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生江 菊次郎



 惣一朗達が宿に戻ったのは夕方を回った頃だった。


 昨日は蒸気船が到着したためか、街道沿いは人であふれていたが、

何故か通りには人が誰も歩いていなかった。

 それどころかまだ明るく商売時間だと言うのに、

戸締りをしている店がやたらと目についた。


 惣一朗が不思議に思いながら、自分たちの宿である大野屋に到着すると、

宿の暖簾をくぐるよりも先に、見るからに人相の悪い男たちが数人、

重蔵達を待ち構えていた。


「ずいぶん待たせるじゃねえか」


 惣一朗達が男達に囲まれながら土間に入ると、

さらに框の上では数人の男たちがあぐらをかいて座っていた。

 その中央にはいかにも主犯格と思われる小男が、ふんぞり返っていた。

 声を発したのはその男、菊次郎だった。


「さて、どなたかな。初対面だと思いますがな」


 重蔵は臆すことなく菊次郎を見据えて、威厳のある声で言った。

 菊次郎はそれが気に食わないのか、チッと舌打ちすると

下っ端に顎をしゃくった。


「あんたの連れが、生江家の菊次郎様に怪我をさせたんだよ。

どう落とし前付けてくれる」


 あまりに唐突な事を言われた惣一朗は、まったく状況がつかめずに

反論できずにいた。どうやら重蔵も同じ様子だ。

 余市と佐助は男衆の異様な迫力に、終始怯えて何も言えずにいた。

 先に気を取り直したのは重蔵だった。


「わしの連れはまだほんの娘ですが・・・・・。

もしや、大の大人の『あなた』がやられたと言うのですかな?」


 これには菊次郎も返す言葉に詰まったようだ。苦虫をかんだ様な顔つきで、重蔵をにらみ返し、今度はそんなことはどうでもいいと、癇癪を起したように難癖をつけてきた。


「旅人だろうが何だろうが、この村に入った以上、俺に逆らうやつは

許しちゃ置けねぇんだよ!命が惜しかったあの女を連れて来い!」


「そう無理な事を言われてもこちらも困る。

 だいたい、帰って来た早々事情も分からぬまま

『女をよこせ』とは話にならん。

 しかもそんな物騒なものを振り回して、警察を呼ばせてもらいますよ」


 菊次郎の手には、志乃に打ちつけられた扉の戸締り棒が握られていた。

「ああいいぜ。どうせ呼んでも、あいつらは俺の家の飼い犬も同然だけどな」

「ほお、手懐けておられるのか。あなた様は生江家のご子息かな?」

「おおっそうだ」


「そうですか。栃木県令はお知合いですかな」

「うっ・・・・・それがどうしたってんだ」

「明日、会う約束をしていましてね。あなたの事を話しておきますよ」


「ああ?なんだとジジイふざけてんのか、てめぇ。

 痛い目に遭う前にさっさと女を連れてくりゃあ、見逃してやるって言ってんだよ。俺を怒らせたいのか!」


 ひょうひょうと言葉を交わす重蔵に、イライラし始めた菊次郎が、

棒を重蔵に向けて突き付けた。

 その先端を隣に立っていた惣一朗が、突然握りしめた。


 ふいに棒の自由を奪われて、手が泳いだ菊次郎は、

今度は忌々しげに惣一朗を見た。


「なんだおめぇ。下男はすっこんでな。大将同士の話に割り込むんじゃねえよ」

「私たちの連れに怪我をさせられたわりには、元気な様子ですね」


 菊次郎はキッと目を釣り上げて惣一朗を見据え、腹の辺りをさすった。

「その分だと、連れに逃げられた時に一発殴られた程度ですか。

 なら連れが殴った分を、私が代わりに殴られましょう。

それで今日の所は引き取って頂けませんか」


「はぁ?そんな事で俺様が引き下がるとでも思ってんのか?

生江家を甘く見んじゃねえ」


「今日は、と言っているんです。こちらも帰ったばかりで

連れが何処にいるか分りませんし、

このまま皆さんに宿に居られては、他の客にも迷惑が掛かります。

 気の済むまで私を殴って結構。それでよろしいか」


 そう言い終わると惣一朗は土間にどかっと座り、菊次郎に背を向けた。

 重蔵は惣一朗を止めることなく、黙って成り行きを見守っている様だった。


 いきなり背中を向けられた菊次郎は一瞬戸惑った。

 いつもは手下に任せて、自分ではあまり人を殴った事が無かった。

 小柄な自分が外した時に恥ずかしい思いをするのは後免だからだ。

 実際、先ほども小娘にしてやられてしまった。


 だが、目の前には動かない獲物が座っており、手には棒がある。

 ・・・・・これを逃さない手はない。


 菊次郎は興奮気味に立ち上がり、土間に降りて惣一朗に近づいた。

 これなら間違いなく外すことは無い!


