大野屋の女中
その頃、宿で待っていた志乃は昼食も済ませ、上げ膳据え膳に加え、
ゴロゴロと畳の上で、重蔵の持ってきた本を夢中で読みふけっていた。
その本は福田理軒の『明治鹿却大全』だった。
読んだことのない難しい数学書は、
物語書に少々飽きていた志乃の興味を誘った。
知らない漢字や難問が出るたびに、女学校時代を思い出して
必死で解読を試みた。
なんとか半分まで読み進めた所で、四折に挟んである紙を見つけた。
何だろうと開いてみると、志乃の目に飛び込んできたのは初めて見る
『春画』だった。
驚いた志乃は、春画を手から振り払い、部屋の隅まで飛びのいて
悪態をついた。
「お、お父さんったら、なんて物を挟んでいるのよ!
お母さんに言いつけてやるから!」
文句を言いながらも、あまりの赤裸々な絵を前にして、
好奇心に勝てない志乃は、早鐘を打つ鼓動を押さえつつ、
何故か部屋の周囲を見回しながらそっと春画に近づいていき、
恐る恐るもう一度、手に取って見てみた。
よく見ると絵の中の隅に描かれている女達は豊満な胸をして、
中央の男女は交わった姿が描写されていた。
絵の色彩がとても豊かなので、見慣れると驚きも収まってきた。
考えてみれば、子供の時に母と風呂に入ったくらいで、
風呂屋に行った事が無い志乃は、
母と幼い頃の姉以外の女性の裸を、まともに見た事が無かった。
春画の女性はよく見れば、大人の体をしていた。
初め真っ赤になりながら見つめていた志乃だったが、
次第に肌の赤みが薄れて、だんだん青白くなってきた。
「惣一朗さんも、こういう女の人が好きなのかな・・・・・・」
父ですらこんな物を忍ばせているのだから、惣一朗も男の人なのだ、
大人の女性が好みなのかもしれない・・・・・・。
そう思い始めたら急に悲しくなってきた。
何故なら志乃には思い当たる事があった。
初夜の時は迂闊にも眠ってしまい、あまり覚えていないが、
その後、何日か経ってから、惣一朗から一緒の布団で眠ろうと誘われた。
今度こそ眠るまいと緊張して、惣一朗の腕に包まれて待っていたが、
口づけを何度かされただけで、それ以外は何もされぬまま、
志乃もいつしか眠ってしまった。
それからも一緒の布団で眠る事は度々あったが、
大抵は枕を合わせて遅くまで語り合い、
いつしか眠りに落ちるのが日課になっていた。
一緒にいられることが幸せ過ぎて、何も感じていなかったが、
こんな絵の様な事をされた覚えがない。
一年も一緒に寝起きしているのに、初夜以来、
惣一朗が自分の体に触れてこないのは、よく考えてみると
夫婦としてとても不自然なのではないだろうか・・・・・・。
もしや惣一朗は自分を『妹』として見ている・・・・・??
だんだん惣一朗の自分への接し方が、
姉の芳乃とあまり変わりはないように思えてきた志乃は、
無性に不安を覚えて本を読むのも忘れて、
いつもの癖で狭い部屋の中をうろうろと歩きまわり始めた。
その足音に気が付いたように襖を叩く音がした。
「もし、高倉様のお女中さん、いらっしゃいますか?」
「はい!おります。何かご用ですか?」
突然声を掛けられた志乃は、飛び跳ねるように驚きながらも
慌てて春画を折りたたむと、本の間に挟んでカバンの中にしまった。
「私はここで下働きをしている女中です。少し入ってもよろしいですか?」
え?と思いはしたが、どうせ部屋から出られない志乃は、襖をあけた。
その女中は昨晩厨房の当番をしていた女中だった。
女中は志乃の断りもなくさっと部屋の中に入るなり、
襖を閉めると志乃の手をつかんで部屋の隅に連れて行った。
「どうしたんですか、いきなり。何かあったんですか?」
「昨晩、お風呂で窓を開けましたか?」
部屋に入るなり、いきなり突飛な質問をする女中に、
何の事か分からない志乃はポカンとして女中の顔を見つめた。
女中はじれったそうに重ねて聞いて来た。
「昨日、お風呂に一人で入った時ですよ。
窓はいつも外から見えないように下に向けて少ししか
開けていないんです。誰かに覗かれましたか?」
覗かれた覚えはないが、そう言えば、
湯気を出そうと窓を全開にしたのを思い出した。
志乃のその話を聞いた女中は、ああっと言いながら、
いきなり膝から崩れて顔を覆った。
一体何があったというのだ。
「お女中さん、すぐに逃げて下さい。生江の奴らが、菊次郎たちが来ます!
