盗人との遭遇
入学式から半年、季節は紫陽花や藤の花が咲く新緑、
街の木々も緑覆われ、学校の周りも色とりどりの花が咲き始めて
美しい時期を迎えていた。
志乃は、幼い頃から父の重蔵の書斎にある本を読むのが好きで、
いつもその縁側で物語の中に浸っていた。
読めない漢字があると自分で学び、気が付くと
物語本よりも知識が詰まった学問的な本まで読むようになっていた。
折しも開国の影響を受けた志乃の興味は、
もっぱら外国に向けられていた。
そんな中、女学校が設立され、十四歳から入学出来ると知るや否や、
何としてでも入学する為に猛勉強し、
努力してやっとの思いで門をくぐったのだが、
学校の教える余計な理念は堅苦しさも多かった。
だが、反対する父親に対して家出騒ぎまで起こし、
あの手この手を使い、何とか説得して入学の許しをもらって
合格した学校である。
通える間は出来るだけ多くの事を学び、
いつか『外国へ行く夢』を抱きながら、
今は、女学校と家を往復する日々を過ごしていた。
そんな生活の中でも、偶然入学式に見つけた道場で稽古する
『あの人』を眺めてから学校に向かうのが、
志乃の唯一の日課になっていた。
学問であれ剣道であれ、一心不乱に向かうその姿を見ては自分を励まし、
ほのかな憧れを抱いていた。
志乃は時々、意地悪な年上の同級生から、出来ない問題を指摘されて
返す言葉も思いつかない自分を恨めしく思っていた。
そんな時は道場に寄り『あの人』を眺めさえすれば、
不思議と沈んだ気持ちも収まり、
いつでも特別な日の様な幸せな気持ちになれたのだ。
そんな毎日を繰り返していたある日、友人のひとり、
多江が何かを企んでいる顔で志乃に近づいてきた。
「今日はみず野の甘味処に行く約束、忘れてないわよね?」
「もちろん、こっそりお小遣いを持って来たわ」
志乃もニヤリと小遣いの入った巾着を、胸元からちらりと見せて微笑んだ。
入学してから歳は違えど、意気投合した仲良しの四人組は、
今日は内緒で、学校帰りに有名な甘味処に行く計画を立てていた日であった。
学校帰りの寄り道は当然ご法度、
見つかれば停学処分にされてしまうが、
まだ十五~七歳の少女達には、そういった緊張感の中で味わう
楽しみの方が格段に勝っていた。
正直、一歩学校を出てしまえば制服もない時代。
志乃達が女学校の生徒だと分かるものは一人もいない。
授業終了と共にお目当ての店へ向かう途中、
前方から物凄い勢いで男が走って来るのが見えたが、
浮かれてよそ見をしていた多江はそれに気が付かずに、
避ける間もなく男と真正面からぶつかり、
その勢いで二人とも勢いよく倒れてしまった。
「キャー!!」
「わぁー!!!」
周囲のどよめきと友人の悲鳴の中、
驚いた志乃はすぐに多江に駆け寄り、多江の体を起こそうとした。
友人の一人が、顔をあげた多江を見てさらにに悲鳴を上げた。
多江は額を打ったようで、傷口から血を流して鼻筋に流れてきていた。
同時に倒れた男はふらつきながらも起き上がり、
多江には目もくれずにまた走り出そうとしていた。
志乃は男の行く手を遮り
「何するのよ、ひどいじゃないのよ!」
と男に向かって叫んだ。
「うるせえ!邪魔するな、このガキ!」
男は怒鳴りながら志乃を突き飛ばし、その場から逃げようとした。
そうはさせまいと志乃は、とっさに近くに立て掛けてあった扉の棒を、
男の足めがけて投げ飛ばした。
「うわっ!?」と男の声と共に棒が絡まった足は、
馬鹿みたいに曲がって転倒し、頭から倒れた男は、
今度は顔面を打ちつけてひどい有様である。
男が怒りに満ちた顔を上げた。
志乃はその目の前に立ち、先程の棒を男の顔の近くに突き刺し
「友達に謝ってよ!!」
と勇ましい声を男に浴びせた。
「なんだと生意気な・・・」
怒りが頂点に達した男が、懐から小刀を取り出し、志乃に向けた。
廃刀令が出されたばかりで、守っている者などほとんどおらず、
護身用に持ち歩いている者がまだ多く居たのだ。
それを見た、周囲の野次馬の悲鳴が聞こえたとほぼ同時に、
「ブンッ」と空気を斬る音が男の耳に届いた。
男は突然、手の甲に激痛を感じて小刀を落とし、
打たれた手を握りしめて身悶えしながらうめいた。
思いもしない小娘の一撃に、苦悶の表情をしてもがいていた。
暫く志乃を睨み付けていた男は、
次第に多くの野次馬が集まり出して来た事に気が付き、
これ以上ここに居ては危険だと感じたのか、男は何事か捨て台詞を吐き、
横の路地の暗闇へと走り出した。
走り際に、体を大きくゆすり棚板を飛び跳ねた時、
懐から何かを落として行ったが、それに気付かないほど
ひどく慌てた様子で、志乃達の視界から消えて行ってしまった。
