表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/61

栃木県 生井村

   


 蒸気船は思ったより早く、夜には生井村に到着した。


 乗り合わせた他の乗客のほとんどが、志乃達の騒動も忘れてそれぞれの荷物を降ろすのに忙しくしており、思川沿いにある宿場に向かって移動していた。

 志乃と惣一朗も着替えて最後に降りた。


「着物を譲ってもらえて良かったね、志乃。でも町娘の着物は、君にはどうもしっくりこないな」

「だって女中さんなんでしょう?私にちょうどいいじゃない。

それより、惣一朗さんはずるいわ、着替えをちゃんと持ってきているんだもの」

「同行するつもりで、前々から準備していたからね。着替え位持ってきているさ」

「いつ準備していたの?」

「君が寝ている時に、少しづつカバンに詰めていたよ」

「全然気が付かなかったわ」

「君はそうだろうね」


 むうっとふくれる志乃を笑いながら、惣一朗は志乃の手を取りタラップを降りた。


「宿泊する宿には予約の手紙を出してある。大野屋と言う宿だが・・・・・・こうも多いとどこなのか分からんな」

 

 蒸気船が開通したことで便利になったこの要所は、ここから日光へ進む者もいれば高崎へ行くことも出来る。また水戸へも容易に行けることから、蒸気船が到着した日の宿場は人であふれ返っていた。

 重蔵が宿場町を睨んでいると、奉公人の一人、余市が大野屋の看板を見つけ、先に走って向かうと暖簾越しに手を振った。


「いらっしゃいませ。遠路はるばる、お疲れ様でございます」


 番頭と女将が框の上で膝を折り、愛想よく出迎えでくれた。


「ああ、高倉です。しばらく厄介になりますよ。それと急な事で申し訳ないが、部屋をもう一つ用意してもらえないかね。連れが増えてしまってね」


「あいにくですが・・・・・・、蒸気船が到着した日は何処の宿もいっぱいで、納屋で寝ているお客さんもいる宿があるくらいなんですよ」

「そんなに繁盛しているのかね。では五人分の布団は敷けるかね?」

「それは厳しいでしょう。お客さんは皆さん男の方ですから・・・おや?お連れ様は女の方ですか?」

「そうなんだ。久しぶりの旅行で、勝手が分からんので私付の女中を無理に同行させてしまってね。何が何処にあるのか、自分ではさっぱり分からんのだ」


 ああっと番頭は重蔵を感心したように、見上げた。重蔵はここぞとばかりに、さりげなく大棚の店主ぶりを披露した。

 番頭は志乃をチラチラと見るとその美貌も加わり、大物の客だと完全に思い込んだようだった。


「それでしたら、女中部屋をお使いください。むさくるしいところですが、うちは広くとってありますし、みんな寝るだけに使っていますから、お連れ様も寝る時だけいらっしゃればよろしいかと」

「それは有難い。そうさせて頂こうか」


 話がまとまり、五人は番頭に連れられて二階の一番奥の部屋に案内された。宿場の通りに面した角部屋は見晴らしが良く、この宿で一番いい部屋のようだ。


「ではお夕食も用意が出来次第お持ちいたします」

番頭が出て行くと、入れ違いに女中がお茶を運んできた。やっと一心地ついた五人は荷物を降ろし、まずは一服した。


「確かにこの部屋に五人はきついな。」


 重蔵がぐるりと部屋を見渡すと、東京とは違い、入間も床の間もなく、ただの六畳一間に押し入れに布団が入っているだけの質素な造りの宿だ。

 しかも瓦葺屋根ではなく茅葺屋根なのが田舎の情緒を感じさせる。壁もまだまだ木造と言うには土の要素が多く、お勝が見たら懐かしいと言うに違いない。

 東京育ちの志乃は酒蔵の大きな家になれているので、この窮屈さに、すでに圧迫感を感じている様子だ。そんな志乃を見かねた奉公人の一人、佐助が嘆き始めた。


「お嬢様がこんなお姿でお女中部屋にお泊りになられるなんて、なんておいたわしい。旦那様、どうにかなさって頂けないのですか。私たちは納屋で寝ても構いません。ここを若旦那様と三人で使って下さいまし」