さっき、魚屋に買い出しに行った時に、
手下たちがうちの噂話をしていたのを聞いたんです。
あいつら、勝手に風呂屋の女湯やうちの風呂を覗きにくるんです。
道で気に入った娘を見つけたら、その場でさらって行って、手込めにするんです。
お女中さん、うちの女中と間違われているから、連れて行かれますよ。
夕方に行くとか話していたので、今ならまだ間に合います。
私が逃がしますから、早くきて下さい!」
突然そんな事を言われて、はいとついて行ける話ではない。
志乃は強引に自分の手を引っ張る女中の手を押し留めた。
女中は怪訝な顔をして志乃を見返した。
「待って、待って頂だい。話せばわかる事だわ。私は東京から来た人間で、
この村とは関係ないんだもの。
それに、おと・・旦那様達も帰って来ないのに、勝手な真似は出来ないわ」
「そんなのあいつらには通用しません!」
女中は目を剥いて反論した。
「私の姉も同じ目に遭いました。それも婚礼を控えた前の晩に!」
女中はわっとその場で泣き出してしまった。
あまりの話のひどさに言葉が出てこない志乃は、
夕べ重蔵が言っていたことを思い出した。
『好色者が居る。そう簡単に田舎の風習と支配力が変わるとは思えん・・・・・』
こういう事なのか!志乃は今まで高倉家という恩恵の中で大切に育てられてきた。そして今は惣一朗に守られて、何も不安に感じることは無かった。
女が一人、置き去りにされるとどうなるか、
場所によっては恐ろしい目に遭うかもしれない。
だから自分は東京に残れと言われたのだ。
今更ながら自分の愚かさを痛感した志乃は、目の前の女中が
必死に自分を逃がそうとしているのに、ためらっている場合ではなかった。
「わかったわ。お願いします」
女中はコクリと頷くと、廊下を見渡して志乃を部屋から出した。
昼時を過ぎた宿屋に客は数人しかおらず、階段を静かに降りた二人は
裏口の方へ向かった。
「私を逃がして、あなたは平気なの?」
「女将さんには何も話していません。私も知らないと言うつもりです。
お連れの旦那様達が戻られたら知らせますので、
それまでは伊勢屋さんでかくまってもらってください。
私の従妹が務めていますから信用できます」
女中が先に裏口から外に出ようとした時、いきなり扉が開いた。
「邪魔させてもらうぜ。お、何だ?」
「あっ兄貴、この女ですぜ。ね、俺が言った通りの極上品でしょう!」
「まさかと思ってたがよ、おめえが話してたのは、本当だったみてえだな」
凍り付いた女中は言葉を失い、裏口の外に立つニヤついた二人の男が、
勝手に土間に入って女中を一瞥した。
女中は一言も言えないまま、二、三歩後退ると、そのまま土間にへたり込み、
志乃を振り返って怯えた目を向けてきた。
まさか?この二人が生江家の菊次郎と言っていた極悪人?
「娘さん、大野屋の新人かい?ちゃんとうちに来て挨拶してもらわねぇと、
勝手に働いてもらっちゃあ困るんだよぉなぁ」
女中と重蔵の話しだけを聞いて大男を想像していた志乃は、
意外にも小男のチンピラ風情に拍子抜けした。
なんでこんな小男を怖がるのだろうと、志乃はしれっと答えた。
「私は東京から来た旅の者で、大野屋の客です。
他の方と勘違いされていらっしゃるのかしら」
「おっ威勢のいい娘さんだね。益々俺の好みだ。
それでもかまわねえから、俺と遊ばねえか?」
「お断りします」
「かぁ~!その強気、益々気に入ったね、この村には居ない女だ。
東京の女はみんなそんな風なのかい?」
「色んな人がいると思いますが、私には夫がおりますのでお断りいたします」
「俺にはそんなものどうでもいんだよ。あんたが気に入った。
俺の家に来な。この世にないくらいの贅沢をさせてやるぜ」
そう言うといきなり框に立つ志乃の腕を掴み、自分の方に無理やり引っ張り
土間に引き釣り降ろした。
連れて行かれそうな志乃を見て、女中が「あっ!」と恐怖で
短い悲鳴を上げたのと同時に、菊次郎も「うっ」と短い唸り声をあげた。
志乃は菊次郎と問答している間に、目に留めていた戸締り用の棒を握っていた。
それを思い切り菊次郎のみぞおちに叩きこんでいたのだ。
いきなり前のめりに倒れ込んだ菊次郎に、
隣に立っていたお付きの下っ端は驚き、すぐに菊次郎を揺すって呼び掛けた。
ううっと、腹を押さえて苦しむ菊次郎を見て、
志乃を睨み付けながら怒鳴ってきた。
「てめぇ!なにしゃがんだ、こらぁ!この方を誰だと思っているんだ?
こんな事をしてただ済むと思っているのか!死にてえのか、女!」
菊次郎が悶えながら、「やれ・・」と小声で言うのが聞こえた。
下っ端の男が志乃に飛び掛かかるより早く、もう一度、
今度は下っ端男に突きを食らわせた。
先日、惣一朗に取られた隙はこんな奴らには与えない。
志乃はすぐに宿に上がり、表玄関の方に走った。
さっきの女中が恐怖から我に返り、志乃の後を追って来た。
「すごい!菊次郎たちをやっつけてしまうなんて!
誰も怯えて出来なかったんですよ!」
「でも、すぐに追いかけてくるでしょう?」
「ええ、こっちです」
女中は志乃を連れ、伊勢屋に向かって駆けて行った。




