生江当主の妻の頼み
生井村に来て四日目を迎え、次の蒸気船が来るまで後三日に迫っていた。
定期運航になっていた路線に貨物の確保を交渉するために、通運会社宛の電報を頼みに出掛けていた佐助がちょうど戻って来た所だった。
重蔵は昨日交渉した酒造店に、再度余市を連れて朝から出掛けていた。
朝が遅い志乃達は放っておかれて、起きて来た時に佐助と茶の間で出くわした。
佐助は志乃を気遣って、昨日の件には触れずに朝の挨拶をした。
「お早うございます。若旦那様、お嬢様」
「お早う、佐助さん。お父さんたちは?」
「酒造店に出向かれました。昨日、生江の許可が下りたと何度言っても
店主が応じないので、説得に。本当に厄介な土地ですよ」
「でもいいお酒は手に入ったの?」
「それはもう、良酒が山のようにありましたよ」
「良かったわね。来たかいがあって」
何気ない志乃の言葉に、佐助は、何と言って答えていいか返事に詰まった。
隣にいた惣一朗が気付いて、志乃に朝食を頼んできて欲しいと伝えだ。
志乃が居なくなった隙を見て、佐助が今朝方、生江家の当主夫妻が謝罪に訪れた事を、惣一朗に耳打ちした。惣一朗は眉間を険しくしたまま、無言で佐助の話しに聞き入った。
重蔵は生井家の当主に向かってすごい剣幕で吠え、菊次郎を蝦夷送りにするか、徴兵に出すか、さもなくばここにさらし首を持ってこいと怒鳴りつけたらしい。
生江家とはいえ、年配者の、それも凄みにかけては無敵の重蔵に怒鳴られては、さすがに腰を抜かして帰って行ったという。
ここまで聞いたところで、志乃が厨房から膳をもらって戻って来た。
「ではゆっくり召し上がって下さい。私はこれからまた出掛けますので」
「佐助もお父さんと一緒で忙しいわね」
「仕事で来ているんだから仕方ないよ。俺もお義父さんに置いて行かれてしまったし、飯を食べたら一緒に街を散策するかい?」
「いいの?やったぁ!初めてまともにお出かけできるのね。
毎日逃げたり閉じ籠ったりでうんざりしていたのよ」
「やっと君らしくなったね」
優しく微笑む惣一朗の顔を見て、昨晩の事を思い出し、次いで初夜の明けた日の朝を思い出した志乃は、真っ赤になって惣一朗に背中を向けると、膳を持って二階の部屋へ小走りに上って行った。
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「何度言われても駄目なものは駄目なんだよ」
「何故だ。証文ならここにあるだろう、ちゃんと生江正嗣の直筆だ。
うちに酒の卸しを許可したんだと、何度言ったら分かるんだ!」
朝から酒造店の店主と、押し問答を繰り返しているのは重蔵だった。
一昨日訪れた店の主は困った顔で、重蔵の相手をしていた。
ジリジリと迫る重蔵に押されながらも何故か頑なに断り続ける。
条件としてはまたとない話しのはずだ。
「正嗣坊ちゃんが許可しても、菊次郎が来て、全て滅茶苦茶にしちまうんだよ」
「なんであいつはそんな嫌がらせばかりするんだ。別腹だからか?!」
「高倉さん!あんたそれをどこで聞きなさったんだい!決して口に出しちゃいけねぇ禁句なんだよ。隠していたのを菊次郎が知っちまってから、当てつけばかりして、狂っちまったって噂だ!」
「馬鹿馬鹿しい。そんな奴、昔からどこにでもおるわ。だいたい働きもせず遊んで暮らせる妾の子供がひねくれるなんて、図々しいんだ」
「高倉さん!お願いだからうちであいつの悪口を言わないでおくれよ。とばっちりを食っちまう」
「うちの娘はとっくにとばっちりにあって、かどわかされたんだ!黙ってられるか!」
店主は、口をあんぐりと開けると、重蔵を見つめて同情した。
「とうとう地元の人間以外に手を掛けちまったのかね。これはおお事になるねぇ」
「だから言っているだろう!うちに酒を降ろしてくれ!菊次郎はわしが何とかする!」
観念したとばかりに頷いた店主は、帳場でもめていた重蔵を客間に案内した。
一軒目の商談が何とかまとまり、重蔵が二軒目の酒造店に向かおうとした途中、また嫌な顔に出くわした。生江正嗣の妻だ。
昨日の惣一朗の活躍を聞いて、本気で例の話を頼みに来たらしい。
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『東京の方なら証拠も残りません。お帰りになる日に菊次郎を殺して下さい!!』
一昨日、生江家からの帰りに門のところで唐突に言われた。
なんの冗談かと惣一朗と顔を見合わせて聞いていたが、正嗣の妻は真剣に頼んでいる様だった。
「わしらは商人です。ここには商売で来ただけですよ。そんな物騒な事はお引き受けできませんな」
怪訝な顔をして重蔵が断りの返事をしたが、正嗣の妻は諦めなかった。
「昨日の大野屋さんでの立ち回りを下男から聞きました。夫とは違う本当の話です。普通の人間が菊次郎達と互角に渡り合えたことなど、今まで無かったのです。お願いします。どうか、隙を見て殺してください。私が何とかして誘い出しますから!!」
何を考えているのか、自分の義理の弟の殺害を頼む神経が、惣一朗には理解できず
「申し訳ないが、私は人殺しはしません」と短く答えた。
「あいつは人ではありません。だからお願いします!」
何かに憑りつかれた様に哀願してくる姿に、だんだん気味が悪くなり、あの日、重蔵はそれ以上は取り合わずに生江家を後にしたのだ。
確かに菊次郎は人間ではなかった、それは同感だ。
だが人殺しを惣一朗君にさせるのだけはご免だ。
今の惣一朗に話しを持ちかけたら、間違いなくやりかねん話しだ。
重蔵の行く手に立つ、正嗣の妻を横目で見ながら、重蔵は通りすがりに一言だけ言った。
「殺しはせんが、間違いなく法の裁きを受けるだろう。待っていなさい」
すると妻は、何処から出したのかと思うほどの悲痛な声を上げ、
「それでは駄目なのです!お願い、お願いします!」
余市は驚いて立ち止まり、重蔵は渋顔を作って妻を振り返った。
「あんたもかね?」
重蔵は妻のこの必死な形相に、確証をもって尋ねた。
妻は震えながらこくりと頷き、涙を流していた。
重蔵の眉間のしわがかすかに動き、そのまま深いため息をついた・・・・・・。




