生江一族
重蔵達が風呂屋から戻ると、志乃を残し、今度は惣一朗が風呂屋に出掛けて行った。
「私も惣一朗さんと一緒に女湯に行きたかったな」
「言っただろう。お前の顔はこの田舎では目立ちすぎる。さっき出掛け際に聞いたら、この宿には小さいが女だけで使っている風呂があるそうだ。ここの女将が大の風呂好きで、作ったそうだ。何でも好きな時に入れると言っておったぞ。」
「いつでも?お湯を沸かすのは大変なのに珍しいわねぇ。じゃあそうしようかしら」
「それと、もう一つ気を付けて欲しいことがある。
惣一朗君が聞いたら心配するだろうから黙っていたが、お前を人に見せたくない一番の理由は、生江家の中に恐ろく好色な者が居るそうだ。
さっき番頭に確認してきたから間違いない。
そいつは他人の乳房だろうが生娘だろうが、気に入ったら手あたり次第にさらって自分の女にするそうだ。」
「な、なにそれ。許せない!誰もそれを止めないの?助けないの?」
「それは分からんが、そんな穏やかでない話が流れているくらいだ、この土地は相当一族の支配が強い事は確かだな。
明治になったからと十数年で、そう簡単に田舎の風習と支配関係が変わるとは思えん。明日から酒造店を回る予定だ。用心のためにもわしらが留守の間、お前はこの部屋で静かにしているんだぞ」
「頭巾をかぶれば少しくらい宿場を見て回ってもいいでしょう?」
「駄目だ。面倒事を起こすと言っているだろう」
「そんなに私の顔って面倒事を呼びそうなの?お姉さんならわかるけど、私のどこがいいのかしら」
志乃の姉である芳乃は、官僚の妻であるゆえに常に化粧をして美しい着物を着こなしていた。
そんな姉を志乃はいつも自慢に思い、全てにおいて自分とは比較にならない天上の人と認識していた。志乃はと言うと化粧もせずにいつも素肌のままだ。
化粧をしていない十七歳の自分に魅力などないと思い込んでいるが、元々そっくりな姉妹である。化粧をせずとも隠しようのない美貌を本人は全く自覚していないのだ。
重蔵はため息をつき、幼い頃から書斎を遊び場にしたのが良くなかったのかと自問しつつ言葉を続けた。
「ともかくだ。一人で出歩くことは禁止だ。留守中はわしが持ってきた本でも読んでいなさい」
本に釣られた志乃はしぶしぶ頷き、惣一朗が戻る前に自分も風呂を済ませておくことにした。
階段を降りると、数人の宿泊客たちと出くわした。風呂帰りの客や近くの居酒屋で一杯引っ掛けてきた客が、玄関わきの茶の間で談笑していた。
志乃が通ると何故か、皆が志乃に目を止める。志乃はそんなに旅行する若い娘が珍しいのかと思いながら、宿の奥に入って行った。
宿の奥にはわりと大きな土間があり、厨房はかなり広い。かまどは何と六器も備え付けられていた。
それだけ客が頻繁に訪れる活気のある宿場なのだと分かる。厨房を通り過ぎると今度は女将に出くわした。
「あら、高倉様のお女中さんかい?風呂に来たんでしょう?その角を右ですよ。狭いけどゆっくり入って疲れをとって下さい。今なら貸し切りですよ」
「ありかとうございます。お言葉に甘えて使わせて頂きます」
志乃が礼を言って別れると、奥の厨房に居た夜の当番の女中が、何やら物言いたげに志乃の後ろ姿を見送っていた。
言われた通りの部屋を覗くと、ちょうど厨房と背中合わせになるように風呂場が設けられていた。
宿の風呂は小ぶりの一人用の石造りで、厨房の余熱をうまく利用してお湯を巡回させて温める仕組みのようだ。
使った分を隣にある樽の中から水を汲んで補充しておくらしい。