「そうですとも。こんなことが奥様に知られたら、私たちはもう高倉の家で奉公する事ができません」


 余市と佐助の奉公人が、必死に重蔵に嘆願したが、当の重蔵は苦笑して相手にしない。困った二人は惣一朗に、「若旦那様からもお願いを」とにじり寄って来た。

 一度重蔵が決めた事を覆すなど、惣一朗にも出来ない相談だ。

 困った顔で、いちよう重蔵の方を見てみるが「もう決めた事だ」とやはり相手にしない。いたたまれない顔をしてうつむく二人に、志乃は二人の手を取って言った。


「大丈夫よ。これも経験のうちだと思って楽しんで過ごすわ」

「お嬢様・・・・・・、申し訳ございません」

「あなた達が詫びる事じゃないわ、勝手について来た私がいけないの。迷惑かけているのは私なんだから、そんな風に思わないで。私の方こそごめんなさい」


 三人の会話を黙って聞いていた惣一朗は、悪いと思ったら身分を越えて自ら謝る志乃の姿勢が、人望を集めるのだろうと、改めて感心した。

そんな三人に水を差すように重蔵が割って入ってきた。


「こらお前達、お嬢様なんて呼ぶんじゃない。何処で誰が聞いているかしれんのだぞ」

「ところで志乃、お前の身の回りの物は何も無いだろう。店が開いているうちに惣一朗君と一緒に買ってくるといい」

「えっ?お出掛けしてもいいの?嬉しい!」

「お出掛けじゃない、調達だ。しっかり顔は隠して行くんだぞ」

「ありがとうございますお義父さん。じゃあ行こうか、志乃。すぐに戻ります」


 頷いた志乃は手拭いを頭からかぶり、下働き風を装ったが、志乃の容姿にまったく似合わず、惣一朗は笑いを堪えるが大変だった。二人が部屋を出て行くと、嬉しそうに佐助が


「旦那様もああ言いながら、やはりお嬢様が心配なのですね」

「ん?何を言っとるか、必要最低限なことをしているだけだ。あれに芳乃の半分でも女らしさが有れば苦労せずに済んだがな。まぁ惣一朗君のようなしっかり者が婿にきてくれたのが救いだ。夫婦と言うのはお互いを補うのに、全くうまく出来ているものだな」


 二階の窓から宿を出て行く二人を見ながら、重蔵は知らずに微笑んでいた。二人が街に出て行くとすでにほとんどの店が店閉いを始めていた。

 慌てた惣一朗は、目についた一件の雑貨店に飛び込んだ。そこで店の女将に仕立ててある女物の着物一式と身の回り品を頼んだ。

 宿場町は旅行者用にすぐに使える物を常に何着か用意していた。店の脇から何着か出された着物はどれも志乃には地味な色合いばかりで、いつもお勝が用意するようなしっくりくる物は無く、惣一朗は眉間にシワを寄せてうなっていた。隣で志乃が何気なしに


「女中なんだから、これなんかどうかしら?」

と年配者が着る様な色合いの着物を指さして言った

「考えなしに言っているだろう。こんなのを着ていたらチンドン屋だ。もう少し真面目に選んでくれないか」

「そんなに変だとは思わないけど・・・・・・」


 二人のやり取りをやや不思議そうに聞いていた女将が、店の奥から艶やかな振袖を出してきた。


「娘さんの着物を選んでいなさるのかい?田舎者には着こなせねぇが、娘さん、東京の人だべ?一目で分かるよ。垢ぬけて綺麗だもの、こっちのほうが似合うよ」


 惣一朗も確かにと頷いて手に取ったが、ハッと気づいて「今回は遠慮しておきます」と辞退した。

 それからしばらく悩んだ挙句、惣一朗が見立てたのは紺色に赤の格子模様が入った下町娘が着る着物だった。志乃は可愛いと始終ご機嫌だったが、惣一朗はどうしてこんな物を志乃か着なければいけないのか、やはりやや不満げだった。


 どうにか数枚の下着や櫛など、その他志乃の身の回り品を店で調達できた。店を出ようと外を見ると、すでにほとんどの店の提灯が消えており、点いているのは居酒屋と宿屋くらいだった。惣一朗は念のため、また志乃に頭巾をかぶせて素早く大野屋に戻った。


