日用品に至るあらゆる物が、
所狭しと出店として市場に並んでいた。
その中には美しい装飾の飾り物や、女性なら目を奪れそうな
品々も数多く並んでいた。
「どれも綺麗ねぇ…」
志乃が芳乃に相槌を求めると、芳乃は傍らで微笑んでいた。
二人が並んでいると、装飾品以上に目を奪われる姉妹である。
何を思ったのか、諏訪が芳乃に向かって急に言い出した。
「たまには志乃ちゃんと一緒に買い物でもしてきなさい。
志乃ちゃんにも何か買ってあげるといい」
突然の提案に、芳乃は驚いて諏訪の方を見た。
「え?いいんですか?」
それに反応したのは、志乃の方が早かった。
「本当?鰻もご馳走になったのに、お買い物までしてもいいの?
お義兄さんありがとう!惣一朗さん、お姉さんと行ってきてもいい?」
「いいよ」
「私は惣一朗君と、ここの茶屋で休んでいよう」
「そうですか?では少しだけ・・・・・、行ってきますわ」
「お姉さん!行こう!」
志乃は久しぶりの姉との買い物に喜び、
すぐに人混みの中に見えなくなってしまった。
「ありがとうございます。諏訪様」
「義兄さんで構わないよ、義理とはいえ兄弟じゃないか」
急に諏訪は柔和な態度になり、しばし茶をすする音と、
街の活気に満ちた音だけが二人の間に聞こえてきた。
暫くして、先に口を開いたのは諏訪の方だった。
「君たちは相思相愛だったそうだね、見合いと聞いていたのに、
珍しいこともあるものだ」
「はい」
「・・・・・遠慮がないな」
自分から聞いておきながら即答した惣一朗の返答に、
次の会話を用意していなかったのか、
諏訪は気まずい空気をごまかすように、また茶をすすり始めた。
またしばし、二人とも無言になった。
惣一朗は、やや遠慮がちに諏訪に聞いてみた。
「お義兄さんたちもそうなのでしょう?」
「私?私たちは・・・・・」
予想もしていない惣一朗の質問に、一瞬驚いた様な戸惑った顔をした諏訪は、言い掛けた言葉を飲み込み、視線をさまよわせてから手元の湯呑を見つめた。
またしばらくの沈黙の後、やはり口を開いたのは諏訪だった。
「私はあまりにも美しい花だったので、手に入れようとして、
無理に折って枯らせてしまったのかもしれんな」
「そう思っているのは、お義兄さんだけなのでは?」
「その根拠は?」
先ほどまで歯切れの悪い会話だったはずだが、惣一朗に向かって
答えを欲しているかの様に、諏訪はすかさず聞いて来た。
「生意気なことを言うようですが、志乃の場合、自分の感情を隠さないので、俺はありのままの彼女を受け入れます。逆に隠すしか術を知らない人もいると思います。お義兄さんの様に」
意表を突かれた答えに諏訪は、いつも顔にへばりつけている
官僚の顔とはいく分違った表情をし、一言答えた。
「確かに生意気だな」
「俺にはお義姉さんも、同じように見えます」
諏訪は茶を飲む手を止め、ふと何か思い当たるのか
放心した顔をしてしばらく黙り、それから急に笑い出した。
「君は若いな」
「ええ、まだ二十一歳ですから」
「私は二十六歳だが、まだ若者か?」
「ええ、十分、若者ですよ」
惣一朗が愉快な答え方をしたのを合図に、二人は笑い合い、
諏訪は何か吹っ切れたような顔をした。
それは今まで見てきた官僚『諏訪信親』とは違う、
初めて見せる人間らしいし顔をしているようにも見えた。
「君とは時々、酒を飲みたいな」
「ぜひ誘ってください」
そこへ志乃と芳乃が、ちょうど買い物から戻って来た。
「見て!惣一朗さん!綺麗でしょう、
お姉さんとお揃いで買ってもらったわ!」
それは真紅色の外国製で、細かな装飾が美しい首飾りだった。
宝石らしい石が、日の光にキラキラと輝いていた。
「本当だ綺麗だね。志乃、後ろを向てごらん。着けてあげるよ」
惣一朗は首飾りを受け取ると、志乃の首に着けてあげた。
その二人の姿を諏訪と芳乃はじっと見つめていた。
何食わぬ顔で惣一朗は芳乃に向かって言った。
「お義姉さんも、付けてもらったらどうですか?」
「え?私?私はいいのよ・・・・・」
急に話を振られ、驚いた顔をした芳乃は、そう言いながら
手の中の首飾りを見つめていた。
諏訪は自分を見ている惣一朗の視線に気が付き、
その目が自分に頷いている様に見えた。
「貸しなさい」
ぶっきら棒にそう言うと、芳乃から首飾りを受け取り、
その細い首にぎこちなく着けてあげた。
芳乃が選んだその色は青が美しい瑠璃色で、
彼女の白い肌にとてもよく映えた。
「わぁ!お姉さんとても綺麗よ、良かったわね!」
「そう?ありがとう…あなた」
志乃の素直な褒め言葉は、そのまま二人の心に届いたらしく、
芳乃は頬を染め、諏訪も満更ではない様子に惣一朗は一人、
満足気な面持ちだった。
四人は茶屋を後にし、諏訪は高倉家とは反対方向へと歩き出したので、
志乃は慌て二人を呼び止めた。
「いや、今日は遠慮しておくよ。ではまたな、惣一朗君、志乃ちゃん」
「さようなら、志乃ちゃん、惣一朗さん」
何故か二人は志乃と惣一朗に微笑み、すぐに人混みの中に消えて行ってしまった。
志乃はどうして?という顔をして惣一朗を見上げたが、
惣一朗もただ笑って立っていだ。
「俺も君に、何か贈り物をしたい気分だな」
「どうしたの?今日は一体なんの日?」
「特別な日だよ」
惣一朗はそう言うと、出店に並ぶ美しい櫛の中から、
琥珀の半月型の櫛を手に取り、志乃の髪にあてた。
「髪を結いあげないとこれは挿せないから、駄目だな」
「でもこれ綺麗だわ。私、これで毎日髪をとかしたいわ」
「気に入ったのかい?」
「惣一朗さんが気に入ったのなら、私も気に入ったわ」
隣で微笑む志乃に、惣一朗はその琥珀の櫛を買ってあげた。
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それから三か月後、高倉家に芳乃の妊娠の知らせが届けられた。
お勝は大喜びした。
だが、やはりお勝の諏訪への印象は、あまり変わらないようであった。