志乃の家には当時としては珍しくすでに自宅に風呂があり、しかも中庭にあつらえた贅沢な露天風呂が建てられている。忙しいお勝が風呂屋に行く手間を惜しんで、鶴の一声で建てたものだ。その為、惣一朗の薪割はすでに欠かせない大事な役割になっていた。
初めて自宅以外の風呂に入る志乃は、脱衣所で着物を脱ぐと狭い風呂場に入った。
狭いと聞いていたが、納戸に無理やり設けられた風呂場は座るところもなく、自分ひとりが入ってやっとの広さだ。
しかも窓は一つしかなく、風呂の蓋を外した途端、湯気が勢いよく上がって来た。
途端に視界が真っ白になり、息苦しさで息が詰まりそうになった志乃は急いで窓をこじ開けた。
窓は下から上に開く仕様で、短いつっかえ棒をして止めておくものだった。
そんなささやかな隙間ではこの湯気の苦しさからは逃れられない。
志乃は思い切り扉を押し上げ、顔を出して深呼吸をした。
湯気も窓から一斉に外に流れ出し、ようやく風呂場の中が見渡せるくらいに湯気が収まったので、窓のつっかえ棒を戻し、志乃は急いで風呂を済ませた。
大好きな風呂も、この狭さではのんびりもしていられない。
そそくさと風呂場から退散して、重蔵たちの部屋へと戻ると、すでに惣一朗も風呂場から戻ってくつろいでいた。
「お帰りなさい。惣一朗さん」
「ああ志乃。宿の風呂場はどうだった?」
「それがもう狭くてびっくりしたわ。惣一朗さんは絶対入れない狭さよ」
「文句を言うな、志乃。宿に風呂があるだけ贅沢な事なんだぞ」
重蔵のお叱りの言葉が飛んできたので、すかさず話題を変えた志乃は、
「惣一朗さんはどうだったの?宿場の風呂屋は大きいの?」
「思ったほど広くはなかったよ。湯船は五、六人入れば満員ってところかな。その代り洗い場は広かったよ。体を綺麗にするだけで、急いで出る人が多いんだろうね」
「いいなぁ。私も女湯に行きたいなぁ」
重蔵は意に介さないが、奉公人達は気の毒そうに志乃と惣一朗の会話を聞いていた。
「さて、明日も早い。そろそろ寝るとするか。志乃は女中部屋だ」
犬を追い払う様に重蔵に言われ、しょんぼりとする志乃が可哀想で仕方がない惣一朗は
「茶の間でもう少し時間潰しに付き合ってきます」
と、志乃を連れて部屋から出て行った。
それを黙って見送った重蔵がぽつりと一言
「やれやれ、うちはみんな志乃に甘いな」
「旦那様もですか?」
余市と佐助は顔を見合わせて笑っている。
「馬鹿者。わしをからかうんじゃない。先に休むぞ」
やはり余市と佐助は、声は出さずに笑った。
惣一朗に万が一にと言われて頭巾をかぶせられた志乃は、茶の間でしばらく他愛もない話しをした後別れ、それぞれの部屋へ向かった。
結婚してから別々の部屋で眠ったことが無い志乃は、少し不安になりながらも女中部屋を覗いた。
薄暗い部屋は静かで、すでに皆は寝ているらしく、よく見ると上座の方に一組の布団が用意されていた。
志乃は、そっとそこに潜り込み持ってきた浴衣に着替えた。
惣一朗の居ない寂しさを抱きつつ、眠れない夜を過ごすのかと考えている間に眠ってしまった。
翌朝、眩しさで目を覚ますと、布団の壁が足元の後方にうず高く積んであるのが見えた。
志乃が驚いて飛び起きると、意外にも女中部屋は広く、一体この部屋に何人が寝ていたのだろうと目を瞬かせてしまった。
周りを見回してみても誰もおらず、これだけの人数が起きて着替えていたはずなのに、自分は気付かず寝ていたのかと思うと恥ずかしくて、宿の人たちに合わす顔が無かったが、これ以上この部屋に居たらもっと気まずい。
志乃は早々に身支度を終えて、重蔵たちの部屋に向かった。
廊下を渡って階段を登ろうとした時、番頭に声を掛けられた。
「おはようございます。高倉様はもうお出掛けになりましたよ」