志乃は追いかけようとしたが、男が逃げた道に落ちてある巾着に目が留まった。
男が落としたらしいそれは、わりと大きな巾着だった。
志乃は巾着を拾い驚いた。
その巾着はずっしりと重く、父がよく奉公人達に給金を支払う際に持ってくる
『束』の塊とよく似ていたからだ。
「志乃ちゃん、すごいわ~・・・・・!」
多江は額に手拭いを当てながら、自分の傷よりも
今しがたの光景が信じられないと言わんばかりの顔をしていた。
「本当に怖かった・・・・・!」
他の友人達も口々に女の子らしい事を口にしていた。
志乃は小刀も拾い、これらをどうした物かと思案していた。
そこへ息を切らしながら警官と、メガネを掛けたスーツ姿の中年男性が、
血相を変えて走ってきた。
「何かあったのかね!?」
多江の血の付いた手拭いと、その場の異変に気が付いた警官が
志乃達に尋ねてきた。
その後に、身なりの良さそうなメガネの男が続いて尋ねてきた。
「男が来なかったか!?私の財布が!!!」
と慌てふためき、大量の汗をかきながら真っ赤な顔をしていた。
しかも全く呂律が回っていない。
「あの、これでしょうか?」
志乃は先程の男が落として行った巾着をそっと差し出した。
「ああ、これだ!私の財布!!」
全身の力が抜けてしまったように、男は巾着を抱きしめて、
その場にヘナヘナと座り込んでしまった。
それから篠は警官に小刀を渡すと、警官は不思議そうに志乃を見つめ
「君が盗人から取り返したのかね?」
と尋ねてきた。
「いいえ、男が友人にぶつかったので、
転ばせてやったら勝手に落として行ったのです」
志乃は苦笑いをしながら、まだ動揺している友人達をせき立て、
急いでその場を後にしようとした。
「待って娘さん!お礼を!」
しゃがんだまま手を伸ばして、我に返ったメガネの男が呼び止めたが、
彼には申し訳ないが、志乃はそそくさとその場から
皆を連れて立ち去ってしまった。
随分歩いてから、先ほどの出来事に不満そうに声を上げたのは、
怪我をした多江だった。
「どうして逃げないといけないの?志乃ちゃんはお礼を頂くべきだったわ」
血の止まった額を気にしながら、頬をふくらませた多江が文句を言った。
「多江さん、私達が寄り道をして、
しかも泥棒に危ない目に遭わされたと分かればきっと退学よ。
それどころか、お嫁にもいけなくなるわ!」
友人の一人が多江を嗜めた。
「あっそうだったわ!お父様達に知られたらそれこそ大変だわ!
じゃあ、この傷は転んで切った事にしておいてね、ねっ」
多江はやっと事態を飲み込んだ様子で、
今頃になって、皆に口裏合わせを頼みだした。
「それにしても志乃さんって、よくあんな事出来たわね」
「本当に、度胸も勇気も男の人みたいで驚いたわ」
皆口々に、志乃の見た目とは違う女の子らしからぬ振る舞いに、
感嘆と称賛の声をあげた。
「私、お姉さんと幼い頃から薙刀を習っていたから、
棒の扱いには慣れているのよ」
志乃はニコリと笑うと、至って普通に答えた。
「えっ? 武家の娘でもないのに薙刀を?どうして!?」
友人達は目を丸くしてさらに驚いた。
無理もない、商人の娘如きが武家の嗜みである薙刀を、
学ぶ必要はないからだ。
「幕末の時、新政府軍にうちの酒蔵や倉庫を、兵舎としてお貸しした時に、
その政府軍の奥方様達からお礼にと、
お姉さんと一緒にお稽古事を色々と教えて頂いたの。
薙刀もその時に教わったのよ。
私、薙刀にはかなり自信があるの。これでも結構な腕前なんだから」
志乃は誇らしげに仁王立ちに腕をまくって見せたが、
逆に友人達はポカンとした顔で志乃を見つめ返した。
志乃の家は代々の造り酒屋で、新政府に協力した功が認められ、
その気に乗じて皇室御用達の称号を得た、酒問屋になっていた。
志乃の父である高倉重蔵は、今では代々続いた醸造を
杜氏に任せて生産を減らし、
大臣や財界人向けの高価な吟醸酒のみを造るようにしていた。
その代り重蔵は戊辰戦争時に各地から持ち込まれた地方酒に目を付け、
それを買い付けて財界人や外国人向けに売る商売を、手広く扱いだしていた。
今や高倉家は商家として確固たる地位を築いていた。
そんな志乃は友人達から見たら、れっきとしたお嬢様のはずなのだが・・・・・。
「そんな事よりずいぶん遅くなってしまったわ。
早く帰らないと両親に怪しまれちゃうわ!
甘味処はまた今度行きましょうよ! じゃあまた明日ね!」
友人達の呆気に取られた様子に気付いていない志乃は、
そう軽く言い残すと、一人手を振りながら
何事もなかった様に急いで帰って行ってしまった。
残された三人はお互いの顔を見合わせて吹き出して笑い、
それぞれの家路へと向かって帰って行った。