 振り上げた棒が勢いよく惣一朗の背中に叩き付けられた。

 菊次郎は一瞬、手に伝わった人間の肉の感触にひるんだが、

一発で止めては示しがつかない。


 菊次郎は無意識に目を閉じて後は何発殴ったのか覚えていなかった。


 ・・・菊次郎が気が付いた時、重蔵に肩を掴まえられながら、

鋭い眼力を向けられて告げられた。

「もう気は済んだだろう。わしの連れはあんたをこれ程、殴ったのかね」


 見ると惣一朗の背中は着物の上から血が滲んでおり、着物も何か所か破れていた。

 菊次郎は驚き、その手から棒が滑り落ちていった。我に返った菊次郎は


「今日はこれで勘弁してやらぁ、また来るからな!」

そう、お決まりの捨て台詞を吐くと、手下の男たちと足早に宿から去って行った。


 それまで息をひそめていた宿の客たちは、生江家の男衆が

居なくなったのを確認すると、何処からともなく、

部屋のあちこちからわいて出てきた。


 番頭と女将もどこに隠れていたのか、土間に降りてきて、

惣一朗の様子を見ると、すぐに下男に医者を呼びに行かせた。


「惣一朗君、君のお陰で助かったよ。無理をさせてすまなかったな」

「大丈夫です。これくらい、鍛えていますから。それより志乃は?」


「私が知っています」

 志乃を逃がした女中が、厨房の奥の方から手をあげて

惣一朗に知らせた。


「無事なのか?」


 やっと人混みをかき分けて惣一朗の傍にやって来た女中は、

やや興奮気味に話した。


「はい安心して下さい。知り合いに頼んでかくまってもらっています。」

「会わせてくれ。無事を確かめたい」

「今は駄目です。まだ菊次郎達がウロついているかもしれません。

夜になったらお連れします」


 志乃の無事を聞いた惣一朗は、急に力が抜け、

余市と佐助に支えられながら、宿の客たちからの称賛を浴びつつ、

よろよろと二階の借りている部屋に入って行った。


*******************************



 医者の見立てでは骨は折れてはおらず、惣一朗の傷も深くはないが、

打撲と木の棒による裂傷が無数にある為、

しばらくは、熱がこもって辛いだろうと言って帰って行った。


 菊次郎が力のないボンボンだったのが幸いしたようだ。

 うつ伏せで横になった惣一朗は、治療が終わるころには疲れたのか、

そのまま眠りについていた。


 女中に連れられた志乃が、大野屋に戻れたのは夜中近くになってからだった。


 人目を忍んでこっそりと部屋に入ると惣一朗は眠っており、

余市と佐助も壁にもたれる様にこっくりとしていた。


 志乃が襖を開けた音で目を覚ました佐助が、「あっ」と小さな声をあげた。


 ご無事で何よりと、志乃を見て涙ぐむ佐助に頷きながらも、

すでに女中から事情を聞かされていた志乃は、

佐助の言葉は耳に入ってはおらず、じっと惣一朗を見つめて胸を痛めていた。


 どうしてこんなことになってしまったの・・・・・。


 佐助に起こされた余市も志乃を見て驚き、同じように安堵の涙を浮かべていた。


 こんなにみんなに迷惑を掛けてしまった後ろめたさと後悔とで、

志乃は自分を責めずにはいられなかった・・・・・・。


 重蔵は、菊次郎たちが突然押しかけて来たことで、驚いた客が

宿を引き払ったため、空いた部屋ですでに就寝しているという。


 余市と佐助も志乃が戻って来た事で、空いている部屋に移るというので、

朝にまた会おうと言って別れた。


 部屋に惣一朗と二人きりになった志乃は、眠る惣一朗の傍らで、

何度も手拭いを濡らしながら、惣一朗の額に浮いた汗を拭きとり看病した。


 惣一朗が、あの男に背中を棒で何度も打たれたと女中に聞かされた時は、

心臓が止まるかと思った。

 惣一朗の顔を見るまでは、生きた心地がしなかった。


 ・・・・・そしていざ、その寝顔を見ると、

罪悪感でまともに惣一朗の顔を見る事が出来ず、

志乃の瞳は涙で一杯になっていた。


 桶に入った水と同じ位、涙が流れてしまいそうな志乃は、