「え?もう?なにも聞いていないわ!」
「お女中さんなのに、いいご身分なんですね。」
朝からいきなり皮肉を言われた。
「若旦那様から手紙を預かっておりますよ。朝げはお部屋に運びますので、待っていてください」
「ありがとうございます。お願いします」
番頭から手紙をもらった志乃は会釈をして二階に上がった。
すでに志乃の失態は女中を通じて宿の従業人の知れる所になっているのだろう。
いつもの事だが、どうしてこうも朝に弱いのか、恥ずかしくて茶の間にも行けない。重蔵の言いつけ通り、部屋での留守番決定だ。
部屋は番頭が言った通り、誰も居なかった。出掛ける前に、惣一朗に一目会いたかった。ちゃんと送り出したかったのに、今日も失敗した。惣一朗からの手紙を読むのも心苦しかったが開いてみた。
『志乃、よく眠れたかい。昨日は大変な一日で疲れただろう。
今日はゆっくりしているといい。帰りは遅くなるそうだ。
おとなしく待っているように。
惣一朗 拝』
志乃は惣一朗の優しさに嬉しさを覚え、改めて感謝をした。
今まで心配をしてもらう事がこんなに嬉しいなんて、思ったことはない。
こんな未熟で幼い自分のどこが好きなのかと、喉元まで出かけている言葉をいつも飲み込んで、惣一朗を見つめてきた。
聞きたくても答えが怖くてやはり聞けない。
でも自分に接してくれる優しさは、本物に違いと志乃は思っている。
そうでなければ、船の上から川に飛び込んでまで、自分を助けには来ないだろう。そう考えただけでも嬉しさで顔がにやけてくる。
笑い事ではないのは分かっているが、志乃にとっては幸せの針が揺れるのだ。
そう言えば惣一朗から手紙をもらったのは結婚してから初めてだ。ほぼ一年ぶりになる。
取引先への帳簿を付ける惣一朗の筆跡も見慣れていたが、『志乃』と書かれた文字を見るのは久しぶりで胸がときめいた。
今日はこの手紙と重蔵の本で十分留守番が出来そうな志乃は、運ばれてきた朝食を頂くと、早速重蔵の荷物の中から本を取り出し、窓側の壁にもたれてページをめくり始めた。
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志乃より一足先に起きて宿場を後にしていた重蔵たち一行は、日光街道を北に進んでいた。
番頭から主だった酒造店の場所を聞いていたので、それを頼りにまずは下見がてら店回りを決めていた。
聞き酒なら宿場の酒店で十分できたが、値段が今一つしっくりこない。酒造元で卸値を聞き出せれば手っ取り早いがそう簡単には行かないのも承知していた。
まずは近くの五年前に開業したと言う西堀酒造に立ち寄った。
一杯飲み屋を併設しているこじんまりとした酒造店に、旅袋人を装った重蔵たちは、疲れた旅人を装って店に入った。
「お早うございます。いらっしゃいませ」
「少し休ませてもらうよ」
「へい。何か召しあがりますが」
「朝はもう済ませてきたよ。わしは酒が大好きでね。さっき知り合った人にここの酒が旨いと聞いて来たんだが、お薦めはあるかい?」
「それはありがとうございます。少々お待ち下さい。」
暫くすると、升に入れた日本酒が四つ運ばれてきた。
「それぞれ品種が違います。飲み比べてみて下せえ」
「どれ、頂くとするか」
重蔵たち四人は、みんなで回して飲み比べをした。どれも程よく熟成された純米酒だ。
「旨いねぇ、ご亭主。いい腕をしている」
「ここの清水がいいんでさぁ。やはり酒造りには水は欠かせねえですから。米も去年は豊作で、今年は大量に仕込みが出来たもんで、色々試しに作ってみたんですよ」
「このにごり酒も度数が強いが、なかなか美味しいですね」
惣一朗も絶賛した。