「ただいま戻りました。」

「必要なものは揃ったか」

「ええ、惣一朗さんが選んでくれたわ」

嬉しそうに満面の笑顔で答える志乃を見て、重蔵は苦笑した。


「そうか、良かったな。ずぼらな娘ですまんな。惣一朗君」

「そんな、とんでもありません」

「どこがずぼらなのよ、そんな言い方あんまりだわ、お父さん!」

「忘れたのか、旦那様だと言っただろう」

「あっそうだったわ、いけない!あっ惣一朗さんも『惣一朗さん』じゃなくて、若旦那様でした」

「いいよ、志乃。部屋の中でそれはやめてくれよ、言われるとこそばゆい」


 そう笑いながら惣一朗が、志乃の買ってきた荷物を自分のカバンの中にしまった。

 しばらくして運ばれてきた夕食を済ませると、重蔵と奉公人達は風呂屋に出掛けた。

 惣一朗は志乃が心配だからと留守番に残った。すると嬉しそうに志乃が惣一朗に話し掛けてきた。


「やっと二人きりになれたわね、惣一朗さん」

「何をのん気な事を言っているんだ、君は。いつも離れで二人きりだろう。昼間は寿命が縮むかと思ったんだぞ。本当に心配ばかりかけて」

「それについては、・・・・・・申し開きもございません・・・・・・。お願いだから許して。無我夢中で私も何をしたか、あまり覚えていないんだもの」


 反省しているのかうなだれた仕草で、ちらりと上目使いに惣一朗を見る志乃に、困った顔の惣一朗は、重蔵と同じ深いため息をついて黙るしかなかった。


「分かったよ。でも約束してくれ、二度とあんな無茶はしないと。命がいくつあっても足りないよ。だいたい志乃は泳げるのかい?」

「泳いだことないわ」


「だったらなんで飛び込んだんだ?助けてもらえなかったら自殺行為だぞ!」


「だ、だから無我夢中で・・・・・・、私も解らないの、ただ近くに行きたい一心だったから・・・その・・・・・・」


 そこまで言うと志乃は急に涙ぐみ、言い過ぎたかと惣一朗は慌てて口をつぐんだ。


「ごめんなさい、怒られたから涙が出たんじゃないの。あの時に、惣一朗さんが行っちゃうのを思い出したら、また悲しくなってきて。私って本当に子供ね」

 

 ほんの一週間程度の別れを、これ程悲しんで必死に追いかけてきた志乃の胸中を思えば、無事で済んだことを素直に喜ぶべきか。確かに突発的な行動のせいで惣一朗は恐ろしく肝を冷やしたが、今はそれさえもどうでもいい気がした。目の前で俯く志乃を愛おしく思う自分に惣一朗は負けてしまった。


「分かったよ。とにかくもう無茶しないで。君に何かあったら俺は・・・・・・」

「うん、ごめんなさい、惣一朗さん」


 惣一朗に優しく抱きしめられた志乃は、どれ程惣一朗に心配を掛けたのかようやく理解して心の底から反省した。心配をしてもらって幸せを感じる自分は、ちょっと不謹慎かなとも反省しながら、今だけは惣一朗の温もりに甘えていたい。


 その部屋のふすまの外側には、忘れ物を取りに戻った重蔵が部屋に入れずにイライラと地団駄を踏んでいた。このまま二人の世界に突入されてはもっと入りずらくなると、強行突破に踏み切った重蔵は、わざとらしい音をたてて襖を開けた。


 物音に気付いた惣一朗が襖に目をやると重蔵がゆっくり入って来た。

 驚いた惣一朗は志乃を少し自分からひき離し


「お義父さん、早いお戻りですね。風呂屋は近くなんですか?」

「いや、忘れ物を取りに来ただけだよ」

「え?」

「これから入りに行く。ではな、ごゆっくり」


 それだけ言うと、何事も無かったように部屋を出て行ってしまった。

 惣一朗は舅に聞かれた自分達の会話の恥ずかしさで、めまいがしそうになった。


「案外お父さんも駄目ねぇ。ここに居る間は、私がお母さんの分までしっかりしなくちゃ」


 惣一朗は余計にめまいがしそうになったが、なんとかこらえて重蔵たちの帰りを待った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