瞼を晴らしながら、ぬるくなった桶の水を替えに立ち上がった。


「行くな、志乃」


 え?振り向くと、惣一朗が目を覚ましてじっと志乃を見つめていた。


「惣一朗さん、良かった。気が付いたの?井戸の水を汲んでくるだけよ」

「駄目だ、もうどこにも行くな」

「でも・・・熱が・・・・・・」

「君が居なくなる方が、余計に具合が悪くなる」


 志乃はくすっと笑い、惣一朗の言葉に従った。傍に座り、

惣一朗の手を取った。

「どうしてこんな無茶をしたの?惣一朗さんなら返り討ちにできたでしょう?」


 今度は惣一朗が口元を緩めた。

「そんなことをしたら、死人が出る。今助かったとしても、

無事に東京に帰る保証が無くなってしまうよ。

 なんでも力で解決するのは下策のすることだ」


「だからって、こんな目に遭うことないわ。私なんかの為に・・・・・」

「馬鹿だな、志乃。君以外の為にはやらないよ。

それより、無事で本当に良かった」


 惣一朗の指先が熱い。

 体中が傷で熱を帯びているのが分る。

 志乃の胸が締め付けられて、苦しくなる。

 こんな苦しみより、出来る事なら惣一朗と同じ傷を請け負いたい。


 馬鹿な私。本当に馬鹿だ。こんな事、実の兄でもきっとしてくれない。

 どう思われていてもいい・・・・・。

 私は惣一朗さんが一番大事、それだけでいい・・・・・。


 ポロポロとこぼれる志乃の涙が、つないだ惣一朗の手にこぼれ落ちた。

 慌てて志乃が拭こうとした時、惣一朗に手を引っ張られて、

志乃は布団の上に突っ伏してしまった。


「おいで」


 顔をあげると布団をまくり、横向きになった惣一朗から

伸ばされた手に引き寄せられて、志乃は布団の中に滑り込み、

さらしに巻かれた胸に顔をうずめてまた泣いた。


 惣一朗はいつもしてくれるように、志乃の髪を優しくなでてくれた。


*******************************


 翌朝、起きてきた重蔵は余市と佐助から夜中に志乃が戻った事を聞き、

顔には出さないが安堵していた。


 我が娘ながら悪運の強さは知ってはいたが、

今回ばかりはどうなる事かと肝が冷えた。


 惣一朗が体を張って対処してくれたお陰で事なきを得たが、

これを好機に変えなければ、舅として立つ瀬がない。


 志乃と惣一朗には声を掛けず、先に重蔵たちが下の茶の間で

朝げを食べていると、生江家の使いだと言う、

昨日とは少し違う、品の良い男がやって来た。


「当主が昨日のお詫びに、高倉様をお招きしたいと申しております」

「当主は昨日ここにきた『菊次郎』さんじゃないのかね」


「いえ、菊次郎様は次男様です。

今はご長男の正嗣様が生江家のご当主におなりです」

「そうですか・・・。では後ほど伺うと伝えてくだされ」

 使いの男は頷き、戻って行った。


 余市と佐助は心配そうに聞いてきた。

「旦那様、どうなさるんですか?

 行った先で昨日の仕返しに、菊次郎が

待ち伏せしているんじゃないでしょうね」


「そうかもな。だが、わしを招待したのは昨日のチンピラではなく、

当主だ。これは商談の機会が訪れたと思って一戦交えに行ってみるか」


「ですが、生江家にはその菊次郎もいるはずです。

無事に帰れる保証はありません」

「おいおい、いつからそんな心配性になったんだ?菊次郎が居ると思うか?」


 重蔵にしては珍しく、からかう様に余市と佐助を見やった。

 二人はいつも重蔵と共に各地を回る同志だった。

 常に余市と佐助は重蔵に従う忠実な従者だったが、

今回ばかりは佐助は重蔵に意見した。


「私たちはいいんです。お嬢様があんな目に遭ったのに、

旦那様は平気なんですか?」


「平気な訳がなかろう。だから是が非でもこの商談、

口を引き裂いて飲ませるんだ」


 しば漬けをほおばりながら、茶を飲み干す重蔵の目は、

獲物を狙う猛禽類の鋭利な爪を思わせる、何とも言えぬ恐ろしさを光らせていた。



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