「原酒をそのまま仕込みましてね、酒も強い分、旨味が残って口当たりがいいですよ」
「精製していないんですか。それはいいですね」
ふらりとやって来た惣一朗達に褒められて、酒造店の主も上機嫌だ。
「ご主人、この旨い酒を土産に何本か買いたいんだが、これはいくらだい?」
重蔵が酒を譲ってほしいと聞いた途端、店主の表情が曇った。
「うちはここで飲んでもらう、一杯売りしかしておりませんで・・・・・・。
土産用は宿場に行けば酒店に置いてありますで、すまねぇが、そこで買ってもらえねえですか」
「どうしてだい?ここは酒造屋だろう?わざわざ卸し先で買わせなくてもいいじゃないか。
たくさん買うから分けてくれないかね」
しぶとく粘る重蔵に、店主は申し訳なさそうな顔をして近づいてくると、小声で言った。
「お客さん、東京の人かい?知らねぇのも無理はねぇが、ここらは勝手に商売しちゃいけねぇ決まりになっているんでさぁ」
「意味が分からないな。ご主人も宿場に酒を降ろしているんだろう?」
「あそこは生江家の息がかかっているから・・・」
ここまで言うと、酒造店の主はハッとした顔をして口をつぐんでしまった。
「安心なさい。生江家の噂はここに来た時に聞いたよ。だからと言って、宿場だけでは酒をさばききれんでしょう。少しでも売れた方が生江家も売り上げが出来て、喜ぶんじゃないのかい?」
「そう思ってくれりゃあ、こっちもやり易いんですがね。何せ全て自分の所を通して気に入った相手としか、商談事もさせてもらえねえんでさぁ」
「どうしてかね?随分と横暴じゃないか」
「しっ!お客さん、そんな言葉使っちゃいけねぇ。何処で手下が聞いているか分りゃしねぇんだ」
店主はブルッと震える仕草をして、また耳打ちをした。
「俺ももちろん水戸辺りに持ち込もうと考えましたさ。でもね、そんな時に酒造屋を始めた仲間が内緒でそれをやったのが生江家バレて、酒蔵ごと丸焼けにされちまいましたよ」
まるで恐ろしい物でも見た様に、小声で話す店主の顔がだんだんと青ざめていき、権力者への恐怖が惣一朗にも強烈に伝わって来た。
「随分な事を・・・・・!それが生江家の仕業だって証拠はあるのかい?」
憤慨した重蔵が店主に聞いた。
「証拠なんて残さねぇですよ。見た者はみんな消えていなくなるんだから。ただ噂だけが残るだけでさぁ」
聞きしに勝るとはこのことか。何とも許しがたい横暴振りに、元々権力者に憎悪を抱いている惣一朗は生江家への反感が一気に増して、怒りに変わろうとしていた。
「旦那に欲しいって言ってもらえるのはありがてえんだが、申し訳ねえが、宿場で買ってもらえないかね。ここで飲んでもらう分には、樽ごとでもいいんだがね」
店主は苦笑いをして空いた升を持ち、会釈して店の奥に戻って行った。
「・・・思っていた以上になかなか手ごわそうだな。さて、どうやって懐に入るかだ」
重蔵は残りの升を飲み干すと、店主に礼を言って店を後にした。
余市と佐助は不安げな顔で、惣一朗を見た。惣一朗も余市達が何を言いたいのか承知していたので、重蔵に尋ねてみた。
「お義父さん、今回は下見だけにして、手を出すのはこの次にしませんか?もう少し状況が変わるのを待った方が無難な気がします」
惣一朗の問いに返すことなく、無言のまま重蔵は次の店まで歩き続け、店に入る前にようやく口を開いた。
「次の機会を待っておったら、出遅れる。主導権は先にとってこそ、大きな利益につながるものだ。多少の危険は覚悟はせんとな。なに、所詮は人間同士の駆け引きだ。まぁわしに任せておきなさい」
そしてまた何事もなかった様に、二件目の酒造店の暖簾をくぐった。




